作品タイトル不明
妻は妹に背中を押される【後】
「ソアリス?どうした?」
俯いたままでいる私の顔を、アレンが覗き込むようにしてそう尋ねる。
隣に座っていると、彼の体温が温かいことに気づいてしまい、その存在の大きさを実感する。
「俺が第2夫人を、とは穏やかでない話だが」
「穏やかでないって、そんな風に……」
こちらは嵐が起こるほどの衝撃だったのに。
泣きそうになって見つめると、アレンは驚いて目を瞠った。
「私は、アレンが決めたことには、従うと決めています……」
膝の上で組んだ手に、自然と力が篭る。
「第2夫人のことでしたら、一夫一妻の届け出は取り消しができることも知っています。だからローズ様が、あなたを好きだというのであれば……」
将軍の妻として。
この人の障害になるようなことがあってはいけない。
けれど、「私は大丈夫です」の一言がどうしても言えなかった。
「俺が第2夫人を迎えてもいいと、ソアリスはそう言うのか?」
「…………」
蒼い瞳が切なげに揺れる。
私は何も言えず、ただアレンを見つめていた。
「それなら、なぜ泣く?」
「?」
長い指が私の目元を優しく拭う。
ここで初めて自分が泣いていることに気づき、驚いて目を瞬かせた。
「ソアリス」
宥めるように名前を呼ばれると、これまで溜め込んでいた想いが一気に口から漏れだした。
「私、本当は……嫌なんです。将軍の妻ならすべてを受け入れないといけないって、頭ではわかっているんですが、それでもあなたが誰かを妻にするのは嫌なんです……!我慢しなきゃいけないってわかっているんですが、それでも」
ボロボロと涙を零しながら、必死でアレンの目を見て訴えかける。
「私だけのアレンでいて欲しいんです」
みっともなく取り乱して、お披露目の日を台無しにしてしまった。
両手で顔を覆い、このまま消えてしまいたいとすら思った。
「ソアリス、大丈夫だから」
逞しい腕が私を包み、きつく抱き締められる。
耳元で大丈夫だと言われ、私はようやく深く呼吸をすることができた。
アレンは私の背を撫でながら、あやすように優しく囁く。
「俺の妻はソアリスだけだ。何も心配しなくていい」
「……でも、ローズ、様……は?あなたのことが好きなんですよね?」
しかし彼はあっさりとそれを否定する。
「相手は俺じゃない」
「え……?」
意味がわからず、私は息が止まってしまうほど驚いた。
アレンはそっと身を離すと、私の目を見て告げる。
「相談されたのは、ローズ様には想い人がいて、その人物には二十年以上も連れ添った妻がいるという話だった。第2夫人でもいいから彼に嫁ぎたいと。それくらい好きなんだとおっしゃっていた」
「二十年以上も、連れ添った妻?」
それって、ものすごく年上ってこと?
年上が好きって、何十歳も年上の相手に恋をしているってこと?
瞬きと共に、涙の雫がはらはらと落ちた。
アレンは私の顔を見て、苦笑いで話を続ける。
「他人の結婚話には何の興味もない俺に、相談するのだから困ってしまった。『妻だけを愛しているのに、第2夫人を……となるとやはり難しいだろうか?』と相談されたんだ。俺は、自分以外の気持ちはわからないから答えようがなかった」
「そ、そうですよね」
自分の勘違いを理解した私は、だんだん顔が真っ赤になっていくのがわかった。
盗み聞きした上、聞き間違いと言うか勘違いして、それで泣いてアレンに本心を暴露したってこと!?
もうこのまま卒倒して、記憶喪失になりたい。どこか硬いところに頭をぶつけたい。
どうすれば現実逃避できるのか、と必死で考えたけれど思いつかなかった。
「とはいえ、何か言わないと話が終わらないと思ったから、『王命ならどんな相手でも可能だろう』と答えたんだ」
「そうですか………」
「ただし、俺は王命でも断ると決めている。断固、拒否してみせる」
きっぱりとそう宣言したアレンはなぜかうれしそうに私を見下ろし、涙の残る目元に唇を寄せた。
「アレン?」
「ソアリスを悩ませてしまって、しかも泣かせてしまったのに、君の本心が聞けてうれしい」
「…………忘れてください」
「王妹殿下はソアリスも同席してくれたらと最初におっしゃったのだが、もう部屋で眠っているかもしれないからと俺が断ったんだ。こんなことなら、一緒に話を聞けばよかったな」
こめかみや頬に次々とキスをされる中、私は石像のように固まっていた。
猛烈な後悔に苛まれていたからだ。
ただ、まだ気になることは残っているわけで。
「来年、お祭りに一緒に行くと言っていたのは……」
恋人同士の祭りに一緒に、と話していなかった?
