軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

お別れ会の準備

翌朝、潮風庵の食堂には海からの風が流れ込んでいた。

窓辺の席。リーナは布袋の紐を、無意識に指でなぞっている。アードベルを出る時に使った、あの旅支度の袋だ。

明後日には、これに荷物を詰めて戻ることになる。

指先が、紐の結び目で止まる。ほどいて、また結ぶ。その繰り返し。

「……なあ」

ジュードが椅子に腰を下ろす音が、やけに大きく響いた。彼は窓の外、遠くの水平線に視線を投げたまま、それ以上何も言わない。言葉を探しているのか、それとも飲み込んでいるのか。

リーナが何か返そうとした――その時、扉が勢いよく開いた。

「リーナ!」

アズールだ。息が上がっている。どうやら走ってきたらしい。

「明日の夜、何かやりましょうよ。お別れ会! せっかくだし、みんなで美味しいもの持ち寄ってさ」

頬が紅潮しているのは、走ってきたせいだけではないだろう。言葉の勢いとは裏腹に、アズールの視線は忙しなく宙を彷徨っている。リーナと、目が合わない。

その提案に、ロドリックが静かにカップを置いた。

「良い考えだ。この町の恵みを皆で味わうことで、旅の記憶がより深く心に刻まれるだろう」

「食材買いに行かなくちゃね!」

アデラインが身を乗り出す。その弾んだ声に、リーナはようやく小さく笑った。

***

朝市は、足の踏み場もないほどの賑わいだった。魚の生臭さと潮の匂い、それに揚げ油の香りが混ざり合って、港町特有の熱気を作っている。人々の声が重なり合い、値段を叫ぶ声や笑い声が、まるで波のように押し寄せてくる。

「おう、そこの恩人の嬢ちゃん! オオカヅラのなまり節、見ていきなよ!」

ダミ声に呼び止められた。煤で少し顔を汚した魚屋の店主が、琥珀色の塊を包丁で叩いている。炙った香りが鼻をくすぐった。

「店主さん、いい色になってますね」

リーナの言葉に、店主の顔がぱっと明るくなる。

「おうよ! あんたに教わった通りにしたら、これがバカ売れでな。魚嫌いのうちの孫まで『もっと食いたい』って言いやがる」

ぶっきらぼうに差し出された欠片を口に含む。燻製の香ばしさが鼻に抜け、思わず口元が緩んだ。店主は照れくさそうに頭をかいている。

その様子を見ていた隣の露店の、ふくよかな女性が声をかけてきた。

「あんた、リーナちゃんかい? うちの亭主がね、あんたの作った料理の話ばっかりでさ」

「そうそう、俺もあの『タタキ』ってやつ、食べたかったなあ」

通りすがりの男が、名残惜しそうに笑う。リーナの周りに、少しずつ人が集まってくる。

「明後日には帰っちゃうんだって?」

「寂しくなるねえ」

「また来てくれよな」

一人、また一人。温かい言葉が、降り注ぐ。それは単なる称賛ではなく、リーナがこの町で積み重ねた証だった。

さらに奥へ進むと、濃密な甘い香りが漂ってきた。小さな露店に、大小様々な瓶が並んでいる。光を吸い込み、とろりと重く揺れる琥珀色の液体。

「蜂蜜……?」

「おや、目ざといね。今日採れたばかりの野花の蜜だよ」

老店主が瓶の蓋を開ける。その瞬間、花畑の空気をそのまま吸い込んだような香りが広がった。店主に促されて、指先に少しつけて舐めてみる。喉の奥まで染み渡るような濃厚さと、華やかな甘み。

