「指輪代は全額返金、二十四時間身につけろ!」とケチな条件を突きつけてきた公爵令息と婚約破棄したら、ライバル公爵家の令息にバカデカい指輪で求婚されて毎日幸せです
作者: 木風
本文
「お前みたいな芋女!こちらから願い下げだ!」
それが婚約破棄の言葉だった。
社交界随一の美貌を誇る侯爵令嬢ルシア・ベルナールは、その日、公爵家の長男ヴィクトール・ラングレーとの婚約を発表する予定だった。
王都でも名高いベルナール侯爵家のサロンには、両家の親族と親しい貴族たちが集まっている。
白百合と淡い薔薇で飾られた室内は、婚約を祝うにふさわしく華やかだった。
少なくとも、ヴィクトールが口を開くまでは。
「つまりね、ルシア嬢。君が僕の妻になるなら、このくらい受け入れられて当然だと思うんだ」
ヴィクトールは、まるで召し使いに明日の予定を告げるような口調で言った。
ルシアの前には、羊皮紙が広げられている。
そこには、婚約にあたってルシアが守るべき条件が、びっしりと書き込まれていた。
「まず、婚約指輪。君が欲しがっているんだから、毎日二十四時間、朝も夜も外さないこと。入浴時も就寝時もだ。僕との婚約を誇りに思っているなら当然だろう?」
ヴィクトールは得意げに顎を上げた。
「必要だと言って僕に買わせるんだ。万一、指輪を外している日が一日でもあれば、君は僕に嘘をついたことになる。その場合は謝罪し、指輪代を全額僕に返金した上で、指輪は即刻売却する。なお、売却金は僕のものとする」
室内の空気が、ぴたりと止まった。
ルシアの父であるベルナール侯爵の笑顔が凍る。
母は扇で口元を隠したが、その手がわずかに震えていた。
しかしヴィクトールは、誰の顔色も見ていない。
「次に、結婚式と披露宴の費用は君の実家が全額負担すること。もちろん、僕は公爵家の人間だからね。王都の大聖堂を使い、招待客も相応の人数になる。装花、料理、楽団、馬車、警備、すべて一流で頼むよ」
「……」
「それから、君の婚礼衣装も自分で用意すること。ただし、我がラングレー公爵家の婚礼にふさわしい最高級のものに限る。安物を着られては公爵家の威信に関わるからね」
ルシアは黙って聞いていた。
「あと、僕の礼装も式全体の調和を考えて、君の実家で負担してくれたまえ。花嫁が花婿に恥をかかせないのは当然の務めだ」
さすがに親族の一人が、低く咳払いをした。
けれど、ヴィクトールはまだ止まる気配がない。
「結婚後の生活費は夫婦で折半だ。もっとも、君は公爵家に嫁ぐわけだから、屋敷の維持費、使用人の給金、馬車の管理費、夜会費用、領地から届く贈答品の返礼費も半分は負担してもらう」
ルシアの眉が、初めてほんの少しだけ動いた。
「君の衣装代、侍女の給金、茶会の費用、実家への帰省費用はもちろん君持ちだ。ただし、公爵家の妻として人前に出る以上、装いは常に最高級であること。僕の許可なく友人と会うことも控えてほしい。変な噂を立てられては困るからね。それと……」
「……まだございますの?」
「もちろんあるとも」
ヴィクトールは当然のように頷いた。
「子が生まれた場合、出産にかかる費用と乳母の手配は君の実家が負担すること。母子ともに実家の血を引くのだから、そこは責任を取ってもらわないと」
ついに、ルシアの母が扇を閉じた。
「ヴィクトール様。今のお言葉は、本気でいらっしゃいますの?」
「もちろんです、ベルナール侯爵夫人」
彼は悪気なく笑った。
その瞬間、室内の温度が数度下がった。
ルシアは静かに立ち上がった。
背筋はまっすぐ伸び、白い指先は少しも震えていない。
「ヴィクトール様」
「なんだい?」
「確認させていただいても?」
「もちろん。僕は話し合いのできる男だからね」
「わたくしは、公爵家に嫁ぐ花嫁として求められているのでしょうか」
「ああ」
「それとも、公爵家の維持費を負担する共同出資者として求められているのでしょうか」
