軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話:雪見酒

「まったくもう、期待外れだってんですよ!」

ぷんすかと頬を膨らませながら少女が訴える先は、赤い目をした金髪の青年だった。

青年は、ハハと笑いながら酒の杯を傾ける。この一杯の酒を飲んでしまえば素寒貧だった彼は、この少女の笑い話が今日の酒の肴だと決めていた。

「『お前たちを養えるようになったら呼ぶから、それまで待っててくれ』なんて、お母さんがどれだけ待ったと思ってんですか。せめてもっと大店を構えていると思ったのに!」

金髪の青年、レシッドはその言葉に周囲を見渡す。

たしかにこの立ち飲み居酒屋ともいうべき店は大きくはない。

だが、この副都で新しく構えた店を一年以上保たせるのは、店主によほどの腕前がなければいけないはずだと、内心そう反論した。

「はいはい、ササメ。お客さんに絡むのはそれくらいにしときなさい」

「……美少女の接客ってことで、お金取ってもいーんじゃない?」

眉を下げた店主に咎められたササメは、それでもと言い返す。レシッドの様子を窺い、まんざらでもないと予想しながら。

「ここはそういう店じゃないから……」

レシッドに関しては、ササメの父親としてもそのはずだという確信がある。娘は可愛い。それはそうだと店主は思う。

だが、やはり殊更に客に絡んでほしくはない。

この店は、リドニック料理の珍しさと、一杯だけ酒を飲んで帰れる気安さが売りなのだ。

もしもササメのような少女の接客を売りにしてしまえば、それは即座に客層すら変わってしまうだろうという経営者としての意見もあった。

もちろん、一番には酒飲みの前にかわいい娘を置いておけないという娘かわいさが先立ってはいたが。

少ない酒をちびちびと呷り、レシッドは苦笑する。

「でもお客さん、……レシッドさんだっけ? もうちょっと何か頼まない? お酒一杯だけってしけてるでしょ」

「金がありゃ飲むよ」

言いながらもう一度杯を傾ける。図々しい。そうは思いながらも悪い気はしなかった。

レシッドが、二日酔いの日にはほぼ必ず訪れていた立ち飲み屋。

そこに、店主の妻と娘がリドニックから追いかけてきたのはつい先日のことだ。

その日もレシッドは深酒による頭痛で目を覚まし、酔い覚ましの粥を求めてこの店を訪れようとしていた。

店の前に辿り着いたとき、中から響いていた姦しい声に、なおさら頭痛が酷くなったのをはっきりと覚えていた。

「よく来るけど、何してる人なの?」

「さてな」

「……わかった! 魚屋だ!」

何となくごまかしたレシッドに、ササメは確信を持ってそう言う。もちろん全くの的外れなのだが、それがまたおかしくてレシッドは笑った。

「ちげえよ。俺は探索者だ」

そして襟元の蜥蜴の登録証を示し、正解を教える。ササメはその仕草と、自分の解答との齟齬に唇を尖らせた。

「えー。探索者さんってそんなに儲からないの?」

「おうよ。特にこの街には怖い連中がいるからなぁ。特に荒事関係は超難しい」

だから金がないのか、という問いに特に否定もせず、レシッドは頷く。明らかな謙遜であり、そして間違いである。

街の中で済む問題は、彼がいれば大半は片付く。故に、この街にある十二の探索ギルド支部のどこでも、彼ほど稼いでいる者はそうそういない。いるとすれば資産家の専属となっている者や、ごく少数の色付きたちくらいだ。

