軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

36話 またしても何も知らないマルクス様

2月。ポンペイの街に春の足音が近づくこの時期は、本来であれば政界が最も熱を帯び、血生臭い駆け引きが始まる季節である。

植民市(コロニア) ポンペイの最高公職たる 二人官(市長) 選挙に向けて、各派閥が候補者を擁立し、激しいつば競り合いを繰り広げるのだ。

それは私、マルクス・ルクレティウス・フロントも例外ではない。

ポンペイの有力な名門貴族として、来年の 二人官(市長) 選挙への後援を見返りに、ガイウス・クスピウス・パンサと、ルキウス・アルブキウス・ケルススの両名を擁立し、選挙の後援を行っている。

そうなると当然、ライバルとなる陣営を推す派閥からの激しい妨害工作や、なんなら私への誹謗中傷の落書きが街の壁を埋め尽くすはずなのだが。

「……どうにも、おかしいな」

私は郊外の農場からの帰途、揺れる馬車の中で一人腕を組み、 怪訝(けげん) な 溜息(ためいき) を漏らした。

2月に入ってからというもの、ポンペイ政界の、正確には『私に対する味方陣営を含む諸派閥の対応』が、どうにも奇妙なのだ。

去年までは、私が手広く行っている都市内の不動産事業や 被保護者(クリエンテス) に対して、些細な法規制を盾にした訴訟や、不当な圧力といった妨害行為が日常茶飯事だった。

まあそれは敵対陣営に対して私も行っていることではあるのだが。

しかし、それがここ最近、ぴたりと止んでいるのだ。

それどころか、先日の 公共広場(フォロ) での集会や、宴席において顔を合わせる各派閥の長たちの態度が、まるで腫れ物にでも触れるかのように及び腰なのである。

『おお、マルクス殿! 今日も素晴らしい着こなしで……』

『いやはや、ルクレティウス家とは古くからの良き隣人ですからな。……ねえ?』

などと、不自然なほど愛想よくすり寄ってくる。

そして宴の席で酒が進むと、彼らは自分の妻や娘たちの顔色をチラチラと窺いながら、ひどく要領を得ないことを 囁いて(ささやいて) くるのだ。

『マルクス殿、貴殿も 妻帯者(さいたいしゃ) だ。娘もいる。……わかるよな?私たちは政治の場では争うこともあるが、根本では盟友だよな?だからその……妻たちの手前もある。ちゃんと頼むぞ?な?な!?』

『ああ、お前の家の“アレ”だ。あれがもし我が家に渡らないとなれば我が家は……考えるだけでも恐ろしいっ!…… 便宜(べんぎ) を図ってくれると信じているぞ』

……全くもって、意味がわからない。

“アレ”とはなんだ? 便宜(べんぎ) とはなんのだ?

私の権勢が恐ろしくなり、ついに彼らも膝を屈したということか?

二人官を狙う者を後援できるほどの立場の者が?

いや、そもそも妻や娘の機嫌を気にして政治の態度を変えるなど、家長としてあるまじき軟弱さではないか。

「もしや、娘のルクレティアが流行らせている『リバーシ』のことだろうか?」

私は馬車の窓から外を眺めながら推測した。

確かにあの白黒の ボードゲーム(ルードゥス) は、今やポンペイの上流階級の女性たちの間で爆発的な流行を見せている。

だが、たかが遊戯だ。

いくら奥深く、女子供が夢中になっているとはいえ、都市の政財界の勢力図を変えるほどの影響力を持つはずがない。

女たちの遊び道具の配分で、男たちの政治闘争が手打ちになるなど、滑稽にもほどがある。

「まあ、良い。敵が勝手に萎縮して道を譲るというのなら、それに越したことはない」

私は 鷹揚(おうよう) に構え、自宅へと帰還した。

そうして 広間(アトリウム) に入ると、空気が妙に張り詰めていた。

いつもなら出迎えるはずの妻や娘の姿はなく、代わりに私を迎えたのは 執務室(タブリヌム) の前にいる三人の男。

我が家の管理奴隷であるフェリクス。

出入りの薪商人……いや、最近は先ほどまで頭に浮かべていたリバーシなどを作っているというデキムス。

そして、我が家の召使奴隷であり、リバーシの考案者である子供、ルシウスだ。

「お戻りなさいませ、 マルクス様(ドミヌス) 」

フェリクスが一礼する。

その顔色は、驚くほど蒼白だった。

何か致命的な病にでも冒されたかのような死相が浮かんでいる。

隣のデキムスに至っては、生まれたての小鹿のように膝をガクガクと震わせ、今にも気絶しそうだ。

ただ一人、ルシウスだけが『早く終わんないかな、眠いな……』というような、投げやりな表情で明後日の方向を向いて 欠伸(あくび) をかみ殺していた。

相変わらずこいつは肝が太いな。

「どうした、フェリクス。そんな青ざめた顔をして。……デキムスも、何か我が家に 粗相(そそう) でも働いたか?」

私が威厳を込めて問いただすと、フェリクスが震える手でずっしりとした2つの皮袋を差し出した。

「も、申し訳ございません、マルクス様。至急、ご報告しなければならない収支の件がございまして……。こちらを」

私は訝しげに皮袋を受け取り、中に目を通した。

「……なんだ、これは?」

中にぎっしり詰まっているデナリウス銀貨を見て、私は思わず声を漏らした。

「そ、それに、か、かんしては、ルクレティウス様とフェリクス様への上納金と分配金でございますっ!」

裏返った声でパピルスを差し出してくるデキムス。

そこには先月分の「実績」として、上納金190デナリウス、フェリクスへの分配金95デナリウスという異常な額が計上されている。

そして、添えられた予測書には「来月以降も同等、あるいはそれ以上の増収が見込まれる」とある。

「どういうことだ、フェリクス。こんなに急激に家の収入が増加することなどあり得んだろう。……しかもお前への分配金?……もしや、我が家の 家財管理奴隷(ヴィリクス) という立場を利用して横領をしていたというのか貴様!?」

それならば納得がいく。

だが、それならなんで自首を?

