軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

おねえさん、社交性高い

昨夜、左腕に預けられた彼女の体温と、夜の海風の匂いが、まだシャツの袖にこびりついているような気がしてならない。

一話だけと言いつつ結局数話を消化し、共犯者のような足取りでそれぞれの部屋へ戻ったあの時間の余韻が、一晩明けた白昼の光の中でも消えていない。

そのせいで少し早起きして、いつもより早く大学に到着した。一般教養の大教室は、講義開始を待つ学生たちの無神経なざわめきで満ちていた。

俺はいつもの後ろから三列目の席に座り、昨夜の続きを思い出すまいとするように、無駄に開いたノートPCの画面を凝視していた。

「ねえ、鈴木」

不意に、斜め前の席から本田が身を乗り出してきた。

「昨日の飲み会、どうだった? あんた、山葉先輩いたんでしょ?」

探るような、どこか羨ましそうな視線。俺はPCのキーボードに置いていた指を止め、極力感情を交えないよう、フラットな声を意識した。

「……ああ。でも、よくわかんなかったよ。先輩、早めに帰ったし」

「えっ、そうなの?」

本田は目を丸くした後、すぐに自分のスマホを取り出し、素早い指つきで画面をタップし始めた。

「あ、ほんとだ。……山葉先輩、酔って早めに帰ったんだ……大丈夫だったのかな。ほら、インスタに……」

本田が差し出してきたスマホの画面を見て、俺は小さく息を呑んだ。

そこに表示されていたのは、お洒落なワイングラスの写真と、数人の女子たちと楽しそうに写る山葉さんの姿だった。

『昨日はごめんなさい! ちょっと酔っぱらっちゃったから早めに帰りました。次は最後までいるね!』

絵文字が散りばめられた、愛嬌たっぷりのキャプション。アカウント名は、昨夜俺がフォローしたものとは全く違い、本名がアルファベットできっちりと綴られていた。フォロワー数も桁違いで、コメント欄には「先輩可愛い!」「次は絶対最後まで!」といった大学の連中からの書き込みが溢れている。

なるほど。

俺の胸の中にストンと、冷たい石のような納得感が落ちた。

これが、大学関係者と繋がるための『表』のアカウントか。

こっちが本垢なんだな。

一人で事実を整理して納得し、俺は小さく息を吐いた。

「……ほんとだね。まあ、大丈夫なんじゃない?」

俺は画面から視線を外し、なんでもない風を装ってそう返した。

※※

午後の講義の合間。移動する学生たちでごった返すキャンパスのメインストリートを歩いていた俺の足は、自然と止まった。

視線の先、中庭の芝生を背にした木陰。そこに、山葉さんがいた。

オフホワイトのサマーニットに揺れるプリーツスカート。初夏の強い日差しの中にあっても、彼女の周りだけひんやりと澄んだ空気が流れているように見える。

彼女の目の前には、昨日の飲み会で幹事をやっていた、チャラい二年生の先輩が立っていた。

先輩が身振り手振りを交えて何かを熱心に話しかけ、山葉さんは口元に手を添えて、あの完璧な『女神』の笑顔で応えている。

高く、鈴の音のように透き通った笑い声が、喧騒を縫って俺の耳にも届いた。

昨夜、暗い夜道を俺の腕に体重を預けながら歩いていた時の、あの気怠げで無防備な顔はどこにもない。前髪を切った時、至近距離で感じた生温かい体温も、シャンプーとアルコールの匂いも、今の彼女からは全く想像ができなかった

外の世界では、彼女は手の届かない高嶺の花だ。俺の隣の部屋に住んでいることすら、誰も知らない。

頭ではわかっている。彼女があの先輩に向ける笑顔が、ただの『処世術』であることも。それでも。

いや、別に、俺がどうこう言える立場じゃない。

俺は、胸の奥にチクリとするような、正体のわからないモヤモヤが湧き上がってくるのを感じていた。

あの笑顔を向けられている先輩が羨ましいのか。

それとも、誰も知らない彼女の素顔を知っているはずなのに、今この瞬間は完全に「部外者」として遠くから眺めることしかできない状況がもどかしいのか。

身の程知らずで少しばかり図々しい『独占欲』みたいなものが、自分の内側に芽生え始めているのだろうか。

その感情の正体をこれ以上掘り下げるのがなんだか気恥ずかしくて、俺はそっと視線を落とし、足早にその場を立ち去った。