作品タイトル不明
第20話 海を越えた先、『彼女の』新しい毎日の始まり
王都の喧騒が遠ざかり、馬車の車輪が刻むリズムが石畳から土の道へと変わる。その音を聞きながら、ビビアンは一度も振り返らなかった。振り返れば、あの夕暮れの図書室や、冷めた紅茶の香りが、彼女を呪縛のように引き止める気がしたから。
隣国ローゼンタール王国への国境を越える夜、私は馬車の窓から月を見上げた。
この月は、きっとあの日、ユリウスと一緒に見たものと同じ形をしている。けれど、その光が照らす私の未来に、もう彼の影はない。
(……寂しい、なんて。そんな資格、私にはないのに)
胸の奥が、ぎゅっと音を立てて疼く。
彼を嫌いになれたら、どれほど楽だっただろう。ジャネット様に贈った深い紺青のドレスが、本当は私が彼に教えた一番好きな色だったこと。それを思い出すたびに、視界が滲みそうになる。
けれど、私はその痛みを無理に消し去ることはしなかった。この痛みこそが、私が彼を心から愛していた証であり、そして、一人の女性として再生するための「対価」なのだと自分に言い聞かせた。
一週間後。
ローゼンタール王国の王立学術院。
そこは、我が国の学園とは全く異なる空気に満ちていた。
伝統や格式よりも、知性と実利。廊下を行き交う女性たちは、誰かの「引き立て役」として着飾るのではなく、自らの研究資料を抱え、凛とした足取りで歩いている。
「貴女が我が国との交換留学生、ビビアン・ドルーマンさんね?」
初日の朝、案内をしてくれたのは、領地経済学を専攻しているという先輩令嬢、エルザだった。彼女は私の家柄や婚約者の有無など一言も問わず、ただ私の提出した論文の着眼点を褒めてくれた。
「……はい。今日から、よろしくお願いいたします」
私が深々と一礼すると、彼女は驚いたように笑った。
「ここではそんなに硬くならなくていいわよ。私たちは皆、知を求める同志なのだから。……それにしても、貴女の目はとても綺麗ね。何か、大きな決意を秘めているような、鋭い光があるわ」
その言葉に、私は鏡を見ることさえ忘れていた自分に気づく。
あの日、ユリウスに最後のお別れを告げた時の私は、どんな顔をしていただろう。今の私は、彼が愛した「物分かりの良い幼馴染」ではない。ただの、名もなき一人の留学生だ。
講義は想像以上に過酷だった。
専門用語が飛び交い、議論が白熱する教室。誰もが自分の意見を持ち、それを論理的にぶつけ合う。
「ドルーマンさん、君はどう思う? この領地経営における女性の参画モデルについて」
突然振られた教授の問いに、教室中の視線が集まる。
かつての私なら、周囲の顔色を窺い、波風の立たない答えを選んだだろう。ユリウスの隣で、彼を立てるための「控えめな教養」を披露するように。
けれど、今の私の脳裏に浮かんだのは、ユリウスに無視され続けたあの孤独な夜に、一人で読み耽った国外の経済誌の内容だった。
「……私は、慈善活動としての参画ではなく、完全な実利に基づいた経営管理が必要だと考えます。なぜなら――」
私の声は、自分でも驚くほどはっきりと響いた。
話し終えると、一瞬の静寂のあと、教授が深く頷いた。
「面白い。既存の枠組みに囚われない、独自の視点だ」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
私は、誰かの「ついで」として認められたのではない。私の言葉が、私の思考が、初めて「私自身」のものとして肯定されたのだ。
学園の初日を終え、学生寮の簡素な部屋に戻る。
窓からは、見知らぬ街の灯りが見えた。
机の上には、一冊の古びた日記帳がある。そこには、王都を発つ前に書こうとして、結局書けなかったユリウスへの言葉が並んでいる。
『ユリウス。私は今、あなたの知らない空の下にいます。
あなたがジャネット様の手を引いて、誇らしげに笑っていたあの時。私は、自分の価値が消えていくような恐怖の中にいました。
でも、気づいたのです。私の価値を決めるのは、あなたではない。私自身なのだと』
書きかけの文字が、ポツリと落ちた涙で滲んだ。
強くあろうとしても、ふとした瞬間に、彼の穏やかな声や、私を呼ぶ時の特有の癖を思い出してしまう。
もし。
もし、彼がこの場所に来たとしても。
今の私は、もう「あなたの知っている私」ではない。
「……バカね、私。まだ、あんな人のことを」
私は涙を拭い、ペンを握り直した。
寂しさは消えない。彼を愛した記憶は、一生消えない傷跡となって残るだろう。
けれど、私はもう、その傷を隠して笑うことはしない。
(ユリウス。……さようなら。私はここで、あなたが見たこともないほど、強く、美しい自分になります)
ビビアンは窓を開け、夜風を吸い込んだ。
海を越えた風は少し冷たかったが、その冷たさが、彼女が自由であることの何よりの証だった。