軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

おねえさん、講義で隣の席に座ってくる

最近は、山葉さんと夜更かしをすることが多いし、そうでなくても時間が自由になる文系大学生らしく夜型な俺だが、たまには早起きもする。今日がそれである。

スマホのアラームが、随分と暴力的な音量で鳴り響いた。

薄暗い部屋の中で目をこすり、液晶画面の数字を睨みつける。時刻は午前七時半。

普段の俺は、必修以外は徹底して二限以降に講義を固めている。深夜に映画を観たり、本を読んだり、無駄に手の込んだコーヒーを淹れたりする『自分の時間』を確保するためだ。だが、今日はどうしても外せない一限のレポート提出があり、泣く泣くこの時間に起きる羽目になった。

重い体をベッドから引き剥がし、洗面台へ向かう。鏡に映る寝起きの顔はひどいものだが、ここから十五分かけて『計算された無造作ヘア』を作り上げるのが俺の毎朝の儀式だ。

スラックスにシャツを合わせ、鞄にノートPCを突っ込む。

玄関の無機質な鉄扉を押し開けると、梅雨入り前の、たっぷりと湿気を帯びた生ぬるい風が頬を撫でた。

俺の住むこの格安アパートは、湘南エリアの端に位置している。錆の浮いた外廊下の手すりから身を乗り出すと、眼下には色褪せた遊具が並ぶ小さな公園が見え、その先には絶えず車が行き交う国道のグレーの帯が伸びている。そしてさらに視線を上げれば、建物の隙間から、太陽の光を反射して白く霞む海が広がっていた。

深く息を吸い込むと、排気ガスの匂いに混じって、かすかに潮の香りが鼻腔をくすぐる。この垢抜けないがどこか長閑な景色は、地味にお気に入りだった。

「あ、おはよ」

鍵を閉めようと振り返ったところで、すぐ隣のドアが開き、あくび交じりの声が降ってきた。

山葉さんだった。

オーバーサイズのくたびれたフーディに、素足に突っかけただけの安っぽいサンダル。細い指先には、透明なゴミ袋がぶら下がっている。寝起きのすっぴん顔はどこか幼く、無防備に目元をこする仕草には、微塵も『生協の女神』としてのオーラはない。

「おはようございます。ゴミ出しですか?」

「ん。そう。鈴木くん、今日早いね。いってらっしゃい」

「はい。一限なんで……」

「んー。じゃあ後でね」

欠伸を噛み殺しながら、山葉さんはひらひらと空いた手を振った。

また後で。

今日の二限目、一般教養の心理学の講義が同じだということは、昨夜のシットコム鑑賞の合間に話して知っている。だが、大学での彼女は手の届かない『生協の女神』だ。俺の方から話しかけるつもりはないし、向こうだって公の場で俺なんかに近づくはずがない。あの『また後で』は、単なる隣人としての挨拶の延長だろう。

そう自分に言い聞かせ、潮風を背に受けながら、俺は駅へと向かった。

※※

眠気に耐えながら一限の講義とレポート提出をやり過ごし、俺は二限目の大講義室へと足を運んだ。

階段状になった広い教室。俺が陣取るのは、いつも通り後ろから三列目の端に近い席だ。目立ちすぎず、かといって不真面目な最後列でもない、絶妙に安全な地帯。

テーブルにノートPCを開き、講義資料を画面に表示させておく。傍目には熱心な学生に見えるだろうが、実際にはただのポーズだ。

講義開始のチャイムが鳴る五分前。

急に、教室の前方の扉付近の空気がふわりと動き、小さなざわめきが起きた。

「あ、山葉先輩だ。今日もマジで綺麗……」

斜め前に座っていた見知らぬ男子学生の呟きが、耳に届く。

顔を上げると、そこに彼女がいた。

淡いブルーのブラウスに、歩くたびに柔らかく揺れる上品なフレアスカート。毛先まで丁寧に巻かれた髪。そして、誰と目が合っても小さく会釈を返す、あの朗らかで清潔感に溢れた完璧な笑顔。

