作品タイトル不明
おねえさん、もっと奥まで挿れてほしいらしい
海浜公園からアパートへの帰り道、山葉さんは「新しいクッション、すぐ試したいし」と短い口実を口にして、当たり前のような顔でそのまま俺の部屋へとついてきた。
アパートの自室に戻ると、彼女はさっそく買ってきたばかりのクッションを透明なビニール袋から取り出し、いつものソファの定位置にドサリと沈み込んだ。
「んー……やっぱこれ、正解だわ。めっちゃフィットする」
彼女は新しいクッションを抱き抱えるようにして体を丸め、満足げに目を細めた。
時刻はまだ夕方前。いつものようにシットコムを観るには少し時間が早いということで、今日は山葉さんが自室から持ってきたゲーム機をプロジェクターに繋ぎ、彼女のお気に入りだという対戦アクションゲームをプレイすることになった。
ロックな装いのままの彼女が、俺の部屋のソファで寛ぎながらコントローラーを握っている。外の世界と密室がシームレスに繋がったような光景だった。だが、海辺のベンチで漂っていたあの絶妙にむず痒い空気は、完全に消えたわけではないらしい。
対戦の合間のインターバルでも、彼女は新しいクッションに顔を半分埋めたまま、どこか上の空で画面を眺めている。
冷蔵庫からよく冷えた炭酸水を取り出し、スライスしたライムと一緒にグラスに注ぐ。グラスをローテーブルに置き、俺は再びコントローラーを握った。
ブブッ。
ローテーブルに置いたままの俺のスマホが、短い振動音を立てた。
俺は画面から目を離さず、コントローラーのボタンを叩き続ける。
ブブッ。
数秒おいて、また鳴る。
ブブッ。
三度目の振動音が響いた時、不意に、横からゲームのポーズ画面が割り込んだ。
「……見たら?」
山葉さんが、クッションに顎を乗せたまま、熱を帯びない静かな瞳でテーブルの上のスマホを指差していた。
促されるままスマホに手を伸ばす。ロック画面に浮かび上がっていたのは、メッセージアプリの通知だった。
『さっきは偶然だったね!友達も鈴木くんのことオシャレだって言ってたよー』
『今度おすすめのレコードのリスト送って!』
佐藤さんからの立て続けのメッセージだった。
特に急ぎの用事でもない。俺は画面を伏せるようにスマホを裏返し、再びコントローラーを握り直した。
「さっきの子?」
ふと横を見ると、山葉さんが新しいクッションに顎を乗せたまま、おもちゃを取られた猫のような瞳の上目遣いでこちらをじっと見つめていた。画面を覗き見たわけではないだろうが、何となく察したらしい。
「ええ、まあ。たいした用事じゃないんで、ゲームの続きやりましょう」
俺が普通に答えると、山葉さんは「……ふーん」と短く鼻を鳴らし、面白くなさそうにクッションに顔を半分埋めた。
俺は彼女がなぜ急に機嫌を損ねたのかわからず、小さく首を傾げた、その直後。
ピコン。
今度は、ローテーブルの反対側に置かれていた山葉さんのスマホが明るく鳴った。
ポップアップの文面の冒頭が、図らずも目に入る。
『おつかれー。山葉ちゃん、今度二人で』
昨夜の飲み会で幹事をやっていた先輩からのメッセージだ。
その通知を見た瞬間、山葉さんの顔からスッと表情が抜け落ちた。
彼女はため息すらつかず、乱暴な手つきでスマホの画面を下に向けてテーブルに伏せる。
しばし沈黙。むー、とか、んー、とかそういう小さな声を発した山葉さんはぐにゃぐにゃと体を右に左にゆすった。そして数秒後。
「……ちょっと、戻る」
山葉さんが不意にソファから立ち上がり、コントローラーをテーブルに置いた。
「えっ、あ、帰るんですか?」
「すぐ来る」
それだけ言い残し、彼女は自分の部屋へと戻っていった。
俺は一人取り残され、二つの裏返されたスマホを眺めた。
数分後、ガチャリとドアが開く音がして、山葉さんが再び俺の部屋に入ってきた。
その手には、プラスチックの小さなケースに入った綿棒と、小さなボトルの専用クリーナーが握られていた。
「ここ座って」
彼女はローテーブルを挟んだ俺の真正面に、あぐらをかくようにしてどっかりと座り込んだ。
俺に綿棒とクリーナーを押し付けると、自分の左耳に手を伸ばす。
カチャリ、と微かな金属音が響いた。
彼女の左耳の軟骨を斜めに貫通しているインダストリアルピアス。銀色のバーベルの両端にある丸いキャッチを、彼女は器用な指先でくるくると回して外し、スッとその長い金属の棒を引き抜いた。