ただ、蓄えを持たない主義の彼は、稼ぎをその日のうちに使ってしまうこともよくあり、いつも財布が軽いというのは真実だった。

「……なんか悪いな」

店主が溜め息をつきながらレシッドの前に小さな皿を置く。そこには、芋を薄く切り、油で揚げて膨らませた簡単な肴が数枚乗せられていた。

レシッドは皿を見て、それから顔を上げて店主を見た。

「俺頼んでねえけど」

「娘の面倒見てくれてる手間賃だよ」

ああ、とレシッドは横を向く。

そこには、座るというよりも体をわずかに預けるような高い椅子に腰掛けて、机の上に両手を投げ出しているササメがいた。

「店にいるんなら手伝ってやれば? 皿洗いとかあんだろ」

「いいんですぅ。今日はお母さんが当番ですしぃ」

狭い厨房の中では、ササメの母親のシズリが今も静かに食器を洗っている。彼女がいつでも上機嫌なのは、その厨房に大抵旦那がいるからだ。

ササメとシズリ。小さく元気のよい少女と、匂い立つような大人の女性。見栄えもよい彼女たち二人は、この小さな酒場の名物になり始めていた。

「へえへえ」

指が油で汚れるのも構わず、レシッドは芋をつまみ上げる。一口銜えれば、麦酒に合う濃い塩味が舌を刺す。

それからグイとハーブの匂いのする酒を飲めば、塩味が口内から綺麗に洗い流される。残った 杜松(ネズ) の匂いが鼻から抜けた。

「いっつもだったら、適当に暇つぶししてたんですけどぉ……、この国来たら、襟巻きとかいらないじゃないですか!」

「まあ、寒くはねえわな」

「朝起きて戸が凍ってないってここは妖精の国ですか! 恵まれた暮らししてんですねぇ」

「こっちじゃ普通だよ」

適当に、レシッドはササメをあしらう。このとりとめのない会話は少々面倒だが、これで酒の肴が増えるのであればまあ甘受できる程度だ。そう考えつつ。

「道を歩けば人にぶつかりそうなほど多いし、雪なんて一個も見えないし!」

「リドニックと比べりゃ温けえからな」

それに、少しだけ微笑ましくもあった。

年中雪が降るリドニックほどではないが、レシッドの生まれ育ったミールマン地方も寒冷な土地だ。通陽口からの温かな空気を利用し身を寄せ合うミールマンはもとより、その近隣の村や街も寒気対策は施されている。

