軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

妻、逃走します!

広い邸の、広い部屋。

三階にあるこの部屋は、どうやら主人である彼のための私室らしい。

なぜ私がそこにいるのかは置いておき、ずらりと並んだ使用人の目が気になる中、金庫番の制服を着た私がアレンディオ様の妻として共に着席しているのは違和感がありすぎる……!

陛下は「住めるように整えておく」とおっしゃったそうだけれど、とてもそんな気軽な感じではなかった。

一流の家具職人が新しく誂えたであろう、ピカピカの調度品。王国3大名画の1つといわれる月夜の絵画が、真白いクロスの壁に堂々とかかっている。

これでも貿易商の娘、物の値段はある程度知っているつもりだ。

この部屋は……国宝級の代物が揃っている。

邸ですよね!?博物館じゃないですよね!?

アレンディオ様が活躍した話は飽きるほど聞いたけれど、この人一体どれくらい評価されているの!?

私が思っていた以上に、英雄になって帰ってきたのかもしれない……!

愕然としていると、テーブルの上にはゆらゆらと湯気が立ち上るハーブティーが静かに置かれた。

今日まで誰も住んでいなかったにもかかわらず、焼き立てのクッキーやカヌレまでが用意されている。

ただしそれに手をつける勇気が、私にあるわけもなく……。

あぁ、でもこんな豪華なお菓子は食べないともったいないのでは。食べたいけれど、食べられない。ジレンマが続く。

「ソアリス、どうした?」

ずっと無言で、置き物のようにちょこんと座っている私を見て、アレンディオ様が微笑みながら問いかけた。

彼は馬車同様、私の隣に座っている。

こんなに広いのだから、正面に座ればいいのに……。

でもとてもそんなことは言い出せない。

邸に戻ったらさすがに鎧は解いて、立ち襟の黒い長袖シャツにグレーの軍用ズボン姿になったアレンディオ様。

腕は騎士らしく太く、城にいる近衛騎士よりも明らかに戦い慣れしている体躯だと素人にもわかる。

10年前の、私の知っているアレンディオ様はか細く華奢な美青年だったけれど、今はまったく見る影もない。

吹けば飛ぶような体から、よくここまで鍛えたものだなと感心してしまった。

しかし、なし崩しに邸へ連行されてしまったが、流されるわけにはいかない。

ポケットの中にある「離婚申立書」を、何としてでも早急に渡さなくては。

金庫番の仕事は既婚者がなるのが慣習だけれど、絶対条件というわけではないから離婚したところで問題ない。

そもそも戦場から夫が戻ってきたら辞める女性もいるだろうし、人手不足になるのは明らか。クビになることはない。

私は仕事があるから生活に困る心配はなく、笑顔で彼と離婚できる。

それにアレンディオ様だって、戦勝祝いのパーティーや式典の前に身ぎれいになっておいた方がいいだろう。

アレンディオ・ヒースラン将軍という英雄が、結婚していると大々的に知れ渡る前に離婚したい。

これから先、彼は英雄として皆に認められて華々しい人生を送るんだ。

私という、お荷物妻が隣に居座っていていいはずがない。

もう自由にしてあげなくては。

私は気合を入れ直し、深呼吸をする。

あぁ、でも今ここで露骨に離婚を切り出すにわけにはいかないんだよなぁ。

こんなに人がいるところでは……。

一応、私たちは夫婦。使用人の目は気になる。

不仲どころか互いに何も知らない他人みたいな関係だけれど、迂闊なことを言って不仲だという噂が立てば、将軍にまでなった彼の名誉を貶めることになりかねない。

それはわかる。

私たちは、円満に離婚するべきなんだ。

離婚する前に、なんでアレンディオ様がこんなにおかしくなってしまったのかは聞いておきたいけれど……。

「あの、アレンディオ様」

「………」

「アレンディオ様?」

「…………」

おかしいな。隣にいて、目は合っているのに返事がない。

