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悪役令嬢からの離脱前24時間 【電子書籍化】

作者: 三香

本文

「エリーゼ、君との婚約を破棄したい」

今日花開いた薔薇が初めての日の光を浴びて、馨しく息づく。

重い金銀のように大きな花輪が重くたわんでいる大輪の薔薇や。

ビロードのような質感の花弁の薔薇や。

多種多様な花色の薔薇が、みずみずしい葉先までピンと伸ばして爛漫と咲き誇る王宮の庭園のガゼボで。

約束の時間に1時間遅れてきた婚約者である第三王子クリストフの第一声は、この言葉だった。

1時間前、私は何の前ぶれもなくいきなり前世を思い出した。

ガシャン。

手に持っていたティーカップが落ちる。

ガゼボの瀟洒な椅子に座っていた身体がよろけてグラリと崩れかけた私を背後にいた護衛のライゼクトスが慌てて支えてくれた。しなやかな身のこなしが野生の獣のように素早い。

「ありがとう。このところ王子妃教育のスケジュールが厳しくて、少し疲れが出たみたい」

とっさの言い訳に、ライゼクトスの透き通った空のような水色の目が心配の色を宿して曇る。

ライゼクトス、いつも優しい私の護衛。

背が高く、護衛らしく引き絞られた弓弦のように力に充ちた体格だが、立ち振舞は礼儀正しく、端正な顔立ちとひとつに結んだ銀の髪が柔らかな雰囲気を醸し出していた。

今世の私の頭の中で、前世の私の記憶が映画のように流れる。

まるで映画館で、ひとりの人間の映像記録を観ているようだ。今世の私の人格に影響はない。だって私は私だもの。ただ、前世の記録が情報として私に追加されたみたいな儚い夜の露めいた感覚があった。

その蘇った記憶の中には、ライゼクトスの姿もあった。

アニメにもなった人気の小説で、私は序盤で死ぬ悲劇の悪役令嬢として、ライゼクトスは私を誘拐する護衛として登場していた。

呼吸が喉の奥で止まり、頬が引き攣る。

私は新しく手配されたお茶の温かさを指先で味わって、それから口に含み乱れた呼吸を整えた。芳しいお茶の香りが鼻腔を通り抜けていく。

明日、私はライゼクトスに拐われる。

でも、ライゼクトスは悪くない。

私を救おうとしてくれただけだ。

私の名前はエリーゼで、父親が国王と同腹の王弟で。

婚約者は第三王子のクリストフで。

そして、王国一番の騎士である銀髪のライゼクトスがいるのならば、ここは小説の「青薔薇の花園」の世界で間違いがない。

王国名や他の大勢の存在している登場人物たちも一致しているし、だから「青薔薇の花園」の悪役令嬢エリーゼは確実な根拠に基づき私のこととなるわ。

悪役令嬢エリーゼ。

難産だった母親は産褥から回復できずに死亡した。故に【母親殺し】と小説の私は父親や兄から憎まれて成長するのだ。

前世の情報を取得した今ならばわかる、昨日までの私は愚かだった。自分さえ我慢していれば、そう思っていた。

父親や兄から無視されても。

婚約者のクリストフに浮気されても。

父親やクリストフが自身を正当化するために私に汚名を被せて悪役として、まるで劇のように悪役令嬢と悪意たっぷりの噂を社交界でバラ撒いても、弱音を吐かず文句も言わず我を立てずに我慢をしていれば、と。いつか報われる、いつか愛される、と呪いのように自分に言い聞かせていたのだ。

管理され、制御され、従順であるように教育されて反抗を許さぬように洗脳するみたいに育てられたけれども、本当に愚かだった。

愚かである、と前世の知識が教えてくれた。

私を大切にしてくれない父親や兄や婚約者を大切にするなんて。

私を大切にしてくれない人を大切にしなくていいのだと。

そんな簡単なことをわかっていなかった。

でも、復讐なんてしない。

しなくても「青薔薇の花園」では、クリストフも父親も……うふふ、小説の始まり部分で役目を終了する私と違って、私が死んでからがクリストフと父親の始まりですもの。

ただ、私も死ぬ気はないわ。

小説の役目からは降りるだけ。もともと私もライゼクトスも序盤で消える役柄だから、おそらく王族のエリーゼとその護衛のライゼクトスという存在そのものを消滅させてしまえば大丈夫だと思うの。

