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余命一年を宣告された公爵令嬢は、死ぬ前にハーレムを作ることにしました

作者: 春樹凜

本文

白い天井というのは、どうしてこうも無表情なんだろう。

診察室の椅子に座ったまま、私はぼんやりとそんなことを考えていた。

正面では、王城の侍医長であるガバナン先生が、深刻そうな顔で何か言っている。

言葉は耳に入っているのに、なぜか頭の中でうまく並んでくれない。

だけど、これだけはちゃんと理解できた。

「――以上のことから、アネット様の余命は、長く見積もっても一年かと存じます」

十九になったばかりの私、アネット・クランベルンは、余命一年らしい。

「そうですか」

我ながら落ち着きすぎじゃないかと思うけど、三カ月前から続く腹部の痛みで、なんとなく覚悟はしていた。

最初の検査では異常なしと言われたのに治まらなくて、今回精密に診てもらって、ようやく原因が分かった。

子どもの頃に魔物に噛まれたことがある。

その時は傷も浅く、特に異常もないと言われてそのまま忘れていた。

だけど実はその魔物、噛んだ相手の体内にゆっくりと毒素を生成し続ける種類だったとのちに判明した新種だった。

毒素は血を通じて体中を巡り、腹部の奥に溜まった。

そして時間をかけてじわじわと蓄積されてきた毒素が、ここへ来てついに限界に達しつつある、と。

厄介なのは、その毒素が人の手では排出できないことだ。

痛みに関しては薬で抑えられるけど、魔力を帯びた毒は、通常の薬では太刀打ちできない。

最終的にはベッドから起き上がることもできなくなり――。

「……受け止めるのに時間が必要でしたら、今日のところは」

「いいえ、大丈夫です。続けてください」

先生が心配そうに覗き込んでくるので、私は努めて穏やかに微笑んだ。

泣いたり取り乱したりしてしまうと、先生が困るだろう。

説明を聞きながら、私は窓の外に目をやった。

秋の光の中で、庭の木々が黄金色に染まっている。

綺麗だな、と思った。

来年の秋は見られないのかと考えて、それからすぐ別のことを考えた。

――殿下に、どう伝えようか。

○○○○

私の婚約者であるエドモンド殿下は、執務室で書類仕事の最中だった。

私が入室すると顔を上げて、いつものように少し眉を緩めた。

笑顔というわけでもないのに、それだけで機嫌がいいんだと分かる。

十年来の付き合いというのはそういうものだ。

「アネット。診察はどうだった」

「それをご報告に参りました」

殿下は書類を置いて、真っ直ぐ私を見た。

殿下はいつもそうだ。

話を聞く時、身分の差など関係なく、必ず相手を見てしっかりと目を合わせてくれる。

そういうところが私は好ましいと思っている。

そんなことを考えながら、私は間髪入れずに告げた。

「余命が一年だそうです」

沈黙があった。

その間に乗じて、私は手短に自分の今の状況を告げた。

「昔魔物に噛まれたことが原因だそうです。毒素が体に溜まっていて、取り除くことは不可能だと。治る見込みは、ありません」

私が説明し終わった後も、殿下は一言も発しなかった。

殿下を見て、私は内心少し焦った。

もっとオブラートに包み、柔らかく言えばよかったかもしれない。

重苦しい空気が場を包む。

けれど長い長い沈黙の後、ようやく殿下が短く呟いた。

「……本当に、手はないのか」

「はい。ありません」

「その医師の診断が誤診の可能性は」

「他の数名の医師にも診てもらいましたが、結果は同じでした」

「……延命、治療は」

「そちらも無理だと言われてしまいました。私に残された道は、痛みを抑える薬を飲みながら、最後の日を待つだけだそうです」

「そうか……」

静かな声だったけど、殿下の顔からは血の気が引いているのが分かった。

多分、今の彼は動揺している。

何か想定外のことがあると、固まって動けない癖があるのだ。

そのままどちらも何も言わない中、先に口を開いたのは殿下の方だった。

「婚約を、解消しよう」

殿下は立ち上がって窓の外に目をやった。

「……そうですね。私ではもう王太子妃は務められませんし、それが理にかなっているかと」

「っ、そういうことじゃない!」

突然の大声に、私の体が反射的にビクッと跳ねる。

殿下がこんなに感情をむき出しにした声を出すなんて……。

普段からあまり表情が豊かとはいえないエドモンド殿下だけど、今の彼は明らかに強張っている。

迫力に負けて押し黙った私に、殿下はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「王太子妃という重責を、これ以上君に負わせるわけにはいかない。残りの時間を、そんなことに縛られて過ごさせたくない。……自由にしてやりたいんだ、アネット」

