軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

見えるようにいたしましょう

「思うのですけれど、私たちがやり直すためにはまず、私たちの記憶をそれこそ貴方たちが魅了魔法にかかる前まで戻すか、もしくは貴方たちと出会った最初の頃まで戻して改めて初めましてからやり直すしかないんじゃないでしょうか?

まぁ、そこまで記憶を戻されたら私たちが今まで学んできたことも忘れ去りそうなのでやり直したところで同じようにならないと思いますが。

幼かった頃まで記憶を戻して、そうして改めて出会いから始めたなら気持ち幼女なこちらと違ってそちらは年相応、気持ち的にこちらは年上のように接するでしょうね。肉体だけ成人していても精神がこどものままなら結婚しても初夜とか相当先の話になりそうですよね。精神的に受け入れられなさそうですもの。

かといって、精神が成人した年齢あたりまで追いついた頃には肉体は老いて子を産めるかどうか……

考えたところで、記憶を部分的に都合よく消す魔法や魔法薬なんてないし、あったとしてもご禁制でしょうからね。所詮はもしもの話でした」

ふふ、と笑いながらリナリアはサナイアに背を向けてミラの元へ歩いていく。

やり直せるのなら、やり直してみてもいいかな、とリナリアが思っていたのは嘘ではない。

嘘ではないが、それはそれとして今までの事を水に流せと言われてもできそうになかった。

関係を断ち切りたい、という思いに傾いているが、それでもほんのちょっとだけ、それとは逆の事を思う気持ちも確かに存在していたのだ。

サナイアが箱を慎重に運んで、もし中のサルフェリウス結晶が壊れていなければ。

丁重に扱ってとそっとヒントになるだろう声をかけたのに。

箱の中身がサルフェリウス結晶でなければ、サナイアの箱の扱いは丁寧な方だったのかもしれない。

だが、あえてリナリアがそうまで言ったのだから、箱を持つ前にもっと考えてほしかった。

リナリアの心の中のほとんどは、まぁ無理だろうな、と思っていたのでこの結果になったとしても、やっぱりね、の一言で終わる。

それでも、ほんの少しだけ、もしかしたらを期待していたのも嘘ではなかった。

ミラの隣まで来て、そこでリナリアはそっとサナイアを見た。

箱の中の粉々になってしまったサルフェリウス結晶を凄まじい速度で組み立てなおして元の形にできればそれでも合格にするとは言ったけれど。

無理なのはわかっているので、期待はしていない。

どのみち壊れた結晶の欠片は翌日には消える。魔力が形を留めておけるのはあくまでも結晶化している状態だからであって、それが壊れた以上魔力は本来の目に見えない状態に戻るのだ。