そのためには――――。

1時間後。

婚約破棄を宣言したクリストフに、

「はい。クリストフ様の仰せのままに」

と私は頭を垂れた。

クリストフの侍従が用意されていた書類を差し出す。

すでに国王の印が押された婚約破棄の書類にはクリストフの署名があり、その下に私が名前を躊躇いもなく記入していく。いつものごとくクリストフに逆らわない私に、

「婚約破棄の理由さえ聞かないのか。犬のように従うばかりで面白味のない従妹なんて自慢もできない。釣り合いだけで決定した、つまらない婚約だった」

とクリストフが蔑みの眼差しで言った。

理由?

ヒロインとの真実の愛でしょう?

そして国王は、私を利用するためにクリストフの真実の愛を許可して、婚約破棄を認めた。

私には順位は低いけれども王位継承権がある。が、王国法では私の子どもには血統的に王位継承権はない。つまり私は政略に使うには凄く便利な王族なのだ。

隣国とは休戦状態であるとはいえ、数年前まで戦争をしていた。そのほぼ敵対国家である隣国と休戦継続のための政略結婚の話が浮上しているのだ。

国王としては危険度100パーセントの隣国に、自分の娘である王女たちを嫁がせたくない。そこで使い勝手抜群な私の出番である。

父親にも兄にも誰にも愛されていない私が隣国で死のうが生きようが痛くも痒くもない。

万が一私が子どもを産んでも王国の継承権はないから見殺しにできるし、子どもが王位を主張しても権利がないと一蹴してお終い。

とっても都合がいいのである。

クリストフは私が署名した書類を見て満足げに口角を上げた。

「これで愛のない婚約者から自由だ」

うふふ、昨日までの私のように愚かな人ね。

自由になったのは貴方ではないわ、私が自由になれたのよ。それを貴方は知らないし気付きもしないけど、鳥籠の扉を開けてくれたことにはお礼を言うわ。ありがとう。

私の様子なんて見ていないクリストフは、垂れた頭の下で私がうっすら嗤っていたことに気がつかなかった。

そうだわ。水をもらって生き返った花のような自由をくれたお礼をしようかしら、毒を一滴さしあげるわ。

浮気をしても何の根拠もなく自分に都合良く解釈する浅い思慮力の思考回路のクリストフに、

「クリストフ様、婚約を破棄された立場上、私はもうお仕事の補助ができません。期限のある書類が……」

と言うと、傲慢なクリストフは私を見下してフンと鼻を鳴らした。

「ノロマなおまえに出来た仕事だ。俺が本気になれば完成など容易い」

と言い捨てて踵をかえした。

私はクリストフの気性を理解している。クリストフが見たくないもの、聞きたくないもの、否定するであろうものを知っていた。

知っているからこそ、口にしたことはなかったが。

私に忠告されたことが癪に障ったのだろう。不快感から反発して、クリストフの性格からして今日は仕事を放棄して遊びに出ると予測できた。側近はクリストフにイエスしか言えない無能揃いだ。忠言などしない。クリストフの仕事を支えていたのは私ひとりだったのに。

今日提出予定の重要書類ですよ? 仕事の不備で、明日になれば完璧主義の王太子殿下から特大の雷が落ちてしまいますよ? 叱咤の屈辱から、自分は悪くないと反省しない浅慮なクリストフはさらに反抗的な言動を強めて、負の循環を招いて転落していくだろうなんて火を見るより明らか。

どうせクリストフはヒロインの足場とされて堕ちていく王子にすぎないのだし。

「青薔薇の花園」のヒロインは強欲だ。

復讐のためならば手段は選ばない。

冤罪で処刑された両親のため、まず美貌を使ってクリストフに取り入り、次に第二王子と第一王子である王太子を虜にするのだ。最後は王子たちを争わせて王家の威信を地の底にまで失墜させるのである。

