作品タイトル不明
それぞれの境遇
昼の営業を終えた店内は、嘘のように静まり返っていた。窓から差し込む残暑の光が、向かい合うリーナとハルトの間をやわらかく照らしている。
リーナは立ち上がり、棚から小さな茶壷を取り出した。
「これ、ある商会から買ったお茶なんです」
急須にお湯を注ぐと、香ばしい香りがふわりと広がる。茶葉が開き、湯気が静かに立ちのぼっていった。カップを受け取ったハルトがひと口含み、驚いたように目を見開く。
「……ウーロン茶、ですよね?」
リーナは静かに微笑む。
「ええ。この世界では青茶って呼ぶらしいですけど、私も初めて飲んだとき、そう思いました」
「異世界なのに……こうして向こうの世界を感じられるものがたくさんあるんですよね」
二人の間に、特別な空気が流れる。同じ記憶を共有する喜びが、言葉を介さずに伝わってくる。
「前世で私は、祖母と二人で暮らしていました」
リーナは茶碗をそっと置き、ゆっくりと語り始めた。
「両親は幼い頃に亡くなって……祖母が私を育ててくれたんです。その祖母も亡くなり、高校を出てからは惣菜屋で働いていました」
節くれだった祖母の手。小さな台所に立ちのぼる湯気。惣菜屋の忙しい昼、金属のトングが皿に触れて鳴らす乾いた音。懐かしい記憶が胸をよぎる。
「転生してからは、クラリス王国の伯爵令嬢として生まれました。けれど……色々あって勘当されて」
口元にかすかな自嘲が浮かぶ。だがそれは同時に、新しい道を歩む始まりでもあった。
「今はこうしてアードベルで暮らしています。料理を作って、それを喜んでもらえて。とても充実した毎日です」
微笑みを浮かべながらも、リーナの瞳には翳りが差す。
「ただ、心のどこかにはいつも穴が開いているようで……。料理のアイデアはどこから来るのかと聞かれても、本当のことを言えなくて。喜んでもらえるほど、言えないもどかしさが大きくなって」
ハルトは黙って耳を傾け、やがて深くうなずいた。
「でも今日、ハルトさんに出会って。一人じゃなかったんだって分かりました。それがすごく嬉しいです」
「俺も同じ気持ちですよ」
心から安堵を浮かべた笑顔に、リーナも自然と頬を緩めた。
「今度は俺の話を聞いてください」
ハルトが姿勢を正すと、リーナも真剣な面持ちで身を乗り出す。
「俺は、地方の農家に生まれました」
懐かしさを帯びた声が、静かな店内に響く。
「両親は真面目で、代々受け継いできた土地を何より大切にしていました。俺は長男だったので、当然のように跡を継ぐものだと考えられていたんです」
言葉を切り、組んだ指に視線を落とす。
「でも、俺は家業を継ぎたくなかったんです」
苦味を帯びた告白が落ちる。
「嫌いだったわけじゃない。尊い仕事だって分かっていました。でも、自分には向いていない。掌についた、やわらかい土よりも、数字や世界地図を眺めている方が心が躍った。もっと広い世界を知りたかったんです」
リーナは静かにうなずく。
「テレビや雑誌で都会の景色を見ては憧れていました。高層ビルの窓に反射する光、さまざまな仕事に挑む人たち……そういう場所で働きたかった」
「テレビで見た街のネオンにまで憧れてましたよ。田舎じゃ街灯ひとつ心細かったんで」
「ご両親は?」
「最初は猛反対でした。『長男だから』とか『土地を守る責任がある』と、毎日のように言われました」
苦笑いが浮かぶ。だがその奥には、当時の葛藤が色濃く残っている。
「裏切っている気持ちもありました。でも諦めきれなくて。大学へ進むことを決めました」
「大学では?」
「経済学部です。経済やビジネスに興味があって。都会の大学に入学して、寮に入りました。戸惑いもありましたが、とにかく自由で。自分で決めて、自分で責任を取る。そんな生活が新鮮でした」
思い出すように瞳が輝く。
「経済学、経営学、マーケティング、外国語。夢中で学びました。将来は総合商社に入って、世界を相手に仕事をするのが目標でした」
しかしすぐに表情が翳る。
「実家との関係は、少しずつ疎遠になっていきました。最初は連絡もしていましたが、だんだん減って……帰省も少なくなって」
リーナはそっと視線を落とした。
「大学3年の頃、就職活動が始まりました。説明会に行ったり、インターンに参加したり……忙しいけど充実していて。夢に近づいているんだって」
窓からの光がわずかに陰る。ハルトはそこで言葉を切り、カップに残った青茶をゆっくりと飲み干した。
「でも、ある日突然……全部終わったんです」
静まり返る店内に、その声が落ちた。
「病気だったのか、事故だったのか……何一つ覚えていません。ただ、友人たちと就職活動の話をしていた記憶が最後で。その先は真っ白なんです」
ハルトは首を振り、深く息を吐く。
「気がついたら...」