軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

おねえさん、生足でいじってくる

「ごちそうさま。洗い物、あたしがやるよ」

「え、いいですよ! 俺が……」

「いいからいいから。タダ飯食わせてもらったんだし」

山葉さんは立ち上がると、空になった皿をひょいと持ち上げ、キッチンへ向かった。

山葉さんは俺が止める間もなく、狭いキッチンへ向かってしまった。仕方なく、俺も布巾を手にしてその隣に立つ。

山葉さんはくすりと笑って、結局二人で洗い物をする流れになった。

単身用のアパートのキッチンだ。大人が二人並ぶとどうしても肩や腕が触れ合ってしまう。

ジャーッという水道の音に混じって、彼女の動く気配がダイレクトに伝わってくる。

スポンジを動かすたび、パーカーの布越しに彼女の二の腕が俺の腕に柔らかく擦れた。

体温と、柔らかさが、ぬるりと脳髄に響く。

「あ、すいません、狭くて」

「んー? 別に。ってかあたしんちと同じだしね」

山葉さんが、すすいだ皿を俺へと差し出す。その時、濡れた冷たい指先が、俺の手の甲をなぞるように触れた。

ビクッと肩が揺れる。

ひんやりとした水滴の冷たさと、その奥にある柔らかい体温。

スパイスの残り香と、食器用洗剤のレモンの匂い。そして、至近距離から漂ってくる、アルコールの甘い匂いとシャンプーの香り。

顔を向ければ、パーカーの襟元から覗く、無防備で白い首筋がすぐそこにある。アルコールのせいか、少しだけ赤みを帯びていた。お団子からこぼれた数本の髪が、色っぽく揺れている。

俺は皿を拭きながら、理性を総動員して呼吸を整えなければならなかった。当の山葉さんは、俺の動悸など微塵も気にしていない様子で、鼻歌交じりに作業をこなしている。

昼間はあんなにも遠く感じた完璧な女神が、今は俺の隣で、肩を寄せ合いながら食器を洗っている。

日常の延長線上にあるはずのこの狭いキッチンが、どうしようもなく甘く、特別な空間に思えた。

そして山葉さんの胸元はダルダルだ。俺は山葉さんより背が高い。山葉さんは食器に視線を向けている。つまりあの胸元の空間は今俺がその気になれば……。ダメだ、これは。今山葉さんの方を向いているのはなんかダメだ。

俺は顔を山葉さんとは別の方向に向け、洗い物を続けた。

「? なに? 首痛いの?」

そんな俺の様子に気付いた山葉さんが小首をかしげて、上目遣いに覗き込んできたのが、そっぽを向いた視界の端っこに見える。

「いや、気を抜くと山葉さんのほうに視線を向けそうになるので。そうしないように」

何を言ってるんだ俺は。とっさのことに、ついド正直にキモイことを言ってしまった。

山葉さんの反応が怖い。

「……?」

山葉さんは少しだけ考え込んで、それから、「あ」続いて、「あー」と、声を漏らした。俺の言わんとしたことがわかったらしい。

「えっちなんだねぇ、鈴木君は。……でも、いいこじゃん」

そう言って意地悪そうに、あるいは悪戯っぽく笑った山葉さんは、何故だかどこか、嬉しそうにもみえた。

※※

洗い物を終え、キッチンの喧騒が消えると、リビングには再び深夜の静寂が訪れた。

といっても、換気扇の回る音と、窓の外を走る車の走行音がかすかに聞こえるだけの、どこか心許ない静寂だ。

山葉さんは手を拭きながら、俺の部屋を改めてじろじろと見渡した。

「……ねえ、あれ。映画とか観るやつ?」

彼女の指先が、スチールラックの上に鎮座するプロジェクターを指した。俺がバイト代を叩いて、かつ設置に三時間を費やした「雰囲気作り」の要だ。

「あ、はい。プロジェクターです。テレビ置くより、こっちの方がなんか……『それっぽい』かなって」

「それっぽいって……あはは、ほんと鈴木くんは一貫してるね。で、そのくせ変に正直者でウケる」

山葉さんは面白そうに目を細めると、壁一面に広がる白いスクリーン代わりのクロスを眺めた。

「あたしんち、テレビないんだよね。いつもスマホの小さい画面で適当に流してるだけだから……そんな大画面で見たら、やっぱ違うん?」

「……試してみますか? ネトフリとかのアカウントがあれば、映せますけど」

俺が控えめに提案すると、山葉さんは「いいの?」といつもの眠たげな目元のまま、少しだけ瞳を輝かせた。

彼女がスマホを取り出し、手慣れた様子で俺のプロジェクターにログインする。

「最近、大学の友達に勧められたやつがあってさ。天才のオタクたちが美女の隣人とドタバタするシットコムなんだけど、シーズンがめちゃくちゃあるから手を出せてなかったんだよね」

