軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

新しい扉

朝一番に街の中心部から聞こえてきた鐘の音は、特別な響きを持っていた。

「完成したのね」

アンナが窓辺で呟く。噴水広場の方角から、人々の興奮した声が風に乗って聞こえてくる。共用魔法冷蔵施設の完成を告げる鐘だった。

「見に行きましょうか」

リーナが提案すると、マルクが頷いた。

「そうじゃな。儂らが出発する前に、この目で見ておきたいものじゃ」

三人は店を出て、噴水広場へ向かった。

噴水広場の近くには、見慣れない立派な石造りの建物が建っていた。

「これが……」

リーナは息を呑んだ。想像していたよりもずっと大きく、美しい建物だった。入り口には「アードベル共用冷蔵施設」と刻まれた看板が掲げられている。すでに多くの街の人々が集まっていて、興奮気味に話し合っている。

「リーナちゃん!」

ベラが手を振りながら駆け寄ってきた。

「すごいものができたのね。これでうちの野菜も、もっと長持ちするわ」

ベラが感嘆の声を上げると、周囲の人々も興味津々といった様子で建物を眺めている。建物の中を覗くと、ひんやりとした空気がふわりと流れ出してくる。床には魔法陣が刻まれ、淡い青白い光を発している。壁際には小部屋のような区画がずらりと並び、それぞれ鍵穴付きの木の扉が取り付けられていた。

人々の話し声が飛び交う。上下の隙間から冷気が循環し、扉があっても中の温度が均一になる仕組みだ。一つの区画が月銀貨五枚からで、今は商業利用のみ。一般家庭にもいつか使わせてほしいという声や、しっかりした作りで安心だという感想が次々と聞こえてくる。

街の人々の明るい声が飛び交う中、リーナは一歩下がって施設全体を見渡した。自分の魔石冷蔵庫購入がきっかけとなって、こんな素晴らしい施設ができたのだ。美食の街アードベル構想がまた進んだ。

「立派なものができたな」

バルトロメオ団長が現れて、満足そうに施設を見回した。これで街の食文化がさらに発展する、リーナのおかげだと言ってくれる。

「いえ、そんな」

「冷たいお菓子の需要も増えそうですね」

団長の目がキラリと光る。相変わらずの甘党ぶりに、リーナは思わず笑みを浮かべた。

午後、店に戻ると、マルク夫婦の荷物整理が大詰めを迎えていた。

「もうほとんど片付いたわね」

アンナが二階を見回しながら言う。三十年間住み慣れた部屋が、すっかり空っぽになっている。

「寂しくなります」

リーナが呟くと、マルクが優しく微笑んだ。寂しいのは確かだが、それ以上に楽しみなのだと。孫の顔を毎日見られるのだから。

「それに」

アンナが続ける。

「リーナちゃんがいてくれるから、この店は安心して任せられる」

今夜が、三人で過ごす最後の夜だった。

夕方、リーナは特別な夕食を作ることにした。炊き込みご飯、お味噌汁、フェングリフの唐揚げ、そして色とりどりのピクルス。どれも、この数か月で街の人々に愛されるようになった料理たちだった。

「今日は豪華じゃのう」

マルクが厨房を覗き込む。

「最後の夜ですから。皆さんに喜んでもらいたくて」

炊き込みご飯には、フェングリフ肉、ツチタケ、ニンジンをたっぷりと入れた。ツチタケとウミクサの出汁で炊き上げたご飯は、一粒一粒にうま味が染み込んでいる。お味噌汁は、今が旬の夏野菜をたっぷりと。フェングリフの唐揚げは、いつものように外はカリッと、中はジューシーに仕上げた。ピクルスは、パプリカ、キュウリ、ニンジンを色鮮やかに漬け込んだもの。酸味とほのかな甘みが口の中に広がって、揚げ物の後でもすっと箸が進む。一口ごとに、次の料理が待ち遠しくなるような、そんな味だった。

