軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第60話:覆水不返

「いや、あえてヴィルヘルミーナと呼ぼう。息災のようだ」

わたくしは閉じた扇をとんとんと左の頬に当て、不快と否定の意味の仕草を示しながら冷めた声を発します。

「殿下のご威光のお陰ですわ」

殿下の口元がひくりと動きました。

「今日呼んだのは他でもない。ヴィルヘルミーナ、お前を余の 公妾(こうしょう) とする」

「お断りいたします」

即答したわたくしに、エリアス殿下は一瞬目を閉じ、諦念のようなものを浮かべました。周囲の近衛が剣を手に掛けます。

殿下は動かぬように仕草で伝え、動きをとどめました。

「断れるとでも?」

「そもそも不可能な命を出されても困ります。未婚の王子が公妾を持てるとでもお思いなのでしょうか? 王家の婚姻に関する新法ができたというのなら、その王命か貴族院の承認の文書でもお見せ願えますか?」

侍従より咳払い一つ。

「無論、今すぐにという訳ではない。エリアス王太子殿下が即位した暁には正式に公妾の地位を与えるという約束で、貴女を召し上げようとなさっているのだ」

「つまり愛人になれと?」

「いや……」

「貴方に尋ねてなどいません、今は直答を許されているのです。殿下、回答を」

わたくしは首をゆるく傾げて応えを待ちます。まあこんなことであろうとは思っていましたのよ。

ああ、なぜ今になってこういった呼び出しをするようになったのか分かりましたわ。イーナ嬢にこの話を聞かせないため、ペリクネン公爵に介入されないためですわね。

社交シーズンが終わり、彼らがペリクネン公領へ戻るのを待っていたのでしょう。

「……そうだ、お前を愛人として迎える」

わたくしは手の甲を口元に当てて高らかに笑います。

「互いに愛の欠片も無いのに愛人とは笑わせますわね。そして仕事の補佐でもさせる? 冗談がお上手ですこと」

つまり、平民であり女性であり既婚者であるわたくしを継続的に城に滞在させる手段がそれしか無いのですわよね。王妃や側室にはできませんし、一代貴族の位も与えられませんし、役人や上級使用人にも雇えない。

性愛による関係であり、子に王位継承権が与えられない公妾、愛人のみが可能であると。

そしてわたくしに声をかけざるを得ないということは、殿下が官僚・役人たちから見捨てられかけていることを示しています。別にわたくしが不在でも、優秀で忠実な側近を揃えれば問題ありませんのに。

「……それは余への不敬と分かっての言葉か」

「まさか殿下、わたくしに敬われていると思っていらっしゃるの?」

近衛が抜剣し、侍従が叫びます。

「王族への不敬罪は死に値するぞ!」

わたくしは左の拳を握りました。愛はここにある。死など恐れない。

「わたくしを殺しても構いませんが、それは殿下の破滅に繋がるとご理解されていらっしゃいますか?」

「世迷言を! 平民の貴様一人殺したところで何の問題があろうか!」

わたくしは殿下の碧眼をじっと見つめます。

わたくしは扇をパチリ、パチリと骨ひとつ分広げては閉じて幾度か音を立てますが、殿下は押し黙ったまま。

「ちなみに今日わたくしが登城するということは、お付き合いのある十四の貴族家に手紙を出してお伝えしていますし、銀行や商家、それと新聞社などにも連絡はしてありますの」

「何という真似を……!」

わたくしは首を傾げます。

「なぜ? ただの事実ですわ」

ただし、帰らなければどういった反応・記事になるかはわからない。ただそれだけですもの。

正面よりため息が聞こえました。

「……剣を納めよ」

殿下の声に鞘鳴りの音が響きます。

「ヴィルヘルミーナ、こちらからの非礼は詫びよう。そしてこういった形でしかお前を呼び戻せないことを理解してほしい」

わたくしは詫びを受け入れるとも受け入れないとも答えず、続きの言葉を待ちます。

「だがその上で頼みたい。余の仕事を手伝い、イーナの補佐をしてくれまいか。余らを支えられるのはお前しか考えられぬ」

わたくしはふん、と鼻で笑います。

「それがエリアス殿下にしては最大限下手に出ての お願い(プリーズ) だということは理解いたしますわ。ですが否。断じて否ですわ」

「……なぜだ」

「こぼれたミルクを嘆いても無益。子供でも知っている言い回しでしょう。殿下のお願いがわたくしの名誉回復のために、どれだけの価値があるのかしら」

殿下はわたくしの名誉を回復させることができない。それは殿下がわたくしの名誉を貶めることで、イーナ嬢との恋愛に正当性を齎したから。わたくしの名誉が回復すればそちらの正当性がなくなってしまうもの。

つまり詰んでいるのです。

「ヴィルヘルミーナよ。余とお前の間に愛はなかった。……それでもお前は献身的に余を支えてくれていた。それを期待する訳にはいくまいか」

「それは……わたくしが愛を知らなかったからですわ」

わたくしは右手で左手の甲を撫でます。

「わたくしは愛を知ったのです。我が献身は彼が為にのみあります」

「余は……余はどうすれば……」

その言葉に衝撃を受けられたのか、殿下は顔を白くさせ、言葉にならない呟きが漏れます。

その気持ちはわからないではないですわ。よもや公爵令嬢が平民を愛するとは思わなかったのでしょう。でも、そもそも殿下こそ男爵令嬢を愛したというのに。

わたくしは再び跪き、頭を垂れました。

「エリアス殿下が過去を見つめ直し、今を大切に、未来を熟慮されますよう。その上で手の届く幸せを守ればきっと幸せは掴めましょう」

これが愛する人を教えてくれた彼へ贈る唯一にして最後の言葉となるでしょう。この場を離れればわたくしは道を違えた者に戻りますから。