消えるまでにもっと時間がかかったとしても、正直どれだけコツコツ努力したところで、あの結晶を元通りに組み立てるなど、ほとんどの人間には無理難題でしかなかった。

それならまだ新しいサルフェリウス結晶を入手しに行った方が余程建設的ですらある。

リナリアはたまたま去年の冬に自宅の庭にあったサルフェリウス結晶をなんとなく保管してあったから、今回それを用いただけだった。

「それでは次は私の番、でしょうか……?」

ロゼラインがメリスティアを見れば、メリスティアは「そうね」とかすかに頷いた。

やり直しの機会を逃したアンセルとサナイアを横目で見て、クラムスが前に進み出る。

「正直な話、意外だったんです」

ロゼラインがそう切り出した事で、クラムスは何を言っているのか、とわずかに眉を寄せた。

「確かに以前はクラムス様と交流を重ね、お互い親しい間柄でしたけれど。

けれどその親しさって恋人のような甘いものではなく友人とか、その延長線上の親友みたいな感じだと思っていたから。

なので関係を解消するのなら、案外呆気なく終わらせられると思っていたんです。

だってクラムス様の家なら、魅了魔法にかかった事が醜聞となっても、まだそれでも嫁ぎたい、と思う令嬢はいるかもしれないわけですし」

主に、資金援助とかそういう方面で。

流石にそこはロゼラインも口を噤んだ。

愛がなくても金目当ての相手ならいる、とは流石に言ったら駄目かなと思う程度には、まだロゼラインも相手に対する気遣いは持ち合わせていた。

クラムスは文武両道を地でいくような男だ。

学園の中、貴族間ではセルシオに次いで優秀だと言われていた。

クラムスよりも成績が良い者はいたけれど、総合的な面を考えると彼の方が上だと言われていたのだ。

そんな彼がセルシオの側近として存在しているからこそ、平和な学園内で殿下の安全は更に確固たるものになっている……とも言われていた。

揃いも揃って魅了された時点で鼻で嗤ってしまえるものに成り下がってしまったが。

将来はセルシオの側近として彼を、そして国を支えていくであろう優秀な令息たち。

そんな風に言われて、彼らがいる場面はまるで崇高な一枚の絵画を見ているようだとさえ、言われていたのだ。

そんな彼らの婚約者であるメリスティアたちもまた、周囲から敬われ、慕われていた。

マレナが魅了魔法を彼らにかけるまでは、この国の未来は万全で安心できるものだと思われていたのだ。

ところがそれが崩れ去った。

一人の少女に侍るセルシオたちと、そんな彼らに見捨てられてしまった令嬢たち。

傍から見ればセルシオたちの行いの方こそが非難されて然るべきはずだが、しかし彼らはマレナに侍ったからといって成績が落ちたなどという事もなかった。彼らは自らの意思で婚約者たちを見限ったのだ、と思われたのである。

一人の少女に溺れ、成績が落ちて普段の行いも目に余るようなものであれば周囲もマレナが何かをしたのではないか……と疑ったかもしれない。けれども、マレナと一緒にいるからこそ彼らの成績が下がったという事もなければ、普段の行動もそこまでおかしなものがなかったので。

マレナの魅了魔法は、婚約者だった令嬢たちへの感情を自身に移すようなものだった。令嬢たちの事を愛していながら、しかしマレナに惹かれるというものではなく、突然すべての感情がスライドするというわけでもなく。

故に、周囲は不自然さを感じ取れなかった。

婚約者への感情はそのままにマレナに惹かれていた……というのであれば、彼らも多少抵抗できたかもしれない。愛する婚約者がいながら、けれどマレナに惹かれている……想いが止められない……そんな葛藤を少しでも感じ取れていたならば、令嬢たちも何か、事情があるのかもしれないと思ってくれたかもしれない。周囲も、そのおかしさに気付いたかもしれない。

