作品タイトル不明
五郎丸
1563年冬
冬が到来し、駿府に初雪の知らせが届くころ、今川館に驚くべき客人が訪れた。 越前の太守、朝倉義景である。名門朝倉家の当主が自ら今川の門を叩き、従属を申し出たのだ。
この電撃的な申し出の背景には、近江で起きた観音寺騒動があった。 六角家で起きた主従の決裂と、それによる名門の崩壊。それを隣国で目の当たりにした義景は、戦慄したという。
「…次は自分だ、と思ったわけか」
義景は氏真に対し、極めて特殊な条件を提示した。まず、領土の統治権はすべて今川が直轄して構わない。家臣団の処遇も今川の法に委ねる。その代わり、自分は変わらず愛着ある一乗谷に住まわせてほしい。そして、今川の強大な財力と知見を貸し、一乗谷を、日ノ本一の文化都市に育て上げてほしい、というものであった。
「左衛門督殿。そなたは、武力で領土を守る苦労よりも、文化の香る安寧を選んだのだな」
氏真の問いに、義景はどこか吹っ切れたような表情で頷いた。
「家臣たちからは、前々から今川に従属すべきだとの進言を受けておりました。近江の惨状を見て、確信したのです。私が守るべきは古い権威ではなく、朝倉が築き上げたこの雅なる文化であると」
氏真はこの申し出を快諾した。 侵攻に関心のない当主が無理に軍事を司れば、家臣との不和を生み、六角のような悲劇を招く。ならば、義景にはその雅という才能を最大限に発揮してもらうのが、今川にとっても最良の選択だ。
「よし。左衛門督殿、そなたには新たに文化振興顧問という役職を授ける。当面は春までこの駿府に留まり、我が街の文化人たちと交流を深めるといい。そこでの学びを、いずれ一乗谷の街作りに生かしてほしい」
氏真の頭の中では、すでに新たな経済戦略が組み上がっていた。越前という広大な穀倉地帯と、敦賀・三国といった日本海側の重要港を得た意義は計り知れない。さらに、越前には和紙、打刃物、越前焼といった、文化的名産品が枚挙にいとまがないほど存在している。
(これらを今川の販路に乗せ、義景という名門の看板を使って大々的にプロモーションする…。これは儲かるぞ)
氏真が描くのは、駿府・一乗谷・京を結ぶ文化の黄金三角形である。一乗谷を駿府に次ぐ雅な街として再定義し、そこから生まれる工芸品を一乗谷印のブランドとして京で流行らせ、他国に高値で売る。義景が行う歌会や茶会は、もはや単なる浪費ではない。今川の商品を日ノ本中に知らしめるための一大広告塔の役割を果たすのだ。
「最先端の流行が生まれる場所を一乗谷に作る。名工が行き交い、公家が立ち寄る宿場を整える。これなら左衛門督殿も満足だろうし、領民も商いも潤う」
氏真の言葉に、同行していた側近の光秀も、その発想の飛躍に呆れつつも感嘆を禁じ得なかった。
しかし、越前の統治には課題も残る。これまでの軍事優先の支配から脱却し、楽市楽座や兵農分離を強力に推し進める、合理的な領管が必要となる。
「越前の領管には、武力よりも経済学に強く、私の意図を正確に形にできる人間を据えねばならぬな。…春までには人選を終えよう」
越前の豊かな実りと、北陸の美しき文化。それらが今川の理と融合したとき、日ノ本の経済地図は再び大きく書き換えられることになる。 京を手に入れる準備は、着々と、そしてかつてないほど優雅な形で進んでいた。
凍てつくような冬の寒さが駿府を包み込む中、今川館には張り詰めた緊張感と、それを上回る熱気が渦巻いていた。
産屋から響く産声を聞いたとき、氏真は思わず庭の雪を踏みしめ、深く息を吐いた。無事に産まれた。母子ともに、健やかである。産まれたのは二人目の男子。名を「五郎丸」と定めた。
出産を終え、疲れを見せながらも慈しむような目で赤子を見つめる早川殿の傍らに腰を下ろす。彼女は氏真の姿を認めると、誇らしげに、しかし真摯な声で語りかけた。
「殿…おめでとうございます。こうして今川の血を繋ぐことは、きっと日ノ本の安定と安寧に繋がるはずです。北条の娘として、今川の妻として、これほど嬉しいことはございません」
その言葉には、名門の娘としての覚悟と責任感が滲んでいた。だが、氏真は彼女の手をそっと握り、首を振った。
「御前、そんなに堅苦しく考える必要はない。今川の血がどうこうというよりも、私はそなたと、産まれてきた子が健やかであれば、それで十分なんだ。ありがとう。よく頑張ってくれた。…今はただ、家族が増えたことを、一人の父として一緒に喜ぼう」
氏真の言葉に、早川殿はふっと肩の力を抜き、「はい」と穏やかに微笑んだ。現代的な家族観かもしれないが、この安らぎこそが、氏真が戦ってまで作り出したい天下の最小単位なのだ。
この吉報は瞬く間に駿府の町、そして今川の領国中に広まった。 今川家の興隆と、盤石な次代の誕生。民衆はこれを吉兆として受け入れ、寒空の下、各地でお祭り騒ぎが始まったという。
二頭の龍と呼ばれ始めた氏真と父・義元。そしてその下ですくすくと育つ龍王丸と五郎丸。 冬の駿府に灯った新しい命の灯火は、今川という巨大な船が、さらに遠く、揺るぎない未来へと進むための確かな道標となった。