作品タイトル不明
35. 初めまして皆様
「それは一体……いや、わかった」
「よろしいのですか?」
「ああ、深くは聞かない。ただ、怪我などはしないように」
のらりくらりと逃げる準備ができていたのに、あっさり認めてもらえて拍子抜けだ。フローラは少し驚いた。この男、会ったばかりの妻に甘すぎる。または信用しすぎている。
「紅茶のおかわりは?」
「では……」
メイドを呼び寄せず、可愛らしいポンポンのついた編み物のティーコゼーに包まれたポットからおかわりを注いでくれる。そんなに自然に紅茶を注げるのに、バレていないつもりとは。もしかしたら、このティーコゼーまでもアーサーの手作りなのかもしれない。いや、絶対そうだ。フローラは確信した。
「閣下、ドリスです」
「貴女の専属メイドを紹介する。……入ってくれ」
「失礼します」
メイド服の袖が、筋肉によってはち切れそうになっていた。長身のその人は、黒い髪を一本の三つ編みにし、紫色の瞳は鋭く、鼻の上には一線の傷があった。メイド服を着ながらも敬礼しているところ……所作から考えるに元軍人なのだろう。
「初めまして。これからよろしくお願いしますね」
フローラは少し驚きながらも、いつものようににこやかに挨拶をした。
九十度で頭を下げていたドリスがバッと顔を上げ、ものすごい速度で近づいてくる。そして膝を突き、
「我が君……」
と噛み締めるようにつぶやいた。フローラは何が起こったのか理解できなかった。まだ何もしていない。いつものように、ちょっと誑かそうと微笑んだだけだ。それがどうして、こんなに慕われているのか。
「ええと、私はフローラと言うの。貴女はドリスと呼べばいいかしら?」
「何とでも、お好きに呼びください」
フローラが困ったようにアーサーの方を見れば、アーサーも驚いていた。そのことから推測するに、おそらくドリスはアーサーと同じタイプ。つまり、怖い顔して可愛い物好きなため、簡単に落ちてしまった。あれだろうか、日々が血生臭いと、可愛いものに癒しを求めるのだろうか。とはいえ本来の主君の前で、新妻を我が君呼びとは、一体。
「ゴホン。ドリス、そろそろ部屋の用意ができただろう。彼女を部屋に案内してくれ」
「かしこまりました。我が君、お荷物をお持ちしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、ありがとう」
ドリスに連れられ、クマの剥製や鹿の頭、敵将が盾に付けていたらしき紋章などを見ながら階段を登る。一段一段が大きく、フロスト家の人々の高身長を実感していると、ドリスが姫抱きで階段を駆け上がってくれた。
「こちらのお部屋となります」
部屋の中は……随分とファンシーだった。でっかいクマのぬいぐるみに、レースのテーブルクロス。大きなベッドには、パッチワークのカバーが掛けられた布団。それに妙に生活感もあり……。
「っ間違えました。こちらは閣下の部屋でした」
ドリスは真顔でドアを閉めた。両開きの重いドアを、一瞬で。これはおそらく、メイドとしてはポンコツなのかもしれない。
「……アーサー様には内緒にしておくわね」
フローラはお茶目な風に口元で人差し指を立てつつも、自分の予想が当たっていたことを知った。アーサーは顔に似合わず、裁縫が上手い。というかそれが趣味だ。
「こちらとなります」
とても一般的な部屋だった。民族模様のカーペットに、天蓋付きベッド。暖炉は大きく、前にはロッキングチェアが置かれている。見たことはないが、客室と変わらないのであろう。
「荷物はそこに置いておいて。ええ、ありがとう」
「この後はどうされますか? 夕食までは時間がございますが」
「……うーん、そうねぇ」
フローラは考えるフリをする。当初の予定ならゆっくりするところだったが、支配すると決めた今、やることは一つだろう。
「屋敷を見てまわりながら、使用人の方々に挨拶をしようかしら」
何はともあれ人心掌握。さっさと女主人となり、民からの信頼を勝ち取らなければならない。軍部や辺境貴族はその後だ。
上から愛されるのではなく、下を心酔させる。例え上の人間の気分が変わっても、すぐには切れない。その間に今度は恐怖で縛りつける。これがフローラのやり方だった。
「初めまして」
「……」
そしてここはフロスト辺境領。閉鎖的な空間において、人は余所者に対する壁が厚い。
やはり、一筋縄ではいかない。