選ばれたのは、確かに有名な長寿番組だった。

俺は「鑑賞のお供」を用意するために、これまた「お洒落な大人」を演じるために買っておいた、一本一万円近くするクラフトジンのボトルを取り出した。

「これ、よかったら飲みませんか。トニックウォーターもありますし」

「うわ、なにこれ。ボトル、めっちゃ可愛い。……鈴木くん、これ高いやつでしょ」

「あ、いや……趣味なんで」

嘘だ。ボトルのラベルのセンスだけで選んだ、ジャケ買いならぬ「ジャケ酒」だ。そして俺はまだ一度も飲んだことがない。

だが、山葉さんはそれを冷やかすこともなく、「じゃ、それもらおっかな」とクッションを抱えてソファに深く腰掛けた。

部屋の明かりを消す。

プロジェクターのレンズから放たれた青白い光が、暗闇の中に鮮やかな四角い世界を切り出した。

トニックウォーターで割ったジンの、鋭いボタニカルの香りが鼻をくすぐる。

二人で並んで、小さなソファに無理やり身を寄せ合う形になった。

当然、肩と太ももが密着する。

「……乾杯、ってことで?」

「あはは。なにそれ。うん、乾杯」

カラン、と言う音を聴きながらそっと口をつけると、強いアルコールと共に、針葉樹をかじったような鮮烈な香りが鼻腔を殴りつけた。想像していた味とはまるで違う、複雑で鋭い苦味。

だが、その青臭さが不思議と嫌じゃない。むしろ、胸の奥で燻るように残る爽やかな余韻が、妙に心地よかった。見栄と興味で買っただけの酒が、今夜はすんなりと喉を通っていく。 青白い光が部屋を照らし出し、物語が始まった。

ドラマはテンポの良い笑い 声(ラフトラック) が挿入される、典型的なシットコムだった。

天才だけど社会性のないオタクたちの掛け合いは、意外なほど面白く、俺たちはジンの心地よい酔いも手伝って、気づけば三話、四話と一気に視聴を進めていた。

だが、第五話の途中で、その空気が一変した。

画面の中のカップルが、アメリカンなノリで激しく情熱的なキスを交わし、そのままベッドへとなだれ込んだのだ。

コメディとはいえ、大画面で見るそれは妙に生々しい。

「…………っ」

俺は不自然に固まり、グラスの中の氷を見つめて必必死に動悸を抑えた。

隣にいるのは、生協の女神。そして今は、薄着で隙だらけの山葉さん。

意識するなという方が無理だ。

そんな俺の様子を、山葉さんは逃さなかった。

「……ねえ、鈴木くん」

掠れた声が耳元で響く。

同時に、俺の膝のあたりに、柔らかくてぬるりとした感触が触れた。

「……っ!?」

見ると、山葉さんがショートパンツから伸びる生足を俺の膝に乗せ、足の指で俺の太ももをウリウリといじるように這わせていた。

「なに、緊張してんの? こういうの、見慣れてない?」

「い、いや……そうじゃなくて」

「ふふ、耳まで真っ赤。鈴木くんって、ほんと『いいこ』だよねぇ……」

彼女はこちらの動揺を見透かすように目を細めながら、悪戯っぽく口角を上げた。

生足の、少しひんやりとした感触がスラックス越しに伝わってくる。その生々しい感触に、俺の理性は仕事を辞めてしまいそうだった。

「……あ、もうこんな時間」

山葉さんがふと時計を見て、俺の膝から足を下ろした。

急にそこだけ体温が消えたようで、俺は情けないほどの喪失感を覚えた。

画面の中では、次のエピソードのカウントダウンが始まっている。

「……これ、シーズン12まであるんだよね。終わる気がしないわ」

「……そう、ですね。一生かかりそうです」

山葉さんは立ち上がり、パーカーの裾を整えながら玄関へと向かった。

そして、ドアを開ける直前、くるりと振り返った。多分、じゃあこれで、とか、また大学で、とか言うのだろう、そう感じた俺は、彼女の言葉を待たずについ口を開いてしまっていた。

「よかったら、また一緒に」

同時に、山葉さんも言った。

「明日も、続き観に来ていい?」

俺と山葉さんの言葉が重なる。お互いに、お互いが言ったことは聞こえていて、お互いの言葉が自分への返事になっていることもわかった。山葉さんは、ジト目を一瞬だけ丸くして、それから少し照れたように笑った。

「……はい。俺は、いつでも」

「ん。じゃあ、また明日」

彼女が去った後の部屋には、ジンの香りと、彼女が座っていたクッションに残った微かな体温だけが残っていた。

『明日も、続きを観る』。

そんなありふれた、だけど途方もなく長い口実。

それが、何者でもない俺たちを、この深夜の密室に繋ぎ止める鎖だった。

それから数日。俺たちは、その「途方もなく長い口実」を実行し続けていた。実直に、と言う感じではない。なんとなく居心地が良くて、悪くなくて、ダラダラと。少なくとも俺の方はそうだ。

夜になると山葉さんがふらりとやってきて、俺が淹れたコーヒーや酒、適当なつまみと共に、シットコムを数話消化する。少しおしゃべりをして、たまに俺がからかわれて、洗い物したりテーブルを拭いたりして。彼女の指定席となったソファの端には、いつの間にか山葉さん用のクッションが定位置を占めるようになっていた。

外では決して交わらない俺たちが、壁一枚隔てたこの部屋でだけ、どこか湿り気のある生温かい時間を共有する。そんなバグった距離感が、俺の中で急速に「日常」へと変わりつつあった。