流石にイラインも冬には寒くなるが、それでも冬場に凍死者が出ないのは、昔この街に出てきた当初のレシッドにとっても驚きのものだった。

「宿を畳む前に、リドニックに雪を見に来たお客さんがいたんですけど、その理由がわかっちゃいましたね!」

「んな奇特なやつもいるんだな」

「ええ。なんか? 全身真っ黒の魔法使いさんでしたけど! カラ……、ええと、カ……」

んーと、とササメはその客の名前を思い出そうとする。だが、その行為は長続きしなかった。

「ササメ」

奥の水場から、娘の声を聞きつけたシズリが姿を現す。そして見せたその顔に、ササメが背筋を正して唇を結んだ。

「衛兵さん相手でもないのに、お客さんのこと喋っちゃ駄目ですよ」

「……! …………!!」

目を丸くし、口を結んだままササメが頷きを繰り返す。

にこにこと笑っているシズリの顔を見て、レシッドはササメの様子を不思議に感じた。

シズリはレシッドの方へ向き直り、服の前掛けで手を拭う。冷たい水で皿を洗っていたリドニックの宿屋時代より、だいぶあかぎれも治ってきていた。

「申し訳ありませんね。躾がなっておりませんで」

フフ、と笑う笑顔は美しいというより艶やかで、レシッドも見惚れそうになる。

もちろん、そのすぐ横に立つ店主の顔に、そんなわずかな感情の揺れも飛んでいってしまうが。

レシッドはわずかに俯き微笑む。

「まあ、どうでもいいけどさ。しかし、変な偶然もあるみてえだな」

「偶然ですか?」

意味がわからなかったシズリは聞き返す。茶色の長い髪が背中で揺れた。

「いや、多分知り合いだ。その魔法使い」

もう一枚芋を口の中に放り込み、それを飲み込む前に麦酒を呷る。口内の芋に水分が補給されるようで、こうやっても美味いもんだ、と内心考えつつ。

「俺もその魔法使いにミールマンで会ってんだよ。そうか、そのままリドニックに入って、あんたらの宿に泊まったんだな」

「……世の中狭いものですね」

「だな」

ハハハ、とレシッドは笑った。

それから、レシッドは酔い混じりの散逸した思考に思いを巡らせる。

そういえば、その時この街に送り届けたモスクは元気だろうか。

五番街で働いているという話は聞いたし、それから何度か会ってはいるが、最近は顔をあわせてはいない。

グスタフの支援があるのだ、この街で生きていくためには何ひとつ不自由しまい。本人の志向さえあえば、栄達の道が約束されているようなものだ。

しかし、あの時は内心少し怖かった。またニクスキーが出てくるのではないかと……。

もちろん、理由さえなければ戦うこともないだろう。それでも、しないとも思ってはいたが、モスクの不要な一言で交戦する恐れもあった。

思い出したレシッドは肩を震わせる。思考の時系列を前後させながら。

首の後ろの、癒えたはずの火傷の跡がじりじりと痛む。

またあのような死ぬ思いはごめんだ。仕事はもっと安全で、安心なものが良い。そう、色付きの探索者である以上は無理な難題を思い浮かべつつ。

その震えを誤魔化すように、レシッドは残り少なくなっていた杯を飲み干した。

「じゃあ、またな! 美味かったよ!」

もう今日は持ち合わせがない。酒を飲めない以上、この小さな酒場の席を占領してしまうのはまずいだろう。そう思いレシッドは席を立つ。もっとも、今のところ席が満員になる気配もないが。

