軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 「君なら分かってくれる」と十年

「リーシャの咳が止まらないんだ」

新年の挨拶のために整えた馬車は、もう玄関先で白い湯気を立てていた。

旦那様は外套も羽織らないまま、廊下の角から、私の名を呼ぶより先にそう告げた。

「君なら、分かってくれるだろう」

屋敷の奥で、咳が聞こえる。

甲高い、芝居がかった咳ではない。リーシャ様の咳は、いつだって本当に苦しそうに聞こえる。だから誰も、咎められない。

私は旦那様の手元を見た。

ジャケットの第三ボタンが、留めかけのまま緩んでいる。今朝、私が直した位置とは違っていた。

「どうぞ、彼女のそばにいらしてください」

旦那様は一拍だけ私を見た。

それから、はっきりと安心した顔で、屋敷の奥へ戻っていった。

馬車だけが、私を待っていた。

御者のセドリックは、何も言わずに馬車の扉を開いた。

何も言わない、ということを、もう何度目の沈黙なのか、私は数えるのをやめている。

「実家まで、お願いします」

「畏まりました、奥様」

馬車は新年の王都をゆっくりと進む。

凍りかけた水溜まりの上を、車輪が砂を撒きながら越えていく。

窓の外で、よその家の馬車が次々と挨拶回りに出ていく。

夫婦で。

婚約者同士で。

兄弟連れで。

ひとりで馬車に乗っている貴族夫人は、たぶん、今日の王都に私のほかにはいない。

膝の上の手土産の箱を、もう一度確かめる。

母が好きな砂糖漬けの杏。

父が「客には出すな」と言って独り占めにする胡桃のリキュール。

妹のための紙細工の小物入れは、今朝、家令のフリッツが紙の角を揃えながら手渡してくれた。

「奥様、これでよろしいでしょうか」

この家で「奥様」と呼ぶ声を、私はあと、何回聞けるのだろう。

膝の上で、扇を開いてみる。

骨の一本が、いつのまにか少し曲がっている。

昨秋の夜会の人混みで押されたときのものだろう。

気がつかなかった。

エルメリア侯爵邸の玄関は、私の生家のはずなのに、いつも息を吸い直してから上がる。

「お姉さま」

妹のリディアが、ホールの先から駆けてくる。

そして私の背後を、扉までひととおり見て、それから、口を閉じた。

「お一人ですか」

私は頷いた。

リディアは何かを言いかけて、結局、言わなかった。

妹がそういう顔をするのを、私はもう、何度も見ている。

応接間で、父と母が並んで座っていた。

両親は、私の顔を見て、ほんの少しだけ表情が動いた。

それから何も言わずに、私の正面に腰を下ろした。

「あの方は、また」

母が言いかけて、自分で言葉を呑んだ。

父は答えない。

代わりに、卓上の砂糖菓子を一つ、私の皿に置いた。

正月に父が私の皿へ菓子を置く癖は、私が十二の頃にやめたものだった。

食事の半ばで、母が思い出したように顔を上げた。

「あなた、そういえば、この間の収穫祭、レゼリアの王弟殿下がいらしたそうね」

母の声は、世間話の続きそのものだった。

「あの方、確か、五年前の国境会議に出てらした方じゃない?」

父が、グラスをゆっくりとテーブルに下ろした。

ガラスが布をすべる音だけが、食堂に響いた。

リディアが、私の顔を見ないようにスープに目を落とした。

母が、自分の問いに自分で答えようとして、また口を閉じた。

しばらくして、父が言った。

「セレスティーヌ」

呼吸を一度、整えてから。

「お前、もういいんじゃないか」

母が、目元を押さえた。

「私たちは、お前が泣くのを、ずっと待っていたのよ」

私は笑った。

笑ったつもりだった。

「私は、泣いておりません」

そう答えた私の手元で、銀のスプーンの背が、いつもより冷たかった。

屋敷に戻ったのは、夜更けに近い時刻だった。

玄関には、誰もいなかった。

正確には、誰もいないように見えた。

応接間の長椅子で、旦那様が眠っていた。

その腕に、リーシャ様が頬を寄せて眠っていた。

膝掛けが、二人分、きちんと整えられていた。

炉の薪は誰かが新しく足したばかりらしく、まだ赤い芯を抱えていた。

私は靴音を立てないように、廊下を抜けた。

寝室に向かう廊下は、応接間の前を通る。

それだけのこと。

そう、自分に説明する。

階段の踊り場で、小さなランプが揺れていた。

「奥様」

エルザだった。

古参の侍女頭で、私が嫁いだ日から、この屋敷にいる。

「お帰りなさいませ。お風呂のお湯を、ご用意しております」

エルザの手の中で、ランプの炎が一度、小さく揺れた。

そういえば今日一日、誰かに「奥様」と呼ばれたのは、これが、初めてだった。

実家の使用人は、私を「セレスティーヌ様」と呼ぶ。

この屋敷で私を「奥様」と呼ぶ声は、もう、エルザのものしか残っていない。

「ありがとう、エルザ」

その先を続けようとしたのに、続きの言葉が、なぜか出てこなかった。

エルザは何も訊かなかった。

ただランプを掲げて、私の足元を照らした。

同じ夜、レゼリア王宮、北棟。

王弟殿下の執務室では、最後の蝋燭がまだ燃えていた。

書記官は半時間前に退出している。

机の上には、エルディアからの定期報告の写しが、いつもの順で並んでいた。

ルシアンは、いつもの位置で、いつもの順に目を通した。

最後の一通の前で、指が止まった。

筆跡が、また同じだった。

「アヴェルニュ伯」名義で送られてくる重要文書は、五年前から、同じ人物の手で書かれている。

伯爵の自筆ではない。

代筆人の名も、ない。

ルシアンは、机の抽斗を一段引いた。

五年前の国境会議の議事録。革表紙にはまだ、革の匂いが残っている。

中ほどのページに、薄い茶色のリボンが挟まっていた。

あの夜、会議が終わったあとの回廊で、誰かが落としていったものだった。

ルシアンはそのリボンの端を、指でなぞった。

五年、誰にも訊かなかった持ち主の話を、そろそろ、訊いてもよい頃かもしれなかった。

便箋を、引き寄せる。

エルディア王国宛、使節団派遣の件。

派遣団長は、私が務める。

蝋燭の芯が、一度だけ、大きく弾けた。