けれどそうならなかったからこそ今に至るのだ。

クラムスは口数がそこまで多い方ではなかった。

それもあって、ロゼラインと婚約者としての交流を重ねる時も、そこまで話をしたわけではない。

絶え間なく話をするような事はなかったが、時々、ぽつりぽつりと言葉を交わして、それ以外は静けさに身をゆだねるような……穏やかなものだった。

ロゼラインは髪と目の色のせいで冷ややかな印象を持たれる事もあるが、穏やかで優しい性格である。

それは、他の――セルシオやサナイア、アンセルの婚約者もそうではあったけれど。

婚約者たちが集まっている時、ロゼラインは一歩引いて皆を見守るような立ち位置であった、とクラムスは記憶している。

楽しそうに会話に花を咲かせる彼女たちを、こちらも微笑ましく見ていたのは既に遠い記憶だ。

あの頃に戻れるなら戻りたい。

そんな気持ちになる事は何度もあった。

けれど、それは不可能だと先程、サナイアの婚約者であるリナリアが突き付けたのだ。

壊れてしまったものを、壊れる前に戻す事は簡単な事ではない。

それならいっそ、新しいものを用意した方が早いのだと突き付けられた。

壊れる前と似たようなものに交換する事は容易なのだから、であれば婚約者を別の相手に変えてはどうか、と彼女らは暗に突き付けていたのだ。

彼女らの予想を裏切って、元に戻せる奇跡を見せたならやり直せる未来があったとしても。

アンセルもサナイアも、そんな方法は見つけられなかった。

クラムスとてそれはそうだ。聞いてはいないが、きっとセルシオもそうだろう。

クラムスと対峙しているロゼラインは、既にもう終わったとばかりの態度でいる。

クラムスは彼なりに婚約者を愛していたし、その愛も伝えていたつもりだった。

愛している、と直接言うのはどうにも自分の柄ではないと思っていたし、気恥ずかしさもあったので言えていなかったが、それでも好意は伝えていた。

しかしその好意が、結局は愛する人に対するものではなく友人に伝えるようなものと受け取られていたとは思わなかったが。

それでもロゼラインはクラムスに寄り添っていた。

今はまだはっきりと愛だと言えなくとも、いずれ結婚して共に人生を歩んでいけば、いつしかきっと……

そう思っていたのだろう。

だがその未来は途絶えた。

少なくとも今、ロゼラインはそう考えているに違いない。

クラムスは自分に寄り添ってくれていた彼女の事を愛している。話題が豊富にあるでもない自分と共にいても楽しくはないかもしれない、と思っていたがしかしそんな事はないと言ってくれたロゼラインの優しさに甘えていた事もある。

だが、もうその優しさを期待してはいけないのだ。

ここで、何としてでも彼女の心を取り戻さなければ、本当に終わってしまう。

既に二人の未来が途絶えていても、終わりが見えていても。

それでもまだクラムスは諦められなかった。

魅了魔法にかけられていた間の自分たちの心無い態度で傷ついたというのなら。

まだ、その心の傷を癒す事ができれば……そう、まだチャンスはあるはずなのだ。

「君が、一体どのような試練を与えるつもりなのかはわからない。

それでも俺は乗り越えてみせよう……!」

決意表明としてその言葉を口に出す。

そんなクラムスに対してロゼラインは――

特に表情を変える事もなくただクラムスを見ていた。

先程のリナリアのように、嘲るような態度を出すという事もなく、道端ですれ違った他人のような――無関心。

「考えたんです。自分たちの事、貴方たちの事、周囲の言葉や態度も」

ぽつり、と漏らされたそれはクラムスに向けてというよりは、自身に言い聞かせるような小さく、静かな声だった。

「元凶は勿論、魅了魔法を使った彼女にあります。だから彼女は処刑された。

そこに、否やはありません。そうするべきだと誰もが納得した。

ですが、既に諸悪の根源が処刑された事で、貴方たちの感情の向かう先は私たちに固定されてしまった。

まだ彼女が生きていたのなら、怒りを向けられたでしょう。でもそうできなくなった。

だから、怒りを無理に抑えるしかなくなった。そうして、本来なら壊れる事のなかった私たちとの関係に拘ったのではないか……と思うのです。

自分たちは魅了魔法の被害者である、と言えば周囲はそれなりに同情しますからね」

あえて事実を突きつけるというよりは、自分の中で考えを纏めるようにロゼラインの口から言葉が紡がれていく。

「それでも、私たちを傷つけた事に変わりはないのに」

小さな声だが、しかしそれが余計にクラムスの心を穿った。

「どうせ見捨てられる令嬢だから、と周囲だって私たちの事を今までと違ってぞんざいな扱いをするようにもなりました。あからさまな暴力などはありませんでしたが、通りすがりに突き飛ばされたり、足を踏まれたりしたこともありました」

「なっ……」

その言葉に思わずクラムスは声を上げた。

自分の大切な相手がそのような目に遭っていた、と知って怒りが芽生える。

「ですが、その程度の事ならまだどうでも良かったのです。身体の傷よりも、心がとにかく痛かった。

だってそうでしょう? 私とクラムス様との関係は、決して誰もが想像するような恋人といった風ではなかったけれど。ゆっくりと歩み寄って、人生を共にするのだと思っていたのに、もしあのまま結婚したとなれば私はきっと嫁いだ先の屋敷で主人から軽く扱われ、それを見た使用人たちからも雑に扱っていい、と思われて、周囲に人が大勢いてもきっと独りぼっちになっていた。

そんな未来を想像すればするだけ、心は悲鳴を上げました」

声は平坦で、悲壮さはない。

涙混じりの声であれば、クラムスはきっとロゼラインに近づいて済まなかったと詫び、そうして抱きしめていたかもしれないが、しかしそれをさせまいとするかのように、ロゼラインの声はどこまでも抑揚がなく淡々としていた。

「実のところ何度かこの苦しみから逃れるために、命を絶ってしまおうかと思ったこともあります。

婚約を解消してほしい、と両親に訴えても学生時代の一時的なものだろう、とか、それくらいよくある事なのだから、と寛容さを押し付けられて、私は私が結婚する意味を考えました。

家同士の結びつき。確かにあるのでしょう。

我が家は伯爵家で、そちらは侯爵家であるというのも大きい。

こちらから婚約を解消したいなどと言い出せないから、お父様もお母様もそう言ったのだ、ともわかっています。勿論それだけではなく、侯爵家との結びつきも重視されていたのでしょう。

でも、それでは。

もし一時的なものでなければ……?

