「お兄様、ズルい!」と弟が騒ぐので 〜辺境伯は強欲な弟と傲慢な妻に今日も譲る〜
作者: たぬちゃん
本文
「失礼しますハイどうぞ!」
ノックもなしで執務室の扉が勢いよく開いた。
飛び込んで来た人影に、辺境伯は書類から顔を上げる。
「今日も来ましたか。
せめて許可を得てから開けてほしいですな」
「ハイどうぞって言いましたよ」
「言うんじゃなくて言われる台詞ですぞ。それで、何の用ですかな?」
相変わらず自由な弟はじろじろと不躾に室内を見回す。
これは用事の方も相変わらず、といったところか。
「お兄様はズルいです!」
「ふむ」
「私に譲ってください!たった一人の可愛い弟でしょう?」
執務机を挟んで向かい側に立つ弟を見上げながら、辺境伯は首を傾げる。
「何が欲しいんですかな? 家督?」
「それは面倒くさそうだから絶対要りません!」
辺境伯の地位はなかなか魅力的なはずだが、この弟はいつも全力拒否である。
「代わりにこの万年筆をいただきます!」
弟がひょいと机上から取り上げたのは、新品の万年筆だった。
あまりの目ざとさに、辺境伯は思わずため息をつく。
その万年筆には細工がしてあって、軸を捻ると内側から鋭い刃が飛び出す。
書類仕事の合間に封蝋を切る用途の、仕込みペーパーナイフだった。
――扱いやすそうで、一目でとても気に入っていたのに。
「その細工、わざわざ王都の職人に特注したんですぞ」
「へえ。そうなんですね」
弟はまるで興味なさそうに万年筆をポケットに突っ込んだ。
それからまた周囲を見る。どうやらまだ満足していないようだ。
「他に何を譲って欲しいんですかな? 妻?」
「蛮族王女はちょっと……」
「これこれ。口が過ぎますぞ。この遠い辺境まで嫁いで来てくださった、麗しく勇敢な第三王女殿下に対して」
辺境伯の妻は近隣諸国に名の知れた勇猛な元王女である。
今朝も堂々と騎士たちを引き連れて、意気揚々と出かけて行った。
「それでは行ってくるぞ、我が夫よ!
敵将の首を軽く十かそこら取ってきて見せよう。
安心せよ、ちゃんとすぐ塩漬けにする」
「今は戦争中ではないですぞ。
それをやったら立派な条約違反ですな」
「はっはっは!そうであったな!
では代わりにゴブリンの首でも狩ってこよう。
戻ったら貴様も一緒に数えるように。私は十以上の数は数えられんからな!」
呵々と笑った美しい人は、さて今頃どの辺りだろうか。
今の季節なら東の森か。あるいは南の沼地かもしれない。
とにかく彼女が戻ったら、領地を荒らすゴブリンの首がずらりと並べられるのだろう。
また勝利のキスを、と求められたら恥ずかしいですな――と辺境伯は部屋の隅の刺繍箱に目をやった。
手慰みに始めた刺繍をしたハンカチで、なんとか手を打ってもらえないだろうか。
「なんですか、これは。針と糸――刺繍ですか?」
「あまり触らないでほしいですな。まだ途中なんですぞ」
「ふーん」
いらない目ざとさをまた発揮した弟が、無遠慮に箱の中身を検める。
きらきらしい螺鈿細工のその箱は、古いが元々は宝石箱だったとても良い品だ。
弟は刺繍箱を抱えると、ニヤリと見せつけるように笑った。
「お兄様は本当にズルい方ですね。これも私が貰ってあげます!」
「ちょっと待」
「失礼しますハイどうぞ!」
入室時と何ら変わりのない一方的な挨拶を言い捨てて、弟は執務室を出て行った。
辺境伯はそれを見送り、諦めて深くため息をつく。
またやられてしまった。
毎日毎日、飽きもせずよく続くものだと思う。
弟はけして万年筆や刺繍箱が欲しいわけではない。
ただ自分からあれらを奪い取って行くことに、意味を見出しているだけだ。
「さてと」
ギシ、と音を立てて車椅子を動かし、辺境伯は窓辺に向かう。
窓の向こうには、夏の訪れを感じさせる鮮やかな緑の庭が広がっていた。
「今日は二つも。そんなにひどい顔をしてましたかな」
窓ガラスは精巧な魔鉱ガラスだ。
こちら側の反射は抑えられるため、自分の顔色は正直よくわからない。
しかし弟の態度から察するものはあった。
「まあいくつ持って行かれても、方法はたくさんありますからな。例えばこの窓を叩き割って、破片で首を掻き切るとか――」
そう考えたところで、ふと脳裏によみがえる声があった。
「窓のガラスは全て魔鉱ガラスと交換だ!仮にも王族が住むのだからな」
嫁いで来たばかりの王女は開口一番そう言った。
「家具も降嫁した王女に相応しいものに入れ替えよ。全部だぞ!」
「それはさすがに予算が厳しいですな」
「持参金を使え!足りなければ追加で送らせる。金に糸目はつけるな!」
姫君の恐ろしく豪快な金遣いに、荒事には慣れている辺境伯家の者であってもみな戦々恐々とした。
「よく聞け、辺境伯!この魔鉱ガラス一枚で魔導大砲が二門買える。間違っても割ったりするなよ、絶対だからな!」
