作品タイトル不明
大事なもの?を失う妻【後】
しかしこの直後、突然ドンという衝撃が走り、馬車が大きく揺れて動き出す。
「「きゃぁ!!」」
いきなり速度を上げるなんて、嫌な予感がした。
「ちょっと行ってきます!」
――バンッ!
ユンさんが一瞬のうちに扉を開け、身を乗り出して御者席にいた男を切り倒す。
赤い血が窓にこびりつき、ニーナが堪らず私に抱きついてきた。
こんな惨劇を目の当たりにしたのは初めてで、私もどうしていいかわからず、ただただニーナを抱き締め返すしかできない。
ユンさんはあっさりと御者台を奪還し、手綱を引いて馬を制御しようとするも、興奮状態にあるのかなかなか馬車が停まらない。
道と呼べるかもわからないような経路を暴走し、しばらく経ってからようやく馬たちは停まってくれた。
「ニーナ、大丈夫?」
「何とか……。気持ち悪い、酔ったわ」
左右に激しく揺れていたため、ニーナは口元を抑えて苦しげに呻く。
「ユンさん、大丈夫ですか?」
小窓から御者台を確認すると、無傷で振り返るユンさんの笑顔が見えた。
とはいえ、まだ安心はできない。
追っ手が来ていることが、蹄の音や喧騒ですぐにわかった。
「馬で追ってくるなんて、ただの野盗じゃないの……?」
もしかして、橋が通れなかったのもすべて私たちをここへ誘導するため?
待ち伏せされて、襲撃されたの?
心臓がバクバクと激しく鳴っていて、私は命の危険を感じていた。
ここからどう逃げれば……!
胸の前でぎゅっと拳を握っていると、ユンさんが半開きだった扉を開けて優しく微笑む。
「ソアリス様、ここは私が。絶対に馬車から出ないでくださいね」
「そんな……!」
「これを預かっていただいてもよろしいですか?」
そう言って手渡されたのは、藍染めの薄い紙。
反射的に受け取ってしまったけれど、別れの品を託されるように感じてしまい、私は怖くなって彼女の顔を見た。
「ユンさん……?」
「大事なものなので、ソアリス様に持っていていただけると助かります」
「大事なもの?」
おそるおそるそれを見ると、城でよく見るヤドリギの葉の紋様が入っていた。
『ケーキ無料券』
まったく別れの品じゃなかった。
ただ単に、大事なものだから預かっていてという言葉通りのお願いだった。
とりあえず、ハンカチに包んで大事に持っておこう。
私は上着のポケットにそれを仕舞う。
「では、いってまいります」
笑顔で手を振ったユンさんは、外から扉に鍵をかけた。
「ユンさん!!」
一人で戦うなんて……!
慌てて窓に顔を寄せ、外の様子を窺う。
いくら何でも、視界も悪い中で一人で立ち向かうなんて無謀すぎる。
「ユンさん!!戻ってください!!」
私の声は外には届かず、剣を手にしたユンさんが馬車の後方へ向かうのが見えた。
「いやっ!待って!行かないで!」
ここから出ると足手まといになる。
わかりきっているから身動きも取れず、私はなすすべなく絶望した。
が、ここでも予想外の事態が発生する。
「ぎゃぁぁぁ!!」
男の叫び声と蹄の音がどんどん近づいてきたのだ。
「え……?」
目を凝らすと、どうやら追っ手ではないらしい。
馬を奪ったジャックスさんとノーファさんに追われている敵だった。
そして逃げてきたところを、ユンさんに脚を斬られてあっさりと地面に転がっていく。
フード付きのマントを着たその男は、馬から投げ出された衝撃で腕がおかしな方向に曲がっていた。
――ザシュッ……!
「ひぃぃぃぃ!!」
悶え苦しんでいた男の目の前に、さらにユンさんが剣を突き立てる。
灯りに照らされ、微笑むユンさんは何て言うか……魔性の女だった。
「あら~?あなたは伝令かしら?それとも諜報?ふふっ、殺りがいがなさそう」
「た、た、たすけ…………」
「ふふっ、私、獲物は選ぶタイプなの。あんたみたいな薄汚い男はいらないわ」
――バキッ!
顔面を蹴り上げられ、男は二メートルほど吹き飛んで意識を手放した。
「え、殺してませんよね?」
馬の速度を落として近づいてきたノーファさんが、不安げにそう尋ねる。
逃げてきていた他の男たちもジャックスさんが切り伏せていて、すでに誰も動いていなかった。
――ガチャ……。
茫然としていると、ノーファさんが馬車の扉を開けてくれる。
「ご無事ですか?」
「はい、何とか」
立とうとすると足がふらつき、転びそうになったところを慌てて支えられる。
「すみません」
「いえ」
ニーナはもう立つことを諦めたのか、座ったままおとなしくしていた。
きっとその方が正解だわ。
「あの、襲ってきた人たちは全員倒したんですか?」
震える声でそう尋ねると、ノーファさんは「はい」と答えた。
「襲撃を受けてすぐ、位置を知らせる煙を上げました。アレン様たちがすぐに迎えに来ると思います」
「煙……?」
やって来た方を見ると、空に青白い煙が数本上がっている。
ノーファさんが青い棒のようなものをポケットから取り出し、それを二つに折るとそこから同じ煙がするすると上がっていった。
「奥様に何かあればすぐに位置がわかるよう、特務隊はこれを持っていますので」
「そうですか……」
私は何もしていないのに、疲労感がすごい。
外の空気が吸いたくて、ノーファさんの手を借りながらどうにか馬車から下りる。
「奥様、大丈夫ですか~?」
緊張感のない声を発したのは、血だらけのジャックスさんだった。
ケガをしたのかと一瞬だけ心配するも、普通に歩いているので全部返り血だろう。
「おまえはもう少し加減しろ。生け捕りにしないと首謀者がわからないだろうが」
ノーファさんがため息交じりにそう言った。
「いや、何人かは生きてるって。息してるから」
それは生きていると言っていいのかしら……。
私は二人のやりとりをしばらく眺めていたけれど、あまりにジャックスさんが血塗れなので、ハンカチを取り出して彼の頬にそれを当てた。
「乾く前に拭いた方がいいのでは?本当にどこもケガはないんですか?」
「はい、ケガはありません。ご心配をおかけしました」
私の手からハンカチを受け取り、ジャックさんは乱暴な手つきで血を拭っていく。
「うわっ、すみません。もうこのハンカチだめになりますね……。あれ?何か出てきた」
べったりと赤い血に染まったハンカチから、同じく真っ赤な何かが剥がれる。
「ユンさんからの預かり物が……」
ケーキ無料券をハンカチに挟んでいたのを忘れていた。
ここまで血に染まっていては、返すのも憚られる。
「トーナメントの賞品ですよね」
「はい」
「俺がケーキ作りましょうか?芋と人の皮しか剥いたことないですが」
「……すみません、今は冗談受け止めきれないです」
ジャックスさんは気まずそうに目を逸らし、乾きつつある返り血をさらに拭った。
「そういえば、狙いはやはり奥様だったようですね。馬車ごと連れ去ろうとするなんて」
「やっぱり待ち伏せされていたんでしょうか」
「そうだと思います。あ、アレン様が来ましたね」
林の奥に浮かぶ無数の灯り。
心身共に疲れ果てているのに、不謹慎にもそれらがとても幻想的な光に見えて美しいと思ってしまった。