目と頭と、耳もやられたのだろうかと思うがさっきまで普通に会話していた。

となれば、まさかのまさかだが……。

「えっと、アレン?」

「何だい?」

愛称で呼んだ瞬間、彼はパァッと破顔した。

その笑顔が神々しいことこの上なく、冗談抜きで直視できない輝きだ。

苦い顔で目を逸らせば、彼は黙って私の言葉を待っている。

「アレン、ちょっと二人で話がしたいのですが……」

「わかった。おまえたち、ここはもういいから下がれ」

彼はすぐに指示を出し、ずらりと壁際に並んでいた使用人たちは早々に部屋を出た。

しんと静まり返った部屋は、自分の呼吸が聞こえそうなほど。

深呼吸をして、私はとうとう疑問を口にする。

「一体どういうつもりなのでしょうか?」

「何が?」

じっと見つめると、やはり彼は愛おしげな目を向けてくる。

「急にこんな……、10年も離れていたのに」

なぜ、今さら私を好きだというふりをする必要があるのか。

本心だと彼は言うが、とてもそれを信じることはできない。

信じられる要素がなさすぎる。

「帰ってくるのが遅い、ということか?怒ってる?」

「違います!そうじゃなくて」

「では何が気になっているんだ?俺は約束通り、君のところへ戻ってきた」

「約束……?」

まったく記憶にない。

何の約束だというのだろう。

きょとんとしていると、アレンディオ様は懐かしむ顔でぽつりと言った。

「生きて帰る、と……」

私の中の、わずかしかない彼との記憶を掘り起こす。がっつり掘ったところで、思い当たるシーンが見つかった。

出立の日。

アレンディオ様はそっけなく「生きて帰る」と言ったような。

え、まさかあれのこと?

死なないでね、からの「生きて帰る」というお返事を約束だとあなたは言うの???

あの言葉に、「君の元へ必ず戻る」とかいう意味が含まれていたの?

そんなのわかるわけがない。

「言葉足らず……」

思わずそんなことが口から漏れる。

彼は苦笑いで、申し訳なさそうに目を伏せた。

「昔は、確かに色々と足りないところが多すぎたと思う。自覚はある」

「あるんですね」

10年前の彼の会話力は、皆無に等しかったということだ。

まさかここまでとは。

愕然とする私に、なおもアレンディオ様は言った。

「国境から戻る途中、リンドル子爵家が以前のような……勢いが消失していることは耳にした。大変なときにそばにいてやれなかったこと、すまないと思う」

彼は言葉を選んでいた。

勢いが消失どころではなく、転落や没落という表現の方がしっくりくるのに。

「けれど、実家が困窮しても君は仕事をして、王都で俺の帰りを待っていてくれたなんて……うれしかった」

待っていません!

王都へは仕事を求めてやってきただけで、あの頃はもう必死で。

この人のことは完全に忘れていた。

薄情ものと罵られようが、ほぼ他人な夫と大事な弟妹とでは、圧倒的に後者に比重がいく。

ただ、「弟妹を痩せ細らせるわけにはいかない」とだけ思っていたのよね……。

お嬢様育ちの私が貧乏に慣れる間もなく世間の荒波に揉まれ、涙なんてかなり早いうちに枯れ果てた。

仕事は私を裏切らない。

お金も私を裏切らない。

人は、裏切ることの方が多い。

夫に逃げられたとも言える私に、あの状況でこの人を待つなんていう夢見る心は残っていなかった。

ごめんなさい。

忘れていました。

謝罪するしかない。

そんな私の心も知らず、彼は笑みを深める。

「待っていてくれてありがとう」

そう言うと彼は、私のキャラメルブラウンの髪をそっと手に取り、口元へ寄せた。

いちいち仕草が甘い。

胸が苦しくなって息が詰まった私は、慌てて髪を取り返した。

「困ります」

「なぜ?夫婦なんだから何も困らない」

困る。ものすごく困る。

だいたい美形が接近しているだけで息が止まりそうなのに、まるで私のことが好きみたいなことされたら……!!