頑張ってね、ヒロイン。

私はフェードアウトするけれども陰ながら野望を応援しているわ。

あと23時間。

小説では、私は23時間後、ライゼクトスに誘拐されて死亡する。

誰にも愛されなかった私はライゼクトスに愛を告白されて、限りなく誘拐に近い駆け落ちをするの。 でも、追手に追われて馬ごと崖から落ちてしまって――――ライゼクトスに抱きしめられて小説の私は幸せそうに微笑んでいた。生まれて初めての愛に包まれて、小説の私は死の瞬間まで幸福であったのだ。

ある意味、小説の私にとってはハッピーエンドだったけど現実の私にとってはハッピーエンドではない。ライゼクトスが死んでしまうなんて。

ガラガラと音を立てる馬車の窓から、馬に騎乗して警護するライゼクトスを窺う。表情が厳しい。婚約破棄されて傷心(小説では)の私を気遣っているのだ。そして屋敷に戻って父親から隣国へ嫁ぐように命令される私をとうとう拐ってしまうのである。

だってライゼクトスは16年間も私のことを想ってきたのだ。

最初は後ろめたさに基づく心配や良心だったのだろう。いつからか、その心は深い愛へと人知れず変わっていった。

ライゼクトスは元神官見習いだった。

神殿の夜番をした13歳の夜が、ライゼクトスの運命を変えてしまった。その夜は、翌日の葬儀のために私の母親の柩が安置されていた。不幸なことに鼠が出たのだ。追い払おうとして振り回したライゼクトスの手は柩の蓋を動かしてしまい、ライゼクトスは母親の遺体を見てしまうのである。

あわてて蓋を直したものの、ライゼクトスは沈黙を選んだ。聞いていた死亡理由と遺体の状態が一致しなかったからだ。

王弟相手に、商家出身の13歳の神官見習いが何を言えるのだろう。下手をするとライゼクトスの家族まで巻き添えとなるのに。

しかし翌年ライゼクトスは流行り病で家族を喪い、どん底で【母親殺し】と冷遇される私の噂を耳にするのである。

そしてライゼクトスは私を生きる理由とした。

私のために全てを捨てたのだ。

神官見習いを辞めて、甘えや妥協がいっさい許されない厳格な剣の流派に入門して武を極めたのである。

免許皆伝となればどのような貴族家にも仕官ができる。そうしてライゼクトスは私の護衛となったのだった。

「ライゼクトス、王家の御用商人の所へ寄りたいの」

ライゼクトスが御者に進路の変更を告げる。

高貴な者は屋敷に商人を呼びつけるだけだが、私は気晴らしに時々商人の店に訪れていた。父親は私を愛さなかったが王族相応の教育を与え、生活もお金もたっぷりと保障してくれた。

「これはこれはエリーゼ様」

顔馴染みの初老の商人が恭しく私を応接室に案内する。貴族用の応接室は品よく豪華だ。

「今日はお願いがあって来たの。私、眠り玉が欲しいのです」

商人の眉が動く。

眠り玉は高価な、禁制品ギリギリの商品なのだ。

「実は最近ちょっと不穏な気配があって……。私、お父様には、その、好かれてないでしょう。頼みづらくて……」

王族の娘であるのに私の護衛はライゼクトスひとり。ライゼクトスの存在は、私が冷遇されている証拠を物語っていた。

「護身用に持っていたいのです。売ってもらえないかしら……?」

察するように商人は私の背後に立つライゼクトスをチラリと見て、重く頷いた。

「さようでこざいますね。エリーゼ様には眠り玉が必要かも知れません。これ、おまえたち、蔵の奥から眠り玉を取って来なさい」

商人が使用人たちに命令する。

眠り玉は5センチほどの黒い玉で、保護膜で覆われている。投げつけるなどの衝撃を与えると保護膜が破れて、眠り玉が破裂するのだ。

効果は即効性で。

ぶつけられた相手は粉となった強力な眠り薬を吸い込んで瞬時に眠ってしまい、数時間は何をしても目覚めることはない。

10個の眠り玉と幾つかの商品を購入し、ライゼクトスが提示された金額を支払う。私の予算はライゼクトスが管理していた。ライゼクトスは、私の優秀な護衛兼執事なのである。

