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それでも私は、間違っていません

作者: 百鬼清風

本文

――いずれ話そう。

はいはい、出ました。それ、今月で何回目だと思ってるの?

エリシア・フォルネスは、にこやかに微笑みながら、心の中では机をひっくり返したい気分だった。もちろん実際には叩かない。ここは王都、しかも婚約者の屋敷の応接間だ。伯爵令嬢としての矜持と礼儀は、いい加減もう体に染みついている。

「そう。いずれ、ね」

自分でも意外なほど穏やかな声が出た。

腹は立っている。もちろん立っている。でも、怒りがあるからといって、すぐ叫んだり泣きわめいたりするほど子どもじゃない――と、思っている。思ってはいるのだ。

「今は立て込んでいてね。君も分かってくれるだろう?」

婚約者は、困ったように眉尻を下げてそう言った。その顔を、もう何度見ただろう。

立て込んでいる、忙しい、今は時期が悪い、いずれ話そう。

そのいずれの間に、私は何度、夜会を一人でやり過ごした?何度、隣に立つはずの人の席が空いたまま、笑顔を貼り付けた?

「ええ、分かってるわ」

分かってる。分かってるとも。あなたが決断しない人だってことくらい、もう嫌というほど。

応接間を辞したあと、馬車に乗り込んだ瞬間、背もたれに体を投げ出した。

「ああもう! 何なのあれ!」

叫んだ。思いきり。対面しているときに出さなかった分を、今ここで一気に放出する。

「いずれ話そう、いずれ話そうって……そのいずれで私の人生が何年止まってると思ってるのよ!」

向かいに座る侍女のマリアが、慣れた様子でうなずいた。

「本日も、でございましたか」

「本日も、よ。本日も! ねえマリア、これって何? 私がせっかち? 短気?」

「いいえ。どちらかと申しますと……」

「と申しますと?」

「よく耐えていらっしゃる方かと」

その言葉に、一瞬だけ言葉を失った。

「……ねえ、それ褒め言葉?」

「はい」

「嬉しくないんだけど」

馬車の揺れに合わせて、どっと疲れが押し寄せた。怒鳴る気力も残っていなかった。声を上げる元気はある。でも、もう何度も同じ話をしていることに、心が摩耗しているのが分かる。

屋敷に戻ると、母が待ち構えていた。この流れも、もう覚えがある。

「今日もお話は進まなかったの?」

「ええ、見事に」

「エリシア、あなたももう少し……」

来た。この先の言葉、当ててみせようか。

「我慢しなさい、でしょ」

母は言葉を詰まらせた。当たり前だ。何年も聞いてきた台詞なのだから。

「立場があるのよ。今は耐える時期なの」

「ねえ、それ何年目の今?」

つい、早口になる。感情が口を衝いて出るのを、もう止める気もなかった。

「私ね、我慢が嫌いなわけじゃないの。必要ならする。でもね、期限も説明も無い我慢って、ただの放置よ」

「そんな言い方――」

「じゃあどう言えばいいの? 私、いつまで分かってくれるだろう?を信じればいいの?」

母は答えなかった。それが答えだった。

部屋に戻り、椅子に座り込む。喋って、怒って、ぶつかって、それでも何も動かない現実に、ふと可笑しくなった。

「……私さ」

独り言が、自然とこぼれる。

「怒ってるんじゃないのよね」

怒りは派手だ。爆発する。でもこれは違う。静かに、確実に、心を削ってくる。

「疲れてるんだわ」

期待して、待って、信じて。その繰り返しに。

私はよく喋る。感情的だし、面倒な女だと思う。でも、それでも。

「……怒鳴ってないだけで、我慢はとっくに限界じゃない?」

そう口にした瞬間、不意に腑に落ちた。

間違っているのは、怒らなかったことじゃない――続けていることだ。

その考えが浮かんだ途端、不思議と心が少しだけ軽くなった。まだ何も決めていない。でも、少なくとも一つだけ、はっきりしたことがある。

私は、黙るために生きているわけじゃない。

翌朝、目が覚めた瞬間から、もう分かっていた。今日は絶対に、誰かに何か言われる日だ、と。

予感は外れない。外れた試しがない。朝食の席に着いた途端、親戚のおば様が口火を切った。

「エリシア、あなた最近、少し強く出すぎではなくて?」

はい、来た。来ましたよ、この流れ。

「強く出してるつもりはないですけど」

「でもねえ、男性というのは繊細なのよ。あまり追い詰めると――」

「追い詰めてません。質問してるだけです」

間髪を容れず返した私に、周囲の視線が集まる。ああもう、分かってる。今の言い方、可愛げゼロ。

でもさ。追い詰めるって何?いつ決めるのかを聞くのが、追い詰めること?