「ぜ、善処しますぞ」
あの時の妻の得意気な顔を思い出し、辺境伯は窓ガラスから手を離した。
「ガラス片で首を切りつけるのは辞めておきますぞ。後が怖い。そうだ、クラバットを口に詰め込んで窒息死を狙うというのは――あっ」
首元の装飾布の類は全て、昨日弟が持って行ったまま返って来ていない。
なんだか奪い取りたい気分になったので!という雑な嘘は、適当な理由がひとつも思いつかなかったからだろう。
数日後には何事もなかったように元の場所へ置かれているに違いないが、とにかく今は手元に無いのである。
「困りましたぞ。……仕方がない、仕事に戻りますかな」
大きく首を振って、車椅子を執務机へと向ける。
机上に広げられた様々な領地に関する書類を見ながら、辺境伯はちらりと考えた。
本来なら今頃、ここにはあの弟が座っているはずだった。
自分はもう終わった人間なのだから。
いや、本当はずっとそう思っている――呪いを受けたあの日からずっと。
王宮で行われていたとある式典の最中、潜んでいた暗殺者が放った呪い。狙われたのは第三王女だった。
それをたまたま、近くにいた辺境伯が庇った。
特別な理由はない。
ただ人として男として貴族として、当然の行動をとっただけだ。
呪いの炎で燃やされる痛み。
己の肉が焼ける臭いがして、意識が闇に落ちていく中で、女性の悲鳴と悲痛な叫びだけが耳に残った。
「辺境伯!! そんな、そんな……っ」
あの第三王女殿下でもこんな声を上げるのかと、そう思ったことは覚えている。
その後、解呪は成功し命は助かった。
が、顔が半分焼けただれ、両足も動かなくなった。
――そして心の一部も壊れた。
希死念慮とでもいうのだろうか。
毎日ふと声が聞こえて、どうにもこうにも死にたくなってしまうのだ。
死ね。死んでしまえ。
いなくなれ。いつまでそこにいるつもりだ。
お前は要らない。命を絶て。
辺境伯として最後の意地を見せてみろ――
頭の中で呪いの残滓がわんわんと響くのは、理由がわかっていてもなかなかに辛い。
それに事実として、辺境伯家に必要なのは強い当主だ。
戦えなくなった車椅子の男ではない。
そう思っていたから、誰に言われるまでもなく弟に家督を譲るつもりであったし、第三王女降嫁の話を賜った時も、当然弟への縁談だと考えたのだ。
「それがどうしてこうなったのか……謎ですな」
弟の補佐として、書類仕事だけしていくつもりだったのに。
結局のところ当主変更は話にも上がらず、領内の視察と社交は弟が、騎士の訓練と魔獣狩りは妻が担うこととなった。後はそのままだ。
辺境伯にはどうしても理解できない。
なぜ自分が当主のままなのか。
なぜ第三王女は妻として自分の隣にいるのか。
なぜ弟も妻も、自分を――諦めてはくれないのか。
弟は本当は、家督を継いだ方が何かと都合が良いはずだ。
妻も呪いから庇ってもらったから結婚、というのはさすがに責任の取り過ぎではないだろうか。
別にそれで辺境伯が死んだわけでもないのに――
まさか、自分が中途半端に生き残ったからこうなったのか?
ふいに過ぎった思考に、辺境伯は動きを止めた。
それなら説明はつく気がする。
そして、もしそうだったとしたらどうするか?
答えは簡単だ。
車椅子で動きにくい体になったとはいえ、自殺のための手段などいくらでも存在するのだ。
しかし実際は刃物や針を準備しても弟が毎日持ち去ってしまうし、備品も妻が日々買いあさる高価な品に次々と入れ替えてしまうので、どうにも手が出しにくい。
騎士や使用人、領民たちですらこの件では辺境伯に非協力的で、首吊り用の縄を見つけては捨て、毒を探し出しては埋め、あまつさえ二人にそれらを報告した上で
「弟様と奥様が暴れておられますが、我々には止められません。旦那様お願いします」
と丸投げしてくる始末だった。
そしてまた死ねなかった――いや生かされてしまった日がひとつ、またひとつと積み重なっていく中で、呪いが無理に決めさせた覚悟も鈍っていく。
窓の外ではいつの間にか、夕日が沈み始めていた。
辺境伯は半分焼けただれた顔を手で覆って呻く。
「ああ、今日も死に損ないましたな……」
呪いで歪められたものとわかってはいても、願いは願い。
もう死んでしまいたい――植えつけられた感情に流されそうになる自分と、死なせたくないと抗う二人はどこまでも平行線だ。
ただし、願う強さはまるで違った。
弟と妻の二人がかりで何としても阻止しようと動かれては、薄らぼんやりと死を願うだけの辺境伯など、太刀打ちできるはずもない。
「俺は」
もう一度口を開いて、確かめるように呟く。
「また死に損なった」
こうして死に損ない辺境伯は、
強欲を演じる弟と傲慢な振りをする妻に、
今日も願いを譲るのだった――