残り20時間。

屋敷に帰ると、小説通り父親の執務室に呼ばれた。

ライゼクトスを伴って執務室に入ると、父親と兄と父親の腹心の老いた執事の姿があった。

父親の眉間に皺が寄る。

ライゼクトスが邪魔なのだろうが、ライゼクトスは私から離れない。逆に、ライゼクトスから放たれる強烈な威圧に父親は体を竦ませ顔を強張らせた。

父親は頬を引き攣らせていたが、自分の優越性を誇示しようと高圧的な態度で横柄に口を開く。

「次の婚約が決まった、隣国の王子だ。婚姻の日程は決定次第伝える。以上だ、下がりなさい」

私は笑いそうになった。

小説と一字一句異ならない。

すでにライゼクトスには執務室で父親の話すであろう内容、私が起こす行動を伝えてある。ライゼクトスは私の計画を受け入れてくれた。

服従しか知らない小説の私は父親にあらがう言葉も言えずに、絶望に打ちひしがれるのだが。

しかし、私は違う。

「お断りします」

今まで一度たりとも私から発せられたことのない拒絶の言葉に父親の顔色が変わった。

「なんと言う恩知らずな娘だ! わたしから愛しい妻を奪っておきながら! おまえが! おまえ自身が! 母親を殺したくせに! 【母親殺し】を育ててやったのだぞ! わたしに逆らうことは許さん!!」

父親が私を罵る。いつものように父親を畏れ敬い、反論せずにひれ伏せ、とうるさい風の音のように怒鳴る。

「【母親殺し】?」

私の声は氷のように冷たい。両足に力を込め背筋を伸ばし、腹の底から叛旗の声を上げた。

「いいえ! いいえ! お母様を殺したのは私ではないわ!」

「あなたよ! あなたがお母様を殺したのよ!」

私は告発の指先を父親に突きつけた。糾弾の言葉が織られる。

「私を妊娠中にあなたが浮気をして! それをお母様に責められて! 階段の上で争って、激昂したあなたの手が腕がお母様に当たって、お母様は階段から落下した! でも醜聞を恐れたあなたは事実を公表せずに、難産だった故に身体が回復をせず死亡、と自分の罪を生まれたばかりの私に擦り付けたのよ!!」

「う、嘘だっ!」

父親の舌がもつれる。息が浅い。冷や汗が額を濡らした。

「【母親殺し】?」

私は真冬のごとき冷気を帯びた瞳で父親を睨んだ。

「もの言えぬ赤子に罪も咎も押し付けて、その上で私をどう扱いましたか? 冷遇して、私自身が全て悪い、私が元凶であると洗脳するように養育しましたよね? 教えて下さい、罪を娘に被せてのうのうと暮らす生活は快適でしたか?」

父親が蒼白になる。

父親の協力者である家令は俯いていた。

兄は、私が【母親殺し】であると信じていた世界のひび割れに目を見開いている。

「証拠は……?」

束の間口ごもり、私を詰るように父親が低く呟く。

「王家の墓にあります。お母様は頭部に大きな裂傷を負われて亡くなられました。白骨化していらっしゃいますけど、頭蓋骨の陥没が証拠となります。お母様のご遺体をすり替えずに王家の墓におさめたのは失敗でしたね」