「甘いもの好きの団長が食べたら、泣いて喜んじゃうじゃない?」

アデラインの軽口に、リーナの中で何かがカチリと噛み合った。卵、砂糖、小麦粉。そしてこの濃厚な蜂蜜。

「……カステラ」

小さく呟いた声に、アズールが振り返る。

「かすてら?」

「昔、おばあ……じゃなくて、食べたことあるんです! 黄色くて、ふわふわで……」

記憶の中の味を言葉にするだけで、口の中に唾液が広がる。祖母の笑顔。焼き立ての甘い香り。

「ふわふわ? 雲みたいなお菓子ってこと……?」

アデラインが興味深そうに身を乗り出した。

「リーナ、作りましょう。明日のお別れ会に、みんなで。……最高の思い出になるわよ」

***

買い物の帰り道、リーナはふと足を止めた。浜辺で漁師たちが、網に絡まった海藻を忌々しそうに引き剥がしている。赤茶けた、細い海藻だ。

「またこれかよ。網が重くなってかなわねえ」

「ほんと厄介だよなあ」

足元に山と積まれたそれを、リーナは拾い上げた。ぬるりとした感触。指で揉み込み、太陽にかざす。

「……これ、テングサ、かもしれない」

「おいおい嬢ちゃん、よせ!」

漁師が血相を変えて駆け寄ってくる。

「そんなゴミ触るんじゃねえ! かぶれちまうぞ!」

荒れた手が、リーナの手首を掴もうと伸びてくる。

その手が触れる寸前――リーナの視界を、誰かの背中が遮った。

「――彼女に触るな」

低い声と共に、ジュードが二人の間に割って入る。彼が壁のように立ちはだかると、漁師はたたらを踏んで足を止めた。

「い、いや、俺たちゃ嬢ちゃんが心配で……」

「分かっている」

ジュードは短く答え、振り返ってリーナを見た。その瞳に、疑いの色は微塵もない。

「リーナ。それは何?」

リーナが目を凝らすと、文字が浮かび上がった。

『テングサ』

『品質:中級』

『分類:海草類(紅藻)』

『特性:煮ると溶け出し、冷やすと固まる』

『用途:お菓子や料理を固めるのに適している』

「え、えっとね、『テングサ』っていう海藻でね。寒い時期に加工すれば、素晴らしい食材になるのよ。ただ……手間はかかっちゃうけど」

リーナがまっすぐに見つめ返すと、ジュードは「そうか」とだけ言って、漁師たちに向き直った。

「だ、そうだ。これはゴミじゃないってさ」

「はあ!? 兄ちゃん、騙されてんじゃねえのか? こいつは『網殺し』だぞ。食えば腹を壊すし、畑に撒けば作物が腐る」

「そのまま食べたり、そのまま撒けば……だろ?」

ジュードは腕組みをして、漁師たちの困惑を鼻で笑い飛ばした。

「リーナが『食材』って言ったんだ。なら、これは美味いものに変わるんだよ。今まで彼女の料理が外れたことはない。これからも……な」

堂々たる断言だった。その言葉に、漁師たちが口ごもる。

リーナは、ジュードの背中を見つめていた。広い肩幅。ここにきて少し日に焼けた首筋。

(ああ、もう! この人は、どうしてこんなに……涙出そう)

