【短編】私の幸福は夢の中だけ~悪女に仕立て上げられた令嬢と一途な騎士団長が幸福になるまで~
作者: あさぎかな@電子書籍化、コミカライズ連載準備中
本文
「すぐに戻る」
夜明け前の静寂な寝室で、私の夫はそう呟いた。
私の夫の名はジークハルト・ヴァン・オールブライト様。
オールブライト侯爵家の三男にして、現在は辺境地の領主であり、国境付近に出現する魔物討伐の最高責任者だ。
ジークハルト様と結婚した翌日、 魔物暴走(スタンピード) によって急な遠征となった。花嫁の私を置いてあの人は戦場へ。王国の最強の剣であり、ソードマスター。レグルス騎士団団長なのだから、務めを果たすために旅立った。
夫の領地でもなく、私の実家に置き去りにしたのだ。
「必ず君を領地に連れて行く」
「すぐに戻る」
「だから待っていてほしい」
そう言ってくださった。左の薬指に収まっている指輪があの人の妻だと、実感できる唯一のものだった。
政略結婚だったけれど、一目惚れでその姿や佇まい、私自身を見てくださる眼差しに簡単に恋に落ちた。
何より私を実家から連れ出してくださる。私の希望そのものだった。
でも彼の言葉は睦言のただの戯れだったと気付いたのは、半年過ぎた頃。
私の誕生日はもちろん、年が明けても手紙一つ届かなかった。聞こえてくるのは、夫が魔物を屠り続ける英雄譚。実家では役立たずの名ばかりの花嫁として、古塔の最上階に幽閉された。お父様とお母様は「恥ずかしくて外に出せない」と言い、一族の遠縁から養子を設けてやってきた義妹は、王都で聞こえてくる英雄譚を自慢気に語る。
私はドランスフィールド家の特徴とされる黒髪も、赤い瞳も受け継がなかった出来損ない。おまけに魔力もない。くすんだ蜂蜜色の髪に、琥珀色の瞳は「ニセモノ」だと何度も言われ続けてきた。
私の世界は小さな窓から見える世界と、塔の中にある本、そして地下祭壇だけ。食事は一日二回。固いパンと味の薄いスープ。それも徐々になくなって、塔から出ることも禁じられた私は地下祭壇に実った桃や葡萄、薬草や野菜でなんとか生き続けることが出来たけれど、その頃からか一日の半分以上眠りに落ちてしまう。
その夢があまりにも心地よくて、夢が現実だったらどれだけよかっか。夢の中であの人が微笑んで抱きしめてくれるのだから──。
今日も甘い夢を求めて私は瞼を閉じる。
「ジークハルト様」
***
夢を見ると身体が軽くて、世界がきらきらと輝いていた。いつだって好きな場所に行けるし、何でも出来る。だから私はあの人のいる戦場に降り立つ。
今日も黒煙が上がって、怒号と爆音が連続的に響き渡る。国の最果てから出現する魔物は様々だ。その中でも今日は漆黒のドラゴンが空を縦横無尽に飛び回っている。
そんなドラゴンに立ち向かうのはレグルス騎士団であり、先陣を切って戦っているのは、騎士団長が私の夫ジークハルト様だ。二本の剣を自在に操り、敵を屠る。雄々しく勇ましく、童話の英雄が顕現したかのようだ。
ふと気づくと場面が移り変わる。夢では良くあることだ。
しかし次の場面に彼の姿がない。
「ジークハルト様?」
嫌な予感がする。こういう時は決まって彼が大怪我を負うのだ。前はレクスバジリスクで半身が石化した時だった。あれは本当に心臓に悪い。
今回も空を浮遊しつつ、一際豪華な天幕に入る。
「急げ、治癒士を!!」
「分かっている!」
血塗れの中で横に寝かされているのは、片腕がひしゃげた形になっているジークハルト様だ。ドラゴンに囓られたのだろうか。とても痛そうだ。
顔も真っ青で、ぐったりしている。
どうしていつも私の見る夢は物騒なのだろう。そして誰も私に気づかないのか。透明人間のような扱いは現実だけにしてほしい。
夢だから願う。私に気づいて──と。
するとジークハルト様が私を見つけてくださる。
私(・) が(・) そ(・) う(・) 願(・) う(・) か(・) ら(・) ──。
「シンディー?」
「はい。旦那様」
目が合って私の名前を呼んでくれる。
「お、奥様!?」
「いつのまに!」