「いい香りじゃのう」

「お腹が空いてきたわ」

マルク夫婦が嬉しそうに話している。

いつもの夜営業の時間になると、常連客たちが次々と店にやってきた。

「今日は特別な日だからな」

トムが大きな声で言う。マルクさんたちを見送らなければと。ソフィアも目を潤ませている。その表情には寂しさと、それでもリーナがいるという安心感が混じり合っていた。常連客たちが集まって、狭い店内は満席になった。

「皆さん、ありがとうございます」

リーナが炊き込みご飯を大きなお櫃に盛って運んでくると、店内に歓声が上がった。豪華だ、いい匂いだ、リーナちゃんの料理の総決算みたいだと、口々に声が上がる。 皆で料理を囲みながら、思い出話に花が咲いた。焼き鳥を初めて食べた時の驚き、マヨネーズの衝撃、おにぎりという発想への感嘆。一つ一つの料理が、それぞれの心に異なる思い出を刻んでいた。

「マルクさん、アンナさんも嬉しかったでしょう?」

皆の視線がマルク夫婦に向かった。

「ああ、本当に……」

マルクが少し言葉に詰まる。

「リーナちゃんが来てくれて、儂らの人生が変わったんじゃよ」

「息子が独立してから、正直寂しかったの」

アンナが静かに話し始める。毎日お客さんは来てくれるし、仕事もあるけれど、家族の時間がなくなってしまって。

「そんな時に、リーナちゃんが来てくれた」

マルクが続ける。最初は、単にお客さんが一人増えただけだと思っていた。でも、だんだん分かってきたのだと。

「娘ができたみたいで、嬉しかったの」

アンナの声が震える。毎日、一緒に料理を作って、一緒に食事をして、一緒に笑って。こんなに楽しい時間を過ごせるなんて思わなかったと。

「リーナちゃんは、おっちょこちょいなところもあるけれど」

マルクが笑う。お金を机の上に置きっぱなしにしたり、料理に夢中になりすぎて周りが見えなくなったり。

「でも、そんなところも含めて、全部愛おしいのよ」

アンナが目を伏せる。

「本当に、ありがとう。リーナちゃんのおかげで、こんなに幸せな時間を過ごせました」

店内が静寂に包まれた。誰もが息を呑んでいる。

「リーナちゃん、大丈夫じゃよ」

マルクが前を向く。

「リーナちゃんには、この街に素晴らしい人たちがついている。皆さんが見守ってくれるから、安心して旅立てるんじゃ」

「そうよ」

ソフィアが立ち上がる。

「リーナちゃんは、もう私たちの家族よ。何かあったら、いつでも助けるから」

「そうだそうだ」

「何か困ったことがあったら、遠慮しないで頼ってくれ」

「みんなで支えるから、心配いらないよ」

「こんなに温かい人たちに囲まれて、私は幸せです」

リーナは声を詰まらせながら言う。

「マルクさん、アンナさんと出会えて、皆さんと出会えて、本当に良かった」

常連客たちが帰った後、三人だけの静かな時間が訪れた。二階のリビングで、ハーブティーを飲みながら語り合う。

「明日は早いから、もう休まないといけないんだけど」

アンナが時計を見る。でもなんだか寂しくて眠れそうにないと。マルクも同じだと笑った。リーナちゃんと過ごした時間が、走馬灯のように思い出されると。

「初めて会った時のこと、覚えてる?」

「はい。クラリス王国から出てた馬車ですよね」

あの時は、まさかこんなことになるとは思わなかった。魔物の肉を焼いて、びっくりしたこと。それから毎日、新しい料理を作ってくれたこと。一つ一つの思い出が、宝物のように輝いている。

「リーナちゃん」

アンナが真剣な表情になる。

「私たちからのお願いがあるの」

「はい」

「無理をしないで。一人で頑張りすぎないで」

「困った時は、素直に人に頼るんじゃよ。この街には、君を支えてくれる人がたくさんいるんじゃから」

「分かりました」

「それから。たまには、私たちに会いに来てねと。港町はそんなに遠くないから」

「もちろんです。必ず遊びに行きます」

「孫にも会わせてあげたいの。リーナお姉ちゃんって呼ばせるから」

三人は深夜まで語り合った。

***

翌朝、空がほんのり明るくなった頃、マルク夫婦の荷物を馬車に積み込む作業が始まった。

「荷物はこれで全部ですか?」

御者が声をかける。荷物はそれほど多くない。長年住み慣れた家を離れるにしては、あまりにも少ない荷物だった。

「思い出は、心の中に持っていくから」

アンナが説明する。

「物なんて、そんなに必要ないのよ」

出発の時間が近づいてきた。街の人々が次々と集まってくる。トム、ハンス、ソフィア、ベラ、マリア。料理教室の生徒たちも来てくれた。そして、ジュードが騎士団のメンバーたちと一緒に現れた。