ヴィクトールはきょとんとした。
「何を言っているんだい。妻になるのだから、どちらも当然だろう?」
ルシアはにこりと微笑んだ。
それは社交界随一の美貌と呼ばれる令嬢にふさわしい、完璧に優雅な笑みだった。
「では、この婚約はなしでお願いします」
サロンにいた全員が、言葉を失った。
最初に声を上げたのは、ヴィクトールだった。
「な……何を言っているんだ?」
「婚約はお受けできません」
「君は、自分が何を断ったのかわかっているのか?僕は公爵家の長男だぞ!」
「存じております」
「後で泣きついて縋っても遅いからな!もう二度とラングレー公爵家の敷居を跨げると思うなよ!」
「承知いたしました。生涯、跨がずに済むよう努めます」
ルシアは美しく一礼した。
「っ!お前みたいな芋女!こちらから願い下げだ!」
ヴィクトールは顔を真っ赤にして、羊皮紙を掴み、足音荒くサロンを出ていった。
扉が大きな音を立てて閉まる。
残されたルシアは、静かに椅子へ戻った。
「……お茶が冷めてしまいましたわね」
そう言って、彼女は何事もなかったかのように紅茶を口にした。
翌日から、王都の社交界はひとつの話題で持ちきりになった。
ラングレー公爵家の長男ヴィクトールが、婚約予定だった侯爵令嬢に逃げられたらしい。
しかも、本人があちこちでそれを武勇伝のように話しているのだ。
「いや、僕は悪くないんだよ」
「ただ、指輪を外すなと言っただけなんだ」
「結婚式の費用だって、花嫁側が誠意を見せるべきだろう?」
「生活費を折半にしようと言ったら、急に怒り出してね」
「公爵家の妻になる覚悟が足りなかったんだ」
茶会で。
晩餐会で。
観劇の休憩時間で。
果ては馬車寄せで偶然会った貴族にまで。
ヴィクトールは、自分がいかに理性的で、ルシアがいかにわがままだったかを語って回った。
ただし、自分の要求を語れば語るほど、周囲の顔が引きつっていくことには気づかなかった。
「婚約指輪を二十四時間外すな、ですって?」
「外したら返金して売却?」
「しかも売却金はご自分のもの?」
「結婚式費用は花嫁側に全額負担させる?」
「公爵家の屋敷維持費まで折半?」
「婚礼衣装は最高級を自腹で用意しろ、でも安物は許さない?」
貴婦人たちは、扇の陰で目を見交わした。
やがて、噂はひとつの呼び名にまとまった。
ケチな公爵令息。
それは、名誉あるラングレー公爵家の長男にとって、何よりも不名誉な呼び名だった。
しかも悪いことに、ヴィクトールは自分で燃料を足し続けた。
「違うんだ。僕は金に困っているわけじゃない。貯金だってちゃんとある」
「指輪くらい買えるさ。買えるけど、責任を取ってもらうためにだね」
「女性というのは、きちんと条件を示さないと甘えるものだから。最初が肝心というじゃないか」
そのたびに、社交界の女性たちはますます冷ややかになった。
「あら、買えるならお買いになればよろしいのに」
「責任を取るのは、妻ではなく夫ではありませんこと?」
「条件を出す前に、ご自分の器をお確かめになった方がよろしいのでは」
クスクスという笑い声は、やがて王都中に広がった。
一方、ルシアの評判は落ちなかった。
むしろ上がった。
「あのような条件を突きつけられても、取り乱さず断ったそうですわ」
「さすがベルナール侯爵家の令嬢」
「美しいだけではなく、気骨もある」
「公爵家の名に怯まない淑女など、そうはいませんもの」
破談から十日も経たないうちに、ルシアのもとには新たな縁談が舞い込んだ。
伯爵家、侯爵家、そして公爵家からも。
その中で、最も丁寧な手紙を送ってきたのが、ハイドリック公爵家の次男エドガルドだった。
エドガルド・ハイドリック。
金髪に青い瞳を持つ、穏やかで誠実な青年。
王立学院時代からルシアとは面識があり、彼女が父の代理で慈善事業の会合に出席した時も、さりげなく支えてくれた人物だった。