涙の滲む目で尋ねると、アレンは不思議そうな顔になる。
「あれは、ソアリスも連れていけると思ったんだ。仕事であっても、祭りや社交の場であれば妻を伴うのはよくあることだろう?君と過ごせる時間が増えるのだから、断る理由がなかった」
アレンの中では、私も行くことになっていた。
「王妹殿下も、ご自身の想い人を誘うつもりだったのではないだろうか」
「!?」
私はそもそも、何も心配などする必要はなかった。
すべては勝手な嫉妬と思い込みだった。
理解すれば理解するほど、自分のことが情けないやら恥ずかしいやらで何も言えなくなる。
心の底から、全部を忘れてもらいたい。
「私の勘違いだったんですね……。どうか忘れてください」
けれど、アレンはなかったことにはしてくれなかった。
蕩けそうなほどに頬を緩ませ、そしてあえて耳元で囁いた。
「約束する。ずっとソアリスだけの俺でいる」
「!?」
もう忘れてー!!
お願いだから忘れてくださいー!!
顔から火が出るとはこのことだ。
顔だけでなく全身が熱を持っていて、恥ずかしくて倒れそうになる。
なぜこんなことになったのかしら……?
茫然としていると、唇に柔らかいものが触れてようやく意識を取り戻した。
「アレン……?」
優しい眼差しに、弧を描く唇。
うれしくて堪らないという風に見えるのは、気のせいではないらしい。
「俺の妻は本当にかわいい」
「っ!!」
ぎゅうっと強く抱き締められて、頭に頬ずりをされる。
力強い腕と胸ですっぽり覆われた状態は、閉じ込められているようにも思えた。
「離さない。絶対に離さない」
「そ、そうですか……」
何もかも諦めた私は、しばらくの間ずっと腕の中で目を閉じて沈黙していた。
どれくらい時間が経ったか、ようやく満足したアレンはそっと私を解放して言った。
「部屋まで送ろう」
長椅子から立ち上がると、彼は左手を差し伸べる。
私はおとなしくその手に自分の右手を重ね、二人で並んでサロンを出た。
少し冷える廊下は、人払いがされているのか誰もいない。ルードさんが見張りも下げさせたらしい。
私に気を遣ってくれたんだとしか思えない。
本館まで誰にも会うことなく戻って来られて、アレンの私室の前には私たちが置き去ったワゴンがそのまま置いてあった。
すっかり忘れていたけれど、使用人の誰も片付けていないというのはどうしたんだろう?
アレンは小首を傾げ、ワゴンを指差して尋ねた。
「これは?食事を頼んだ覚えはないが」
「スープです。あなたが何も食べないと思って、私たちが持ってきたんですが……ちょっと色々あってこんなことに」
スープの入った熱い石の容器は、布に包まれているのでまだ中身は温かいままだろう。
「召し上がりますか?」
「あぁ、そうだな。とにかく部屋の中へ入れておくか」
そう言って、彼は自室の扉を開けた。
ところが扉を開けると、中から廊下よりも冷たい空気が私たちの頬をなでる。
「「え?」」
夜は冷えるから、使用人が暖炉の火を入れておいてくれているはず。
それなのに今は火が完全に消えていて、おまけに窓が少しだけ開いている。
――パタン……。
アレンは何が起こっているのか察したらしく、ため息をついて扉を閉めた。
えーっと、これはアレンの部屋が寒すぎて眠れないようにしてあるということですね?
つまり、私の部屋で眠れということですか……?
もしかしなくても、ユンさんやリルティア、メイド長のカミラさんは全員グルなのね?
あのカミラさんが、アレンの部屋をこんな風にしておくのはあり得ない。
「「…………」」
しんと静まり返った廊下には誰もおらず、今から部屋を暖めるのは時間も手間もかかるだろう。
アレンはしばらく黙っていたけれど、ワゴンは置きっぱなしにして私の手を引いて歩き始めた。
「俺はルードの部屋へ行く。ソアリスはゆっくり休んで」
「でも」
「あいつなら、ユンリエッタの部屋へ押し込めばそれでいい」
私の寝室の前に着くと、アレンはするりと手を解く。
「おやすみ、ソアリス」
アレンは名残惜しそうにそう告げると、私の額にキスをした。
どうやら本当にルードさんの部屋に押し入るつもりらしい。
アレンの中で、私と一緒に眠るという選択肢はないようだ。
なぜか急に淋しさがこみ上げてきて、背を向けようとしたアレンのシャツを掴んで引き留めてしまう。
「ソアリス?」
「…………」
どうしてシャツを掴んでしまったのか。
後悔しても遅かった。
「まだ何か心配事でも?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
まっすぐに目を見ることができず、私は俯いたままぽつりと呟くように言う。
「もう、いいと思うんです」
心臓の音がドキンドキンと激しく鳴って、うるさいほどだ。小刻みに震える指先は、そろりとシャツを離れる。
「婚約期間は、終わりにしませんか……?」
断られたらどうしよう。
今までアレンもこんな気持ちだったのかしら、とふと思う。
顔を上げることができず、返事を待つ間、緊張しすぎて息が止まっていた。
「「………………」」
どうしてこんなにも沈黙が長いの!?
