軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八話

彼女――ラナンクラ公後添い候補のロビニアという女性は、ヴォルフから晩餐の客人が増えたことを聞かされると、「そう」と一言。微笑んで頷いたそうだ。

手馴れているわけではないから早めに作りはじめたいと厨房にこもり、そして夕方近くなった頃にヴォルフを厨房に呼んだ。

ヴォルフに味見をしてほしいと申し出た彼女が、小皿に入ったスープを差し出した。

私がラナンクラ公爵邸の厨房に駆け込んだのは、ちょうどそんな瞬間だった。

「ヴォルフ!」

できうる限りの大声で名を呼ぶと、ヴォルフは呆気に取られたような顔でこちらを見た。

「リコリス……どうした? 何があった?」

すぐにこちらに駆け寄ってきたヴォルフに、私は「お医者様」と一言

「具合が悪くて、お医者様を呼んでほしいの。お願い」

ここまで全力疾走したために呼吸が怪しい私の様子に、ヴォルフは慌てたようだ。

「ロビニア、この子がリコリスです。少しの間彼女をよろしくお願いします」

それだけ言って、せわしない足音を立てて厨房を出て行った。

そうして私は、スープ鍋の前に立ち尽くしたままの女性と対峙した。

ロビニアは、手足のひどく華奢な色白の女性だった。想像よりも随分若く、三十代後半と聞いていたが信じがたいくらいだ。

彼女のまとう雰囲気は、どこかはかなげで無垢に見えた。

「はじめまして、リコリス・ラジアータと申します」

私の声は性急で、強ばっている。もとより、彼女と世間話をするつもりはない。確認したいのは一つだけだった。もしすべてが私の勘違いで一人芝居なら、私は喜んで彼女にできうる限りの償いをするだろう。

「不躾ですけれど、そのスープ味見はされましたか?」

「…………」

「まだでしたら、ぜひ先に自分で味見をされたほうがいいです」

言いながら私は新しい皿を、棚に並んだ 銀食器(・・・) を彼女の方に差し出した。

「私も、たまに料理をするのですけど、信じられない失敗をすることがあるんです。塩と砂糖を間違って入れてしまったり。だから……」

「どうして知っているの?」

私の言葉とは会話の形を成さない、ごく平坦な調子の彼女の言葉。それに私の頭は真っ白に塗りつぶされた。

「どうして分かってしまったのかしら。不思議だわ」

目の前の女性は、確かに殺人鬼だったらしい。

自作のスープに毒を入れ、それを手づから食べさせる。そんな、保身など考えていればあり得ないやり方で毒殺を謀ったはかなげな殺人鬼は、逃げる素振りなどまったく見せなかった。

彼女は自分の作り上げた毒入りスープを見つめ、途方に暮れた子供のような顔をした。

そして。

「……ひどいわ。せっかくのスープが無駄になってしまった」

本当に深い悲しみの底にいるような声で、そう呟いた。

「……わたくしだって、はじめは良き母になろうと思ったのよ。でも、あなたはいつも不機嫌そうな顔をして、わたくしのことをお母様とは呼ばなかった」

『あなた』と言って戸口を見た彼女の目線を追って、そこにヴォルフがいたことに背筋から血の気が引いていく思いがした。

「それにわたくしはやっぱり、公爵様と新しい生活を始めるのに、他の人がこの家にいるのは嫌なの。真っ白な状態から、公爵様と素敵な家族を築いていきたいのよ。後妻の子供は、前妻の子供にいじめられるかもしれないとも言うわ。私に可愛らしい赤ちゃんができて、あなたがその子をいじめるようになったらどうすればいいの? だいたい……」