彼の手紙には、婚約の申し込みなど一言も書かれていなかった。
ただ、こう記されていた。
『あなたがあなた自身を軽んじなかったことを、心から尊敬いたします』
ルシアはその一文を読み、小さく笑った。
それから二ヶ月後。
王都の初夏の茶会で、ルシアは再びヴィクトールと顔を合わせることになった。
「ルシア嬢!」
庭園に響いた声に、周囲の会話がぴたりと止まった。
ヴィクトールが、息を切らして駆け込んできたのだ。
額には脂汗が浮かび、礼装の襟元も少し乱れている。
貴族の茶会で走るなど、社交界ではそれだけで十分に失態だった。
ルシアは東屋の椅子に腰かけたまま、静かにティーカップを置く。
「ヴィクトール様。どうぞ落ち着いてくださいませ」
「誤解があったんだ!」
「誤解?」
「あの条件は、君を試しただけなんだ。君が本当に僕の妻にふさわしいかどうかをね」
周囲の貴婦人たちが、一斉に扇を開いた。
笑いを隠すためである。
「指輪だって買う!何本でも買う!結婚式だってこちらで出してもいい!」
「まあ」
ルシアは穏やかに微笑んだ。
「今度は買ってくださいますの?」
「もちろんだ!」
「生活費は?」
「それも……まあ、考え直してもいい」
「屋敷の維持費は?」
「君が嫌だというなら……」
「わたくしの婚礼衣装は?」
「それも、こちらで……」
ヴィクトールは言いながら、どんどん声が小さくなっていった。
自分がどれほど恥ずかしい条件を出していたか、今さら理解し始めたらしい。
ルシアはにこりと笑った。
「残念ですが、そのお話はもう終わっております」
「え?」
「わたくし、先日、別の方と婚約いたしました」
ヴィクトールの顔から血の気が引いた。
「別の方?」
「はい」
ルシアは左手を差し出した。
薬指には、澄んだ青い宝石を中心に据えた婚約指輪が輝いている。
細工は繊細で、台座には小さな花の意匠が刻まれていた。
主張しすぎず、それでいて誰が見ても一級品とわかる見事な指輪だった。
「な、何だそれは……」
「婚約指輪でございます」
「そんなことは見ればわかる!」
「まあ。でしたら、質問なさらなくてもよろしいのに」
周囲から小さな笑いが漏れると、ヴィクトールは歯を食いしばった。
「相手は誰だ。まさか、たかが侯爵家の令嬢が、僕以上の相手を見つけたとでも?」
その言葉に、茶会の空気が変わるのを感じながら、ルシアはゆっくりと立ち上がった。
「ヴィクトール様」
「なんだ」
「以前から不思議だったのですが、あなたはわたくしの家を、どの程度ご存じでしたの?」
「侯爵家だろう。それ以上でも以下でもない」
「そうですか」
ルシアは静かに頷いた。
その時、彼女の隣に座っていた老紳士が、低く笑った。
クレメンス・ベルナール侯爵。
ルシアの祖父であり、現国王の治世を二十年支えてきた宰相である。
「若い方は、ずいぶんと物を知らぬ」
その一言で、周囲の貴族たちが姿勢を正した。
ヴィクトールの顔がこわばる。
「宰相閣下……」
「うちの孫娘を、ずいぶん安く見積もってくださったようだ」
「孫、娘……?」
ルシアは淡々と続けた。
「わたくしは確かに侯爵家の令嬢です。ですが、祖父は現宰相。祖母は先王陛下の第四王女でございます」
庭園が静まり返った。
「ですから、わたくしは王家の血を引く侯爵令嬢でもございます」
ヴィクトールの唇が震えた。
「そ、それは……」
「ご存じなかったのですね」
「いや、聞いていない!」
「まぁ。調べもせずに婚約条件を突きつける方が、いらっしゃるのですね」
扇の陰で、誰かが吹き出した。
ヴィクトールは真っ青になった。
彼は今さら理解したのだ。
自分は、ただの侯爵令嬢に条件を突きつけたのではない。
宰相の孫であり、王家の血を引く令嬢に、公爵家の屋敷維持費を折半しろと言ったのだ。
「ルシア」
その時、穏やかな声が庭園に響いた。
金髪に青い瞳。