彼が私の名前を呼んだら、周囲の人たちは私に気付く。なんだか不思議な光景だけれど、もう慣れてしまった。夢だからそういうものなのだろう。
私は軽い足取りで血塗れの彼に歩み寄る。
彼のぐちゃぐちゃになった腕に触れて祈れば、あっという間に元に戻ってしまう。夢だから高位の治癒士や魔法使いのような詠唱は必要ない。なんてご都合主義的なのかしら。
彼の頬に触れて、抱きつく。
心音が聞こえる。
温かい。
まるでこの瞬間だけ現実化のよう。
(そんなことあるわけないのに……)
現実の私にはできないことを夢の中でする。夢だからあの人も私をそっと抱きしめて、甘い言葉をくれるのだ。
「私の女神。私の生きる意味そのもの」
「ジークハルト様。なんて言ったのです?」
あなたには未来も名誉も地位もある。武力だって。
私にはなにもない。なにも持ち合わせていない私が妻だなんて、恥ずかしい。だから夢の中だけでは、彼の役に立っている自分を作り上げる。隣に立つことを許してほしい。
ジークハルト様の白銀の長い髪も、コバルトブルーの瞳も、屈強な体付きもたった一度しか見たことのない。だからこの彼は私の想像で、優しい声も妄想だ。
だって私たちは殆ど話したことがない。一夜限りの花嫁だったもの。婚前では会ったこともない。父が勝手に話をまとめてしまったから。
「──、──────」
「────、──?」
また始まった。
夢の中だと途中で彼の声が聞き取れなくなる。ジークハルト様だけじゃない。周りの声も遠くでなにか言っている程度になる。だって当然よね。私の夢だもの。
私が知らないことを、私の夢が現実化なんて出来ない。現実化なんてしたら、この夢はあっという間に崩れて消えてしまうから。
夢。そうこれは夢。
現実ではないと私が無意識に作った境界線。
都合の良い夢だから、私はジークハルト様に会ったあと、負傷した人たちのテントに向かって奇跡を起こす。死にかけた人も、腕や足が千切れた人も元に戻す。
呪文なんてなしに、適当に手を翳してしまえば金色の光が癒してしまう。ご都合主義的だけれど、私のちっぽけな自尊心を満たすための行い。
役立たずじゃない。
誰かのためになっている。
偽りだけれど彼らの仲間として受け入れてほしい──なんて愚かな夢を見るのだ。
「指輪」
ふとジークハルト様の薬指を見て、呟いてしまった時があった。
「──? ──、──!」
ジークハルト様は何のことか気付いて、チェーン付きの指輪を見せてくれた。いつも首から提げているという。身振り手振りで「剣を持つから、首に提げている。大事なんだ」と言いたいらしい。
結婚指輪を大事にしてくれている。
夢でも嬉しい。ううん、夢だから、そんな都合の良い反応が返ってくるのだ。ジークハルト様の側近たちの態度がその証拠だ。
ジークハルト様の側近の人たちは一度会ったことがあるから、当然夢の中にもいる。最初の夢の時は怪訝そうな、睨み付けるような顔をしていたけれど、今は笑顔で手を振ってくれるのだ。
「──、若奥様」
「奥様、────」
私を奥様として認めてくださる。私が望んでいるからだろう。
最初は「お高くとまった貴族の令嬢」だとか、「無理矢理結婚を強いた悪女」なんて言われていたわ。でもしょうがない。お父様やお母様が命じた結婚だもの。
当時辺境地に領地を持ったジークハルト様は、次の冬を越すために大金が必要だった。それを知った父が契約結婚を提案したのだ。
英雄の父親。
話題性のある相手との繋がりを求めて、私を差し出した。活躍するたびに王都では、父が自慢気に話しているらしい。愛のない形だけの結婚。押しつけられた政略結婚なのだ。
「シンディー」
夢物語のような恋なんて貴族令嬢が見てはいけない。わかっている。これは夢で私の願いが作り出した虚像。
甘い声でジークハルト様が呼ぶことも、看病して傍に居ることも私が願った夢。そして彼と夜を共にするのも全部、甘い、甘い夢。
「夢がこのまま覚めなければ良いのに」
ジークハルト様の腕の中で眠る時に思わず呟いてしまった言葉。あの時、彼はなんて言ったのかしら?
