軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

おねえさん、ベランダで話しかけてくる。

家賃格安の賃貸アパートの、狭いベランダ。だけどここは、いろいろ工夫して居心地よくオシャレにした、俺の聖域である。

俺――鈴木は、使い込まれた手挽きのミルを回していた。ガリガリと硬質な音が、深夜の静寂に心地よく響く。

大学デビューを機に揃えた、カリタのケトルにハリオのドリッパー。ジャズのレコードを小ボリュームで流しながら、丁寧に、一滴ずつ湯を落としていく。

安物のコーヒーとは違う、いい香りだ。うむ。俺には違いがわかる。多分。

チェット・ベイカーのジャズも、心にしみる旋律だ。俺の感性はそれを理解している。多分。

口が裂けても『多分』とは誰にも言わないが、とりあえずなんとなくイイ感じである。

大事なのはそこだ。『こうしていると、サブカルチャーに詳しい雰囲気イケメンがお洒落な生活を楽しんでいる』というスタイルが成り立つ。

「……ふぅ」

出来上がったコーヒーをマグカップに移し、手に取る。

四月の夜風はまだ少し冷たいが、それが逆に、コーヒーの温かさを際立たせる。

至福だ。この瞬間だけは、俺は「何者か」になれている気がする。

「――へえ、なんかいい匂いしてんね」

不意に、すぐ左側から女性の声がした。

「ぶふぉっ!?」

俺は思わずむせ返り、熱いコーヒーをジャージの胸元にこぼしそうになった。心臓が跳ね上がり、声のした方――隣のベランダとの間を仕切る、薄い曇りガラスのパーティションを凝視する。

そこから、人影がひょこッと顔を出す。

「あ、ごめん。驚かせた?」

ひどく気怠げな、だが鈴の音のように透き通った声が聞こえた。

驚いて視線を向けると、そこには女がいた。

パーテーションから身を乗り出すようにして、こっちを覗き込んでいる。

オーバーサイズのフーディの襟元がだらしなくズレて、華奢な鎖骨と、薄い肩のラインがのぞいていた。ショートパンツから伸びる生足は、深夜の薄暗さの中でもやけに白く目を引く。

視線のやり場に困って、俺は思わず明後日の方向を見た。だが脳裏に焼き付いた彼女の顔が離れない。

少し色素の薄い、ハーフのような整った顔立ちは、タレ目気味の三白眼と目元の泣きぼくろがよく映えていた。一言で言えば、美人だ。それもかなりの。でもなんというか、雰囲気がダルそうである。ダウナーなねえちゃんである。

彼女は、口にはコンビニの袋から出したばかりのような、安っぽいチョコ棒を咥えていた。

「いや、あの、すいません。俺、音楽うるさかったですか……?」

怒られる、と思った。深夜にベランダでジャズを聴きながら豆を挽くイキり大学生なんて、近隣トラブルの火種でしかない。俺は慌ててスピーカーの電源を切ろうとスマホに手を伸ばした。

「あー、待って。切らなくていいよ」

女は面倒くさそうにひらひらと手を振った。

「別にうるさくないし。っていうか、壁薄いから普段からなんとなーく聞こえてたんだけどさ。その曲、あたし結構好きかも」

「えっ……。あ、それは、どうも……」

「あと、その匂い。コーヒー? めっちゃいい匂いする」

彼女は、猫のように鼻を鳴らす。

俺はスピーカーに伸ばした手を宙に浮かせたまま、その女の顔をまじまじと見つめた。薄暗い非常灯の明かりに照らされた、気怠げな横顔。目元にはうっすらとクマがあり、愛想笑いの欠片もないフラットな表情。

「あ、えっと……。自家焙煎の、エチオピアです」

柄にもなく、いや違うな、ガラ通りに、当然俺は緊張して、俺はサブカル野郎特有の「聞いてないことまで答える」ムーブをかましてしまった。

女はチョコ棒をサクリと噛み砕くと、ジト目のまま俺をじっと見つめて、無感情に言葉を反復した。

「エチオピア」

「え、エチオピア……」

なんというか、こちらをたじろがせる目つきというか雰囲気の人である。

「いや、知らんけど。本格的なやつ? ……あれ、てか、もしかして」

彼女が不意に、少しだけ瞳を丸くした。

「ぐーぜんだね。ショーブン大の人でしょ」

ショーブン。湘南文化大学の略称である。そして彼女の言葉は正解だ。

「……え?」

固まった。

なぜ、この見知らぬ隣人の、「ダウナー系のお姉さん」が俺の大学を知っているのか。

狼狽える俺を見て、彼女は少しだけ意地の悪い笑みを深める。

「生協のレジの、すぐ横のテーブル。いつもマックブック広げて、イヤフォンでなんか聴きながら必死にカタカタやってんじゃん。隣に住んでたとかウケる」

「っ、な、なんで……」

全身の血が逆流するような感覚。

あれは、実はたいしたことはやっていないのだ。なんならウィキペディアとか見てる。ただ、カフェラテを飲みながらマックブックで作業をする俺、というアピールなのである。

スタバが高いから生協で代用しているだけなのだ。見られたいが、見られると恥ずかしいという謎の気持ちだ。

恥ずかしさでベランダから飛び降りたくなったその時、彼女は口元に手を添え、ふいに表情を変えた。明るく朗らか、どこから見ても素敵な笑顔である。

「いらっしゃいませ!」

さっきまでのダルそうな彼女とは、まるで別人だ。

その一言で、俺の脳内に雷が落ちた。ある人物を思い出したのだ。

快活で柔らか、それでいて清潔感のある声。学内の生協で大人気のレジのバイトのお姉さんである。名前は確か『山葉』。確かうちの大学の二年生であるらしい。何故知っているかと言うと名札をチラ見したからであり、学部の男友達が噂してるのを聞いたことがあるからだ。

「……あ」

気づいた。

目の前にいる、寝癖だらけでチョコ棒を咥えた、ひどく気の抜けた佇まいのお姉さん。

彼女こそが、大学で「生協の女神」と崇められている、あの山葉さんだった。

「え、山葉……さん……?」

「そー。よく名前とか知ってんね」

「……いや、まあ……」

マジか。意外な隣人に、俺の思考は一瞬だけ止まり、そして直後高速で動いた。

『山葉さん』。いつ行っても完璧な笑顔と礼儀ただしく完璧な心地よい接客で客を捌いている。彼女目当てで生協に通う男子学生は星の数ほどいるし、「山葉先輩はガチで天使」というのが学内の共通認識だった。

その完璧な天使が、いま俺の隣のベランダで、ヨレヨレのフーディにショートパンツ姿で柵に顎を乗せている。

「なんというか、その……大学での感じと、違いますね……」

俺がそう言うと、山葉さんはふっとため息をついて、力なく笑った。

「んー。まあ……」

山葉さんはそう言って口ごもった。それから、ぼそりと続ける。

「……まあ、隣だし。どうせバレるというか、近所でも気ぃはるのめんどいしね。いっか別に。まあ、こんな感じだよ。普段は、いちおうちゃんとしてるだけ。そっちは?」

「え」

「名前。なんだっけ」

「鈴木、です。あ、法文学部の一年です」

「へー。お隣だし。覚えとくよ。いつもアイスラテ頼んで、隅っこでマックブック広げてる鈴木くんね」

山葉さんはそう言うと、再びまぶたを半分下ろした省エネな佇まいに戻り、俺のマグカップを指差した。

「それ、おいしいの?」

「お、おいしい、ですよ?」

「ちょっとちょうだい」