作品タイトル不明
おねえさん、夜這いをしかけてくる
声をかけても返事はない。すー、すーと、静かで規則正しい寝息が聞こえてくる。
前髪の隙間から覗くタレ目は完全に閉じられ、長いまつ毛が頬に影を落としている。完全に寝落ちしていた。
時計を見ると、時刻は深夜三時を回っている。俺は、アルコールで少し熱を持ったまぶたを擦った。
「山葉さん、こんなとこで寝たら風邪引きますよ」
肩を軽く揺すってみるが、彼女は「んぅ……」と小さく呻いて、さらにクッションに顔を押し付けるだけだった。
エアコンの効いた部屋で、ショートパンツに薄手のTシャツ姿のまま朝まで寝かせておくわけにはいかない。
隣の彼女の部屋まで運ぶ……? いや、鍵はどうする。彼女のショートパンツの小さなポケットを勝手に探るなんてことはできないし、仮に開いていたとしても、この完全に脱力した体を抱えてわざわざ外の廊下に出るのもリスクが高い。
いつもならもっとマシな言い訳や解決策を捻り出せるはずなのに、俺自身もアルコールで頭の芯が心地よく鈍っていて、思考がちっとも前へ進まない。グラスの中の溶けかけた氷が、カラン、と小さな音を立てた。
視線を彷徨わせると、部屋の隅にある自分のベッドが目に入った。
……他に、どうしようもないか。
「しょうがないか……」
俺は小さくため息をつき、覚悟を決めて立ち上がった。
ソファで丸くなる彼女の背中と膝の裏に腕を差し入れ、ゆっくりと持ち上げる。
「っ……」
想像していたよりも、ずっと軽い。だが、その軽さとは裏腹に、腕の中に収まった肉体の柔らかさは、酔っていたはずの俺の心拍数を爆発的に跳ね上げさせた。
彼女の頭が、自然と俺の胸元にこてんと寄りかかる。
無防備な吐息が鎖骨のあたりに当たる。石鹸、そして微熱を帯びた吐息の匂いがむせ返るほどに近い、そして微熱を帯びた吐息の匂いがむせ返るほどに近い。
俺は息を止め、落とさないように、かつ変なところに力が入らないように神経を尖らせながら、数歩先の自分のベッドへと歩いた。
以前、雨の日に二人で並んでフランス文学を読んだ、あのベッド。
ゆっくりと、シーツの上に彼女を下ろす。
クッションから解放された頭が枕に沈み込み、彼女は寝心地の良い場所を探すように、小さく身じろぎをして丸くなった。
俺はクローゼットから薄手のタオルケットを引っ張り出し、その華奢な体の上にそっとかけた。
間接照明の微かな光の中、すやすやと規則正しい寝息を立てる彼女の横顔を見下ろす。
ついさっきまで、歪な形のポテトチップスを指先でつまんで、子どもみたいに無邪気にケラケラと笑っていた姿が嘘のようだ。
シーツに沈み込んだ頬は柔らかく緩んでいて、外の世界で纏っている『女神』のオーラも、ダル着姿で見せる『気怠げなお姉さん』の空気も、今はすっかり抜け落ちている。ただ、無防備なだけの寝顔がそこにあった。
ずり落ちそうになっていたタオルケットを肩口までそっと引き上げてやると、彼女は心地よさそうに「ん……」と小さく寝返りを打って、枕に顔を擦り付けた。
その穏やかな吐息を聞いていると、アルコールでぽかぽかと温まった俺の胸の奥が、さらにじんわりと甘く解けていくような気がした。
だが、その満ち足りた余韻は数秒しか続かなかった。
そこでようやく、俺は一つの重大な事実に思い至ったのだ。
……えっ。これ、どうするんだ?
ワンルームの部屋にある唯一のベッドは、今、完全に彼女に占拠されている。この深い眠りを見る限り、今から叩き起こして隣の部屋へ帰すなんてことは不可能だ。
つまり、彼女は今夜、この部屋に泊まるということになる。
じゃあ、俺はどこで寝ればいいんだ。さっきまで彼女が丸まっていた、あの窮屈なソファで?