私の夢なら「夢を現実にしてみせる──かしら?」
そんなこと逆立ちしたってあり得ないのに。
**ジークハルトside**
妖精のような愛らしい顔立ちに、華奢な身体。儚くて手を離したら消えてしまいそうな女性。それが私の妻だ。
ふわふわの蜂蜜色の髪、琥珀色の瞳はいつ見ても宝石よりも輝いている。
最初に見たのは、辺境地の爵位を得た面倒なパーティー会場だった。
中庭のバルコニーでどこか遠くを見ている姿は、月夜に迷い出た妖精かと思った。声を掛けようとしたが、田舎者で、無作法な自分ではレディになんと声を掛ければ良いのか分からず、ウィリアムに小突かれるまでその場に固まっていた。
こんなことなら講師の忠告通りに、マナーや作法をもっと学んでおけば良かった。
あの時に声を掛けていれば、彼女を妻としてもっと早く迎えられたかもしれなかったのに。次に見たのは、王国図書館に繋がる回廊を歩いていた。
可愛らしくて、どこまでも目で追ってしまう。それを見ていた部下のノーマンが気を利かせて手を回して彼女を調べて、縁談を用意した。
下賜された領地が金策で困っているとか、噂を流したのはコイツらしい。魔物退治で報奨金や国からの支援が厚いのに、何を言っているのだと思ったが、ドランスフィールド家は喜んで彼女を差し出した。
「お初にお目にかかります。シンディー・メイザースと申します」
純白のドレス姿の彼女を見て、二度目の恋に落ちた。今、ようやく彼女の瞳に私が映っている。私を「ジークハルト様」と鈴を転がしたような声で呼ぶ。胸が変な音がして煩い。
結婚式は夢のようだったし、なにもかも順調だった。結婚そのものは急ぎ行ったが、披露宴パーティーや、新居のこと、今後のことをもっと話したい。
もっと一緒に居たい。
そう思ったいた。
その翌日に 魔物暴走(スタンピード) が起こるまでは──。
可憐で愛おしいシンディーを戦場などに連れて行けるか。領地を守護している騎士も大半は討伐に向かうため手薄になる。侯爵家当主になるつもりも興味も無いのに、兄たちは昔から俺を殺そうと定期的に刺客を送って来た。それは今も続いている。
騎士として成り上がり、爵位も得て、辺境伯になったことも、気に入らないのだろう。
今回の遠征も王に強く進言したのは、兄たちだ。アレらを黙らせるには、まだ証拠が足りない。
『魔物討伐が終わるまでは王都に戻ってくるな』
兄たちと誓約書を交わしたのも、俺にだけ注意を向けたかった。
シンディーを守るためにも、俺の領地より手が出しにくい実家で暮らしていたほうが安全だろう。彼女の両親には、護衛をしっかりつけることなど細かな契約を取り交わした。身を守る魔導具も渡している。あの指輪だってそうだ。
何かあれば反応する。
少しの間。そう勝手に判断し、彼女に意見を求めずに出立してしまった。
それが失敗だったと知ったのは、半年過ぎた頃だ。
「返事がない?」
「はい。それと面会も断られました」
「──っ」
シンディーの安全を優先して、彼女とろくに話もせずに出てしまったことを悔やむ。書き置きを残したが、それすら怒って破り捨てた可能性だってある。結婚前にもっと会っていれば……!
