作品タイトル不明
27話 まだ何も知らないマルクス様
新たな年を迎えたポンペイの街は 農神祭(サトゥルナリア) の狂乱も過ぎ去り、穏やかな冬の陽光に包まれていた。
そんな輝かしい新年のある日の朝、私、マルクス・ルクレティウス・フロントは自邸の 執務室(タブリーヌム) で上機嫌にパピルスの帳簿を眺めていた。
アトリウムの吹き抜けから差し込む光が、床のモザイク画を美しく照らし出している。
実に良い朝だ。
「……うむ。悪くない。いや、実に良い数字だ」
手元の帳簿には、 我が家(ルクレティウス家) が所有する農園や賃貸物件からの先月の収益が記されている。
例年、12月は 農神祭(サトゥルナリア) の需要とオリーブの収穫により上振れるものだが、それを考慮しても今年は例年に比べて上振れ幅が多い。
だがその理由は 家財管理奴隷(ヴィリクス) のフェリクスからの報告によってわかっている。
上手くやればもう少し収益を積めたことも。
「フェリクスめ……もう少しうまくやってほしかったものだが、まあ仕方がない」
少しだけ愚痴を言ってみるものの、私の頬はその言葉とは反対に緩んでいた。
最上の手を打てていたわけではないが、それでも上振れは上振れ。
多少の落ち度をあげつらうのは成り上がり者や切羽詰まった没落者が行うもの。
私のような 盤石(ばんじゃく) な地位にある 騎士階級(エクイテス) は 鷹揚(おうよう) に評価してやるものなのだ。
報告書を閉じて、私は満足げに頷いた。
やはりここの所の我が家は上向きだ。
調子が良いのは懐事情だけではない。
我が家の空気そのものが、劇的に良くなっている。
「あら、あなた。家でのお仕事は終わったのかしら?」
休憩がてら執務室から出ると 広間(アトリウム) の方から妻の声。
そこには数人の女奴隷を従えた妻が立っていた。
以前は冬場は胃腸の調子が悪くなるらしく、朝からピリピリとしていることもあった妻。
だが、ここ最近はどうだ。
表情は 春の女神(フローラ) のように穏やかで、心なしか肌艶も良い。
「あぁ、ひと段落したところだ……今日も機嫌が良さそうだな」
「ええ、もちろんですわ。これから奥様方を招いてのお茶会がありますの。……ふふ、皆様方ったら、先日の会で出したシフォンケーキという新作のお菓子にすっかり魅了されてしまって……レシピをしつこく聞かれるのですけど、教えるわけにはいきませんわよねぇ?」
妻は扇子で口元を隠しながら勝ち誇ったように笑った。
なんでも、最近我が家の厨房で作らせている新しい甘味が絶品らしい。
小麦から作ったという蜜で作られたそれらの菓子は、ポンペイの奥方令嬢の間で『ルクレティウス家の最新甘味』として噂になっているとか。
妻の機嫌が良いのは、現在社交界において甘味によりマウント合戦に連戦連勝しているからだ。
まあ、うん、いいんじゃないかな。
夜の宴と違ってそんなに金もかかっていないようだし、それにもかかわらず社交の中心が我が家になるのは実に良いことだ。
そして家庭内の平和は何よりも代えがたい。
うん、素晴らしいことだ。
特に懸念すべき材料もないのでご機嫌の妻との会話を切り上げアトリウムを後にする。
そして、 奥の中庭(ペリステュリウム) の方に耳を向けると、鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。
「また私の勝ちね!さあ、次は誰がお相手かしら?」
愛娘(まなむすめ) ルクレティアの声だ。
柱から覗いてみると、娘が庭のテーブルで数人の着飾った少女たちと向かい合っている。
テーブルの上には、白と黒の石が並べられた盤面。
『リバーシ』とかいう、新しい ボードゲーム(ルードゥス) だ。
「もう一回!ねっ、もう一回お願いルクレティア様っ」
ルクレティアにお願いをしている少女を見て、私は思わず口角が吊り上がるのを止められなかった。
