作品タイトル不明
おねえさん、俺が行くなら、と飲み会に行こうかと検討する
それからの数日も、俺たちは相変わらず夜になれば壁一枚の距離を越えて、狭い部屋でダラダラと時間を消費していた。だが、スマホというデジタルな繋がりができたせいか、日中の大学にいても、彼女の気配が以前よりずっと近くに感じられるようになっていた。
長い影が落ちる夕方のキャンパス。講義を終えた学生たちがまばらに歩く並木道は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
講義を終え、サークル活動に向かう学生たちの波をやり過ごしながら、俺は同学年の川崎と連れ立って生協へと歩いていた。
「なぁ鈴木、さっきの心理学でやってた心理テスト、お前どうだった?」
相変わらずの爽やかなイケメンスマイルで、川崎が唐突に聞いてくる。
「心理テスト? ああ、最初のほうのやつか。俺はBの『慎重派』だったけど」
「マジか! 俺Aの『直感とパッションで世界を救う天才』だったわ!」
「そんな選択肢なかっただろ。お前、講義中ずっと寝てたじゃないか」
「バレた? いやー、俺の天才的な直感が『今は寝るべきだ』って囁いたんだよな。ということで、睡眠で体力使って腹減ったからアイス奢ってくれよ」
「なんで寝てたお前が疲れてるんだよ。自分で買え」
そんな生産性のないくだらない会話を交わしつつ、生協の自動ドアを抜ける。
夕方のこの時間は、昼休みのような殺人的な混雑はない。陳列棚の間を抜けてレジへと向かうと、そこには見慣れない、いや、よく見知った顔があった。
「……いらっしゃいませー」
生協の青いエプロンを身につけ、レジカウンターの中でダルそうにバーコードスキャナーを握っているのは、同じ学部の本田だった。ショートヘアが似合う活発な彼女だが、今は川崎の顔を見て心底嫌そうな表情を作っている。
「おわっ、本田ちゃん!? お前、なんでここにいんの!?」
川崎が驚きの声を上げ、俺も目を丸くした。
「ちゃん付けすんなっていつも言ってんだろ。見りゃわかんでしょ、バイト始めたの。百二十円」
本田は川崎の差し出したアイスをスキャンし、機械的に値段を告げる。
「いや、なんで生協? 駅前のカフェでバイトしてなかったか?」
俺が不思議に思って尋ねると、本田はレジの奥――スタッフルームの扉の方をチラリと見て、声を潜めた。
「カフェは辞めたの。生協なら、憧れの山葉先輩とお近づきになれるでしょ。シフトも被るし、ワンチャン仲良くなれるかもしれないじゃん」
彼女の目は、推し活に勤しむオタク特有の熱を帯びていた。
なるほど、そういうことか。山葉さんの信者が、ついに物理的な距離を詰めに来たというわけだ。
と、その時。
「本田さん、お釣り用の小銭、補充しといたよ」
スタッフルームの扉が開き、パステルカラーのブラウスに青いエプロン姿の山葉さんが現れた。
途端に、本田の顔がパァッと明るくなる。
「あ、ありがとうございます、山葉先輩!」
「ううん、お疲れ様。……あ、いらっしゃいませ」
山葉さんは俺たちに気づくと、いつものように朗らかで完璧な『生協の女神』の笑顔を向けた。川崎は「先輩、今日も可愛いっす!」と相変わらずのチャラい挨拶を飛ばしている。
だが、俺と視線が交差したほんの一瞬。
山葉さんのタレ目気味の三白眼が、俺にしか見えない角度で、ほんの少しだけ細められた。
眉尻を微かに下げ、鼻に皺を寄せるような、困ったような顔。
『マジで嫌』というほどの切実さはないが、『なんか面倒なことになっちゃった』というような、身内に対する愚痴めいたサイン。