結婚後もあの方と続くような事になっていたら……?

お飾りの妻として私は離れにでも押し込められて、彼女こそが本当の妻のようになっていたら……?

考えれば考える程恐ろしかった。

いつか報われるなんて思えない日々が続いて、きっと私は打ち捨てられるのだと。そう思うようになりました」

「そんな事は」

「えぇ、今ならば、そうでしょう。ですがその時はそうじゃなかった。クラムス様は彼女に対して優しい笑みを浮かべこちらを見る目はまるで敵を見るようで。彼女にかける声も優しくて、今までの私と比べて色々とお喋りしていらっしゃいましたね。それだけ彼女の事を……と思うには充分すぎる程でした」

「違う、違うんだ、そうではない……!」

確かにクラムスはロゼラインと共にいても、会話が盛り上がるような事はなかった。それでも、共にいて、静寂が心地よいと思っていたのだ。

常に何か話題を探し続けて気まずい思いをするよりも、言葉などなくても共にいられるだけで幸せだったのに……!

「そうして魅了魔法のせいであると知って、周囲の態度は一変しました。

仕方なかった、赦してあげたら? そんな風に、こちらの気持ちを無視して皆、貴方たちの味方をしました。私たちが傷ついた事なんてまるで最初からなかったみたいに。いえ、わかっていても、大したことではないと思ったのでしょうね。だって冷たくなったのは魅了魔法のせいで、本当は私たちは愛されていたのだから。

だから、私たちの傷ついた心なんて無かったことにされていた。

そういう風にしないと、便乗して私たちに嫌がらせをしたことのある人たちも困る事になるだろうから。

そちらを許すつもりは勿論ないのですけれど」

「あぁ、それは当然だろうな……」

ロゼラインの淡々とした言葉を聞いて、クラムスとてそう思ってしまったくらいだ。

仮にもしここで二人の関係が修復されてやり直す事になれたとしても、クラムスだってロゼラインに嫌がらせをしていた連中を許してやるつもりは毛頭なかった。

「あぁそれで、試練、でしたね。

ではこちらを」

言ってロゼラインは、自身がつけていた指輪を外した。

アミュレットではない。けれども、恐らくは何らかの魔法がこめられているのだろうな、と思える物で。

差し出された指輪を、戸惑いながらもクラムスは受け取った。

ロゼラインが身につけていたのだから、当然サイズとしては小さいものだ。

クラムスがつけるとするならば、小指が精々だろう。それ以外の指では途中で止まるか、無理につけても今度は抜けなくなりそうだ。

「これは……?」

「言ったでしょう。辛かったと。いっそ死んでしまえばいいのではないかと。

けれど、できなかった。でも毎日が辛くて苦しかったのは変わらない事実。

だから私、魔女の元を訪ねたのです。この気持ちを封じ込める事ができないかと。相談した結果、魔女はその指輪をくれました。

それは、私の辛い気持ちや感情を吸い取ってくれるものです。おかげで、その日の気分で死のうと思う事がなくなりました。クラムス様の事に関して、私の感情は麻痺したようになりました。そうでなければ今頃私はここにいません」

死んでいた、と暗に言われてクラムスは言葉にならない状態で息を飲んだ。

実際ロゼラインとしては死にたくなったらもう家も何もかも見限って出奔してやろうくらいの気持ちでいたのだが、彼らが勝手に都合よく勘違いしてくれたようなので、しれっと神妙な顔つきを維持している。