兄たちの妨害を警戒し過ぎていたせいだ。
その上、兄たちが遠征の援軍と言っていた侯爵家の騎士が、全く役に立たないことも想定外だった。戦力にならない上に、軍を内側から引っかき回すので身動きが取れない。
シンディーに手紙や贈物を送っても返事はない。部下数名を派遣して俺の領地に来て貰うように送り出したが、答えはノー。会わせてももらえなかったとか。
私自身が迎えに行くまでは、姿を見せないつもりなのかもしれない。
(一刻も早く討伐を終えて迎えに行かなければ!)
そう思ったのに、気付けば2年が経っていた。騎士たちの職務放棄に裏切り、支援物資の停滞。兄たちの嫌がらせはどんどん露骨になっていった。その分、十分な紹介も揃ってきたが、肉体的にも、精神的もどんどんしんどくなっていった。
際限なく出現する魔物。
休みなく戦い続ける環境。
騎士同士の争い、疑心暗鬼に、裏切り、逃亡……数えればきりがない。
焦るばかりで疲弊と苛立ちからか、凡ミスをしてレクスバジリスクに石化された。何とか倒したが、半身に感覚がなく、徐々に身体が石化していった。他の半分も石化してレグルス騎士団は壊滅状態。
死を待つだけの絶望的な時に、妻が現れた。
「ジークハルト様?」
まるで夢から出てきたような現実味のないものだった。空間から突然現れた彼女は私の異変に気付くと、慌ててかけよって抱きしめた。
怒っていないのか?
嫌っていないのか?
夫として戦場に居続けて、と責め立てられる覚悟はしていた。
何より愛想を尽かされたのでは?
不安だった。
怖かった。
けれど違った。シンディーは「会いたかった」と言ってくれたのだ。
たった一日だけ夫にだった私に、最後に会いに来てくれた。夢でも幻でもよかった。彼女の花のような甘い香りに酔いしれながら、死ぬのなら悪くない──と。
ぱきん、と石化が一瞬で解除された。しかも周囲の仲間も全員石化と怪我が治っているという奇跡付きだ。
「ふふっ、やっぱりできた。よかった」
無邪気に笑う妻を見て、彼女は女神だと確信した。もともとドランスフィールド家公は万物の女神の系譜だと聞いたことがあった。それ故、高等魔法を使いこなせるとか。
シンディーは希代の天才魔法使い、いや女神の生まれ変わりだと言われても信じるだろう。
シンディーは私の傷が癒えると消えてしまう。最初はショックで周囲を馬で走り回ったほどだ。しかし数日後には、何事もなかったかのようにひょっこりと姿を見せる。
空間を移動しているらしい。
何度か彼女が訪れる度に分かったことがあった。シンディーは私が名前を呼ぶと気付くが、他の話をしても首を傾げるか困った顔で微笑むのだ。
「シンディー、愛している」
「会えて嬉しい。ずっとここにいてくれないか?」
「離したくない。離れないでほしい」
「シンディー、ここにはどうやってきたんだ?」
「なにかほしいものは?」
「私の領地に来ないか?」
「シンディーは、なにが好きなんだ?」
聞こえていないのか、聞こえてないふりなのか。ウィリアムとノーマンにも確認して貰ったが、聞こえていない可能性が高いらしい。
最初は皆シンディーを警戒していたいが、現れては傷を癒して私の顔を見て甘えるだけなのを見て気を許すようになった。私以外の者たちの傷を癒し、微笑む。
何も求めない。
何も強請らない。
何も望まない。
尊くもあるが、私には距離を置かれているようで悲しかった。そんなに私は頼りないだろうか。シンディー、妻に頼られたい。私を望んでほしい。辛抱強く言葉を交わそうと努力した。結果は芳しくなかったが。