俺が小さく頷き返すと、彼女はすぐに完璧な笑顔のまま、奥の棚の品出しへと向かっていった。
「はぁ……尊い。エプロン姿も最高」
本田が恍惚としたため息をついている。
「そういえばさ」
釣銭を渡し終えた本田が、ふと思い出したように俺を見た。
「鈴木、明日の飲み会行くの?」
「……飲み会?」
俺が聞き返すと、本田は呆れたように目を細めた。
「あんた、グループLINE見てないの? 一浪して入ってきた一年生と、二年生の交流飲み会だよ。学部横断でやるやつ」
「あー……」
言われてみれば、数週間前にそんな話題が出ていたような気がする。だが、俺は『そういう陽キャの集まりには馴染めないし、行く意味がない』と判断して、完全に脳のメモリから削除していた。
「マジか! いいなー鈴木。俺も二年の先輩と繋がり作るチャンスなのに、現役だから行けねーじゃん!」
川崎がアイスの袋を開けながら悔しそうに息巻いている。
「鈴木は行くんだろ? たまにはそういうの付き合っとけって」
「いや、俺は、そういうのあんまり得意じゃないし……」
適当に理由をつけて断ろうとした俺に、本田はレジの台を指でトントンと叩きながら、羨ましそうに唇を尖らせた。
「いいなー。明日のやつ、山葉先輩も行くらしいんだよね。一浪の交流会だから、現役の私は行けないし。マジで鈴木と代わりたい」
「……え?」
俺の思考が、一瞬だけ停止した。
「山葉さんが、行くの?」
「そうだよ。先輩、あんまりそういうの顔出さないらしいんだけど、今回は幹事の先輩に押し切られたみたいで。はー、同じ空間で酒飲めるなんて、マジで羨ましい」
俺は、無意識のうちに品出しをしている山葉さんの背中へ視線を向けていた。
彼女が、飲み会に?
あんなに「外で気を張るのは面倒くさい」と言って、毎晩俺の部屋でダル着のまま酒を、最近はスピリッツのソーダ割を中心に飲んでいるあの人が?
『断りきれなかった』。本田のその言葉が、さっき山葉さんが俺に向けた、あの『困り顔』とリンクした。
熱烈な信者である本田がバイト先に入ってきたこと。
行きたくもない飲み会に、愛想笑いを浮かべるためだけに参加しなければならないこと。
いつも俺の部屋でダルそうにしている彼女が、あんな陽キャの集まりで『完璧な女神』をずっと演じなきゃいけないなんて、想像しただけでひどく面倒くさそうだ。
「……鈴木?」
本田の訝しむような声で、俺は我に返った。
「あ、ごめん。……そうだな。たまには、俺も行ってみようかな」
「えっ、マジで?」
川崎が目を丸くして驚いている。俺自身も、自分の口から出た言葉に驚いていた。
「おお! いいじゃんいいじゃん! 明日は俺の分まで楽しんでこいよ!」
川崎に肩をバンバンと叩かれながら、俺は曖昧に笑い返した。
俺が飲み会に行ったところで、彼女を助けられるわけでもない。公の場である以上、俺たちはただの『顔見知りの先輩と後輩』だ。
それでも。彼女がその飲み会で、どんなふうに『女神』を演じ、どんなふうに息を詰まらせているのか。それを知らなければならないような、そんな奇妙な使命感に似た焦燥が、俺の背中を押していた。
大学での講義を終えた後、俺は駅前の商店街にあるバイト先へ向かった。
古本とレコード、アンティーク雑貨を扱う『ポラリス』。古い紙の匂いと、店内に低く流れるモダン・ジャズの音色は、俺のような拗らせた自意識を落ち着かせるには最適の避難所だった。
「……鈴木。お前、さっきからその文庫本の埃、ずっと払ってるぞ。もういい加減、表紙が削れるんじゃないか」
奥のカウンターでコーヒーのハンドドリップをしていた店長が、ボサボサの髪を掻きながら呆れたように声をかけてきた。