「困ります!」

「困らない」

言い終わる前に、彼は私の手を握った。

真剣な眼差しに、なぜか私は泣きそうになった。

「あなたは……私を……」

嫌っていたのではないのですか?

成金の娘と結婚させられて、誇りを奪われたも同然だったはず。

歩み寄ろうとか、仲良くなろうとか、そんな態度も言葉もまったくなかった。

言葉を詰まらせていると、彼は私の言葉の続きを奪った。

「会いたくて会いたくて、気が狂いそうだった。何度も夢に見た」

「は?」

「君がここにいると、確かめたいんだ」

そういうと彼は瞳を閉じ、私の手の甲に唇を押し当て、そして心の底から幸せそうな顔をした。

違う。

この人は、違う。

私が知っているアレンディオ様じゃない!

本格的に頭がおかしくなったんだろうか。

奇行としか思えない彼の行動に、混乱がピークに達した私は絶句した。

「君は、俺がいない日々をどう過ごしていた?会えなかった10年を、少しずつ埋めていきたい」

「…………」

数秒間、目を開けたまま気絶してしまった気がする。

アレンディオ様はそんな私をじっと見つめたまま、指を絡めて手を繋ぎ、返事を待っているようだった。

一体、何を言えばいいのか。

アレンディオ様がこんなことを言うわけがない。

アレンディオ様が私を好きなわけがない。

アレンディオ様が………………

「ソアリス?」

声が甘い!!

こんな顔でこんなことされたら、うっかり信じてしまいそうになる。

気を確かに持て。

美形に騙されるな!

顔のいい男は大抵裏切るって、城勤めのお姉さんたちも散々言っていたでしょ!!

「アレンは、私のことを嫌っていたでしょう?どうして今さら……」

私の心はこの10年間でズタボロで、今でこそしっかり立って歩いているけれど、今度信じた人に騙されたりした日には立ち直れないかもしれない。

親戚すら信じられないのに、10年前に冷たかった人がいきなり態度を変えて、何を信じろって言うの?

真剣に目を見て尋ねると、彼は意表を突かれたという顔をした。

そしてすぐにグッと目に力が入り、少し前のめりで否定する。

「ソアリスを嫌っていたことなんてない。何かの間違いでは?」

あなたの今が、間違いでしょう!?

「10年前の俺は気の利いたことも言えず、素直に君を褒めることもできなかった。けれど、嫌いだなんて……ありえない」

はい。

あなたの今が、ありえない。

何この繰り返しは。

否定されても信じられないから、これ以上の押し問答は無意味に思われた。

あぁ、この場から逃げたくて堪らない。

もう倒れてもいいですか?

心臓が、血が、ドクドクと鳴る音が聞こえるみたい。呼吸がなぜか小刻みに荒くなり、猛烈な頭痛に襲われた。

もう限界だ。顔を顰めると、彼は途端に心配そうな顔になる。

「どうした?どこか具合でも悪いのか?」

「ず、頭痛と眩暈が……」

「大丈夫か?医師を呼ぶから、君はすぐに寝室で横になるといい」

慌てて立ち上がったアレンディオ様は、私の肩に手を置き優しく撫でさすると、すぐに扉を開けて家令を呼びつける。

一挙一動が私を好きだと言っているみたいで、ますます頭がこんがらがる。

私はもう使用人の目を気にすることもできず、ソファーに蹲るようにして上半身を折り曲げ、力なく倒れた。

「ソアリス!気を確かに!」

ああ、アレンディオ様が私のそばに駆け寄り、必死で呼びかける声が聞こえてくる。

でもごめんなさい。

返事をする気力すら残っていない。

その後、主治医になる予定の医師がやってきた後、診察を受けて薬を処方してもらった私はこっそりと邸を抜け出すのだった。