声が、少し掠れていた。

つまり、これは私への彼なりの優しさらしい。

それにしても……自由か。

殿下の婚約者に選ばれてからこれまでずっと、彼の隣に立つために生きてきた。

勉強も礼儀作法も社交も政務の知識も、全部殿下のためだ。

それが私の日常で、喜びで、生き甲斐だった。

だから急に自由にしてやると言われても、正直何をすればいいのかさっぱり分からない。

でも殿下が精一杯考えてくれた答えなのは分かるので、私は静かに頷いた。

「……分かりました」

殿下がようやくこちらを振り向いた。

目が、少し赤い。

「すまない、アネット」

「謝らないでください。殿下は何も悪くありません」

殿下は深く息を吐くと、喉の奥から絞り出すように言った。

「……望みを言え。何でも叶えてやる。俺にできることなら、何でも」

申し訳なさと無力感と、それでも何かしてやりたいという気持ちが、その声に滲んでいた。

私は少しだけ考えた。

何でもいい。

何でも叶えてくれる。

それなら――。

ずっと前からぼんやりと温めていたアイデアが、むくりと起き上がった。

私の頭の中で一つ、思いついたことがある。

どうせ一年しかないなら。

どうせ婚約も解消されたなら。

……やってみてもいいんじゃないだろうか。

「では殿下」

私はできるだけ明るい、満面の笑みを作った。

「私、残り一年でハーレムを作りたいです!」

執務室に、盛大な沈黙が降りた。

「…………」

「…………」

殿下の顔が、見たことのない表情になっていた。

困惑と狼狽、何か言いたそうなのに言葉が出てこない感じが、綺麗に混ざり合っている。

それは、十年の付き合いで初めて見る顔だった。

◯◯◯◯

私こと、クランベルン公爵家のアネットが、病のためエドモンド殿下との婚約を解消したこと。

そして、ハーレムを作ることが同時に世間に発表された。

この知らせには、王都中が騒然とした。

無理もない。

未来の王太子妃が婚約解消したと思ったら、次の瞬間ハーレムを作ると言い出したのだ。

社交界でも市井でも酒場でも、しばらくの間この話題で持ちきりになったらしい。

らしい、というのは、私自身その頃ハーレムの準備で忙しくて、世間の反応をゆっくり気にしている暇がなかったからだ。

お父様とお母様は、何も言わなかった。

ただお父様は「好きにしなさい」と言って、敷地の奥に眠っていた古い建物の鍵を渡してくれた。

お母様は「何を言われても気にしないから」と言って、使用人を数人手配してくれた。

私がこれまでのほぼすべての時間を、殿下の隣に立つことに費やしてきたのを知っている。

最後くらい好きに生きなさいと、二人は優しく微笑みながらそう言ってくれた。

私は少し泣きそうになったけど、泣かなかった。

泣いている暇があったら掃除だ。

許可を出してくれた建物は、見た目以上に広かった。

長年使われていなかったせいで埃だらけだったけど、建物の骨組みはしっかりとしている。

綺麗にしたら十分に使えそうだ。

さっそく使用人たちと一緒に窓を開け放ち、床を磨き、カーテンを洗い、家具を運び込む。

一週間もすると、陽の光が差し込む、なかなか居心地のよさそうな建物になった。

運営費については、殿下から申し出があった。

「俺の個人資産を充てる」

顔は平静を装っていたけれど、複雑なんだろうとは思う。

でも何でも叶えてやると言ったのは殿下だ。

だから、私は遠慮なく頷いた。

「ありがとうございます。助かります」

殿下は何か言いたげにこちらを見て、でも結局何も言わなかった。

人集めは、私が自分でやった。

条件は一つだけ。

私が、この人はいい! と思った人。

身分も、生まれも、年齢も、一切関係なかった。

一カ月後。

建物の広間に集まった顔ぶれを眺めて、私は満足げに微笑んだ。

まだ十人にも満たないけど、年齢も職業も様々な男性たちが、それぞれに緊張した顔でこちらを見ている。

元貴族もいれば平民もいる。

若者もいれば、私より一回り以上年上の男性もいる。

ゆくゆくはもっと人数を増やしていく予定だ。

「皆さんには、本日からここで私と住んでもらいます。つまりこの建物は、あなたたちの家ということになります」

大きな荷物を持ち込んだ彼らは、神妙な顔で頷く。

みんな緊張しているらしい。

なのでその緊張をほぐすべく、私はあえて明るい声を出した。

「生活するにあたって、特に気負う必要はありません。ここでのルールは四つです。一つ、ここでの生活を楽しむこと。二つ、他のメンバーと仲良くすること。三つ、私の言うことを聞くこと。四つ、ここでの生活について他で公言しない。以上です」