「毎度あり。また来てくれよ」

「おう。またシズリさんの顔見に来るわ」

客商売である。笑顔は絶やさぬよう努めなければならない。

それでも、シズリの名前を出されて店主の笑顔が少し引きつるのが面白くて、毎度レシッドはその冗談を繰り返していた。

当の店主も、レシッドが本気で言っているわけではないとわかっている。だがそれでも引きつる顔は、自分でも止める気がなかった。

レシッドは戸を開く。遅い時間でもないが、もう空は暗くなり街は明かりが灯っている。

もう今日は帰って寝よう。明日朝一番で、すぐ終わる依頼を何か受けてその稼ぎで腹を満たそう。そんな超刹那的な考えを浮かべて、寝床へ向かって歩き出した。

立ち飲み用の酒を置く机を背もたれ代わりに、ササメはその姿を見送った。

「本当、何している人なの? あれ」

探索者だと聞いた。だが、やはり彼は探索者らしき風体ではない。そんな思考を言葉に混ぜつつ。

「結構有名な探索者らしいよ」

空いた杯と皿を片付けながら、店主は応える。それから濡れた布巾をササメに手渡すと、ササメもおとなしく机を拭き始めた。

「……そうだ、前、多分その魔法使いの人をこの店に連れてきてたかな」

「え? あの子も来てたんだ」

店主自身も自信がない。何となくしか覚えていなかったが、たしかそうだった気がする、と内心言い訳のようなものをしていた。

その会話を聞いて、真実を知っていたシズリはフフと笑う。

そうだ。その魔法使いが旦那の粥を食べていたから、自分もここに来る気になった。

いずれその真実はわかってしまうかもしれないが、それでもそれまでは、自分一人の楽しみとして胸に秘めておこうと決めていた。

カラン、と扉が開く。

「いらっしゃい」

間髪を入れずに店主はそう呼びかける。そして表情を歪めようとしたのを慌てて止めた。

「いつものくれ」

二人連れの男たち。そのうち、血色の悪い青年が、それだけ言ってどかりと適当な椅子にのしかかる。

適当、といってもそれは目に付いた席という意味ではない。そこは、厨房にいるシズリが一番よく見える席だった。

「俺は今日は弱めのやつでいいや。それと、なんか魚系の肴で」

ケラケラと笑いながら座るもう一人は、ササメのいる椅子のすぐ横に座る。

う、とササメも席を立とうとするが、あまりにもあからさまな動きは客に対して失礼だろう。そう思い、少しだけ我慢することに決めた。

「はいよ。前払いだ」

「おう、用意しとくからとりあえず酒くれ」

ふう、と見えないように溜め息をつきながら、店主は酒を用意する。シズリとササメに目配せをし、店の奥に入っているよう指示を出しながら。

酒を用意している間も、男たちは財布を用意することもなくシズリたちを見ていた。

これだ、と店主は内心歯噛みする。

これだから、嫁と娘を店に出したくはないのだ。

手伝ってくれるのはありがたいし、自分も嬉しい。だが、二人……特にササメはあまりにも無警戒すぎる。

彼女らが悪いということはない。しかし適していない。

どんな土地にも土地柄というものがある。彼女らは未だリドニックの宿の人間であり、イラインのしかもあまり治安の良いとはいえない場所にあるこの店にはそぐわないのだ。

自分も、イラインに来た当初は苦労した。

見知らぬ来客が少ない分、来客に丁寧に接するリドニックの片田舎にあった宿。それをそのままこの街に持ってきて、どれだけ痛い目を見たことか。

それも、店員が男一人だからまだよかった。それが、贔屓目に見ずとも美しい女性二人であれば、もう問題が起きることもわかっていた。

この男たち二人がこの店に現れ始めたのは、シズリたちがこの店に出始めてすぐだった。

それまでは見なかった男たち。それでも客商売であるし、誰でも最初は一見の客だ。店主は特に気にすることもなく接客した。

そこで、目をつけられたらしい。

五日とおかず通う客。金の払いが滞ることもない。暴れたりすることなどない。

それだけならば、単なる優良なお得意様だ。客を差別するべきではない店主すら、彼らを歓待しただろう。

だが、それだけではないのが困りものだ。

暴れたりすることはない。だが、店員に絡むことはある。

「ササメちゃん、今日も元気だね。どう? お兄さんに酌でも」

「ええっと、……ごめんなさい、この店はそういうところじゃ……」

「はいよ、注文通りこれでいいかい」

ササメに酌を迫る男に、店主は料理を出す。ここぞとばかりに立ち上がろうとするササメ。だが、男はその肩に手を置き、ササメを止めた。

「いいじゃん、どこいくの? お兄さんの隣は嫌かい?」

「…………」

その通り、ササメは嫌悪していた。

