軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十九話

ほとんど丸一日眠り続けた私が父とともに学園に戻ったのは、ちょうど太陽が沈んでいく頃合いのことだった。

出迎えてくれたのはシェイドだ。なんでもないような顔をつくろっていたけれど、目元に表れた疲労は濃かった。学園のことも大変だっただろうし、私自身とても心配をかけたのだろう。

シェイドは私の顔を見て、詰めていた息を吐くように笑った。

「少しはマシな顔色になりましたね」

「ごめんねシェイド。あなたに負担をかけて」

「……そんな殊勝なことを言って、これから弟を放ったらかして婚約者のところに行くんでしょうに」

シェイドは苦笑して、しかし道すがら父と私にヴォルフのことを話してくれた。

ヴォルフは今、食事も取らずに自室に篭りきりだという。

私同様ヴォルフにも自宅療養の話は出たが、本人が固辞したそうだ。

ヴォルフには、お父上のラナンクラ公の前で自分の弱さが露見するのを極端に嫌がる傾向がある。私はヴォルフと公の親子関係が悪いものだとはけして思っていないけれど、そんな肩肘張らなくとも、と思うことはある。男親と息子の関係というものは、やはり私とお父様の関係とは違うのだろうけれど。

折にふれて、もう少しお父上に甘えてみたほうが公も喜ばれるのではと言ってもみる。ヴォルフは苦笑して、そうかもしれないが難しいなと言う。

ヴォルフの短所というと私はあまり思いつかないのだけれど、強いていうなら彼は人に甘えるのが苦手だ。

ヴォルフの部屋の扉を見つめて、思った。彼はこの部屋の中でいまもたった一人、誰に頼ることもなく悪夢と戦っているのだ。

「じゃあ、少し話をしてきます」

私は厨房で受け取った水と流動食の載ったお盆を左手に、ことさら軽く父と弟に告げてから取っ手に手をかけた。

ヴォルフの部屋は、静まり返っていた。

後ろ手に扉を閉めた音がとても大きく、重く響く。

そして、暗かった。

太陽が沈んだからというより、重苦しいカーテンがひかれたままで外からの光を完全に遮っているからだ。

暗闇の中ただひとつ浮かび上がる小さな魔法灯のあかり。

昼に陽光の下に置くことを怠っているのだろう。もうほとんど消えかけの光が、寝台をわずかに照らしていた。

ヴォルフは、寝台の上にいた。布団は全て床に落ちてしまっているが、気にかける様子はない。ひどく皺になったシーツの上、ヴォルフは静かに横たわったままだ。両手で目元を覆っているせいで、表情はわからない。

「……ヴォルフ?」

私が声をかけると、少し腕が揺れた。眠ってはいないようだった。

「あの。勝手に部屋に入ってごめんなさい。話したいことがあって……」

しばらくの沈黙。

咎められないのを良い事に、私は少しずつ寝台に近づいていった。

近くまで来ると、ヴォルフが苦しげに息をついている事がわかった。私は少し闇に慣れた目で見つけた腰の高さほどのチェストにお盆をのせる。

「ヴォルフ、お水と食事を持ってきたの。まずは水を……」

緩慢に伸びてきた腕に手首をとられて、私は言葉を途切れさせた。

「リコリス……帰ってきてくれたのか?」

声はひどくかすれていて痛々しかった。それでも、声が聞けたことが嬉しい。

「ええ。ついさっき戻ったところなの」

答えて、ヴォルフの目を覗きこむ。しかしその青紫の瞳はどこかぼんやりとしていて、焦点が合っているのか疑わしい。

「……ヴォルフ?」

いぶかる私の前で、ヴォルフの表情が歪んだ。

皮肉げに釣り上げられた口元も、険のある眼差しも、ヴォルフとは思えないような表情だ。強い青紫の眼光に、私は射すくめられてしまった。

「それで? 君は、今度は一体誰を愛していると私に告げに来たんだ?」

言われて身体を引いてしまったのは、ただ驚いたから。それだけだ。

けれどヴォルフは、まるで逃さないと言うように痛いほどの力で私の手首を引く。私は引きずられるように寝台の上に倒されてしまった。

私を寝台の上に縫い止めたヴォルフは、また表情を歪めた。今度は苦しげに眉をひそめ、絞りだすような声で私に懇願した。

「……言わないでくれ。頼むからもう、私を狂人にしないでくれ」

胸が苦しくなるような声と、言葉だった。

「君に捨てられるのも、嫉妬に狂って誰かを殺すのも。……そのせいで君に恨まれて、泣かれるのも、父に見捨てられるのも、もう嫌なんだ。君を、失いたくない……。頼む……」