ただ最近、腕の中で眠る彼女が「夢がこのまま覚めなければ良いのに」と呟いた。
夢。
もしかしてシンディーは、ここが夢の中だと思っているのだろうか。
現実ではなく夢の中で私に会っていると。荒唐無稽。あまりにもあり得ない。けれどあり得ないかもしれない話をウィリアムたちに相談してみた。
「夢……」
「あー、魂だけ団長のところに訪れているのとか? 理論上はできるしな」
ウィリアムは側近として一番の古株で、平民出身の魔法塔の魔法使いだ。深々と黒のローブを羽織り、オレンジ色の髪は腰まで伸ばしている。口は悪いが、そういった事象には詳しい。
「実際にあの不思議な現れ方をみると、合点がいきます。しかし奥様は魔力がなかったはず……。それも虚偽報告されていた? あるいは情報操作?」
青色の髪に、黒い瞳、チェーン付きの眼鏡を掛けて、キッチリと騎士服を着こなしているのは伯爵家三男のノーマンだ。
政治関係に明るく、何たらブツブツ考え込んでいる。
「……団長。夢だとして認識しているのなら、一度噂を流して反応を得るのはどうでしょうか」
「噂……」
「夢を現実だと認識させる。そうすれば奥様の現状が分かるかと」
「確かになぁ。メイザース公爵家に言っても門前払いで、屋敷に入る隙間もない。魔法を使おうにもドランスフィールド家はがっちがっちの結界魔法を貼っているからなぁ。侵入だけで骨が折れる」
魔法塔出身のウィリアムが言うほどだ。防御結界というのなら向こうに一日の長があるのだろう。
***
夢は甘くて優しい。
でも現実はいつだって残酷だった。
「戦場に『金色の髪の乙女』が降臨されたそうよ」
「何でも英雄ジークハルト様と仲睦まじくいたらしいわ」
「幾度となく英雄の傷を癒し、騎士たちに勇気を与えたとか」
「素敵よね、英雄には聖女がお似合いだわ」
珍しく使用人や義妹が料理を運んで来たと思ったら、お飾りの妻である私に聞かせたかったのだろう。無駄飯ぐらいのお荷物。
出来損ないで、何の役にも立たない。
英雄の父という肩書きも今やあってないものなのだろう。それもこれも全部私が悪いらしい。
「お前があの男を繋ぎとめておかないから、私が恥を掻いたのだ!」
「まったく愚図で鈍間で、魔力も持たない駄目な子ね」
手紙を書いても返事がない。
誕生日も年を超しても挨拶もない。
それは全部私が拒絶しているからだという。そんなことしていないと言っても、聞いてすらくれない。
両親に手紙を書くように殴られ、蹴られた。いつものように鬱憤を晴しに呼びつける。昔はこの屋敷に奴隷にしていたらしいが、奴隷禁止法で捌け口が無くなった両親は、私にその役を押し付けた。
そして義妹は──。
「あなた様のせいで、養子の私は苦労させられて困っているんですよ」
「困っている?」
「そうです。今までの手紙、あの方に届く前に捨てられているって知っていました?」
「え?」
ズタボロになって倒れ込んでいる私の元に、義妹がやってきた。
「ぷっふふ。貴女が送った手紙は一枚も戦場に届いてないんです。それと騎士団が二ヵ月に一度訪れて貴女に会いに来ているそうですが、ぜえんぶ、私が断っていたんですよ。お父様は客間に入れてしまうのでしょうがなく、私が追い返し上げているんです」
義妹は悪意に満ちた目で私を見下ろす。
「どう……して……」
「貴女が壊れたら全部私の物になるって、教えてくださったの。それにジークハルト様のお兄様たちも、そうしたらお喜びになるって言ってくれたの。たくさん私を可愛がってくださったのよ」
「──っ」
ジークハルト様は、私を敬遠していたわけでも、無視していたわけでもなかった?