広間に静寂が降りた。

男性陣が困惑気に顔を見合わせている。

何か、もっと説明があると思っていたんだろう。

この中では一番若い金髪の青年が、おずおずと手を挙げた。

「あの……それだけですか?」

「それだけです」

「……ハーレムって、もっとこう、いろいろ」

青年はまだ何か言いたそうだったけど、私が微笑み続けていたら黙った。

私は改めて全員を見渡した。

「それでは、ハーレム生活を始めましょうか」

○○○○

ハーレムでの日々は、基本的に穏やかなものだった。

私は毎朝、痛み止めの薬を飲んだ後、その日に一緒に過ごすメンバーを一人選ぶ。

特に決まったルールはないけど、一人につき最低三回は一緒に過ごすようにしていた。

一回や二回では、その人のことは分からないから。

選ばれなかった人たちは、好きなことをして過ごしてもらった。

ある者は楽器を嗜み、鍛錬に勤しみ、ある者は書物に没頭し、ある者は街に繰り出して人脈を広げた。

それぞれに好きなことをしていていい、というのが私のスタンスだった。

ただし、ルールは絶対に守ってほしかったので、一人一人に使用人をつけて、嘘をついてもすぐに分かるようにしていた。

当然ルールを破ったら、即刻退去してもらった。

一方で選ばれた一人は、私と食事をして、散歩をして、話をする。

だけどたったこれだけのことが、思いのほか楽しかった。

みんな、それぞれに面白い話や考えを持っていた。

遠い街の話から、珍しい仕事の話、失敗談、自慢話、政治経済から流行の娯楽についてまで……。

私がどんな話でも楽しそうに聞くからか、最初は緊張していたメンバーたちも、しばらくすると饒舌になった。

ただ一つ、困ったことがあった。

ハーレムに選ばれたからにはと、世間で言われているイメージ通りのことに励まなければと意気込む人もいたので、私は即座に止めた。

「そういうのは求めていませんので」

「……ハーレムですよね?」

「ええ。ですが私は、あなたたちとお話しさせていただければそれで十分です」

止められた側は毎回、ひどく困惑した顔をする。

だけど私が彼らをここに集めたのは、そういう理由からじゃない。

彼らの話に耳を傾け、彼らの人となりを知ることの方がよっぽど大切だった。

そのうちに、少しずつメンバーが増えていった。

代わりに、契約違反をしたから、という理由以外でいなくなる人もいた。

それ以外にも、想像とは違っていたという理由で抜けてもらう人もいた。

ある朝、私はにこやかに笑いながら、一人の男性に封筒を差し出した。

「え、あの、俺、何か」

「いいえ、何も。ただご縁がなかっただけです。どうかお元気で」

男性はぽかんとしていたけど、分厚い封筒の中身を確認すると、特に揉めることもなく帰っていった。

こういうことが何度かあり、増えて、減って、また増えて。

そうして二カ月が経った頃、ハーレムの顔ぶれが少しずつ落ち着いてきた。

最初は男性だけだったけど、途中からは女性も加わるようになっていた。

身分も男性陣同様に様々だ。

みんな最初こそ戸惑っていたけれど、今ではすっかり打ち解けて、屋敷中に賑やかな声が飛び交うようになっていた。

ある日の夕方、私は広間に全員を集めた。

二十人ほどの顔が、こちらを向いている。

最初に集まった頃とは変わったけれど、今ここにいる人たちを見渡すと、私は自然と口元が緩んだ。

いい顔ぶれだ。

全員がこちらを向くのを確認して、私はゆっくり微笑んだ。

「皆さん、これまでありがとうございます。これにて選定は終了になります。そして……残られたみなさんには、私からお話があります」

●●●●

アネットと婚約を解消してから、数カ月が経った。

俺の新しい婚約者候補の選定は、非常に難航していた。

側近たちが国内の高位貴族の令嬢をあたっているが、年の近いめぼしい相手はすでに婚約者がいる。

残っているのは、家格か素行か、どちらかに問題のある者ばかりだ。

近隣諸国にも打診を始めているが、こちらも芳しい返事はまだない。

もっとも、俺自身がまったく乗り気でないのも原因の一つだろうと、自覚はしていた。

最初、アネットは俺にとって、ただ決められた婚約者という存在だった。

これから先長く共にするのだから、仲良くはしたいと思っていたが、ただそれだけで。

だがいつの頃からか、アネット以外考えられないと思えるほどには、彼女のことを大切に思っていた。

だから彼女がハーレムを望んだ時は、驚いたと同時に正直ショックだった。

彼女とは、心が通じ合っていると思っていた。

だとすれば、ハーレムなどという望みを口にしたのは、こちらへの鬱憤が多少なりともあったからではないかと。

それでも、アネットが少しでも楽しく過ごせるなら、それでいい。

そう思うことにした。

一方で、密かに動かしていることがある。

打つ手がないと言われたが、俺はまだ諦めていなかった。

アネットには内緒で、各地の医師や薬師に文を送り、魔力を帯びた毒素を解毒できる手段を探させている。

まだ、何も見つかっていないが、それでも探すのをやめるつもりはなかった。

そしてアネットのハーレムの噂は、今や王都中に広まっていた。

といっても、中の様子を語る者が誰一人いないので、内実はまるで分からない。