「本当は、貴方様が迂闊にも魅了魔法にかかった頃からの分……といきたかったのですが、私が魔女を訪ねたのは学園で二年に進級する少し前の事ですので。

大体三年ではなくざっくり二年程の私の辛いお気持ちがその指輪にこめられているわけです。

ちなみにそちら、私がつけている間は精神的な苦痛を吸い取ってくれますが、それ以外の者がつければその心の痛みが肉体的な苦痛となって襲い掛かる代物でして」

言われて、ぎょっとした目をクラムスは指輪に向けていた。

魔法道具とは異なるある種呪いの品。それが今、なんて事のないように自分の手にあるのだ。

「つけて下さい」

「何と……?」

「つけて下さい。本当なら三年分と言いたいところですが、それには大体二年分の精神的苦痛しかこめられておりません。なので多少、私が本当に傷ついていた期間よりは短めとなっております。

私が苦しんだ期間分、貴方様も苦しんで下さいませ。

耐え切る事ができたなら、その時私は貴方様とやりなおせると思うのです。

魅了魔法のせいで貴方様が苦しむ形となったとしても、魅了魔法にかけられた貴方様の心無い態度や言葉で私はとても傷つきました。なので、魅了魔法云々は最早どうでもよいのです。

人を散々苦しめておいて、今まですまなかった、の一言で終わらせようとした貴方様の事が私、とても許せないのです。

大体魅了魔法で彼女に侍っていた時、貴方様は苦しんでいたわけではないでしょう?

苦しいと感じたのは、魅了魔法が解けて、自分の立場が危うくなっている現状だからこそ。

やり直す事ができれば、その苦しみはすぐなくなるものです。

それならせめて、私を傷つけてきた期間分、貴方も精々苦しめばいい。

今回のチャンスについて、直接死ぬような事は禁止されていますけれど、でも問題ないでしょう?

だってそれは、私が受けた苦痛を肉体的苦痛に変換するとはいえ、私は生きているのですもの。死ぬような傷ではない。

しかも同期間ではなく、数か月分は免除されているのですからそういう意味では多少なりとも優しいとさえ思いますよ、私といたしましては」

「二年分の苦痛を、となると今日中に結果が出るわけではないが、つまりそれは」

「待ちますよ。乗り越えられるというのならそれくらいは。

けれど途中で諦めたのなら、その時はおしまいです。

私が受けた心の傷は、たとえ肉体の痛みに変換されても大したことではなかったのだ、と思わせて下さい。そうすれば、私も今のこの気持ちを割り切って、受け入れて、そうしてやり直せると思うのです」

静かな声だった。

静かではあるがしかしそこに冷たさはない。

ミラやリナリアのような――嫌悪が滲んで浮かんでいるような様子もなかった。

ただ、気持ちの整理をしたいだとか、区切りをつけたいとか。

そう訴えられているような気がした。

「……わかった。二年、耐えてみせよう」

クラムスもそれを受け入れる事にした。

婚約の解消を訴えられた時、すぐさま関係をやり直したいと言う気持ちはあったけれど。しかし実際愛しい婚約者が受けた苦痛の分、同じくらい苦しむ期間がきっと必要なのだと感じたので。

確かにクラムスだって魅了魔法にかかったせいで、こうして今を迎えて辛い思いをしてはいるが。

それは確かにロゼラインが言うように、己の立場が危うくなっている事によるものではないか、と思ってしまったから。愛する者の事を知らず傷つけていたというのを知って、魅了魔法にさえかからなければそんな事はなかったと思ったところで、しかしやってしまった事実は決して消えない。

自分の意思で明確に傷つけるつもりだったならともかく、そうではなかったからこそある日突然愛する婚約者から関係を断ち切ろうとされているようにしか思えず、故に取り乱し関係の継続を願った。