「それは夢よ、ヴォルフ」

掴まれていない方の手で彼の頬に触れたら、ヴォルフはハッとしたように一瞬目を開いた。

「……そうかもしれない。でも、ただの夢ではないんだ」

「どういうこと?」

ヴォルフは必ずしも、夢に囚われながら話をしているというわけではないようだった。

おそらくは夢と現実の間を行き来して、境が分からなくなっている。少なくとも今は、現実寄りの意識で話をしていると感じる。その証に、青紫の瞳と視線がかみ合っていた。

「すべてを壊し尽くして……それは間違いなく悪夢のはずなのに、夢の中で私は安堵している。もう変わりようがない君の心に」

「夢が願望の現れ、なんて説はこの場合は当てはまらないわ。ただ、恐れを具現化した悪夢を見せられているというだけなのよ」

「悪夢を見るという、それだけならまだいい」

ヴォルフの言葉は、私には思いがけなかった。

「本当に恐ろしいのは、この悪夢が私に見せつけるのは、現実の君を傷つけるかもしれない自分の弱さなんだ」

「…………え?」

「目が覚めてからも、私は考えている。君はこれから社交界に出る。そうしたら君だって、誤解しようもないほどはっきりと気がつくはずだ。君が魅力的な女性だということ。私以外の男を愛する選択肢に。そうして君はきっと目が覚める。私から離れていってしまう。それくらいなら」

ヴォルフの手が、今度はそっと私の首に伸びた。

青紫の瞳が私を捉える。真摯な顔は、私の見慣れたヴォルフの顔だ。彼が今、正気なのだと分かる。

「……いっそ君を、殺してしまいたい」

驚く私の前で、まるで自分の言葉に驚いたかのように、青紫の瞳からポロッと涙がこぼれた。

その言葉を聞いて、涙を見て、私の胸の中に温かい気持ちが溢れたと言ったらおかしいだろうか?

私はこの時、もう言い逃れのしようがないくらいにヴォルフのことを愛しいと思ったのだ。彼の強さも、弱さも、苦悩も、人の愛し方も。

だから私は、その気持ちがありったけ伝わるようにヴォルフに笑いかけた。

「大丈夫よ。こわがることなんてない。ヴォルフが私を傷つけるはずないじゃない」

首に添えられただけの大きな手をとって、そこに頬をすりよせる。

「ヴォルフはきっと、私のことがすごくすごーく好きなのよ。……私も、私もあなたが好きよ。とても、とても好き。大好き。だからヴォルフはもう少し、私に甘えてみたらいいんじゃないかしら」

呆然とした様子のヴォルフは、しばらくしても何も言ってくれなかった。

私の顔はどんどんどんどん赤くなっていって、自分の自意識過剰かもしれない台詞が頭のなかでリフレインする。

もう何でもいいから何か言ってよ!と私が爆発する前に、ヴォルフが私の耳元で、熱い吐息とともに囁いた。

「君が好きだ。……もう離せないから、覚悟してくれ」

ヴォルフはそのまま私の頭を抱え込むように抱きしめた。

聞こえる鼓動につられるように私の心臓もドクドクと音を立て、血の巡りが良くなったからというわけでもないだろうに、私は今更ながら二人で寝台の上という状況をしっかりと頭で認識した。

おそらく訓練場で剣を振るった格好のままなのだろうヴォルフは、彼にしては珍しくラフな格好だ。腕まくりをしてボタンを二つも外したシャツ越しに、彼の体温が感じられる。それだけではなくて、衣擦れの音とか、熱い吐息とか。

今の今まで『ヴォルフの手』という記号として受け止めていたものが、急に体温を備えた実体なのだと思い知らされた。背中を這う大きな手の、剣を扱う彼らしく硬い皮膚が、私の肌をざわりと粟立たせる。

一度身体を離したヴォルフに安堵したのもつかの間、あろうことか彼が私の首元にキスをするように顔を埋めてきたので、動転した私は大きな声を出してしまった。

「ちょっと! ヴォルフ!?」

バタン! と扉の開く音がして父が、続いて父と全く同じ凍りついた表情の弟が飛び込んできた。

ヴォルフはというと、そのまま意識を失うように眠ってしまったのだった。