胸元には、ハイドリック公爵家の青い紋章。
エドガルド・ハイドリックが、花道の向こうから歩いてきた。
「待たせてしまったかな」
「いいえ、エドガルド様。ちょうどよいところでしたわ」
エドガルドはヴィクトールに気づき、軽く会釈した。
「おや、ラングレー卿。お久しぶりです」
「あ……ああ……」
ヴィクトールはまともに返事もできなかった。
ハイドリック公爵家は、ラングレー公爵家と並ぶ古い名門だ。
そして現在、王家との結びつきはハイドリック家の方が深い。
さらにエドガルドは次男でありながら、王太子殿下の側近候補として名が挙がっている優秀な青年でもある。
エドガルドはルシアの左手を取り、指輪に軽く口づけるような仕草をした。
もちろん、実際には触れていない。
社交の場にふさわしい、節度ある仕草だった。
「よく似合っている」
「ありがとうございます。外す予定はございませんわ」
「外したくなった時は外していい。指輪は君を縛るためのものではなく、私が君を大切にしたいと思っている証だから」
その場にいた貴婦人たちの目が、一斉に柔らかくなった。
ヴィクトールは完全に言葉を失っていた。
エドガルドは彼の方へ向き直る。
「ラングレー卿。ひとつだけ申し上げても?」
「な、何だ」
「女性に指輪を贈るなら、まず自分の器を用意なさった方がいい」
庭園の空気が凍った。
そして次の瞬間、扇の陰でいくつもの笑い声が弾けた。
ヴィクトールの顔は、赤くなったり青くなったりを繰り返すばかり。
ルシアは美しく一礼した。
「それでは、わたくしたちは式の打ち合わせがございますので」
「式……」
「はい。結婚式でございます」
エドガルドは穏やかに微笑んだ。
「費用はもちろん、我が家で整えます。ベルナール家には、ルシア嬢を大切に育ててくださったことへの感謝をお伝えしたい」
その言葉に、ルシアの祖父クレメンス侯爵が満足げに頷いた。
「よい心がけだ、ハイドリックの若君」
「恐れ入ります、宰相閣下」
二人は並んで庭園を後にした。
その後ろ姿は、誰の目にも釣り合いの取れた婚約者同士に見えた。
数日後。
ラングレー公爵夫人は、社交場でこう漏らしたという。
「うちの息子ときたら、本当に情けない。指輪ひとつで公爵家の名をここまで落とすなんて」
それは母としての嘆きだったのか。
それとも公爵夫人としての切り捨てだったのか。
誰にもわからない。
ただ、その日以来、ヴィクトールが社交界の中心に戻ることはなかった。
彼は夜会に出れば、必ず誰かにこう囁かれた。
「あら、ケチな某氏ですわ」
「指輪は外してもよろしいのかしら」
「屋敷の維持費を折半にされてしまいますわよ」
やがて、ラングレー公爵家は彼を領地へ下がらせた。
表向きは領地経営を学ぶため。
実際は、王都の笑い者をこれ以上放置できなかったからだ。
一方、ルシアとエドガルドの結婚式は、その年最大の社交的行事となった。
大聖堂には国王陛下も臨席され、王都中の貴族たちが祝福に集まった。
ルシアの婚礼衣装は、ハイドリック公爵家が用意した最高級のものだった。
けれど、彼女が最も嬉しそうに見せたのは、豪華なドレスではない。
左手の薬指に輝く、ひとつの指輪だった。
それは彼女を縛るためのものではない。
彼女を尊重する男が、彼女を大切にしたいと願って贈ったものだった。
のちにルシアは、ハイドリック公爵夫人として社交界に名を馳せることになる。
美貌だけではない。
気骨と知性を備えた、公爵家の女主人として。
そして、彼女が若い令嬢たちに語った言葉は、長く社交界に残った。
「高価な指輪を贈られることが幸せなのではありません。その指輪で、あなたを縛ろうとしない方を選びなさい」
なお、ケチな某氏の名は、もう誰もまともには呼ばなかった。
ただ、婚約前に妙な条件を出す男が現れるたび、貴婦人たちは扇の陰でこう囁くのだ。
「まあ。第二の指輪卿かしら」