作品タイトル不明
ボアカツ
昼の営業を終え、片づけをしながらリーナは昨日の出来事を思い返していた。
きのこの炊き込みご飯を食べて、目を輝かせていた旅商人のハルトさん。あんなふうに感動してもらえるなんて、料理人冥利に尽きる。けれど――やっぱり、少し不思議な人だ。
料理にやけに詳しいし、食べた時の反応も、ただの客のものとは思えなかった。商人だから各地の食事に触れてきただけなのかもしれないけれど、胸の奥には何か引っかかる感覚が残っていた。
片付けを終える前に、玄関から声がした。
「リーナさん、いらっしゃいますか?」
手を拭きながら扉を開けると、昨日と同じ旅装束の彼が立っていた。姿勢正しく、けれどどこか探るような視線をこちらに向けている。
「いらっしゃいませ。今日もようこそ」
挨拶すると、彼は深々と頭を下げた。
「昨日は本当に、素晴らしい料理をありがとうございました」
その表情には感謝と……少しだけ迷いが混じっているように見えた。
続けて、彼は遠慮がちに口を開く。
「実は、お願いしたい料理がありまして」
丁寧な物腰に、リーナも自然と頷いていた。昼の片付け途中の店内に彼を案内し、コップを置く。静かな空間で、旅商人は少し緊張を含んだ声を落とした。
「肉に衣をつけて揚げる料理……ご存じですか?」
思わず首をかしげる。
「揚げ物……から揚げのようなものですか?」
「いえ。もっと厚い肉を使います。小麦粉と卵とパン粉で衣をまとわせ、油で揚げる。外はさっくり、中は柔らかく――そんな料理なんです」
彼の説明を聞くうちに、脳裏にくっきりと映像が浮かんできた。サクサクの衣に包まれた厚切り肉。甘辛いソースをまとわせてご飯と一緒に頬張るあの味。
「……トンカツ?」
気づけば口にしていた。
「でも、せっかくなら魔物肉を使ってみましょうか。トンが豚肉だから...アースボア肉で作ったら、ボアカツ?」
思いつきで言っただけだったのに、妙にしっくりくる。
振り返った時、ハルトの表情が一瞬にして凍りついた。その口元から、わずかに息が漏れる音が聞こえた気がした。彼は慌ててこわばった頬の筋を動かし、笑みを作る。けれど、あの一瞬の反応は見間違いではない。
「もしよろしければ、その料理を試していただけませんか。お肉は私がご用意します」
差し出された願いに、リーナは迷うことなく頷いた。新しい料理の話となれば、試してみない理由なんてない。
「分かりました。面白そうですね」
安堵したように表情が和らぐと、彼はすぐさま街へ出ていった。
その間に、リーナは台所を整える。小麦粉、卵、パン粉。そしてソースの準備。ウスターソースに醤と砂糖、美淋酒を合わせて、軽く煮詰める。甘みと酸味の加減を確かめながら、スプーンを回すたび香ばしい匂いが立ちのぼる。
ほどなくして戻ってきたハルトの手には、立派なアースボア肉が抱えられていた。
「いい肉が手に入りました」
「ありがとうございます。さっそく作ってみましょう」
受け取った肉は厚切りで、見るからに力強い赤身。包丁で筋を軽く断ち切り、叩いて均一に伸ばす。塩胡椒で下味をつけ、小麦粉をまとわせ、卵にくぐらせ、パン粉をふんわりと押さえる。
油を熱し、湯気が立ちのぼるのを確認してから肉を投入する。
ジュワァ!