だが、相手は客である。それも、この悪癖以外は問題がない。

素直に言葉を吐くわけにはいかない。これでも客商売だ。その程度はササメも心得ていた。

はいとは言えない。だが、いいえとも言わない。それが微かな抵抗だった。

もう一人も同じようなものだ。

血色の悪い男は、出された酒を黙って呷る。だが、その視線は厨房内のシズリに固定され、たまににやりと笑うのがシズリはたまらなく嫌だった。

妻と娘に迷惑がかかっている。

それを自覚しながらも、店主は強く断れない。

安かろう悪かろうの店であれば、それでもよかった。客層もある程度悪いことが想定されているし、多少荒っぽい追い出し方をしても問題がなかった。

また、もっと高級な店であっても対処は楽だった。専門の衛士を雇ってもよいし、事実大抵の店にはそういった存在がいる。

だが、この店は違う。常連相手というよりは、一見相手の店。だが、たまにちょっとした贅沢が出来る程度の店と自負している。

悪い噂への抵抗力も対抗する力も耐える力もない。それなりに長く続いているとはいえ、こんな小さな店吹けば飛ぶ。そう思っているからこそ。

ただ、料理や酒を出すタイミングを調整し、時には話しかけて妻と娘の逃げる時間を稼ぐ。店の主人として、精一杯の抵抗だった。

それに、彼らは一線を越えてはいないのだ。

ササメが本当に嫌がれば素直にやめる。シズリを引き留めようともせず、話しかけることがあってもわざわざ呼び寄せることもない。

一線を越えてほしいとは絶対に思わない。だが、そうでないからこそ衛兵に相談も出来ずに、どうすることも出来ない現状。それが歯がゆかった。

今日も、適当にあしらえば帰ってくれるだろう。

店主も、ササメもシズリもそう思っていた。

しかし、そんな安易な考えもすぐに否定される。

いつもは、たしかにそうだ。迷惑な客ではあるが、危険な客ではない。そのはずだった。

いつものようにひとしきりササメに絡んだ男は、ふと周囲を見渡す。

彼らが訪れたのはいつもよりも早い時間。それがまずかったのだ。

「あれ? そういや、店長、今日どうしたの? だーれもいないけど」

ただの、人数の波である。だが、今は他の客がいない。

彼らも、一応いつもは自制していた。人の目があると思い。

だが、今日はない。それを彼らが自覚し、そして 酒(・) と 煙(・) で既に酔っていたのもまずかった。

「寂しいなー、寂しいなー。ねえねえ、ササメちゃん、お兄さんのお膝に座ろう」

いつもよりも強い力。それがグイとササメの肩に掛かる。

店主がそちらに目を向ける。娘の危機に、目つきが変わった。

「あんた……」

「ねえ、店主さん、たまにはいいじゃないですか、ねえ?」

抗議しようと声を上げようとした店主を、血色の悪い男が止める。その笑顔が一度店主を向いてから、シズリの方に向けられたのをたしかに店主は確認した。

「シズリさんも、ねえ、たまにはこっちに出てきてくださいよ」

「お客さん、酔ってるね。さあ、今日はもう帰ってくれ、さあ……」

「うるさいよぉっ!」

それでも穏便に二人を帰そうとした店主を、男は怒鳴りつける。一瞬途切れた雰囲気に、ササメに絡んでいた男がハッと笑った。

「お客さん」

「いぃじゃぁないですかぁぁぁ!!」

抑揚なく、男は叫ぶ。店主は男の見開いた目に、酔いとは違う狂気を感じた。

それから一歩、厨房へと入るバタ扉に歩み寄り、また声を上げた。

「ねえねえ、たまにはいいじゃないですかぁ! 今日はお客もいませんしぃ! お金だって一杯ありますしぃ!!」

そう言って、男は懐からじゃらじゃらと硬貨をつかみ出し床へと放る。銀貨と銅貨が混じった塊が床で弾けた。

一瞬で始まった非日常に、店の三人の動きが止まる。

店主はこの場をどうにかするために思考を巡らせ、女性二人はひたすら怯えていた。

それでも、とりあえずは手近なシズリを、と店主はシズリを隠すように前に出る。そして、ギョッとした。

「どけよ!!」

男の手に握られているのは、短剣。そのくすんだ輝きが、こちらに向けられていた。

「あなた……」

シズリが店主の裾を掴む。それ以上、男に近づくなという警告だ。

だが、このまま膠着していてもどうにもならないことはわかる。

未だに、ササメはもう一人の男の手中にあるのだ。

「うわ、店の中で刃物はまずいっしょ」

今はまだササメの肩に手をかけてこちらを窺っているだけではあるが、その先はわからない。

店主は悩む。

シズリを逃がし、衛兵を連れてきてもらう。それは可能だろう。厨房の奥から裏口を通り外へ出ることは可能だ。

だが、その場合、ササメはどうなる?