冷静な私に、父親の肩が耐えきれずにガクリと落ちる。

背中が曲がり、うなだれて一気に十歳も老いたような萎びた姿になった。

本当の父親は弱い人なのだ。弱いから吠えて虚勢を張り、私と関わらず愛さなかった。

私は髪から簪タイプの髪飾りをはずして、先端を指に突き刺した。

プツリ、赤い血の玉が花のように指先で咲く。

父親の執務机に置かれた魔導具の金庫にその血を垂らした。

魔導具の金庫は二重ロックになっていて、血縁であること、暗証番号を入力すること、この二つが揃って解錠される仕組みになっていた。

「どうして知っているのだ……? 遺体のことも、金庫の番号も」

前世の小説の知識だと父親に答える義務もない私は、金庫から20センチほどの魔法袋を取り出した。この魔法袋には屋敷の全財産である数千枚の金貨がギッシリと詰まっているのだ。

「【母親殺し】の汚名を被る報酬に頂戴します」

今さら冤罪であったと訴えても過去は変えられない。それに醜聞を嫌うのは王家の方である。母親の死因が明らかになる前に、国王によって別の冤罪で処分される可能性が高い。ある意味【母親殺し】は私を守る盾でもあるのだ。

「それからお手持ちの男爵位を私に下さい。後見証明書も。後見証明書をいただいてもあなたの派閥には入りませんが、それがあると役所の手続きが最優先になるのです」

私は決意を全身に沁み込ませて静かな熱を湛えて言った。

「それを頂戴できれば私は【母親殺し】のまま生涯沈黙を守ります」

ガクガクと膝を震わせて父親は椅子に座った。

ノロノロと手が動き、自己保身のためにペンを取る。

家令と兄は彫像のように固まり動かない。

「おまえは【母親殺し】だ」

「はい。私は【母親殺し】です」

契約は完了した。

覇気のない父親の目。蓋をしたように表情のない顔。おのれの決断が誤りであったと認めることのできない父親が、心を閉ざした始まりは母親が死んだ時だったのかも……。

私は父親の差し出した書類を受け取って扉に向かう。

「さようなら」

私の言葉とともにライゼクトスが隠しポケットから眠り玉を手に取り、閃光が走るように素早く父親と兄と家令に投げつけた。ライゼクトスの投擲技術は一流である。百発百中、見事に父親と兄と家令が声もなくドサリと沈む。

残り19時間。

「彼らが目覚める前に!」

私とライゼクトスは王宮の役所へと馬を走らせた。

ガッ! ガッ! ガッ!