彼女は、恨みがましい眼差しをじっとヴォルフに向けている。

子供が不平をこぼす時のようにあけすけで無邪気、だからこそ背筋が凍るように恐ろしかった。

「だから、邪魔者を殺してやろうとこんなものまで手に入れたのよ。便利かもしれないけれど、毒薬を手元に置くなんて本当に、とても恐ろしかったわ」

彼女が、コツリと小瓶を取り出してテーブルに置いた。やはり自分のしたことを隠すつもりはないようだ。

ロビニアは狂人だった。少なくとも私にはそうとしか思えない。

私は、とにかくヴォルフをこの恐ろしい女性から引き離さなければならないと思った。

私に薬湯を持ってきてくれたらしい家令を皮切りに、人が厨房に集まってくる。

戸惑う人たちに向けて、「わたくしは咎められないわ」と彼女が言う。「だってわたくしは、ただ深く公爵様をお慕い申し上げているだけですもの」

私は震える足を交互に動かしてヴォルフに近づく。

ヴォルフの着る黒い服を引っ張ってみたが、彼はロビニアを食い入るように見つめたまま呆然としている。それならせめてと、私は両手でヴォルフの耳をふさいだ。

そうするとやっと彼の青紫の瞳がこちらを向いて。そこに顔を歪めて泣く子供の顔が写った。私の顔だ。

ヴォルフが無事だったことが嬉しくて、ロビニアのことが恐ろしくも 憤(いきどお) ろしくて。

いろんな感情がせめぎあったこの時。胸の重苦しさに耐え切れずに、私は十歳の子どもとしてごくごく当たり前の行動しか出来なかったのだ。

私は、ひたすら声を上げて泣き続けた。

本当に泣きたかったのはどう考えてもヴォルフの方だと、気がついたのは夜が更けてからだった。

全てのことは晩餐前に帰宅したラナンクラ公と父に任せて、私たちは明かりをつけたままのヴォルフの部屋で寄り添うように座り込んでいた。お互い手元には本を開いていたが、ページをめくる音は先ほどから一度も聞こえてこない。

今日だけは、大人たちに一人で眠れと言われても、明かりを消せと言われてもとても従えないだろう。

ぱたんと本を閉じて、私はヴォルフに向き直った。

「泣きなさいよ」と私が言うと、「大丈夫だ」と彼は返した。

大丈夫なはずがないと私は思ったので、目を冷やすためにあてていた濡れ布巾を彼の顔に押し付けようとした。

しかしヴォルフはさっとそれを私の手から取り上げ、まだはれの引かない私の目元に押し戻してしまう。

「君がこれだけ泣いたんだ。もう十分だろう」

筋の通らないことを言う彼の声は、私を甘やかすように優しい。

私の涙腺はまたも決壊して、濡れ布巾を更に濡らした。

ラナンクラ公が手紙に書いていたことを思い出す。

ヴォルフが大人びたと。確かに公の言うとおりかもしれない。彼は大人になろうとしているのだろうか。辛い出来事を乗り越えて。驚くほどのスピードで。

「……こんなことがあったら、ヴォルフはきっと女嫌いになるわね」

突然の私の言葉を、彼は冗談だと思ったらしい。

面白そうに笑って、それからどうしてかすっと立ち上がって、私を見下ろしてきた。

「まったく君はそんな考えだから、夜中に男の部屋でそんな無防備に座り込んで泣いているわけだ。少しくらい危機を感じてもらわなくては、男としての沽券に関わるな」

そう言われ、ぐいと腕を引いて立たされたかと思うと、ヴォルフに身体を持ち上げられた。

これは世に言う、お姫様抱っこの体勢である。

ポカンと口を開けた間抜けな顔をしてしまったのは、驚いていたからだ。ヴォルフの力にも驚いたが、なによりも……。

「もしかしてヴォルフ、本当に私より背が高くなった?」

「……信じていなかったのか」

「そういうわけじゃ……。でも、たった三ヶ月よ」

「大人になりたいとあがいているんだ。私の身体も、心も」

そう照れくさそうに笑った彼の顔は私には十分大人びて、力強く見えた。

今度ははっきりと分かった。

彼は大人になろうとしている。

それも多分。

私の知っているゲームの中とは違う、新しい『ヴォルフガング・アイゼンフート』を形作ろうとしているのだ。