私は何か失敗したの!?
ちらりと上目遣いでアレンの顔を確認すると、彼は目を丸くして動きを止めていた。
「アレン?」
何?私ったら、そんなにおかしなことを言ったの?
私は首をわずかに傾け、おそるおそる彼の頬に手を当ててみる。
「冷たい」
これは一度入浴するなりスープを飲んで温まるなりした方がよいのでは。
「アレン、あなた」
身体を温めた方がいい、と言おうとしたら最後まで言えなかった。
アレンが弾かれたように私を掻き抱いて、その胸に顔を押し付けられたから。
「うっ!」
「ソアリス!」
「痛いです!痛いです、アレン!」
私が叫ぶようにそう訴えれば、ふわりと腕の力が緩む。
けれどホッとしたのも束の間、急に持ち上げられて私は思わず叫んだ。
「きゃぁ!!」
片腕で私を抱えあげたアレンは、もう片方の手で扉を押し開けた。
驚いて目を瞠る私は、一瞬にしてベッドまで運ばれる。
――ドサッ。
目を閉じていて、次に目を開けたらベッドの上だった。
はっと息を呑むと、仰向けの私の上にアレンが覆いかぶさっている。
こんなに一瞬で移動できるなんてことがあるの!?え?こんなに急に物事が進むものなの!?
「ソアリス……!」
何度も口づけながら、アレンはあっさりと私のガウンを取り払う。
「ひぇっ……!ちょっと、ちょっと待ってください」
「待たない」
「あの!スープ!スープを食べるって言ってませんでした!?まだ廊下に……」
置きっぱなしである。このままだと、あのスープは冷めていくだけの運命だ。
アレンはそんなこと忘れていたというように淡々と答えた。
「いらない。それより大事なことがある」
「!?」
深く口づけられ、緊張感とドキドキがこれ以上にないほど高まる。
体に触れられ、首筋にキスをされると悲鳴すら上げられない。
自分とはまったく違う逞しい体躯がのしかかっていて、その重みがやけに恐ろしく感じた。
「ソアリス?」
全身を強張らせて涙目になっていると、アレンが心配そうに名前を呼ぶ。
前髪から頬にかけて大きな手でなぞるようにされると、彼が本気で私を案じてくれているのが伝わってきた。
「俺が怖い?」
「あの、いえ、はい……。ちょっとだけ」
「!」
正直に答えると、アレンは見るからにしゅんと落ち込んだ。
そしてすぐさま苦悶の表情で反省をはじめる。
「しまった……!箍が外れた……!ソアリスに怖い思いをさせるなど、あってはならないことだったのに……!俺としたことが!!」
あまりの猛省ぶりに、私の方が申し訳なくなってきた。
「すみません、すみません、私がいけないんです!勉強不足でどうにも……!」
見上げると、眩しいほど美しいアレンの顔が近くにある。
彼は私の動揺を察してくれて、今度は労わるように何度も優しくキスをしてくれた。
心臓は変わらず早鐘のように鳴っているけれど、次第に怖さはなくなってきて、くすぐったさに小さく笑いが漏れる。
そんな私を見て、アレンはまた心配そうに尋ねた。
「本当に、いいのか?」
多分、私が本気で拒んだらアレンは引いてくれるだろう。
けれど、どこまでも私を一番に考えてくれるこの人にすべてを任せたいと思った。
私は小さく頷き、どうにか笑みを作ってみせる。
アレンは愛おしげに目を細め、繋いだ手の指を絡めた。
「俺の妻はソアリスだけだ。これまでも、これからも、ソアリスだけを愛している」
甘い瞳に甘い言葉。
大きすぎる愛は毒だと誰かが言っていたような気がするけれど、こんなにも幸せなんだから拒むことなんてできない。
長い口づけの後、アレンは私の髪を指で梳いて言った。
「ずっとこうしたかった」
「はい」
「もう今後一切、遠慮も自制もしないから覚悟しておいて欲しい」
「……はぃ?」
今なんて言いました??
恐ろしいことを聞いたような気がして、思考停止に陥ってしまう。
唖然とする私を見て、アレンはそれはそれは上機嫌で笑みを浮かべていた。
「今日は優しくする」
今日は?
今日だけなの?
「あの、ちょっと出直してくるのではいけませんか?さきほども言いましたが、私、勉強不足で……」
咄嗟に口から出た希望は、彼の妖艶な笑みにかき消された。
「大丈夫。何事も実践が一番だから、ソアリスはただ身を任せてくれればいい。心配はいらない、夜は長い」
麗しいはずの笑みが不敵に思えるのは気のせいかしらね?
もしかして私は何か選択を間違えた……?
戸惑いの中、私たちの長い夜はゆっくりと更けていった。