クラムスにとっては全てが突然の事だが、ロゼラインにとっては突然の事だったという部分は既に通り過ぎた後で、今はもうそうではない。

ならばあとは、クラムスもまた同じだけ傷つくことがロゼラインにとって心の整理をつける事に繋がるのだろう。

たったの二年。

二年間苦痛に苛まれるというのは長いような気がするが、しかしロゼラインは実際約三年程傷ついていたのだ。それが嫌ならここで潔く諦める事を選択するべき。

クラムスだってそれくらいはわかっている。

だからこそクラムスは、己の小指にロゼラインが先程までつけていた指輪をはめたのである。

「ごっ……!?」

そして直後、倒れた。

胸元を押さえ、床に倒れて動けなくなる。

クラムスの両親が息を飲むような音がしたが、しかし駆け寄ったりはしなかった。

セルシオたちがクラムスの名を呼ぶが、クラムスに返事ができるだけの余裕はなかった。

心臓のあたりがズキズキと痛む。死にはしない、と言われてもそれでも死んでしまうのではないかと思うくらいに痛かった。

呼吸が浅くなるのを感じながらも、どうにか立ち上がろうとして床に手をつけてぐっと力を入れる。

ぱつっ、という音がして、指先の皮膚が弾け血が滲んだ。

護衛としての能力も期待されていたクラムスは、当然だが剣術以外にも武芸を教え込まれてきた。その時に怪我なんていくらでもしてきたからこそ、痛みに耐性があると信じていた。

最初の頃は未熟で、だからこそ怪我だって数えきれないくらいしてきたけれど、それも成長にともない、実力がついてくるようになれば怪我の頻度は少なくなったし、怪我をしてもすぐに治るような軽傷ばかりだった。

立ち上がれないくらいの痛みにのたうつような事はなかったのだ。これでも。

厳しい訓練で身体を酷使した結果、立ち上がれないような事はあったけれど、それと今とではあまりにも違いすぎた。

疲れ果てていても、それでもまだあの時は少し休めばどうにかなると思っていたし実際にどうにかなった。

だが今は。

このままの状態を続けても、疲労が回復するでもなく怪我が治るわけでもない。それだけは理解できてしまっていた。

今しがたできた傷から滲んだ血だって、大量出血レベルで流れているわけではない。

この程度の傷ならいくらだってこさえてきた。

だが、ぷつ、と再び音がして、別の指先からも血が滲むのを見て――

いずれ全身がこうなるのではないか、と思ってしまった。

そんなはずはない、と否定するよりもいずれそうなると思えるだけの状況。

それに既に相当な痛みである。

どうにか身を起こす事はできたけれど、立ち上がってそれから――

それから、この部屋を出て、家に戻って。そうしていつも通りの生活を……

二年間……?

これを、二年も耐えなければならない……?

そう思った途端、ずきんと一際胸が痛んだ。ぐぅっ、と呻き声が漏れる。

精神的な痛みを肉体的なものに変換するものだとロゼラインは言っていた。

では、彼女は常にこのような痛みを抱えて生きてきたというのか……!?

胸が痛み、骨が軋む。肉が弾けるような痛みを訴えてくる。いや、実際小さく裂けて血が出ている部分すらある。指先や手のひら、そうして今しがた、ぷつっという感触と共に頬がひりひりとした痛みを訴えはじめた。

武術の鍛錬であれば、大体どのあたりを怪我するか、というのもある程度わかってきたからこそその前に受け身を取るとか、防御するとか、どうにかしてダメージを最小に抑える事ができる。馬鹿みたいに無防備に攻撃を食らう事はないと言ってもいい。

だがこの痛みは、いつどこでどこが痛み始めるのかがわからない。

ロゼラインの心が痛んだ結果、心臓あたりに痛みが集中しているのかもしれないが、それ以外の部分ですら思わぬ瞬間、想像以上の痛みを与えてくるのだ。

ドバドバと血が出ているわけではない。

ないけれど、それでも出血までしているのだ。これが止まって傷口が塞がるのならいいが、ずっとこのままじわじわと少量であっても出血し続けるとなれば。

眠っている間も、身体を清める際にもずっととなれば。

とてもじゃないがそんな状態で人前に出る事は難しい。

人と話をしている途中で突然顔面から血があふれ出てみろ。相手が血が苦手な者なら卒倒しかねない。

そうでなくとも眠っている時ならば寝具が、起きていても服が血で常に汚れ続けるとなれば思い切り日常にも支障が出る。これくらいの出血ならば確かに死にはしないと思うが、だからといって放置し続けるわけにもいかない。

いっそ全身を包帯で覆うでもしないといけなくなるかもしれない。

このまま学園を卒業したとしても、その後もしばらくは人前に出る事ができないとなれば。

いや、それよりも――

「ぐぁっ!?」

クラムスの考えを遮るように更に激しい痛みが全身を襲った。

たまらずクラムスはその場に倒れる。受け身も何もあったものではなかった。

「わぁ、心の痛みって目に見えないから大した事ないかなと思ったんですけど、当時の私って結構な傷を負っていたんですねぇ……

でもこの程度ならクラムス様だって鍛えていらっしゃるもの、大した事はないのでしょう?