「ふふふっ、今日は新月。その指輪の効果も薄れる。貴女をお兄様のもとに連れて行けば──」
ふと義妹の背後には見慣れない茨が見えた。古塔の外に広がっていた茨が、どうしてここに?
疑問に思うもすぐに視界が真っ暗になって、その後のことは思い出せない。誰かの悲鳴となにかが潰れる音がしたけれど、気付けばいつもの古塔に戻っていた。
“会いに来て。お話を伺いたい”
今さら手紙を送っても無意味だと思う。義妹のせいだったとしてもジークハルト様には、戦場で一緒に歩もうとする乙女と出会ったのだから。
何もかも遅すぎた。
こんな手紙を書いて送れば、すぐに離縁状が届くはずだ。
両親に伝えても殴られる回数が増えるだけ。義妹はあの日から姿を見ていない。そういえば嫌味ばかりをいう使用人たちの姿も、いつの間にかいなくなっていた。私の世話が嫌になったのかもしれない。よくあること。
離縁されたら、この屋敷からも追い出されるかしら。それとも後妻として他の貴族に嫁がされる?
私に選択肢はない。
夢の中だったら堂々と彼の妻だと言えるのに。現実の私は炎魔法一つ使えない。とても戦場で一緒にいることなんて出来ないわ。
私が奇跡のような魔法を使えるのは夢の中だけ。
夢だけが私のたった一つの居場所。
「夢……。 夢(・) の(・) 中(・) で(・) 生(・) き(・) て(・) い(・) く(・) ?」
それは甘すぎる考えだ。けれどもう私の寄る辺は、夢の中で温かく迎えてくれるジークハルト様だけ。
きっと現実のジークハルト様は、私の存在など忘れてしまっているだろう。愚かにも妻を娶ってしまったと後悔しているかもしれない。
「……離縁状が来たら、夢の中で生きるのも悪くないかもしれない」
だって夢の中以外で私の事を大切にしてくれた人は誰もいないもの。両親に殴られて蹴られた痣が痛い。寒くて苦しくて、涙も出ない。
瞼を閉じて眠ってしまえば、痛いことも怖いことも、苦しいことも、寒さも感じない。
**ジークハルト様side**
それから一ヵ月後だったが、ノーマンが真っ青な顔をして報告書を持って来た。
「……王都での情報を集めていたのですが、ここ数年奥様が屋敷や外出したという報告がないそうです」
「幽閉されていると?」
「その可能性は……高い……と思います。クッ、噂も王都ではかなり捻じ曲がって届いているし、意図的に情報操作しているようです。悪質な噂の出所は追放された元騎士たちですからね……!」
ノーマンが後手に回るとは珍しい。だがそれよりも聞き捨てならない言葉があった。
「私の妻が幽閉? それはもう元凶を殺しても良いよな。ついでに兄二人も首を切り落とすか」
「ちょ」
「そろそろ失脚させる材料も揃う。それまでは待てよ」
ノーマンの代わりにウィリアムが言葉を引き継ぐ。
時が味方したのか 魔物暴走(スタンピード) が収まりつつある今、凱旋という名目で王都に行く理由と時間が捻出できた。そしてタイミングよくメイザース公爵家から招待状とシンディーからの手紙が届いた。
“会いに来て。お話を伺いたい”
短いけれど可愛らしい字だ。シンディーは何度かここに来て何日か滞在するけれど、気付くといなくなる。そのタイミングはいつもバラバラだ。
いなくなる度に胸が抉られるような感覚で、心臓に悪い。またすぐに会える。そう思わなければ心が潰れそうだ。
王都で会う時は、消えずにいてくれるだろうか。
そんなことを思っていたからか、珍しく会議中にシンディーが現れた。いつもと同じ真っ白なドレス姿に、ふわふわの蜂蜜色の髪を靡かせて笑顔を向ける。
けれど今日は違った。
「シンディー?」
「ジークハルト様……!」
いつもと同じ。
花のように笑う。けれど頬や肩、腕に痣があった。ゾッとする光景に身体が動いた。