店主に戦う術はない。精々、今刃物が手元に潤沢にある程度だ。それで、どうすれば男二人からササメを守ることが出来るだろうか。

何もしないわけにはいかない。愛する妻と娘のためだ。命程度ならいつでも投げ出せる。

だが、投げ出したところでどうにもならないかもしれない。

「……お父さん……」

刃物を持った男を刺激しないよう、ササメも静かに父に呼びかける。

何を言えばいいかはわからない。自分でも何を言いたいのかはわからない。

だが、咄嗟に父を呼んだ。

「忘れ 物(もん) したみてえだわ」

ササメは、しっかりとその目で見ていた。

突然入ってきた赤い袖無しの外套を羽織った男を。その男がつかつかと中に踏み入り、刃物を持った男の首の後ろを掴み、そのまま外へ引きずり放り投げるところを。

「は?」

ササメの肩に手を乗せていた男は、呆気にとられて口をぽかんと開ける。酒に酔った頭で現状の認識が追いつかず、ただそこで固まってしまったのが運の尽きだろう。

ササメの意識が清明になる。恐怖に怯えていた彼女の体が動く。

「えい!」

足が振り上がる。

肩に手を乗せていた男の、股間めがけて。

「…………っ……!!」

叫び声も上げられず、男は崩れ落ちる。せり上がる胃液を堪えながらも、受け身を取るための手は衝撃を与えられた股間に当てるのに精一杯だった。

口の端で唾液の泡が弾ける。潰れていないのが不幸中の幸いだった。

「はは、やるじゃん!」

今まさに外へと放り投げた男も無視して、腹を抱えてレシッドは笑う。同時に自分の背筋も凍ったのは、男としての覆しようのない性だったが。

背中を打ち、咳をしながら血色の悪い男は立ち上がる。目の前にいるのが誰かもわからないまま。

「邪ぁ魔すんなぁ!!」

「ま、俺も? 邪魔する気はないんだけどさ?」

叫ぶ男に、全く動じずに振り返るレシッド。赤い目が男を捉えた。

その目を見て、男の体が反射的に動く。恐れが、無謀ともいえる動きを体に強制したのだ。

「るぉぁ!!」

気合いを出すための素っ頓狂な雄叫び。その雄叫びとともに迫る刃を、レシッドは溜め息をつきながら見ていた。

その場にいた人間が見ることが出来たのは、その仕草までだった。

「ぉっ……!!」

もう一度、男の体が道の反対の建物まで吹き飛ぶ。ただレシッドが足の裏を地面にこすりつけた振り下げの動きで、他の者はそれがレシッドの蹴りによるものだと知った。

したたかに、今度は背中だけではなく頭を壁に打ち付ける。その鼻も血が噴き出し、めり込んだ皮膚に、その打撲跡が骨まで達していることが容易に読み取れた。

「痛えええ!!?」

「いちいちうっせーな」

顔の中央部、鼻があったであろう場所を押さえて叫ぶ男に、レシッドは追撃をする。

追撃といっても、今度は傷をつけたわけではない。

だが、男の叫び声と動きはついに止まった。

キン、と高い音が響いた。

男の顔のすぐ横に突き刺さっているのは、男が先ほどから振りかざしていた短剣。

それが、深々と壁の石に突き刺さっているのを見て、男の絞り出していた息が勝手に吸い込まれた。

「酒は楽しく飲むもんだ。そういうことがしたきゃ、花街でもいけ。な?」

口調は穏やか。声量もとくに変わったことがない柔らかな声音。美丈夫の笑顔。

だが、男は見た。

まるで、何かの力を持っているかのようなレシッドの赤い目を。

男の股間が濡れていく。だがそれでも、レシッドを見て言葉を吐くことはできた。しかしそれは、けして勇気ではない。

「覚えて、ろよ……」

「まじでー? 俺こんなの覚えてなくちゃいけないのかよー?」

冗談めかして応えたレシッドを、男は睨む。それから、血が噴き出した鼻を押さえてよろよろと走り出した。

それを見送ろうとしたレシッドは、一つ気がつく。まだ間に合う、そう思って。

一度店の中に入り、それからその 荷(・) 物(・) を持って外へ出る。歩いているのと変わらない速度で走る男へ向けて、もう一つの贈り物をするために。