「えっ、あっ、すいません。ちょっと考え事してて」
俺が慌てて文庫本を棚に戻すと、店長は五十手前の渋い顔にニヤリと笑みを浮かべた。
「なんだ、この間うちの店に寄った綺麗な彼女のことか?」
「違いますよ。あれは本当に、ただの大学の先輩です。……明日の、学部内の飲み会のことで少し」
「ほう。お前がそういう集まりに行くとは珍しいな。まあ、若いんだからせいぜい揉まれてこい」
店長の言葉に適当な相槌を打ちながら、俺はふとエプロンのポケットに違和感を覚えた。
ブブッ、ブブッ。
スマホが短いバイブレーションを立てている。
誰からだろうか。川崎か、高校時代の剣道部の陰キャ仲間か、それとも母親からか。俺はこっそりとスマホを取り出し、ロック画面を見た。
そこに表示されていた通知アイコンに、小さく息を呑んだ。
『Instagram:メッセージが届きました』
先日、俺のnoteを読むためにアカウントを交換して以来、一度もやり取りをしていなかった相手からの、初めてのDMだった。
これまではずっと、壁一枚隔てたベランダか、俺の部屋という『物理的な密室空間』でしか言葉を交わしてこなかった。こうしてデジタルな電波に乗って、離れた場所にいる彼女から直接言葉が届くという事実が、ひどく新鮮で、無性に俺の鼓動を早めた。
店長に見えないよう、そっと画面を開く。
『明日のやつ、もしかしてくる?』
短いテキスト。大学での生協の女神としての顔でもない、俺の部屋でのダウナーなねえちゃんとしての顔でもない。文字だけだと、年相応の普通の女子大生からのメッセージに見えて、なんだかむず痒い。
俺はフリック入力する指先の震えを抑えながら、短く返信を打った。
『行こうかと』
数秒後、画面に「既読」の文字がつき、すぐにメッセージの吹き出しが現れた。
『ウケる。意外』
『ってか、一浪限定のやつに鈴木くんがいるってことは、浪人してたの知らなかったよ。うちら同い年じゃん』
そうか。
俺にとって彼女は一つ上の『先輩』であり『年上のお姉さん』だったが、俺が一浪しているということは、年齢で言えば二十歳同士、同い年なのだ。
なんだか、見えない壁がまた一つ取り払われたような気がして、画面を見つめる俺の口角が自然と緩んでしまう。
『同い年ですね。生協の女神様』
少しだけ調子に乗って、からかうようなメッセージを送ってみる。
既読がつき、少しの間が空いた。怒らせただろうかと一瞬不安になったが、すぐに返信が来た。
『うるさ。次それ言ったら生協でレジ袋二重にして金とるから』
文字の向こうで、まぶたを半分下ろして鼻に皺を寄せている彼女の顔がありありと想像できて、俺は小さく吹き出しそうになった。
そして、直後に送られてきた最後の一文に、俺の指の動きは完全に止まった。
『じゃあ、私もいこっかな。正直だるいから、当日ぶっちしようかとちょっと思ってたんだけど』
え。
俺は画面を二度見した。
当日ぶっちしようと思っていたのに、俺が行くから、やっぱり行く?
それってつまり、俺がいるなら、あの面倒な飲み会も少しはマシになるかもしれないと、彼女がそう思ってくれたということだろうか。
深読みしすぎだろうか。俺の痛い自意識が、勝手に都合よく変換しているだけだろうか。
「……おい鈴木、顔がニヤけてるぞ。気持ち悪いから裏で段ボールでも潰してこい」
「っ! すいません、すぐやります!」
店長の呆れ声にビクッと肩を震わせ、俺は慌ててスマホをポケットに突っ込んだ。
バックヤードへ向かう足取りは、自分でも引くほどに軽く、浮ついていた。
ポケットの中のスマホが、彼女の体温を帯びているかのように、やけに熱く感じられた。