あれは、ウンブリキウス・スカウルスの孫娘ではないか。
ウンブリキウスといえば、 魚醤(ガルム) の製造販売で財を成したポンペイきっての成金だ。
家長であるアウルスは商才はあるが教養に欠ける男で、何かにつけて我が家に対抗意識を燃やしてくる忌々しい存在だ。
しかしそのウンブルキウスの孫娘は今や我が娘が広めたリバーシに夢中。
リバーシは娘が広めただけあって娘が強いらしく、ウンブリキウスの孫娘は完全に主導権を握られている。
我が娘ながら、見事な手腕だ。
リバーシという知的な ボードゲーム(ルードゥス) を通じて同年代の子供たちの 中心(リーダー) に収まっている。
「ふむ……。やはり、私の目は確かだったというわけか」
私は一人、悦に入った。
このリバーシも、妻が喜んでいる甘味も、フェリクスの報告によれば元を辿れば一人の奴隷に行き着く。
ルクレティアに付けた奴隷のルシウスだ。
数年前、奴隷商の屋敷で見かけた時のことは今でも覚えている。
この私の高貴さを理解していないのか怯えたり目をそらしたりする子供奴隷がほとんどの中、ルシウスは私の目をまっすぐに見て、会釈をした。
その瞳に宿る奇妙な理知の光に、私は何かを感じ取ったのだ。
「こいつは化ける」と。
その直感に従って買い付けた私の判断はまさに正解だった。
名門にはそれにふさわしい器量の人間が集まってくる。
主人が優れているからこそ奴隷もまたその才能を開花させるのだ。
つまりルシウスの手柄は、彼を正しく運用している私の手柄に他ならない。
「失礼いたします、 ご主人様(ドミヌス) 」
屋敷を見回り執務室に戻ると、直後にフェリクスの声。
彼は 恭しく(やうやうしく) 一礼して、執務室に入ってきた。
「おや、フェリクスか。どうした?」
「はい。お嬢様と奥方様がお茶会で使っている 麦の蜜(水あめ) につきまして、出入りの商人の工房での製造がはじまりましたのでご報告をと」
そう言ってフェリクスは私にコップほどの大きさの壺を渡してきた。
これがその工房で作られたという 麦の蜜(水あめ) なのだろう。
「あぁ、あの麦から作れるというあれか。たかが甘味だろう?食卓が豊かになるのは良いことだが、一々雑事を報告してこなくても良いぞ?……すっきりしてて美味いなこの蜜」
私は検分のためにフェリクスから渡された麦の蜜をなめながらフェリクスに言い渡す。
この前のリバーシの失敗からか、要所の出来事を早期に報告しようとする姿勢は褒めてやるが、あまり細かすぎるのもいかんぞ?
「はっ、失礼いたしました」
「よい。それはそうとこの 麦の蜜(水あめ) 、定期的に私も検分せねばな。……うむ、毎週これくらいの量を送るようにその商人に伝えておけ」
「かしこまりました。それでは……」
私の指示を受け付け、フェリクスは一礼して執務室から立ち去る。
私は残された麦の蜜が入った小壺を手で回しながら中の蜜をもうひと舐めする。
「やはり、ハチミツに比べてくどくない……これは良いな」
それにしても麦から甘味を作るなどとは、娘が言っていた『ルシウスが高熱にうなされた際に女神ミネルヴァから英知を授かった』というのはあながち間違いでもないのかもしれないな。
まあ 所詮(しょせん) は奴隷に授ける程度の英知、それで得られる 果実(利益) は私や娘ルクレティアの様に貴族が活用してこそであろうが、また英知を授かるようなら追加の褒美でも考えてやろう。
場合によっては ユピテル(ジュピター) 神殿に司祭として送り込んでいる息子の栄達にも使えるやもしれぬしな。
窓の外からは、まだルクレティアたちの楽しげな声が聞こえてくる。
平和だ。
この屋敷は秩序と繁栄に満ちている。
良い、とても良い傾向だ。
全てが上手くいくときの感覚のなんと心地よい事か。
確かな繁栄の足音を感じながら、私は再び執務に戻ることにした。