言葉にならない何かが、胸の奥で静かに膨らんでいく。

「そりゃあ……タタキも、なまり節も美味かったが……」

「で、でもよぉ……」

「じゃあ、こうしよう」

ジュードが腰の革袋に手をかける。

「冬場、このテングサとやらを加工してくれ。うまくいったら、俺が買い取る。騎士団の名で、な」

漁師たちの目が見開かれた。

「騎士団が……買い取る?」

「ああ。リーナの言う通りになるなら、それだけの価値があるってことだ」

ジュードは肩を竦めた。

「どうせ冬場は暇なんだろ? 酒代くらいにはなるぞ」

その言葉に、漁師たちの顔がほころんだ。

「……ま、騎士団が買ってくれるってんなら、やってやるか」

「嬢ちゃんの置き土産ってことでな」

一人がニヤリと笑い、テングサを拾い上げた。

「あ、ありがとうございます!」

小さな発見が、またひとつ、この町との縁を繋いでくれたような気がする。

そして――ジュードという、かけがえのない人が隣にいてくれることも。

***

潮風庵に戻ると、さっそくリーナは厨房に顔を出した。

「シモンさん、あの……明日のお別れ会で、蜂蜜使ったお菓子を振る舞いたくて。厨房、お借りしてもいいでしょうか?」

「ああ、もちろん!」

シモンは快く頷いたあと、興味津々な顔になる。

「どんなお菓子なんです?」

「カステラっていいます。卵と小麦粉、砂糖、それから蜂蜜を使って焼く、ふわふわのお菓子です」

「へえ……聞いたこともない名前だ。良かったら手伝わせてもらっても?」

「もちろん! ありがとうございます!」

そうしてリーナたちは、早速準備に取りかかった。

厨房には、卵を割る音と、泡立て器のリズムが心地よく響いていた。

「まず、卵に砂糖を加えて、湯煎しながら泡立てます」

リーナが説明すると、アデラインが手をぐるぐる回し始める。

「任せて! こういうのは得意よ」

だが、数分もすると、アデラインの額に汗が滲み始めた。

「ちょ、ちょっと……これ、いつまでやるのよ……もう! ジュード、交代よ!」

「え? 俺? わ、分かった!」

「頑張って!ジュード! もったりと重くなるまで!」

ジュードの腕に血管が浮き上がる。ボウルと泡立て器が擦れる音が、激しくリズムを刻んだ。

黄色かった卵液は、空気を含んで白く、重いクリーム状へと変貌していく。

「はぁ、はぁ。すごい……色が変わった……ぞ」

厨房の入り口に、いつの間にかデルマーとコスタが顔を出していた。

「甘い匂いがする~」

コスタが鼻を鳴らす。

リーナは蜂蜜をそっと瓶からすくい、生地に加えた。とろりと黄金色が沈んでいく様は、見ているだけで恍惚となるような美しさだった。

「まるで魔法ね……抗いがたい魅了の魔法よ。これがカステラ?」

「これが……かすてら?」

アズールがうっとりと呟く横でコスタが首を傾げている。

「次に、小麦粉をふるいながら加えて……泡を潰さないよう、底から持ち上げるように混ぜてください」

シモンが慎重に混ぜる。動きは静かで丁寧だ。泡がしゅわ、と音を立てて潰れてしまわぬように。

「できたら型に流し入れて、こうして軽く落とします」

リーナがトン、と型を落とすと、中の空気が抜けて生地が整う。

「こうすると、しぼみにくくなる……勉強になります」

「あとは窯で、じっくりと焼きますね」

窯に入れた後は、じっと待つだけだ。

厨房に、焼けた砂糖と卵の、甘く香ばしい香りが充満し始める。

「……お父さん、匂いだけでお腹減ってきちゃった」

コスタがお腹をさする。シモンは笑いながらコスタの頭を撫でた。

焼き上がるまでの間に、明日の献立の相談が始まった。

「やっぱり、オオカヅラのタタキは外せないわよね」

「なまり節も、魚の塩焼きも並べたいな」

「何かスープでも作れたら……」

話は次から次へと広がって、気づけば皆が前のめりになっていた。

その時、ディエゴが顔を出した。

「おお、随分と賑やかじゃないか」

「明後日にリーナ達が帰っちゃうからさ、お別れ会でも開こうって話よ」

アズールが答えると、ディエゴが小さく息を吐いた。それから、顎をさすりながら考え込む。

「……お別れ会か。この食堂じゃ狭いだろ? 町の集会場を借りられないか、町長に聞いてみようか」

「でも、そんなに大げさにしなくても……」

「何言ってるんだ。リーナたちのおかげで、この町がどれだけ変わったと思ってるんだ」

ディエゴの声には、静かな感謝が滲んでいた。

「みんなで感謝を込めて送り出したいんだよ」

横でアズールが、照れ隠しのように「大賛成!」とバンとテーブルを叩く。

「それいいわね! きっとみんな喜ぶわよ」

喉の奥が、ぐっと詰まる。言葉が出なくて、リーナは深く頭を下げた。

***

やがて、香ばしさが濃くなった頃――リーナがそっと窯を開ける。

「……焼けました」

取り出した瞬間、ふっくらと膨らんだ黄金色のカステラが現れた。

「わぁぁ……!」

「これが……カステラ?」

「ふわっふわ……!」

デルマーが思わず指先を伸ばしかけ、コスタに引き留められて笑い合う。みんな息を詰めたままカステラを見つめている。

湯気と共に立ち上る甘い香りが、厨房中を包み込んだ。誰もが作業を止め、その黄金色の塊に釘付けになっている。厨房に、ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音だけが響いた。

「明日が楽しみです」

リーナがそう言うと、みんなが深く頷いた。

明日、これを切り分けてみんなで食べる。その光景を想像するだけで、お腹の底から温かい力が湧いてくる。少しの寂しさと、それ以上の充足感と共に。