「い、いえ、違いますマルクス様!横領などではございません!これは全て、適正な事業収益によるものでございます!」

「事業だと?リバーシの販売益だけで、これほどの金になるというのか?」

「そ、それもございますが……主たる要因は、 麦の蜜(水あめ) 事業によるものです」

麦の蜜(水あめ) 。

ああ、思い出した。

確か少し前、フェリクスがそこにいるデキムスの工房で生産が開始されたと報告してきたあれか。

あれはたしかに私も好んで食しているが……。

「あの甘味が原因だと?いつの間に、これほどの利益を上げる事業に育っていたのだ?」

私の追及に、フェリクスはその場に片膝をつき、深く頭を下げた。

「恐れ入りながら申し上げます!あの新しい甘味の事業は、立ち上げ当初、どのようなリスクが潜んでいるか先の見えないものでございました。万が一にも、ルクレティウス家の名誉や財を棄損せぬようにと……私の 特有財産(ペクリウム) から出資を行い、あくまで私によるデキムスへの出資という形をとって、芽が出始めてから事業として報告を行う想定でした。しかし予想外の急伸で結果的に報告が遅れてしまったのですっ!」

なるほど。

奴隷が己の小遣い銭で商売の真似事をするのは、法的に許されている。

そしてその事業が失敗し負債を抱えた場合、慣習上『主人のあずかり知らぬ部分』という条件付きではあるが、奴隷のペクリウム分のみの弁済で済み、主人の財産まで差し押さえられることはない。

フェリクスは、未知の事業のリスクからルクレティウス家の責任を切り離すために、あえて事後報告という形をとったというわけだ。

「……ふむ」

私は顎を撫でた。

確かに、私への報告が遅れたことは家父長としての権威を軽んじる行為であり、褒められたことではない。

しかし、結果として毎月200デナリウス近い莫大な利益を生み出す見込みになり、自らの 特有財産(ペクリウム) についても扱いについて伺いを立ててきている。

なにより甘味の小商いごときでこんなに急に事業が伸びるなどとは確かに想像できないであろう。

リスクは奴隷が背負い、果実は主人が頂く。

問題や予想外の事態が発生したときは、主人の不利にならない場合は速やかに報告を行う。

これぞまさに、理想的な奴隷の運用法ではないか。

「まあよい。事前の報告が足りていなかったことは 叱責(しっせき) に値するが、ルクレティウス家の名誉を守るために防波堤になろうとした、その誠実な姿勢は褒めてやろう。お前が私に忠実であることは、この数字を隠さず正直に持ってきたことが証明しているからな」

私が 鷹揚(おうよう) に頷いてみせると、フェリクスは目に見えて安堵の息を吐き出した。

「ははっ! ありがたき幸せに存じます……!」

「して、話はそれで終わりか? ならば私は着替えを……」

私がそのまま奥の部屋へ向かおうとした瞬間、フェリクスははっと顔を上げ、すがりつくような悲痛な声を出した。

「お、お待ちくださいマルクス様!! 此度(こたび) の件、本題はこの増収の件ではございません!むしろ、ここからが本題なのです!!」

「……は?」

本題?

月の収入が2割も跳ね上がるような異常事態が、本題ではないだと?

私は不機嫌に振り返った。

「もったいぶるな。一体何が起きたというのだ」

「そ、それが……!」

フェリクスは隣でガタガタと震えているデキムスをなぜか指差し、絞り出すような声で言った。

「現在、ウンブリキウス様の邸宅に……ミセヌム艦隊の司令官に就任されたばかりの、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス様がお越しになられてるようなのです!!それで――」

「……あ゛?」

「ひっ!」

ウンブリキウス。

その言葉に私の機嫌は急降下する。

青筋を立てているであろう私の顔を見てフェリクスが小さく悲鳴を上げた。

プリニウス閣下。

彼が先月ミセヌム艦隊司令に就任したという報せを聞き、私もすぐさまポンペイの名士として、我が家のワインの最上級の物を宴への招待状を添えて就任祝いの品を送った。

だが、結果は「宴は公務多忙につき辞退する」と、書記を通じた冷酷な手紙で一蹴されたばかりなのだ。

しかしその閣下がよりにもよってウンブリキウスめの邸宅にいる?

「それがどうした?それを私に伝えてどうするつも―――」

「プリニウス様は私の、このデキムスめの工房の視察を要求しておられるのです!!ついては至急、ルシウスの力を借りたく……!」

私の言葉をデキムスが遮る。

「?????」

よくわからん。

そこでなんでルシウスが出てくる?

「さきほどもウンブリキウス様の使いがここにきて、工房にはもう訪問できるのかと聞かれたところでして……!!……ルクレティウス様、どうかルシウスを本日だけお貸しいただきたく!!」

「いや、なんでそうなる!?」

訳が分からんぞ!?

なんでプリニウス閣下がウンブリキウスの邸宅に来ているのに用事は お前(デキムス) なのだ!?

そもそもそれがなんでルシウスを貸すという話になるのだ!?

そっちについて詳しく説明しろ!!!