「エリシア」

今度は父だ。低く、たしなめるような声。

「感情的になりすぎだ。少し落ち着きなさい」

感情的。便利な言葉だわ、本当に。

「お父様、私、怒鳴ってませんよ?」

「そういう問題ではない」

「じゃあ、どういう問題ですか?」

問い返すと、父は一瞬言葉に詰まった。その沈黙に、胸の奥がじわりと熱くなる。

「……つまり」

私が続ける。

「私が黙って、笑って、待っていれば、丸く収まるって話ですよね?」

「エリシア!」

「違います? でも皆、そう言ってる」

母も、おば様も、父も。言葉は違っても、結論は同じ。

――私が大人になれ、我慢しろ。

食事の後、庭に逃げた。新鮮な空気を吸わないと、さすがに口が止まらなくなりそうだったから。

「……ねえマリア」

後ろを歩く侍女に話しかける。

「私、そんなに変?」

「変、ではございません」

「じゃあ、面倒?」

少し間を置いてから、マリアは答えた。

「……正直に申し上げますと、よく喋られる方ではあります」

「でしょ」

「ですが」

そこで彼女は、きっぱりと言った。

「理不尽ではありません」

その言葉に、胸の奥が少しだけ楽になる。分かってくれる人が、一人でもいる。

午後には、友人が訪ねてきた。心配して、という名目だけれど、まあ半分は確認だ。

「エリシア、本当に大丈夫?」

「何が?」

「その……焦って判断してない?」

来た来た。今日はこの話題の大安売りね。

「ねえ、逆に聞くけど」

私は椅子に座り直し、身を乗り出した。

「何年待てば焦ってないになるの?」

「それは……」

「五年? 十年? それとも、一生?」

友人は視線を泳がせた。誰も、数字を出せない。期限を言えない。

「エリシア、あなたは強いから……」

「それ」

私は指を立てた。

「それ、嫌い」

「え?」

「あなたは強いから大丈夫って言葉。便利すぎるのよ」

強いから、耐えられるから、泣かないから。

「強いって、折れていい理由じゃないでしょ」

口にした瞬間、胸がきゅっと締まった。

強いから大丈夫なんじゃない。大丈夫なふりをしてきただけだ。

夕方、部屋に戻って、一人になる。さすがに少し疲れた。

「……もしかして」

独り言が、弱くなる。

「私が短気なだけ?」

一瞬だけ、そんな考えがよぎる。周りがみんな同じことを言うと、不安になる。

でも、すぐに首を振った。

「違う」

短気なら、もっと早く爆発してる。何度も説明を求めて、何度も待った。

「説明されてないだけよ」

決めない理由も、決める時期も、何も。それを我慢しろで片付けるのは、違う。

ベッドに腰掛け、天井を見上げた。

「私ばっかり大人になるのおかしくない?」

声に出すと、少しだけ笑えてきた。本当に、可笑しい話だ。

大人になるって、黙ることじゃない。諦めることでもない。

ちゃんと話して、ちゃんと決めることだ。

その夜、はっきりと理解した。誰かが代わりに決めてくれるのを待つのは、もう終わりだ。

次は――私が、直接、話をする。

逃げ道のない形で。

正面から話す、と決めた翌日は、驚くほど静かに始まった。嵐の前の静けさ、ってやつかしら。嫌な予感しかしない。

朝から落ち着かなかった。喋る準備は万端なのに、相手が喋る準備をしているかどうかが、まったく分からない。

「本日、お約束の刻限でございます」

マリアの声に、深呼吸をひとつ。

「ええ。行きましょう」

逃げる気はない。というか、ここまで来て逃げたら、さすがに自分を嫌いになる。

婚約者――いいえ、まだその肩書きが残っているだけの彼は、応接室で待っていた。いつもと同じ、穏やかな表情。それが、今日は妙に腹立たしい。

「忙しいところ、時間を作ってくれてありがとう」

開口一番、そう言った。皮肉? 半分。本音? 半分。

「いや、当然だよ」

当然。その当然が、今まで一度も守られなかったことには、触れないのね。

「単刀直入に聞くわ」

椅子に腰掛け、間髪を容れずに言った。

「あなた、私と結婚する気、ある?」

空気が止まった。一拍、二拍。彼は視線を逸らし、指を組む。

「……その話は、もう少し落ち着いてから」

「今がその時よ」

「だから、今は――」

「ねえ」

思わず、声が低くなる。

「私、今日ここに来るまでに、何回、今じゃないを聞いたと思う?」

彼は黙った。黙る、また、黙る。

「ねえ、黙らないで」

感情が、じわじわと浮かび上がってくる。怒り。焦り。苛立ち。全部混ざって、喉の奥を熱くする。

「私はね、喧嘩しに来たんじゃないの。確認しに来たの」

「確認……?」

「そう」

指を折る。

「結婚する気があるのか」

「いつなのか」

「そのために、何をするつもりなのか」

簡単な三つ。本当に、それだけ。

「それを答えてほしいだけなの」

彼は困ったように笑った。

「エリシア、君は少し急ぎすぎだ」

――あ。

その瞬間、胸の中で、何かがはっきりと形になった。