蹄が響く。馬脚が長く筋肉質で体格の立派な馬は二人の人間を乗せても風のように速い。ライゼクトスのマントに包まれて、私は叫ぶ。

「ライゼクトス! 私と結婚して!」

「エリーゼ様!?」

「私はライゼクトスを愛している! ライゼクトスは?」

主と護衛。

私とライゼクトスには越えることのできない透明な壁があった。

しかし私にはもう婚約者がいない。

家も出た。

適切な距離という慎みは必要がなくなった。

ライゼクトスから愛されている、と思う。命をかけるほど。小説ではそうだった。

現実では、ライゼクトスは護衛として完璧で恋慕の情を欠片もあらわしたことはなかった。

ライゼクトスに無理強いはしたくないが、「青薔薇の花園」の舞台からの離脱に結婚が不可欠なのだ。

星の数ほどある結婚の理由が、好き・嫌いだけではないと知っているが、子どもじみた考えでも私はライゼクトスと恋がしたい。

前世も今世も恋愛スキルゼロの私は幼稚に思えても、ライゼクトスから「好き」と言う言葉と気持ちが欲しかった。

「愛しているの! ライゼクトスは?」

ライゼクトスが瞬きをして、身体を小刻みにふるわせる。葛藤は短かった。

ゴクリ、と喉を鳴らしてライゼクトスが厳かに言葉を紡いだ。

待つ、1秒、2秒。心臓が痛い。時間が永遠に感じる。

「わたしも愛しております、エリーゼ様。護衛の身でありながらずっとエリーゼ様をお慕い申しておりました」

こみあげてくる歓喜が抑えきれない。

私は馬上でライゼクトスに抱きついたのだった。

駆け込んだ王宮の役所で、王弟の後見証明書は金看板となった。

緊急度の高い書類として、あっという間に男爵位の継承と婚姻届けが受理された。

身バレを防ぐために商人から買ったベールを頭からかぶっていたのだが、疑われることなくスラスラと手続きが進む。権力の行使って素晴らしい。

「ご結婚おめでとうございます。レオリス女男爵エリーゼ様、ご夫君ライゼクトス様。こちらが王宮発行の身分証明書となります」

「ありがとう」

私は新しい身分証明書を見て、涙が滲みそうになった。

これで王弟の娘のエリーゼも、その護衛のライゼクトスも王国から消えた。何処にも名前がない。

客観的な事実として存在しているのは。

エリーゼ・レオリス女男爵とその夫のライゼクトス・レオリス。

くわえて王位継承権を所有する王弟の娘としての価値も消えた。婚姻歴のある娘では隣国の王族にふさわしくない。

だから。

これで大丈夫。

たぶん大丈夫。

「青薔薇の花園」から解放されたと思うけど、明日の11時、小説で私とライゼクトスが死んだ時間までは油断はできない。

それでも追手が心配だった。

王都の上級クラスの宿屋で、エリーゼ・レオリス女男爵夫妻の名前で宿泊をする。従者がいなくても貴族の逢瀬にも使われる宿屋なので、怪しまれることはなかった。

宿賃は先払いにして一階を希望した。夕食は不要と伝え、望み通りの部屋に入ると商人からお忍び用にと買った富裕層の平民の服に着替えて、窓からコッソリ抜け出す。

上手くいけば追手の目をダミーとしてこの宿屋が引きつけてくれるかも。

そして宿屋とは別の馬屋で預けてあった馬を受け取り、私とライゼクトスは王都から出発する商団の後方にいる平民の群衆にまぎれた。平民用の王都門は入る時は厳しいが出る時は混雑緩和のために簡易チェックだけなので、人の群れの波に揺られて王都門を堂々と通り抜けたのだった。

残り17時間。

ふぅ、と息を吐くと身体から緊張が解けるようであった。

私は王都門を振り返った。

蜘蛛の巣が広がるように王都門から人々が出てくる。皆、夜の気配に旅路や家路の足を急がしている。

夕陽を浴びた私とライゼクトスを乗せた馬の影が王都門の方向へと長く伸びる。暮れなずむ、昼の陽射しの温もりをほのかに宿した風が私の髪に絡み、影の髪をも揺らした。

「青薔薇の花園」では、父親も兄もあの屋敷ごと王子たちの争乱に巻き込まれて炎上する。剪りたて花のように鮮やかな炎が、赤く、紅く、夜空を染めて朝まで燃え続けるのだ。

けれども。

屋敷を維持する金貨のない今、おそらく資金を工面するために父親も兄も領地へと戻ることだろう。

主が留守ならば屋敷も権力闘争の巻き添えになる確率が低い。

王家はズタボロになるが、貴族派が勢力を拡大して上層部が入れ替わるだけで国自体にほとんど影響はない。

「さようなら、お父様」

「さようなら、お兄様」

父親と、兄と、呼ぶことを禁じられていた。その名を初めて呼ぶ。

幼い私が、小説の私が、父親と兄がどうか生き残れますようにと祈っている。

小説では、母親の死因の隠蔽は国王の命令だった。

保身のために父親が了承したのか、真実はわからない。

ただ父親は弱かった、弱くて、私を守る力がなかったのだ……。

「ライゼクトス。私、貴方が13歳の夜に見たものを知っているわ」

弱いが故に心を閉じた父親と違って、ライゼクトスは弱いが故に強くなる道を選んだ。私のために。父親は私を無視することしかできなかった、でも、ライゼクトスは強くなって私を愛してくれた。

「申し訳ありません。黙っていた処罰はいかようにも」

「何をいうの!? 罰なんてないわ、謝罪なんてしないで! 私はずっと側にいてくれて私を愛してくれたライゼクトスに感謝しているのよ。謝罪は私の方よ、貴方を縛りつけてしまったわ。貴方は聡明な神官見習いだったのに。将来が有望だったのに。その腕の傷も。その背中の傷も。何年も何年も武術の鍛錬をして、私のもとに来てくれた……ありがとう。貴方が私の心を救ってくれたのよ」