今朝、俺のアパートの外廊下でサンダルを引きずりながら欠伸をしていた、あの気の抜けた隣人と同じ人物とは、何度見ても脳の処理が追いつかない。

山葉さんは数人の女子グループに挨拶を交わしながら、階段を上ってきた。

上の席はまだ空いている。彼女がどこに座るのか、教室中の男子の視線が、無意識に彼女の動線を追っているのがわかった。

そして。

ふわりと、花束のような香りが漂った。柔軟剤なのか香水なのかは分からない。

山葉さんは、俺のすぐ隣の空席に、音もなくカバンを置いたのだ。

「えっ……」

俺が小さく声を漏らすと、彼女は『生協の女神』の完璧な微笑みを崩さずに、俺を見て軽く会釈をした。まるで、たまたま空いていた席に座っただけ、というように。

だが、周囲の空気はそうはいかない。

前方や横から、無数の視線が俺に突き刺さるのを感じた。

『なんであいつの隣に?』『たまたまだろ』『てか、誰あいつ』

声には出さずとも、そんな心の声が痛いほど聞こえてくる。俺のような『大学デビューなサブカル気取り』にとって、こうしたイレギュラーな注目は心臓に悪い。

だが、周囲の刺さるような視線よりも、俺の神経を逆撫でするものがあった。

隣から香る、清潔な柔軟剤の匂い。

その洗練された香りを嗅ぐほどに、俺の記憶は昨夜のあの粘度のある時間へと引き戻されていく。微かに鼻を突く果実酒の気配と、無防備な首筋から匂い立つ熱。耳の奥を震わせた気怠い吐息に、すべてを沈み込ませるようなあのぬるくて柔らかな感触。

今、教室中の男たちが憧れの眼差しを向けているこの完璧な女神は、昨日の夜、俺の部屋でダル着のままレモンサワーを飲んでいた。

その強烈なギャップと、自分だけが知っているという事実が、むず痒いほどの熱となって背筋を駆け上がっていく。

講義が始まった。

老教授の単調な声が、マイクを通して教室に響く。

山葉さんは真面目に前を向き、綺麗な字でノートを取っている。俺もそれに倣うようにPCのキーボードを叩いていたが、内容はまったく頭に入ってこなかった。

隣に彼女がいるという事実だけで、神経が過敏になっている。

と、その時だ。

視界の隅で、山葉さんの白い指先が動いた。

小さなルーズリーフの切れ端が、机の木目を滑って、俺のPCの脇にスッと置かれる。

そこには、意外に丸みを帯びた可愛らしい字で、こう書かれていた。

『今日このあとどうすんの?』 周囲のざわめきが一瞬で遠のき、俺はその小さな文字の羅列に完全に視線を釘付けにされた。

まるで、中学生のような手紙のやり取り。しかも相手は、全学生の憧れの的だ。

俺は周囲に気づかれないよう、呼吸を浅く保ちながら、シャーペンを手に取った。変に震えないように指先に力を込め、短い返事を書き込む。

『今日は二限までなので。別になにも』

切れ端を彼女の方へ押し返す。

山葉さんはそれを見ると、表情は一切変えずに、ただ口元だけでほんのわずかに――俺にしか見えない角度で、にっと笑った。

そして、再びペンを走らせる。

戻ってきた紙切れには、こう書かれていた。

『じゃあ終わったらアパート近くのマルセイで落ち合わん?』

マルセイ? マルセイというのは、うちから一番近いスーパーだ。意味が分からない。スーパーで待ち合わせて、何をするのだろうか。夕飯の買い出し? まるで同棲しているカップルみたいな響きだ。

頭が混乱する中、隣の彼女を盗み見る。

山葉さんは、教授の板書を真っ直ぐに見つめたまま、完璧な横顔を保っている。ただ、その白い指先だけが、ペンの軸をトントンとリズミカルに叩いていた。答えを待っているのだ。

俺は、深く考えるのを放棄した。

彼女の気まぐれに付き合うのも少し慣れてきている。

『わかりました』

そう書いて紙切れを返すと、山葉さんはそれを素早く自分のノートの間に挟み込んだ。

それきり、講義が終わるまで彼女からアクションはなかった。

だが、二人だけの秘密の通信を終えた後の、隣同士の無言の空間は、どこかむず痒く、そしてとてつもなく甘い緊張感に満ちていた。

講義終了のチャイムが鳴り、老教授が教室を出ていく。

学生たちが一斉に席を立ち、ざわめきが戻った中、山葉さんがノートを鞄にしまった。

「じゃ、一時半ね」

すれ違いざま、誰にも聞こえないほどのボリュームで彼女が呟く。

俺は小さく頷き、彼女がすぐさま女子のグループに囲まれながら教室を出ていくのを見送った。