「急いでる?」

ゆっくりと聞き返す。

「これが?」

「そうだよ。状況も複雑だし、周囲との調整も――」

「調整」

思わず笑ってしまった。乾いた笑いだ。

「調整って、何年単位の話?」

「それは……」

「何年?」

再度、問う。彼は答えない。

その沈黙の中で、妙に冷静だった。不思議なほど冷静だった。

――あ、この人。

「決めない、って選択を、ずっとしてきたんだ」

ぽつりと、声に出た。

「え?」

「決めないことで、誰かが我慢してくれるのを、当然だと思ってる」

「そんなつもりは――」

「じゃあ聞くけど」

私は一歩も引かない。

「今日、ここで、何か一つでも決める気はある?」

彼は、また困った顔をした。その顔を見た瞬間、胸がすっと冷える。

怒鳴りたい?泣きたい?違う。

ただ、理解してしまった。

この人は、悪人じゃない。でも、責任を取る人でもない。

「……分かった」

椅子の背にもたれた。

「もういい」

「エリシア?」

「答え、もらったから」

彼は慌てたように言う。

「待ってくれ。誤解だ」

「誤解じゃないわ」

私は立ち上がった。

「決めないって答えも、立派な答えよ」

それだけ言って、部屋を出た。背後で呼び止める声が聞こえたけれど、振り返らなかった。

廊下を歩きながら、心臓が早鐘を打つ。感情は荒れている。でも、不思議と、迷いはなかった。

「……はあ」

外に出た瞬間、大きく息を吐く。

これで終わり、じゃない。でも、始まりでもない。

ただ一つ、確実になったことがある。

決めない人の隣で、これ以上、人生を止めるつもりはない。

次は――私が、期限を切る番だ。

期限を切る、と決めた途端、人はこんなにも忙しくなるものなのね。自分でも驚いていた。迷っていた時間が嘘みたいに、頭が冴えている。

まず母、次に父、その次に親族。最後に――善意の忠告が大好きな人たち。

まるで示し合わせたみたいに、全員が同じことを言う。

「もう少し待ちなさい」

「今は時期が悪い」

「あなたが折れれば丸く収まる」

はいはい、聞きました。全部、何十回も。

だから今回は、順番を変えた。

「いいですよ」

そう言った瞬間、全員の顔がぱっと明るくなる。

ああ、この空気。知ってる。

「ただし」

微笑んだまま、続けた。

「条件があります」

間の取り方が我ながら上手だったと思う。

期待と警戒が同時に走る、この顔。

「期限を決めてください」

「……期限?」

「ええ。いつまで待てばいいのか」

母が困ったように視線を逸らす。

「それは……状況次第で……」

「駄目です」

即答。

「状況次第、は禁止」

空気が凍った。

「次に」

指を立てる。

「その期限までに、何を決めるのか。具体的に」

「エリシア、そこまで詰めなくても――」

「詰めないから、ここまで来たんです」

父の言葉を、被せるように遮る。あ、今のは完全に感情的。でも、もう止めない。

「そして三つ目」

深く息を吸った。

「期限を過ぎた場合、誰が責任を取るんですか?」

沈黙、重たい沈黙。誰も、答えない。

「……ねえ」

声が、少しだけ低くなる。

「私に我慢しろって言うなら、その代わりに、誰かが責任を取るべきじゃない?」

誰も目を合わせない。ああ、そう。これよ。

責任は、いつも宙ぶらりん。その宙に浮いた分を、私が引き受けてきただけ。

「答えられない、ってことは」

ゆっくりと言った。

「誰も、本気でこの話を終わらせる気がないってことですよね」

「そんなことは――」

「ある」

ぴしゃりと切る。

「だって、誰も、いつ、どうするを言えない」

胸の奥で、何かが完全に切れた音がした。

――あ、これ以上待つ理由、無いわ。

その夜、部屋に戻って、一人で笑った。声を出して。

「私、ちゃんと条件出したじゃない」

期限、内容、責任。

どれも、当たり前のことだ。でも、それを面倒と感じる時点で、答えは出ている。

マリアが、そっとお茶を置いてくれた。

「お疲れさまでございました」

「ええ、本当に」

カップを手に取り、肩をすくめる。

「ねえマリア。私、冷たい?」

「いいえ」

即答だった。

「ようやく、ご自身の人生を、ご自身の手に戻されたのだと思います」

その言葉に、ふっと力が抜ける。

「……そっか」

私はよく喋る。感情的だし、面倒くさい。

でも、だからこそ、はっきり分かる。

曖昧な場所に、これ以上、自分を置いておけない。

明日は――正式な場で、話をする。

泣くかもしれない、怒るかもしれない。皮肉も言うと思う。

それでも。

「もう待たない」

その一言を口にしたとき、不思議と怖さはなかった。あるのは、覚悟だけ。

正式な場、というのは、どうしてこうも無駄に豪華なのだろう。広すぎる広間、高い天井、やたらと磨かれた床。この空間にいるだけで、「感情的な女は場違いですよ」と言われている気分になる。

