軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

79.見えていなかったもの

エリオットは立ち尽くしたまま、間近で起きている出来事を一つ一つ、目で追っていた。

眩い光を放つ戦斧を持った見知らぬ男の前に、異形の姿をしたアグレアスが現れた時でさえも、一歩も動けなかった。

結界の膜に隔てられて、そうして立ち尽くしたままで、心の中に無力感と葛藤が交互に浮かんでは消える。

視界の先で、男の振るう光を纏う戦斧が、アグレアスの異形となった半身を滅したのが見えた。フローラの視線はその男に向いている。身を案じるようでもあり、希望にも満ちている表情は、そこに信頼関係が既にあるのだと思えた。

嫉妬じみた感情が浮くのを噛み殺す。不貞をして、離縁状を突き付けて、切り捨ててしまった自分にそんな資格は、もう無い。

やがて戦斧の男がフローラを呼ぶ声が聞こえた。呼ばれた彼女は真剣な表情で、何やらロープのようなものを手に結界の外に駆けて行くのを見た。

──危険だろう、結界の外になんて……。

ぼんやりと声に出さずに胸のうちで呟けば、『安全な場所』に居る事を 謗(そし) った過去の自分が頭を過ぎる。それは何も、おかしい事なんて無かったはずなのに、エミリーと二人でそれを蔑んでいたのは自分だ。

エリオットの記憶にあるフローラは、王都で針子として働く平民女性だった。戦う術など持たない。 不死(アンデッド) 化した化け物が居るような、こんな場所で、怯えた表情も見せずに動いている事の方が不思議なほどだ。

幌馬車を取り囲む集団は随分と風変わりだ。ベレスフォルドの騎士や傭兵、聖職者はともかく、とてもこんな危険な場に居合わせるような風体ではない、老夫婦とフローラが、どういうわけかこの集団の中心に居るように思える。

「……良かった、フローラさん、前よりずっと元気になってる」

傍で聞こえたのは、ケビンに寄り添っていたチェルシーの声だ。

「……前?」

思わず呟けば、チェルシーがこちらを向いた。その視線には僅かに怒りと侮蔑が滲んでいるように感じられた。チェルシーは目を逸らすように、再び前を向いてフローラを目で追ったまま、話し始めた。

「フローラさん、王都を出る前にあたしのところに来てね。あたしに恩返しだって、ドレスをくれたの。それ以外には、もう何も持ってなくて。……全部、無くして、そのまま何もかも消えてしまうんじゃないかって思えて、あたしはそれが怖かった」

涙声になって、チェルシーはそれから、かつて王都に居た頃にフローラが置かれていた状況を、ぽつりぽつりと話し始めた。

例の借用書が偽造されたものだとはすでに理解していた。それでも、フローラが王都で有象無象の悪意に晒されていた事を、そこで漸く、初めて知った。自分が知ろうとしなかった事だ。

アグレアスの謀略が関与するものもあれば、その息が掛からずとも、聖騎士の名声を利用したい貴族や富豪は居たのだと言われて、それは容易く想像出来た。全く無関係な人間の一方的な妬みや、質の悪い詐欺に名を勝手に利用された事もあったと言われて、それも想像がついた。

こうして聞かされれば、想像が出来る事ですら、ただ知ろうとさえしなかった。

結果として職を失い生活を切り詰めながら、凱旋のその日まで、毎日教会に通いエリオットの無事を祈っていたのだと、今になってそれを知る。

借金をして豪遊していたなどと、不貞の言い訳として信じ込んでいた自分の醜さが鮮明になって行く。

──聖剣を手にしておきながら、『ただ祈るだけの役立たず』などと、よく言えたものだ……。

チェルシーが言っていたドレスの正体を聞かされて、出征前に王都で過ごしていた日々を、当たり前にあった細やかな幸福を思い出す。

けれども聖騎士の伴侶には聖女こそが相応しいと、そういう風説があちこちで広まって、フローラは居場所を失くしたのだと告げられて、全身の血が凍るような錯覚すら覚える。

原因を作ったのは、自分自身の行いだ。

もう元には戻らない、自分が壊してしまったもの。

今さら取り返しのつかない自己嫌悪が、自分を責め立てた。

アグレアスはあっさりと捕らえられて、拍子抜けするような奇妙な治療が施されている。笑う余裕など無くて、茫然とフローラを見ていた。

アグレアスの処置を終えると、次の手を打つ為に皆が結界の中に退避して来る。ベレスフォルドの騎士達が、 不死(アンデッド) スライムの退いた場所から、マーカスやリチャード達を救出して運び込んでいた。

状況が目まぐるしく動く中で、何も出来ずに突っ立っている自分は酷く惨めだった。

チェルシーが手を振って、フローラがこちらを振り向いた。エリオットが視界に入ったせいか、その笑みはやはり陰ったように見えて、胸が痛む。彼女は迷うように深呼吸して、それからこちらに歩いて来た。

「……フローラ、」

漸く絞り出した声は掠れていた。言葉にしなければならない事がたくさんあるのに、どれも出て来ない。

「……俺が、悪かった……」

辛うじてそれを口にすれば、しかしフローラは首を横に振った。

「もう、全て終わった事ですよ」

「しかし、俺を……恨んで、いるだろう」

恨まれても憎まれても仕方の無い事をした。そう自覚して声に出せば、しかしフローラは、ぎこちなく笑んで再び首を横に振った。

「……いいえ。恨んだり、憎んだりするのは、その時間が勿体無いですよ。今は全ての時間を、大切な人達の為に使いたいのです」

少し声が震えていたが、はっきりとフローラが口にした言葉には、他意は無いのだろう。けれども、エリオットにとってそれは拒絶にも思えた。 赦(ゆる) しを請う事さえもう遅いのだと、そう思った。

「ご無事で、良かったです」

最後にそれだけ言って、何もかもを振り切るように笑んで、フローラは背を向けて立ち去った。言外に、改めて決別を告げられたような、そんな気がして、感傷を押し殺す為に俯いて歯を食いしばる。

それからしばらく立ち尽くした後で、傍に立つケビンとロイドに声を掛けた。

「マーカスとリチャードの様子を見に行きたい。……彼らに、話したい事もある」

フローラの汚名を雪がねばならない。自分の口から、真実を全て言葉にして。それが今この場で自分に出来る、唯一の償いだった。