ライゼクトスだけが真摯に私に心をくれた。冷たい屋敷で、寂しくて震えていた私の心をすくい上げてくれたのだ。

「私を愛してくれてありがとう。ライゼクトスと結婚できて、私はとても幸せよ」

ライゼクトスと離れたくない。

ライゼクトスを離したくない。

元婚約者のクリストフとは恋や愛は関係がなかった。

婚約当初は期待した、愛し愛されることを。そのための努力もしたが、クリストフを一人で支える仕事をするという重い荷物を肩にかけられただけだった。クリストフにとって私は最初から最後までつまらない従妹でしかなかったのだ。

ライゼクトスの表情が蜜のように蕩ける。

「エリーゼ様。わたしもエリーゼ様を愛しています。心から、永遠に愛しています」

ウェディングドレスもない。

神殿での誓いもない。

けれども一番欲しかった愛の心と愛の言葉は惜しみなくある。

私はライゼクトスの妻であり、ライゼクトスは私の夫となったのだ。

夕顔の花弁がほぐれるように、夕焼けの雲が少しずつ形を変えていく。

昼間の青空が、茜色や群青色や青紫色に花が開くように侵食されて移りゆく。太陽の残照を浴びて、雲がほんのり内部から光り色づく。

夕闇の色に追われるように、馬が走る。

私とライゼクトスを乗せて。

「夜駆けは危険です。日が傾ききる前にどこかの宿屋に入りましょう」

小さな町に到着した頃には、商家が軒先に明かりを灯す時刻になっていた。

その中の一軒の看板を見てライゼクトスが、

「宿屋です。店構えも悪くない。ここに泊まりましょうか?」

と私にたずねる。

私が頷くと、宿屋の脇にある馬屋に馬を連れていく。若者がいて、ライゼクトスは手数料を渡して馬を預けた。

宿屋の扉を開けると、明かりと料理の匂いが私とライゼクトスをつつんだ。

一階は食堂になっていて、宿泊客や食事客が複数いて賑やかだった。奥の壁側に据えつけられた暖炉には炎の舌が燃えていて、大鍋が掛かっている。厨房から女性があらわれて笑顔を浮かべた。

「宿泊のお客さんですか?」

今世では前世のように宿泊者名簿についての法の定めはない。偽名は犯罪にならない。

私とライゼクトスは虚偽の名前を使い、夫婦として宿屋に泊まった。

「湯をもらってきます」

残り13時間。

ライゼクトスを待つ間、少しだけベッドに横になる。疲れた。まるで天と地が逆転するみたいに色々とありすぎた。

空腹感はあったが、なれない馬による疲労感の方が大きい。

けれども、屋敷の羽毛の寝具ではなく安っぽいゴワゴワの毛布の感触に安堵する。王都から逃げ出せた、と。糸が抜けるように全身が脱力する。気怠く手足の関節が軋んだ。

今日の逃亡の成功を思い、夢を見ているような意識はあるのだが肉体は限界で、とことこと階段を降りるように眠りに落ちてしまった。

結婚した夜なのだから初夜なのに、私はスースーとうっかり健やかに眠ってしまったのである。

だから、私は知らなかった。

戻ってきたライゼクトスが私の手や足を丁寧に清めてくれたことも。

額におやすみの口づけをしてくれたことも。

追手を警戒して夜中起きていたライゼクトスが、優しい眼差しで幸福そうに私を見つめていたことも。

翌日の朝に、国王の私室で私の父親が国王に跪いていたことも、何も知る由もなかった。

「エリーゼが護衛と駆け落ちした、と!?」

国王の声が不快感と怒りで掠れる。

「昨日の夕方に出奔したというのに何故報告が今朝なのだ!」

「申し訳ありません。眠り玉で眠らされてしまいまして……。目覚めた後も倦怠感で立つことができませんでした」

眠り玉は威力があるだけに一時的な後遺症が出ることが多い。ただエリーゼの父親は後遺症の出なかった稀なケースであったが、さも後遺症に苦しんでいるフリをして時間をかけて朝になってから王宮へとあがったのである。