今のはちょっと、大袈裟にしてしまっただけですよね……?」

上からロゼラインの声が振ってくる。いっそその声に隠し切れない程の悪意が滲んでいたのなら、どれだけ良かった事だろう。

魅了魔法によって自分たちが彼女たちに冷たくしていた、と聞いて確かに心を痛めたのは事実である。

愛した女性を悲しませた。その事に後悔しなかったはずがない。

セルシオが既に魅了魔法にかかっていたという事に気付けなかったせいで、自分たちも引っ掛かる事となってしまった。誰か一人くらいは、アミュレットを外した振りをして、そうして上手くその場を切り抜けられなかった未熟さに思う部分がなかったわけではない。

彼女たちを知らぬ間に傷つけたという事実にはこちらも心を痛めた。

それでもやり直せると思っていた。

お互いに傷ついた者として。

それに、案外平然としていたから。

傷ついたと言ってもそれを露骨に顔に出していたわけでもなかったから。

だから、今後の夫婦生活において優位な立ち位置を確保するのにちょっと利用しているだけかもしれない……ともクラムスは考えてしまっていたのだ。

だがしかし、実際はどうだ。

立つことさえ難しい程の痛み。

こんな痛みを抱えて彼女は耐え続けていたというのか。

平然と、弱っている姿を見せないように。

「期限は二年、なんですけど、途中で指輪を外してしまうとその分痛みは止まるけれど、当然その分期間ものびる事になると思うのですよ。

なので、途中で外した場合は棄権し諦める、と受け取りますね。

だって、ちょっとずつ痛みを消化するにしても、その分ずっと待たされていてはもし直前でやっぱり諦める、なんて事になったらその時私、もしかしたらおばあちゃんになっているかもしれませんもの」

それでなくたって、私は気軽に痛みを着脱できたわけではないのですから。

そう言われて、クラムスは目の前が暗くなっていくのを感じていた。

訓練などで受けた痛みとは別種の痛みが全身を隈なく襲ってくるのだ。

ここで渾身の力を振り絞って立ち上がったとしても、屋敷へ戻り、そうしていつものような日常生活を送る事などとてもじゃないができそうにない。

ベッドの上で寝たきりになったままなら二年、もしかしたら耐えきれるかもしれないけれど。

しかしそれをロゼラインは許してはくれないだろう。

彼女は当たり前のように学園で耐え続けていたのだから。

同じ痛みを抱えて、それを誤魔化しながら日常を送らねばロゼラインはきっと認めない。

わかっている。

わかってはいるのだ。

しかし――

「……すまない……ロゼライン……」

「まぁ、おやめになるのですか……? そう」

クラムスは痛む身体に鞭打つようにして指輪を抜き取った。途端、身体がふっと軽くなる。皮膚が裂けて血が出た部分はじくじくとした痛みを持っているが、それでも先程まで全身を覆っていた痛みがなくなっただけで、耐えられると思えるまでになる。

幾分か楽になった身体だが、それでも立ち上がる時にはよろけてしまった。

「傷ついたなんて言っても、案外大した事ないんじゃないか、とか色々と言われたものですが。

その私の傷を耐えられないなんて、思っていたよりクラムス様は軟弱でしたのねぇ……

私、自分の痛みにばかり敏感で他人の痛みにどこまでも鈍い方とやり直せるとは思いませんので、それでは此度のこの一件はこれでおしまいという事で。

やり直そう、などとは二度と言わないで下さいませ」

指輪は返して下さいね。

そう言ってクラムスの手にしていた指輪を取って、ロゼラインもまたさっさとミラたちの元へと歩いていく。

かくして、彼もまた失敗したのだ。