去った者でさえ悪口一つ言わず、むしろどこか晴れ晴れとした顔をしている。

ある日、女性も加わったという話が耳に入った。

さすがにおかしい、と思った。

俺は密かにハーレムのメンバーたちの素性を調べさせた。

報告を読んで、思わず眉を寄せる。

一人は外国で奴隷として働かされていた、複数の言語を操る才を持つ男。

一人は没落した元商家の三男で、借金返済のために別の商会で働いていた男。

一人は孤児出身で、情報収集の才があると噂される男。

一人は天才的な頭脳を持っていたがゆえに周囲に疎まれ僻地へと追いやられた、医師の男など。

女性陣も似たようなものだった。

没落貴族の出ながら教養は本物、立ち振る舞いも申し分ない令嬢。

商家の娘ながら語学と礼儀作法において王城の女官を凌ぐという娘。

これは……どう考えても、普通のハーレムの顔ぶれではない。

俺は机に報告書を置いて、しばらく考えた。

それからアネットに手紙を送る。

一度、そちらを訪ねてもいいか、と。

返事はあっさりしたものだった。

手紙には、慣れ親しんだアネットの字で、いいですよ、と書いてあった。

それからひと言、ちょうど選定も終わりましたので、とも。

選定――その言葉が、妙に引っかかった。

○○○○

エドモンド殿下からの手紙が届いたのは、穏やかな昼下がりのことだった。

一度そちらを訪ねてもいいか、という短い一文。

私はすぐに返事を書いた。

いいですよ、と。

手紙を出してから、私は広間に全員を集めた。

「一週間後にこちらにエドモンド殿下がいらっしゃいますので、歓迎の準備をお願いします。……皆さん、今回の訪問の際にどう振舞えばいいか、分かっていますね?」

一瞬の静寂の後、全員が深く頷く。

理解が早くて助かる。

それから屋敷中が、歓迎に向けてにわかに動き出した。

この頃から、痛み止めの薬の量が倍に増えていた。

けれど朝に飲んでも、昼には効き目が薄れる。

そういう時はハーレムの一員であり医師でもあるセルジュの作ってくれた薬を、こっそりもう一度飲んだ。

笑顔でいれば、たいていの人は気づかない。

そしてついに迎えたエドモンド殿下の訪問の日。

私は門の前で殿下をお迎えした。

久しぶりに見る殿下は、相変わらず端整な顔をしていた。

だけどその目には、隠しきれない疲労の色がある。

王太子妃の選定が難航しているという話は、風の噂で聞いていた。

「ようこそおいでくださいました、エドモンド殿下」

私は満面の笑みで言った。

「どうぞ。紹介したい人たちがいます」

殿下が中に入ると、広間に人が並んでいた。

「私の選りすぐりの、ハーレムの皆さんです」

この言葉に殿下の顔が微妙に歪んだけど、私は気にせず微笑んだ。

そして、歓待のための食事が始まった。

席につくと、私は殿下に向かって軽く話を振る。

「殿下、以前より進めている港湾の整備計画は、いかがですか」

この計画とは、王都から南に位置する港を拡張し、交易路を広げるために行う予定の大規模な工事のことだ。

完成すれば国の税収が大きく増えると見込まれており、最近着工したばかりのはずだ。

しかしエドモンド殿下の表情は芳しくなく、代わりに少し目を細めた。

「実は難航している。予定していた額よりも工事費がかかることが分かったんだ。それに最近はなぜか魔物の動きも活発化していて、警備の予算も上がっているからな。さらにかさむ一方だ」

と、元商家出身のレナードが静かに口を開いた。

「工事費が予定より膨らんでいるなら、大商会に共同出資を持ちかけてはいかがでしょう。港が整備されれば彼らも利益を得ます。優先使用権を条件にすれば乗ってくる商会はいくつもあるかと。私に心当たりがございますので、よろしければ紹介させてください」

そうして挙げられた商会は、この国でも力がありながらも、少々曲者揃いと噂の商会ばかりだった。

しかもそれぞれの商会長と個人的に親しくもしているとレナードが言うと、殿下の目が、驚きでわずかに見開かれた。

「……君は」

「レナードと申します。元商家の三男です」

にこやかに言ってのけるレナードの隣で、長身のフィルが口を挟んだ。

『港湾といえば、現在船で交易中の東の大国ヴェルナが、水面下できな臭い動きを見せているようです』

流暢なヴェルナ語で一言そう話してから、今度は王国語に戻した。

「先月、現地からやってきた旅人から直接聞きました。警備面も含めて念のため、殿下のお耳に入れておいた方がよいかと」

殿下の手にしたフォークの動きが止まった。

続けてすかさず、フィルの隅に座っていた眼鏡をかけた細身の男が身を乗り出した。

「魔物の活発化でしたら、私めに少し心当たりがございまして」

殿下が視線を向けると、男は嬉々として続けた。

「この数カ月で活動域が港あたりまで広がっている種族が四種類おります。うち二種類は繁殖期が重なっておりまして、これが終われば自然と落ち着くかと。ただ残り二種類については理由は未だ分かっておりません。故にこちらは安易に駆除するよりも、事情が分かるまでは様子見している方がよいかと。具体的な種族の特徴をまとめて記した資料をまとめてございます。ご入り用でしたらどうぞ、こちらをご覧ください!」