「とりあえず目覚めた時に使者は出したのですが真夜中でしたので、兄上の耳には届かなかったようです」

エリーゼの父親は、昨日の執務室での出来事を細部まで漏らさず詳細に報告をする。

猜疑心の強い国王は有力な貴族家に密偵を侵入させている。身内とて例外はない。後日、細かな点の相違があれば責任を追及されて非難を受け厳しく尋問されることとなるのだ。嘘は言えなかった。

「ぬぅ、母親の死因も承知しておったのか。新しい身分を手に入れて最強の護衛と駆け落ち。クリストフの仕事を肩代わりしておったし、おとなしいと思っておれば爪を隠し持つ娘だったか」

いまいましげに国王が吐き捨てる。

「夜を越えてしまったからにはエリーゼはもう純潔ではあるまい。隣国との婚姻は無理だが、エリーゼには便利な使い道がそれなりにある―――誰ぞ、近衛隊長を呼べ。エリーゼを捜索せよ、必ず見つけ出せ」

同時刻。

目を覚ました私は悲鳴をあげそうになった。

「おはようございます、エリーゼ様」

目元をうっすら染めたライゼクトスが嬉しそうに微笑してきて。いつもは高く結んでいる銀の髪がそのまま流れて、月の淡い光のようにキラキラしていて。上半身がシャツをゆるく羽織っただけで、鍛えられた戦いのための肉体が、目、の、前、に、あって。

お着替え中のライゼクトスの致死量の艶に私は両手で顔を覆ったのだった。(指の隙間からちょこっと見たけど。つ、妻の権利だもん)

残り4時間。

エリーゼ捜索のために投入された追跡隊の兵士たちは王都を探し回っていた。

深窓の姫君であるエリーゼが、夜が迫る夕闇に王都の外に出るとは考えられなかった。東西南北にある出入記録が完備された貴族専用の王都門にもエリーゼ・レオリスの名前はなかった。

とうとう兵士たちが、エリーゼ・レオリスの名前を発見して、エリーゼがダミーの釣り餌とした空っぽの宿屋の部屋に突入したのが、その日の11時のことであった。

「11時だわ……!」

街道を駆ける馬の背で、私は魔導具の時計を睨んでいた。

「時間がどうかしましたか?」

「ううん、たいしたことないの。そろそろお昼かな、て。お腹がすいたから」

「では早めの昼食にしましょうか? ちょうど川がありますし。屋台で買っておいたパンがあります」

追手の姿はない。

ライゼクトスは生きている。私も。

「青薔薇の花園」から本当に解放されたのだ。

ライゼクトスの胸に頭をあずけて、私はライゼクトスの心臓の音を聴く。トクントクンと鼓動が繰り返す。私の胸も波打つ。意識を集中させると、ふたつの心臓が同じリズムを刻んでいるようだった。

「実はこの先に大きな街があるのです。竜乗り場がありまして、その街で出国手続きをして国境を飛んで越えようと思うのです。わたしには貯めた給金と両親の店を売ったお金がありますので、高額の竜も問題ありません」

「え? お金ならば私も持っているわ。それに馬はどうするの?」

「いえ、支払いはわたしが。それと、街に馬バカの友人がいるのです。以前からわたしの馬を絶賛しておりまして。彼ならば大事にしてくれます」

川が視界に映る。

ゆるやかな水面は太陽の日差しを破片にして、ガラスの欠片のように煌やいていた。

水鳥の鳴き声と。

水流のせせらぎ音と。

水辺に咲く花々の香りが風に運ばれ、とても美しい。

遠くに、街が見える。

竜の咆哮が空気を裂いて轟いた。

「ライゼクトス、竜よ! 竜だわ!」

はしゃぐ私にライゼクトスは愛しげに目を細め微笑んだのだった。

その後、ようやくエリーゼの捜索隊が、エリーゼ・レオリスの出国記録を見つけたのは10日も経ってからであった。