いや、物理的な寝床の問題よりも、壁一枚隔てた隣人であるはずの彼女が、俺の部屋で朝まで過ごすという事実そのものが、急にリアルな重みを持ってのしかかってきた。
アルコールで鈍っていたはずの頭に警報が鳴り響き、一気に動悸が激しくなる。
俺は自分の中の得体の知れない熱とパニックを冷ますように、急いでテーブルに戻り、グラスに残っていた生ぬるい炭酸水を一気に飲み干した。
生ぬるい炭酸水が喉を通り抜けても、心臓の早鐘は一向に収まる気配がなかった。
俺は空になったグラスをローテーブルに置き、大きく息を吐き出した。まずは、寝床の確保だ。あのソファで一晩過ごすのは、腰が砕ける未来しか見えない。
俺はクローゼットの奥を漁り、丸められた黒いウレタンマットを引っ張り出した。いつかお洒落なソロキャンプに行くかもしれないと、形から入って買っておいたアウトドア用のスリーピングマットだ。まさか初めての出番が、自室のフローリングの上になるとは思わなかった。
ベッドのすぐ横のわずかなスペースにマットを広げる。タオルケットは山葉さんにかけてしまったので、クローゼットの奥にしまってあった毛布を引っ張り出してきて、それにすっぽりと包まることにした。
音楽を止め、間接照明も消す。
部屋は完全な暗闇に包まれたが、すぐに目が慣れ、窓から差し込む薄青い街灯の光が部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
マットの上に横たわる。床の硬さが背中越しに伝わってくるが、今の俺にはそれどころではなかった。
すぐ真上、手を伸ばせば触れられる距離に、彼女がいる。
シーツの擦れる微かな音。すー、すーという、少しだけ無防備な寝息。
そして何より、見えないはずの暗闇から彼女の存在を強烈に主張してくる匂い。洗い立ての毛先からこぼれるフローラルな香り、それに混じる体温で温められた女の子の肌特有の生々しい匂い。それらが、エアコンの風に乗って床に寝転がる俺の鼻腔を絶え間なくくすぐってくるのだ。
眠れるわけがない。
童貞の拗らせた自意識にとって、この状況は致死量の劇薬だ。目を閉じても、先ほど抱き上げた時の柔らかな重みや、無防備に放り出された白い生足が脳裏に焼き付いて離れない。
だが、そんな張り詰めた緊張感をいつまでも維持できるほど、今の俺は素面ではなかった。
暗闇の中で身を硬くしていると、胃の奥からアルコールの火照りがじわじわと全身に回ってくるのがわかる。絶対に眠れないと思っていたのに、頭の芯が心地よい痺れとともにぼんやりと霞み始めていた。
大量に煽ったジンの酔いが、波のように何度も押し寄せては、俺の思考を少しずつ泥のように重くしていく。バクバクと五月蝿かった心音も、いつの間にか規則正しい彼女の寝息と同調するように、ゆっくりとしたリズムへと変わっていった。
ウトウトと、浅い眠りの淵を漂い始める。
……少し、寒いな。
床付近に溜まったエアコンの冷気が、毛布から出ている肩口をじわじわと冷やしてくる。
ふふと、真上で寝ている彼女のことが気になった。タオルケットを蹴飛ばして風邪でも引いてしまわないだろうか。確認しようと重い瞼を開けかけた、その時だった。
ガサッ、とシーツが大きく擦れる音がした。
続いて、ベッドの端のマットレスがぎしりと軋む。
暗がりの中、上から何かが滑り落ちてくる気配。
「……んっ」
微かな吐息とともに、すぐ隣のフローリングがトン、と軽い音を立てた。
俺は全身をビクッと硬直させ、息を殺して気配を窺った。
闇の中で、山葉さんがベッドから降りてきている。トイレに行くのだろうか。それにしては、動きがひどく緩慢で、足元もおぼつかない。
彼女のシルエットが、マットの上に寝転がる俺のすぐ横にしゃがみ込む。
「……山葉、さん……?」
掠れた声で呼びかけてみたが、返事はない。ただ、彼女の顔がゆっくりとこちらに近づいてくるのだけが分かった。
半分閉じられたような、とろんとした瞳。焦点は合っておらず、俺を見ているのか、それともまだ夢の中を彷徨っているのか、全く判別がつかない。
「……さむ」
舌足らずな、微かな呟き。
次の瞬間、山葉さんの体が、俺の横たわる狭いマットの上にするりと潜り込んできた。