男の名はオットーといった。

魔物の生態研究に人生を捧げており、王城の研究機関にも属していない自称学者だが、その知識は城のお抱えの研究者たちを遥かに凌ぐと私は思っている。

資料を目に通したエドモンド殿下自身も、それをすぐに感じたようだった。

女性陣は終始完璧だった。

場の空気を読んで殿下が話しやすいよう自然に会話を誘導するだけでなく、時折会話に加わって的確な意見を述べた。

隣国の政治情勢について、女性陣の一人がさらりと鋭い見解を口にした時、殿下が思わずといった様子でその顔を見たのを、私はしっかり見届けた。

立ち振る舞いも作法も、私がみっちり教え込んだこともあって、高位貴族の女性に引けを取らない。

殿下は黙って全員を見渡していた。

その目の色がだんだんと変わっていくのが分かった。

食後、物静かな青年のセルジュが盆を手に殿下の前にすっと膝をついた。

「エドモンド殿下、目の下の隈がひどうございます。これは神経の疲れに効く薬湯です」

殿下がわずかに眉を寄せた。

見知らぬ人間から差し出された怪しげな飲み物を、そう簡単に口にするわけにはいかないし、何より色が悪い。

紫色の液体を口にするのは勇気がいるだろう。

だから私はセルジュから薬湯を受け取り、殿下の目の前で一口飲んだ。

「ご安心ください。苦くもありませんし、彼の薬はよく効きます。毒も入っておりません」

殿下はしばらく私の顔を見ていたけど、それから薬湯を受け取り、一口飲んで、安堵したようにすべてを飲み干した。

こうして長いような短い歓待の食事が終わった。

セルジュの薬湯も早々に効いたようで、顔色も随分と良くなっている。

私自身が彼の作る薬の恩恵を受けているので、効果のほどはよく分かっている。

人払いをしたのは、夕暮れ時のことだった。

二人きりになった部屋で、殿下はしばらく黙っていた。

それからゆっくりと口を開く。

「アネット」

「はい」

「あれは、何だ」

「私が集めたハーレムのみなさんですが」

「そういうことを聞いているんじゃない」

殿下の声には、有無を言わさない響きがあった。

私は誤魔化すように、少しだけ目線を逸らす。

「……楽しく暮らしているだけですよ」

「曲者揃いの商会長たちとの親しくできるほどの男が、ハーレムに必要なのか」

「趣味が合いまして」

「我が国から離れた場所にある大国の動向を現地語で報告してくる男も」

「ええ、まあ」

「魔物の生態資料を即座に取り出せる男もか」

「興味深い人でして」

「薬湯が俺好みの甘めに作られていたのは」

「……さあ、どうでしょう」

「女性陣の立ち振る舞いが、高位貴族に引けを取らないのも、偶然か」

「…………」

私は答えなかった。

殿下はため息を一つつくと、隣に座る私の手を取ってぎゅっと握った。

「アネット。正直に言え」

彼の瞳はまっすぐで、真剣だった。

もう答えは出ているのだろう、と思った。

確信ではないかもしれないけど、半日彼らと過ごせば、おおよその輪郭は見えているはずだ。

それでも私の口から聞きたいと、そういう目をしていた。

私はしばらく黙っていたけど、諦めたように息を吐いた。

「……私がいなくなった後、殿下が一人にならないように。殿下を支えられる人たちを、自分の目で選んで残しておきたかったんです」

男性陣は、生まれや育ちのせいで、これまで埋もれてきた人たちだ。

でも能力は間違いなく本物だ。

殿下の傍に置くことはできなかったとしても、きっと力になれると思った。

それに、妃探しが難航することも予測できていたから、実力があると思われる女性陣を集めた。

ただ、どれだけ中身が優れていても、高位の家柄でなければ立場が足りない。

でも能力さえ認めてもらえたら、クランベルン公爵家が後ろ盾になり、養子にして、妃候補として送り出せる。

もしくは正妃としてどうしても血筋も完璧な高位の貴族の娘を娶らなければならない状況になったとしても、彼女たちを側妃として傍に置けば殿下の力になれる。

それほどの才を持つ女性たちだ。

両親には、もう話は通していた。

二人とも、それが私の望みならと了承してくれた。

私の話を黙って聞いていた殿下は、しばらく何も言わなかったけど、ぽつりと、絞り出すように言った。

「……君は最後まで、俺のことしか考えないのか」

私は少し笑った。

「だってずっとそうしてきましたので。今更変えられません」

だから、これでいいのだ。

そう答えた、瞬間だった。

「……ふざけるな」

エドモンド殿下の唇から零れ落ちた、小さな声。

まるで抑揚がなく、静かだったけれど、その声には今まで聞いたことのない温度があった。

私は思わず身を引こうとしたけど、握られた手にぐっと力が込もった。

逃がしてくれない。

「痛い、です」

そう言っても、離してはくれなかった。

殿下は眉間にぎゅっと深い皺を寄せる。

「俺は……探し続けていたんだ。君を救う方法が、どこかに必ずあるはずだと。君が笑いながらハーレムを作っている間も、俺は、ずっと……」

震えながらも紡ぎ出される殿下の言葉に、私は黙っていた。

殿下が私を助ける方法を探していたことは、知らなかった。

彼のその気持ちは、純粋に嬉しい。

婚約者でなくなったとしても、彼は私のことをこんなにも考えてくれていたなんて。

だけど。

「……もう、治らないんです」

どれだけ頑張ったって、結果は同じなのだ。

あと半年もすれば、私の存在は、きれいさっぱりこの世界から消えてしまう。

私はその恐怖に目を背け、あえて笑った。

「足掻いたところで結果は変わらないんですよ。それならその時間を殿下のために使う方が、ずっと合理的で、正しい選択で」

「合理も正しさも知るか!」

瞬間、殿下の怒号が部屋中に響いた。

「俺のために使うのが君の望みだと!? ふざけるな!」

「ですが……」

「俺はそんなことをされたって、嬉しくもなんともない!」

ずっと、この行動が正しいと思っていた。