「見送りに来ました」

ジュードが言う。

「マルクさん、アンナさんには、本当にお世話になりました」

「ありがとうございます」

マルクが深く頭を下げる。

「リーナちゃんのこと、よろしくお願いします」

「さあ、そろそろ出発しましょうか」

御者が声をかけた。マルク夫婦が馬車に乗り込む。

「皆さん、本当にありがとうございました」

アンナが窓から顔を出す。三十年間、支えてくださってと。彼女の声は震えていたが、その目はしっかりと未来を見据えているようだった。

それを合図にしたかのように、周囲から次々と声が上がる。元気でね、お身体に気をつけて、孫の顔を見せにまた戻ってきてくださいよと、口々に声をかける人々。

「リーナちゃん」

アンナがリーナを見つめる。

「あなたに出会えて、本当に良かった。ありがとう」

「私の方こそ、ありがとうございました」

リーナは涙をこらえながら答える。

「お元気で」

馬車がゆっくりと動き始めた。お元気で、また会いましょう、さようならと、皆が手を振る。マルク夫婦も窓から手を振り返す。リーナも一生懸命手を振った。笑顔を保とうと努力する。馬車は大通りを進み、やがて街の出口へ向かう。どんどん小さくなっていく。それでも、リーナは手を振り続けた。

馬車が街の出口の角を曲がり、ついに見えなくなった瞬間。笑顔を保とうとしていた唇がわずかに震えた。ぽろりと一粒、涙が頬を伝う。張り詰めていた糸が切れたように――

「う……うぅ、うわぁぁぁ……」

リーナは声を上げて泣き出した。

「ありがとうございました……本当に、本当に、ありがとうございました……」

声にならない声で繰り返す。ジュードが優しく肩に手を置いた。

「大丈夫だよ」

「でも、寂しい……」

「そりゃ寂しいさ。家族同然の人たちと別れたんだから」

ジュードが優しく言う。

「でも、リーナは一人じゃない。俺たちがいるし、街の皆がいる」

「そうよ、リーナちゃん」

ベラが背中をさすってくれる。

「私たちは家族よ。何かあったら、いつでも頼って」

「泣いてもいいから」

ソフィアが優しく言う。

「気持ちが落ち着くまで、思いっきり泣いて」

リーナは皆に支えられながら、しばらく泣き続けた。

午後、一人でアンナの食卓に戻ったリーナは、空っぽになった二階を見上げた。静かだった。でも、寂しいというより、不思議と温かい気持ちが心を満たしていた。

(あの時の私は、きっと傷ついていたんだな)

リーナは静かに振り返る。クラリス王国の実家から勘当されて、行く当てもなく馬車に揺られていた日々。家族に捨てられた痛みで、心の扉を固く閉ざしていた。

(でも、マルクさんとアンナさんは、そんな私を温かく迎えてくれた)

最初は警戒していた。また傷つくのが怖かった。でも二人の無償の愛に触れて、少しずつ心が溶けていった。

(家族って、血のつながりだけじゃないんですね)

涙が再び頬を伝った。でも今度は、感謝の涙だった。マルク夫婦と過ごした幸せな時間。街の人々の温かい支え。これからも続いていく、料理を通じた繋がり。

「ありがとうございました」

もう一度、小さく呟いた。そして、厨房に向かう。今日も、誰かのために料理を作ろう。リーナの心の中には、これまでの全ての思い出と、これからへの希望が輝いている。

新しい扉が開かれた。

アンナの食卓の新しい章が、今日から始まる。