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作品タイトル不明

古河公方

1566年夏

一方、東国の情勢は緊迫の度合いを深めていた。武蔵と上野の国境線において、領土の取り取りを繰り返しながら越後の龍、上杉輝虎と対峙し続けていた北条家は、すでに下総と上総をほぼ手中に収めていた。そして今は、房総半島の安房に拠る里見家、そして常陸の佐竹家という強敵を打ち倒すべく、北条氏康・氏政父子は懸命に奮闘を続けている。

この関東の泥沼の戦いにおいて、上杉輝虎が関東管領という大義名分を掲げて秩序に介入する最大の要因となっていたのが、古河公方の後継者問題であった。婚姻政策の賜物として北条が擁立する氏康の甥、足利左兵衛督義氏。そして、正統な嫡男でありながら北条によって強引に幽閉された足利藤氏。この二人の存在が、関東の諸将を二分する火種であった。

しかしここに来て、非公認ながら関東全域に一つの噂が流れた。幽閉されていた藤氏が病死した、というのである。

輝虎としては、関東管領として古河公方の正統な後継者である藤氏を擁することで、北条の非道を糾弾し、関東の秩序を正そうとしていた。その大義の要であった藤氏がいなくなったとなれば、事態は極めて複雑になる。

藤氏の別の弟を新たに擁立して北条と争うのか、それとも公方が不在であっても関東管領としての権限のみで秩序を守ろうとするのか。いずれにせよ、現職の古河公方である義氏を実質的に手中に収めている北条家に、圧倒的に有利な状況が生まれたことは間違いない。

もとより、関東管領とは古河公方を補佐し支えるための役職である。北条の強引なやり方が卑怯であるか否かについては諸将の間で判断が分かれるところだが、こと関東の静謐を保つ。という一点においてのみ見れば、権威の看板が義氏一つに絞られたことは、長きにわたる戦乱が収束に向かう大きな要因となるやもしれない。

氏真は畿内の自室で地図を広げ、深く思考を巡らせた。一度関東に出向き、将軍である公方様と、義父である北条氏康、そして友である上杉輝虎とも直接話をしたほうが良いかもしれない。

駿府に滞在している将軍・足利義輝は、かつて義氏に対し自身の名から「義」の一文字を与えるなど、ある程度その存在を認めている節があった。とはいえ、正統な嫡男である藤氏が生きている間は、幕府として大々的に義氏を支援することは難しかったはずだ。

しかし、藤氏が北条に殺されたのか本当に病死したのかはさておき、すでに亡くなったとなれば、輝虎も死人を担ぎようがない。代わりに弟を擁立したところで、義氏以上に正統性に欠けるのは明らかである。今川がここで強力に介入すれば、関東の終わりの見えない戦を終結させることができるかもしれない。

まずは駿府にいる将軍・義輝のもとへ出向き、今川が幕府と共に義氏を正式な古河公方として支援する旨を伝える。そして、将軍の御内書をもって上杉に対し「関東に出兵する大義はすでに無い」と宣言させるのだ。その上で、北条、上杉、そして今川の三者会談の場を設ける。そこで氏真が提案するのは、係争の地である上野を、今川が間に入って管理する緩衝地帯にすることだ。

北条には、背後の憂いをなくして目前の敵である安房の里見や常陸の佐竹の平定に専念させる。上杉には、関東から手を引かせ、越後の背後を脅かす蘆名や伊達への備えに専念させる。

両者が国境を直接接していれば、いつ裏切られるかと互いに背中を預けることは決して出来ないだろう。だからこそ、今川が将軍家の名と権威のもとに、責任を持って双方の背中を預かる盾となる。

もしこの策が成れば、氏真としては一滴の血も流さずに上野という広大な領地を手に入れられる。まさに万々歳である。あるいは、その地の国衆たちに自らの帰属を選ばせるという手もある。古河公方を擁する北条か、関東管領を名乗る上杉か、それとも朝廷と将軍という絶対的な権威を戴き、圧倒的な経済力を持つ今川か。戦乱に疲れ果てた国衆にとって、どれが一番の正義であり、誰につくべきかは、火を見るよりも明らかであろう。

厳しい冬になれば、輝虎は深い雪に阻まれて越後に籠もるしかなくなる。軍を動かすなら、雪が降る前に早急に動かねばならない。まずは畿内を発ち、駿府の義輝のもとに出向こう。氏真はそう決断した。

氏真は、早川殿の元を訪れた。関東への出立を告げるためである。

「御前。すまないが、すぐに関東へ向かわねばならなくなった。おそらく、そなたの出産までには戻ることが出来ぬやもしれぬ。帰るときまでに、子の名前をしっかりと考えておく。どうか健やかに、よろしく頼む」

氏真が申し訳なさそうに手を取ると、早川殿はいつものように優しく微笑み、その手を力強く握り返した。

「殿、どうかお気になさらず。私の実家である北条を救うために、わざわざ出向いてくださるのですよね。殿のそのお心遣い、深く感謝いたします。道中のご無事だけを、心よりお祈りしております。それに殿…もう三度目の出産ですよ。痛みにも不安にも、すっかり慣れております。どうぞ安心してお任せくださいませ」

その気丈で凛とした言葉に、氏真はどれほど救われたか分からない。背中を押して送り出してくれる妻のためにも、必ずや関東の乱世を鎮め、無事に帰還せねばと強く心に誓った。

西の政務と軍事の要である居留守役としては、光秀を残すことにした。さらに、大和の筒井らの接触があった際の外交対応には、柔軟な思考を持つ半兵衛を当てる。そして、真田昌幸には諜報の要となる本部を任せ、西国や周囲の情報を徹底して集めさせる。

この優秀な側近三人を中心とし、不穏な動きを見せる丹波や丹後方面を厳重に警戒しつつ、畿内の安定を任せることとしたのだ。

「冬の雪が降るまでには、なんとかすべてを終わらせて戻れるといいのだがな」

氏真は西の空を見上げながら、これから始まる関東での巨大な政治的駆け引きに向けて、静かに闘志を燃やしていた。