――間違っていないと、思おうとしていた。

もともと、殿下の助けになりそうな有用な人物の登用は、考えていたことだったのだ。

レナードもフィルも、それ以外の人間も、余命を言い渡される前から私が密かに目を付けていた人物だった。

だからこそ、短い時間で彼らを集めることができた。

そして残り少ない時間をせめて殿下のために使うことが、私にできる最後のことだと信じたかった。

恐怖も、悔しさも、全部気づかないふりをして、飲み込んで笑ってきた。

なのに殿下は、嬉しくないと言う。

その言葉が、思いがけず胸の奥に刺さった。

……だけど、エドモンド殿下なら、そう言うだろうとも予想はしていた。

だから私は、最初にハーレムという単語を使った。

一番、私自身のわがままに見える言葉を。

そうすれば、殿下はきっと止めはしないだろうと。

それに、私には時間がなかった。

残り一年で、その人となりを見極めるには、それなりの時間と距離が必要だ。

だけど婚約を解消したばかりの令嬢が、身分も年齢も様々な男女を集めて共に暮らしていると知れたら、世間はどう思うだろう。

どんな理由をつけても、怪しまれるし疑われるし、面白おかしく言われる。

ならいっそ、最初から堂々と旗を立てた方がいいと考えたまでだ。

我ながら、悪くない考えだったと思う。

殿下はしばらく荒い息をついていた。

握られた手はまだ離れない。

それから、絞り出すように言った。

「君の、本当の望みは何なんだ」

「…………」

私は答えることを拒否するように、俯く。

……そんなこと、言いたくなかった。

口にしたら、ずっと自分自身にすら隠してきたものが溢れ出す気がして。

一年と宣告された時から、動揺しないようにしてきた。

感情を揺らしたら、堪えられなくなると分かっていたから。

だけど殿下の手が、まだ私の手を握っていた。

思い返せばいつもそうだった。

エドモンド殿下はぱっと見不愛想に見えるけど、彼の手は温かくて、大きくて、力強くて。

初めて会った日のことを、ふと思い出す。

婚約者だと紹介されて、おずおずと差し出した私の手を、殿下はためらいなく握ってくれた。

その時、まるで太陽みたいな手だと思った。

それからずっと、私が行き詰まった時、うまくいかない時、泣きたいのに泣けない時、殿下はいつも気づいてくれた。

何も言わなくても隣にいてくれた。

叱咤することもあったけれど、いつも私を前に引っ張ってくれた。

だから私は、この人の傍にいたいと、義務でも役割からでもなく、自分の意志で思った。

この輝きを、隣でずっと見ていたい――それだけが、私の本当の望みだ。

手の温もりが、ずっと張り続けていた何かを少しずつ溶かしていく。

堪えようとしたのに、目の奥が熱くなった。

「……私は」

声が、震えた。

それでも、私の口からは本当の気持ちが飛び出す。

「殿下と、一緒にいたかったです」

涙が、落ちた。初めて、落ちた。

「あなたの隣で、この国を支えたかった。もっと、ずっと一緒にいたかった」

言葉も、涙も、止まらなかった。

「でも叶わないから。だから諦めたのに」

私は顔を上げて、濡れた目でエドモンド殿下を見た。

「どうして、諦めさせてくれないんですか」

殿下は私の手を握ったまま、真っ直ぐ私を見ていた。

そして痛ましげに顔を歪めると、空いた方の手で私の頬に触れ、親指でそっと涙を拭う。

その目は、いつの間にかうっすらと赤く染まっていた。

しばらく沈黙が続いた後、殿下が静かに口を開いた。

「確認させてほしい。このハーレムの人員は、俺のために揃えた――そういう認識でいいんだな」

私は少し間を置いてから答えた。

「はい」

殿下が、かすかに目を細めた。

何かを決意したような、そんな表情をした後、殿下は私の手を、もう一度ぎゅっと握る。

「一つだけ覚えておいてくれ。アネット自身が諦めても、俺は絶対に君を諦めない」

――それからというもの、エドモンド殿下はハーレムの屋敷に毎日顔を出すようになった。

レナードと予算の話をして、フィルと外交の話をして、オットーから魔物研究の話を半ば強引に聞かされて、セルジュに薬湯を勧められる。

剣が達者なクルドという男から手ほどきを受けたり、人当たりもよく交渉術に長けたブラドから簡単に初対面の人と打ち解ける方法を学んだり。

女性陣とも少しずつ仲良くなって、気づけば広間に笑い声が聞こえるようになっていた。

彼らは、私が殿下に合うと思って選んだ人たちだ。

うまくいっているのを見ると、素直に嬉しかった。

なのに時々、ふと考えてしまう。

あの笑い声の中に、私はいないのだ。

役目を果たした私はもう必要ないんだと突きつけられたような気がして、胸がずきんと痛む。

自分でそうなるように動いたのに、おかしな話だ。

だからその痛みを誰にも悟られないように、いつものように笑って飲み込み、毎日を過ごしていた。

だけど――それから一カ月後。

エドモンド殿下が、王都から姿を消した。

そして同じ朝、ハーレムの屋敷から、何人かの男性陣も消えていた。

◯◯◯◯

彼らの部屋は、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、綺麗に片付けられていた。

いなくなっていたのは、魔物の生態に詳しいオットー、外国語を操れるフィル、クルドを筆頭とした剣の腕に長けた数人だ。

「どういうこと……!?」

知らせを受けた私が空っぽの部屋を呆然と見つめていたら、残っていたセルジュや女性陣がゆっくりと近づいてきて、教えてくれた。

実はオットーが魔物の調査を続ける中で、先日ある事実が判明したそうだ。

例の港の整備計画の障害となっている魔物襲来の原因は、彼らの住処にドラゴンが一頭住み着いたからだと。

ドラゴンとは普段は空の雲のさらに上に棲んでいるとされていて、百年に一度姿を現すかどうかという存在らしい。

しかも非常に凶暴で、周辺の魔物を片っ端から襲い続けているという。