無骨なアクセサリーが取り払われた彼女の耳には、赤々とした二つの小さな穴だけが生々しく残されている。
「ここ。ピアスホールのメンテ、してくんない?」
そう言って、耳を軽くなでる。
「えっ? 俺が、ですか?」
「うん。なんかちょっと調子悪い気がする。自分じゃ裏側とか見えにくいし。綿棒に液ひたひたにして、そっと拭いて」
「でも、俺、やったことないし……」
「いいから。ん」
「えー……」
「ん」
「やー……」
「ん!」
彼女はそう言うと、俺の方へとぐっと身を乗り出し、ローテーブルの上に両手をついて、左耳を差し出すように首を大きく傾げた。何やら有無を言わせない圧がある。
俺の顔のすぐ目の前に、彼女の頭が来る。青いインナーカラーの入った髪がサラリと肩へ零れ落ち、普段は髪に隠されている無防備なうなじが完全に露わになった。
透き通るような白い肌。そこに張り付く細い後れ毛と、微かに汗ばんだような生々しい艶。首筋からは、彼女の少し高くなった体温と、甘く重たい香水の匂いがむわっと押し寄せてくる。
以前から何となく感じてはいたが、山葉さんは大学にいるときと夜では多分つけている香水が違う。女神の時は、フェミニンで爽やかな、すずらんのような香り。そして今は、
バニラとコーヒーが混ざったような香り。
背伸びしてカルチャー誌を読み漁っている俺には、その香りが持つ退廃的で艶やかな「夜」の文脈が嫌でも分かってしまい、余計に首筋から耳の裏にかけて、カッと熱を持つのを感じた。
目を少しでも下に向ければ、ライダースジャケットの奥、少し開いた胸元が視界に入ってしまいそうな異常な近さだ。
俺は必死に視線を耳だけに固定し、綿棒の先に専用のクリーナーの液をたっぷりと染み込ませた。微かにハッカのような、清涼感のある匂いがする。
彼女の耳たぶに、そっと左手を添える。
ビクッ、と山葉さんの肩が揺れたが、彼女は逃げることなく、むしろ自ら俺の手のひらにすり寄るように体重を預けてきた。
「……少し、冷たいですよ」
「ん」
たっぷりと液を含んだ綿棒の先を、軟骨に開いた小さな穴の入り口にそっと這わせる。
周囲の白い皮膚よりも少しだけ赤みを帯びた、粘膜のように無防備なその場所。そこに他人の手で触れ、しかも濡れた綿棒を押し当てるという行為は想像以上に背徳的だった。
綿棒の先が、ゆっくりと細い穴の奥へと滑り込んでいく。
微かな水音が立ち、クリーナーの無機質でツンとした匂いが、彼女のうなじから匂い立つ生温かい体臭と濃密に混ざり合う。
「……っ」
山葉さんの口から、甘い吐息のような声が漏れた。
彼女の肩が小さく跳ね、俺の指先にすがるように柔らかな体温が押し付けられる。
「痛いですか? こういうピアスって……」
俺が慌てて手を止めようとすると、彼女は首を振った。その拍子に、彼女の髪から漂う温かい湯気の名残を孕んだ清潔な香りが鼻腔をくすぐる。
「んーん。耳はそんなにでもないよ」
「……耳は? ほかのとこにも空いてるんですか? どこに?」
俺が思わず問い返すと、山葉さんは片目を薄く開け、熱を帯びたような笑みを浮かべた。
「どこでしょうねぇ」
囁くような掠れ声と意味深な言葉に、俺の脳内に勝手に不埒な想像が膨らんでしまう。
彼女の吐息が俺の手首に当たり、全身の血が沸騰するような錯覚に陥った。
「……もっと奥まで」
言われるがまま、綿棒をさらに深く差し込み、ゆっくりと回しながら汚れを拭い取っていく。他人の肉体に開けられた細くて狭い穴を、こうして自分の手でかき回しているという事実が、視覚と嗅覚の暴力と相まって、否応なしに別の行為を連想させた。
「……鈴木くん、手ぇ、温かいね」
山葉さんは目を閉じたまま、アイスクリームが溶けるように表情を崩した。
そこには、大学で誰にでも振りまいている完璧な女神像からは想像もつかないような、無防備で甘い顔があった。
金属のピアスが外され、生身になった彼女の小さな穴をなぞっているうちに、先ほどまでのツンとした不機嫌な空気はいつの間にかどこかへ消え去っていた。
どうやら気分は落ち着いたらしい。なぜ急にこんなメンテを頼んできたのかはわからないが、とりあえず、いつものように肩の力が抜けた、心地よい彼女に戻ってくれたことだけは確かだ。
指先から伝わってくる彼女の脈動と、この密室に立ち込める甘い体温に包まれながら、俺はただホッと安堵の息を吐き出していた。
なんか今日はちょっと不安定な山葉さんである。イヤ全然いいんだけど。