「お前も忘れ物!」

声とともに投擲されたのは、人間。ササメに股間を蹴り抜かれた哀れな男だった。

それが、逃げていた男の背中に当たり、二人がもつれて転ぶ。そこでまた喧嘩が始まったのは、レシッドにも予想の範囲外だったが。

ぱたりと扉が閉まる。

同時に、先ほどまでの非日常が消え去り、いつもの日常が帰ってきた気がした。

「いやー、変な臭いがしたと思って戻ってみたら。災難だったな」

笑いかけるレシッドに一瞬何も応えられず、それでも一度頭を掻いて、店主は頭を下げた。

「……ありがとう」

「これで二度目じゃね? 俺がこの店を助けたのって」

ケラケラと笑いながら、その後頭部をレシッドは見下ろす。けして不遜なわけではなく、店主に気にさせまいとする気遣いだ。

「俺はもうこの店で永年無料でもいいかもしんない」

「出来るわけないじゃないっすか」

胸を張るレシッドに、ササメは合いの手を入れる。その手の震えが声に現れないように、懸命に耐えていた。

シズリも頭を下げる。旦那の斜め後ろに隠れながらも、それでも丁寧に。

「あの、ありがとうございました」

「いいっていいって、な? そんな、気にすんなよ」

男たちが目当てに通っていたほどの美女だ。その仕草に、本気でレシッドも顔の緩みが抑えきれない。

店主も、今ばかりはそれを責める気にはなれなかった。

「しかし、レシッドさん。あんた、あんなことして衛兵に捕まったら……」

「殺しでもしねえ限りは大した問題にはならねえだろ。あいつらだって、酒の席で喧嘩に負けたとかいえねえし」

自分が負けた喧嘩は騒ぎにしない。それは探索者の共通認識に近いものだが、一般人の間でもそれは浸透している。

騒ぐのはよほどの物知らずか、もしくは恥知らずか。仕事としてよくその『騒ぎ』に荷担するレシッドは、そうであると信じていた。

そして、思った通りの言葉を吐いてくれた。

これ幸いと、レシッドは店主の言葉に乗る。自らの直前の言葉を翻すような様子で。

「いや、でも、そうだなぁ。あいつらが個人的に仕返しに来るかもしんねえな」

「…………」

ササメが、レシッドのその言葉に体をわずかに硬直させる。その仕草を見て、レシッドはまずい、と思った。そちらに水を向ける気はなかったものを、と。

慌てて、訂正するようにササメに言う。

「まあ、そんなことねえって。あいつらだって恥は知ってらぁ」

「でもさぁ……」

「そうだ、礼として、毎晩俺に一杯奢るってのはどうよ?」

これ以上ササメに心配はさせたくない。そう思ったレシッドは、慌てて話題を修正する。それだけ言えればよかったものを、と反省しつつ。

「え?」

「俺を良い気分にさせりゃ、俺も友達連れてよく来るようになっちゃうぜ?」

聞き返した店主は、その次のレシッドの言葉の途中で意図に気がついた。

それから、ああ、と内心思いつつ、意図的にササメに心配をかけないよう明るく声を出す。

「……仕方ないな! しばらくの間だけだぞ」

「はは、やりぃ!」

大げさに喜ぶレシッドに、ササメとシズリは誤魔化される。装飾された男たちの嘘に気がつかぬよう、無意識に思考を そ(・) ち(・) ら(・) 方向に巡らせるのをやめた。

店主も内心溜め息をつき、そして心の中で頭を下げる。レシッドの気遣いに。

何日も店を守らせるなど、本来彼に依頼すれば金貨が数十枚飛んでいくということを彼は知らない。そしてそれを知ることを、レシッドも望んでいなかったのだ。

それから数日後、女性陣に絡んだ男たちが往来で不審死を遂げたことで、事態は収束する。

その事件に関わっているのが何者かを知っているレシッドは素知らぬフリをして、それからもしばらくは店に通った。

美味い料理に気易い雰囲気、それと明るい笑顔の店員のいるこの店。

それからはレシッドの探索者仲間も足繁く通うようになり、より一層の繁盛を続けたという。