そしてフィルが、異国の古い文献の中からある記述を見つけた。

ドラゴンの血は万病に効く、と。

魔力を帯びた毒素であっても、ドラゴンの血ならば体内から浄化できると、遥か昔の文献に記されていたらしい。

そういえば殿下は、ここを初めて訪ねたあの日、言っていた。

『一つだけ覚えておいてくれ。アネット自身が諦めても、俺は絶対にアネットを諦めない』

殿下は私のために、もう手がないと言われても諦めずに調べて、そして唯一の望みにかけてドラゴンを退治しに向かったのだと分かった。

――その血を手に入れるために。

殿下が残した書置きには、自分にもしものことがあった場合、王太子の座は弟に譲ってほしいと書かれていたそうだ。

だけど、こんなの間違っている。

エドモンド殿下には未来がある。

この国を率いる、王としての未来が。

それなのに私のためにその未来を棒に振るような真似は、見過ごせない。

私は彼を追うべく急いで部屋に戻って出立の準備をしようとして……即座にその名にいた全員に行く手を塞がれた。

「どうして止めるの!?」

「エドモンド殿下からの命です。アネット様に決して自分たちを追わせるなと」

セルジュの言葉に私は言葉を失う。

けれどすぐに反論する。

「あなたたちは私のハーレムの人間です。主である私に歯向かうことは許しません」

「いえ。 私たちはもともと、エドモンド殿下のお役に立てるようにと集められた者たちです。 ならば今は、殿下の命に従うのが筋かと」

「っ!?」

ここで、あの夜に殿下が言っていたもう一つの台詞も思い出す。

『確認させてほしい。このハーレムの人員は、俺のために揃えた――そういう認識でいいんだな』

そうだ。

私は最初から、彼らを殿下の力になれる人間として集めた。

なら今、彼らが殿下のために動いているのは、私の計画が正しく機能しているということ。

私は思わず膝から力が抜け、その場にがくりと座り込みそうになる。

けれどすかさず女性たちが私に集まって支えてくれた。

「……ずるいですよ、殿下」

ここまでされたら、私にはもう何もできない。

色々な感情が湧き上がって、けれど言葉にならず唇を噛み締めることしかできない私に、セルジュが私を落ち着かせるような柔らかい声色で言った。

「大丈夫です。信じましょう。アネット様が選んだ彼らと、そして我らが殿下を」

「…………」

私は何も言えないまま、それでもゆっくりと顔を上げた。

窓の外には、どこまでも青い空が広がっている。

まるで明るい未来を信じさせてくれるような明るい色に、私は全員の無事をただ静かに祈ることしかできなかった。

●●●●

ドラゴンのいると思われる山岳地帯に到着したのは、元の国を出発して一カ月は経った頃だった。

船で海を渡り、フィルが通訳を担うことで異国に住み着いたドラゴンの居場所を現地の人間に教えてもらった。

近づくにつれて、周辺の様子がおかしくなっていくのが分かった。

木々が薙ぎ倒され、地面が引っ掻かれたように抉れている。

途中で通りかかった村はつい最近まで人が住んでいたそうだが、今はがらんとした廃村のようになっていた。

魔物たちが元の住処から逃げ出し、村々を襲ってきたのが原因らしい。

しかし、かなりの強さを誇る魔物たちだったらしいが、それを逃げ散らせるほどの存在が、この先にはいる。

「殿下、そろそろです」

オットーが地図を確認しながら言った。

眼鏡の奥の目が、いつになく真剣だ。

魔物の話になると嬉々となって人が変わる男だが、今日ばかりはその知識が命綱になる。

「弱点をもう一度確認したい」

俺がそう言うと、オットーは即座に答えた。

「ドラゴンの鱗ですが、通常の剣では傷一つつきません。ただし顎の下の一箇所だけ、鱗が薄くなっています。そこを狙ってください」

続けてフィルが、疾うに失われた言語で書かれた古い文献を取り出す。

「三百年前の記録によれば、ドラゴンは炎を吐く前に一度大きく息を吸います。その瞬間だけは動きが止まる。その時が狙い目です」

「そのタイミングで一気に近づき、顎の下を突き刺す、か」

「はい、同時に口の中にセルジュの作ったこの強力な毒を投げ込んでください」

言いながらオットーが懐から取り出したのは、わずか一グラムでも人間が摂取すれば致死量に至ると言われる強力な毒の入った瓶だった。

薬に精通しているからこそ、毒にも詳しいと、そういうことらしい。

本当はセルジュも連れて行きたかったが、彼には医師としてアネットの傍にいてほしかったため、同行させなかった。

代わりに渡されたのが、この毒だった。

ドラゴン相手に効くか不安だったが、こればかりは信じるしかない。

もし無理ならば、長丁場になることを覚悟の上で剣のみで倒すまでだ。

「それともう一つ、非常に重要なことがあります。ドラゴンは死後、時間が経つと体が消滅します。ですから戦いが終わっても、気を抜かないでください」

「消滅する前に血を取るためだろう。もちろんだ」

「はい。血がなければ、全てが無駄になります」

オットーの言葉に俺は頷くと、全員の顔を見渡した。

ドラゴンの生態と弱点を知るために連れてきたオットーと、現地での通訳係として役割を果たしてくれたフィルは前線向きではない。

よって今回前に出るのは、俺とクルド、それから剣に覚えのある数人。

俺も剣には自信はあるが、正直、一人で勝てる相手ではない。

戦闘では、クルドたちの助けが必要になる。

「すまない、君たちには危険が及ぶ可能性があるが」

「何を仰いますか、殿下。我らはそのためについてまいりました。殿下の剣となり盾となる、それが俺たちの役目です。それに」

ここでクルドは言葉を切ると、真面目な顔で続けた。

「アネット様は親の借金返済のために鉱山でボロボロになるまで働いてた俺を見出し、助けてくれました。他の連中も似たようなもんです。俺たちは、アネット様に生きてほしい。だから、アネット様のために思う存分俺たちを使ってください」