――上等じゃない。

背筋を伸ばし、正面に立つ。婚約者、その両親、王宮関係者、親族。見事に揃った顔ぶれだ。

「本日は、婚約についての話し合いということで」

形式ばった言葉が並ぶ。ああ、もう、前置きが長い。

「結論から言います」

一歩前に出た。

「この婚約を解消したい」

ざわり、と空気が揺れた。分かってる。分かってるわよ。女の方から言い出すなんてって顔、全員してる。

「感情的だ、と思われるでしょうね」

自覚はある。だから先に言う。

「ええ、感情的です。泣きたいし、腹も立ってる」

一部の人が、露骨に眉をひそめた。

「でも」

言葉を切り、全員を見回す。

「判断は、ずっと前に終わっています」

婚約者が、慌てたように口を開いた。

「エリシア、ここでそういう言い方は……」

「じゃあ、どう言えばいい?」

即座に返した。

「もう少し待てばよかったって?私が折れればよかったって?」

喉の奥が、きゅっと熱くなる。でも、止めない。

「私はね、待ちました。話し合おうとしました。期限も、条件も、提示しました」

指を折る。

「全部、無視されました」

沈黙。重たい、逃げ場のない沈黙。

「これ以上続けるのは、我慢じゃない」

声が、少し震えた。悔しい。でも、ここで引かない。

「自分を安売りすることです」

「……大げさだ」

誰かが、そう呟いた。ああ、来た。

「大げさ?」

私は笑った。たぶん、今の私、かなり怖い顔してる。

「人生ですよ。大げさに決めて、何が悪いんですか」

誰も、反論できない。

「感情的で結構。うるさくて結構。面倒な女で、結構です」

深く息を吸った。

「それでも私は」

胸に手を当てる。

「間違っていません」

その瞬間、はっきりと分かった。もう、誰の顔色も気にしていない。

しばらくして、形式的な確認が行われた。淡々と、事務的に。

婚約は、解消された。

広間を出たとき、足が少し震えていた。でも、後悔はない。

「……終わった」

廊下でそう呟くと、急に笑いが込み上げてきた。

泣きたいし、疲れたし、正直、ぐちゃぐちゃだ。でも、私は、自分の人生を、自分で決めた。

婚約が解消された翌朝、世界は驚くほど普通だった。太陽は昇るし、鳥は鳴くし、侍女はいつも通りお茶を淹れる。

「……あれ?」

拍子抜けして、思わず声を漏らした。

もっとこう、周囲がざわつくとか、視線が痛い、か、陰口が聞こえるとか――そういうものを、少しは覚悟していたのに。

「拍子抜け、ですか?」

マリアが、穏やかに微笑む。

「ええ。私、昨日もっと世界が終わると思ってた」

「世界中、皆、自分の生活で忙しいものです」

その言葉に、くすっと笑ってしまった。

数日後、噂は届いた。元婚約者が、新たな縁談でまた揉めているらしい、という話。

理由は簡単だった。

「決断を先延ばしにする方だそうで……」

伝えてきた親族が、気まずそうに言葉を濁す。

しばらく考えてから答えた。

「……でしょうね」

驚きも、怒りも、ない。ただの確認作業みたいな感覚だった。

ああ、やっぱり。私だけの問題じゃなかったんだ、と。

その後、新しい生活に足を踏み入れた。社交の場でも、仕事の話でも、私は相変わらずよく喋る。

「エリシア様は、賑やかでいらっしゃいますね」

そう言われて、笑って返す。

「黙るの、向いてないんです」

ある日、そんな私の話を、ちゃんと聞いてくれる人が現れた。途中で遮らない。「あとで」と言わない。最後まで聞いてから、笑う人。

「君の話、面白いね」

その一言で、胸の奥がじんわりと温かくなる。

ああ、これだ。

黙らなくてよかった。感情的で、面倒で、うるさいままでよかった。

夕暮れの窓辺で、一人、考える。

間違ってなかったことを、誰かに証明する必要はない。

もう、自分の話をちゃんと聞いてくれる場所にいる。

だから胸を張って言える。

窓の外に目を向ける。明日もまた忙しくなりそうだった。

完。