心地よい音が広がり、油の表面に金色の波紋が広がった。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、ハルトは目を細めて鍋を見つめている。何かを確かめるようなその仕草に、私は少し可笑しさを覚えながら、丁寧に返しを入れた。
やがて、衣が美しい黄金色に染まり、香りも最高潮に。揚げたてを網にあげれば、油が弾けるパチパチという音を立てながら、余熱でじっくりと肉の芯まで火を通していく。
千切りにしたキャベツの山を皿に広げ、熱気を帯びたボアカツを丁寧に切り分ける。包丁を入れるたびにザクッ、ザクッと小気味良い音が響き、その断面から透明な肉汁がじんわりと滲み出した。
皿の上に並んだ黄金色に輝くボアカツは、それだけで心を躍らせる。
「できました。ボアカツです」
キャベツの鮮やかな緑と、食欲をそそる揚げ物のコントラスト。ソースをたっぷりとかけると、その香ばしい匂いが湯気とともにふわりと立ちのぼった。
ハルトは静かに手を合わせ、ごくりと喉を鳴らしてから、一切れを口に運ぶ。
「カリッ!」
肉を噛みしめた瞬間、軽快な衣の音と、じゅわりと広がる芳醇な肉汁の波に、ハルトの時間が止まる。彼は静かに目を閉じ、その幸福感を全身で受け止めるようだった。
「……懐かしい」
わずかに震えた声が、耳に届く。まぶたの裏に前世の記憶が鮮明に蘇った。喉が固く、言葉が出ない。
「そこまで気に入っていただけるなんて、嬉しいです」
冗談めかして笑いかけたけれど、彼はすぐには返事をしなかった。
ようやく顔を上げると、真剣な眼差しで皿を見つめている。
「この味、まさに探していたものでした」
ソースをなぞるようにもう一口。
その姿は感動しているというより、失くしたものを見つけた人のようにも見えた。
「夏至祭の時に作った焼きパスタのソースを少し応用しただけなんですよ」
照れ隠しのように口にすると、彼は苦笑を浮かべる。
それでも目の奥には、複雑な色が残っていた。
何か言いかけて口をつぐみ、「……失礼しました」とだけ残す。
居心地の悪そうな空気を払うように、彼は腰を上げた。
「本当にありがとうございました。また明日、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい、もちろん。いつでもどうぞ」
店を後にする背中を見送りながら、リーナは皿の上のボアカツを眺める。
夕方、バルトロメオが店の様子を見に立ち寄った。
「今日は新しいお客がいたそうだな」
「はい。ハルトさんという旅の商人の方です」
その名を口にすると、団長は一瞬だけ思案するように目を伏せる。だが何も言わず、代わりに店に漂う匂いについて聞いた。
「……この香ばしい匂いは?」
「ボアカツという料理を作ったんです。あとで、騎士団の皆さんにも召し上がっていただきますね」
「それは喜ぶだろうな」
微笑んではいたが、その表情にはどこか思案するような色が浮かんでいた。ハルトという名前に何かを感じ取ったのか、それとも別の理由があるのか。団長は何かを言いかけて、結局口を閉ざした。
夜の帳が降りる頃、リーナは厨房に立ち、キャベツの千切りを始めた。包丁の刃先を慎重に滑らせる。ザク、ザク、ザク……。もっと、もっと細く。口に入れた瞬間の、ふわっとしながらもシャキシャキとした瑞々しい食感を追い求めて、集中する。
今度、ソフィアのパン屋に寄って、あの耳まで美味しい厚切りのパンを分けてもらおう。この千切りキャベツと、揚げたてのボアカツを挟んで頬張ったら……。カリカリ、ふわふわ、シャキシャキ。想像するだけで、自然と笑みがこぼれてしまう。
ハルトさんの反応は相変わらず不思議だけれど、礼儀も正しいし、悪い人には見えない。
今度はどんな料理の話をしてくれるだろう。
そう思うだけで、自然と手が軽やかに動いていた。
一方、宿に戻ったハルトは一人部屋で頭を抱えていた。
(『豚じゃなくてアースボア肉使ってみようかな』だって...)
彼は深いため息をついた。
(完全に『トン=豚肉』だって知ってるじゃないか。『トンカツ』なんて言葉、この世界にあるはずがない。それも俺たちの世界の言葉だってことを、あの無邪気な一言で、彼女はそう語ってしまったんだ)
リーナの無邪気な様子を思い出して、ハルトは複雑な気持ちになった。
(……無自覚なままだと、周囲に知られたとき危ういかもしれない)
当初は軽い気持ちだった。同じ転生者として話がしたい、一緒に色々と開発ができたらいいな、程度の考えだった。
でも、実際にリーナに会ってみると、あまりにも無自覚で無防備だった。
(あの子、このままじゃ危険すぎる)
ハルトは決意を固めた。
(同じ転生者として、守らないといけないんじゃないか?)
(彼女の気持ちを優先したいが...やはり王都の安全な場所にいてもらった方がいいだろう)
(でも、どうやって誘おう...)
ハルトは明日以降の計画を練り始めた。リーナを傷つけることなく、安全な場所へ導く方法を。