最後は笑いながら言い切るクルドの横で、他の者たちも無言で頷いた。

「……ありがとう」

それ以上は何も言わず、俺は前だけを見て歩みを進めた。

そしてついにドラゴンへの住処へと辿り着く。

ドラゴンは、思っていた以上に大きかった。

山の斜面に沿って横たわっていたそれは、俺たちが近づくと緩慢に頭を持ち上げた。

金色の目がこちらを見下ろし、全身を覆う黒い鱗が、太陽の光を受けて鈍く光った。

ドラゴンが低く唸り、地面が微かに震える。

俺は呼吸を整えると、ゆっくりと剣を抜いた。

頭の中には、アネットの顔が浮かんでいる。

痛みと死への恐怖を抱えながらも、いつものように、何でもないふりをして笑っていた彼女。

アネットは俺のために人を集めて、俺のために笑っていた。

あんな悲しい笑顔は、もうさせたくない。

「帰ったら、今度はちゃんと笑ってくれよ」

俺は小さくそう呟くと、ドラゴンに向かって地面を蹴った。

○○○○

エドモンド殿下が旅立ってから、私は気がつけば窓から空を見上げるようになっていた。

だって、どれだけ遠くにいても、空だけは繋がっているから。

殿下に届くか分からないけど、私は、ただただ無事に帰ってきてほしいとそんな気持ちを込めて、祈り続けた。

薬の量は明らかに増えていて、痛みで食欲も湧かない。

だけど、殿下が帰ってきた時、みすぼらしい姿で出迎えたくないと、私は決して食事を抜かず、何とか口の中に詰め込んだ。

そんなある日のことだった。

「アネット様、何やら外が騒がしいようです」

聞こえてきたセルジュの声に窓からそちらの方へ視線を向けると、屋敷の門の前に人だかりができていた。

もしかして、まさか……。

私は立ち上がり、はやる気持ちを押さえて歩いていたけれど、そのうち我慢できなくなって走り出した。

途中転びそうになりながら、そのたびに傍にいた女性たちが私を支えてくれて、何とか門の前へ辿り着く。

そこには、見覚えのある顔がずらりと並んでいた。

埃だらけで、疲れ果てた顔で、だけど確かに立っていた。

オットーや、フィルや、クルドたちが。

そして一番後ろには――エドモンド殿下がいた。

「アネット、今帰った」

いつものようにあまり変わらない表情だったけれど、その瞳には確かに希望の光が灯っていた。

おかえりなさい。

そう言いたいのに、私の唇は思うように動いてくれない。

何も言えずに立ち尽くす私に、殿下の方から近づいてくる。

その手には瓶が握られていた。

「ちゃんと持って帰ってきたぞ」

黒みがかった深い赤色の液体が、光を受けてきらりと光る。

少しずつ大きくなっていく殿下の姿が、なぜかぼやける。

私の目に涙が滲んでいるのが原因だと気づくのに、少し時間がかかった。

「……馬鹿です、殿下は」

「そうかもな」

「王太子が単身ドラゴンのところへ行くなんて、正気じゃないです」

「そうだな」

「心配したんですよ、私は」

「……すまない。だが」

私の目の前で足を止めた殿下は、くしゃりと笑って言った。

「約束しただろう。諦めないと」

私はずっと堪えてきたものを全部吐き出すように、泣いた。

そんな私の頭に、殿下がそっと手を置く。

「できれば、君には笑ってほしいんだが」

「っ……」

目からは絶えず涙が流れ、私の顔はお世辞にも綺麗とは言えないはずだ。

それでも私は、鼻をすすりながら笑った。

そうしたら殿下は、嬉しそうにさらに顔を綻ばせた。

それからセルジュが急いで瓶を受け取り、すぐに屋敷の奥で薬の調合を始める。

ドラゴンの血を使った解毒薬の調合は、セルジュでさえ初めてだったらしいが、

「大丈夫です。必ず治します」

力強いその言葉を、私は信じることにした。

一時間後。

私はセルジュが差し出した薬を飲んだ。

全部飲み干すと、しばらくして体の奥深くから、じわりと温かいものが広がっていく感覚があった。

ずっと体の中に居座っていた重いものが、少しずつ溶けていくような……。

それと同時に、意識がふっと遠のく。

殿下が私の名前を呼ぶ声が聞こえたが、どうすることもできなかった。

それでも、体をじんわりと温める熱に身を委ねながら、私は捕らわれていた恐怖から解放されていくような、そんな気がしていた。

大丈夫、きっと私には明日が来る、と。

翌朝、目が覚めた時、痛みも体の重さもまるで嘘のように、きれいさっぱり消えていた。

「アネット!」

寝台から少し体を起こして声の方を見ると、殿下が泣きそうな顔になった後、ぎゅっと私の体を抱きしめる。

彼の体温を感じながら、私はふと天井を見つめる。

余命を宣告された時には無表情に見えたそれが、今日はなんだか明るく見えた。

◯◯◯◯

それからしばらくして、私の作ったハーレムは解体された。

このハーレムの世間への説明は、殿下が自ら行った。

アネット・クランベルンのハーレムは、王太子を支える人材を集めるための場であったと。

その事実が発表された時、王都は再び騒然となったらしい。

らしい、というのは、その頃私は殿下の婚約者として復帰する手続きで忙しくて、やっぱり世間の反応をゆっくり気にしている暇がなかったからだ。

ハーレムにいた女性陣は、その才を認められ、王城の女官として働いている。

レナードは財務省に登用され、フィルは外交官として大国への使節団に加わった。

オットーは王城付きの魔物研究官という、彼のためだけに作られたような役職に就いた。

セルジュは王城の侍医として迎えられた。

クルドたちは殿下の近衛兵になって活躍している。

それ以外の全員も、それぞれの場所で、当初の予定通り、直接的にではなくてもそれぞれの力を発揮してこの国を支えていた。

そして私はというと。

「殿下、そろそろ休憩しませんか?」

執務室の扉を開けると、殿下が書類から顔を上げた。

「そうだな」

窓際の小さなテーブルに向かい合って座ると、使用人がお茶を置いて音もなく後ろへと下がる。

私は殿下がカップを手に取るのを見ながら、改めて居住まいを正して言った。

「私を助けてくれてありがとうございます、殿下」

すると殿下は呆れたような声を上げる。

「君は何回言えば気が済むんだ」

「だって感謝の気持ちは何度伝えてもいいでしょう?」

「…………」

無言でお茶を飲む殿下は、ドラゴン退治から帰ってきたばかりの時に見せてくれた時とは違い、いつも通りの感情をあまり表に出さない殿下に戻っていた。

だけどそれでいい。

これがずっと隣で見てきた、私の知っている殿下だ。

この人の傍に戻れてよかった。

その気持ちが、ふと私の口から意図せず零れた。

「エドモンド殿下、大好きです」

途端に二口目を飲もうとカップを持ち上げていた殿下の動きが、ぴたりと止まった。

そのままの姿勢で固まっていたが、しばらく経って、殿下の耳がじわじわと赤く染まり始めた。

私は思わず口元を押さえる。

何か想定外のことがあると固まって動けなくなる癖は、相変わらずらしい。

「……突然、何を言い出すんだ」

ようやく絞り出された殿下の声は、いつもより少し高かった。

「思ったことを言っただけです」

「…………」

「殿下にも同じように想っていただけていると嬉しいのですが」

「…………っ」

殿下がカップをソーサーに置いた。

それから窓の外に目をやって、わざとらしくこちらから視線を外す。

だけど耳はずっと赤いままだ。

私はくすりと笑った。

この先もずっと、この人の傍にいよう。

そしてこの輝きを隣でずっと見ていたいと、そう思った。