「シンディー! その怪我は!?」
抱き上げると彼女は小首を傾げて微笑むだけだ。私の声が届いていないのだろう。
「ジークハルト様?」
いつになく彼女は私の胸に身体を預けて、身を委ねる。ウィリアムはすぐに治癒士を呼びに飛び出し、私はすぐに自分の天幕に戻った。
彼女は不思議そうにしながら、ノーマンたちに手を振っていた。私を見てほしいと頬にキスをすると、真っ赤になって震えている。可愛らしい。
このまま今日は天幕で──いやいや、傷を癒すのが先だ。
もし現実でも彼女が虐げられている状態だとしたら、悠長なことを言っている場合ではない。指輪の輝きが消えかけている。少し前まではそんなことはなかったはずだ。
「ジークハルト様?」
「シンディー。愛している。この思いも君には届かないのだろうか?」
頬にキスをするが、彼女は真っ赤になるだけで私の言葉は届いていない。こんなに近くにいるのに、傍に居るのに想いが伝わらないなんて。
「ジークハルト様」
「なんだい?」
「あたたかい」
そう呟くシンディーは頬から涙をこぼしていた。拭っても溢れて止まらない。
ああ。こんなに泣かせるまでシンディーを待たせてしまった。けれどもう少しであの 害虫(兄たち) を葬れる。
そうすれば──。
***
兄たちの悪行をまとめた報告書を読んだが、胸くそ悪かった。
最初はシンディーを連れ去ろうと人を雇ったらしい。しかし何度やっても失敗したらしく、心を壊す方に移行したという。
それでも心が折れなかった。
あの指輪の輝きが鈍くなっていた理由はこれだったのだろう。
業を煮やした兄たちは使用人、警備兵、遠縁の義妹を使って、古塔に呪いを仕掛けた。そして同時期に兄たち両方から手紙が送られてきた。
『呪いの 魔導具(アーティファクト) を設置した。お前とその妻が再会した瞬間、呪いが発動する。それが嫌なら爵位を返上しろ』
『それと騎士として忠誠を誓え、財産も全て俺たちに渡すように』
兄たちが提案してきた瞬間、領地に乗り込んで滅ぼしてやろうかと思った。しかしノーマンに「落ち着け!」と止められ、ウィリアムにも「馬鹿を殺すことで奥様の呪いが発動したらどうする!?」と言われて、なんとか耐えた。
シンディーに掛けられた呪いの解除ができ次第王都に、メイザース公爵家に突貫する。ウィリアムが解析と解除を行い、あと少しというところまで来た。
ノーマンには侯爵家を潰すための国王陛下に奏上を頼んだ。シンディーを攫おうとしただけでも証拠は十分だが、言い逃れできないほど徹底的に潰す。
だから──。
「シンディー。今すぐに君を迎えに行く。私を許さなくても良い、憎んでも、恨んでも良い。だからどうか生きることを諦めないでほしい」
彼女はにこにこと微笑む。
「シンディー」
「どうか私を捨てないでくれ」と、呟きそうになったのを必死で堪えた。
***
呪いの解除が解かれた直後、馬を飛ばし、転移魔法を使ってメイザース公爵家を訪れた。彼らは驚きはしたが歓迎して屋敷内に入れてくれたが、肝心の妻の姿がない。
「む、娘は支度に時間が掛かっていますから」
「少々お待ちください」
そういう彼らを無視して屋敷の部屋を見て回ったが、シンディーの部屋は見当たらない。メイザース公爵と夫人の顔がどんどん青ざめていく。
「わあ、あなた様が私のお義兄様? こんな素敵な方だったのなら、私がお姉様の代わりに──」
「邪魔だ」
「!?」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ女を切り捨てた。
「団長…… 亡(・) 霊(・) も(・) 斬(・) れ(・) る(・) と(・) か(・) 規(・) 格(・) 外(・) す(・) ぎ(・) る(・) ……」
「亡霊?」
「無自覚か。さっき近くで死体を見かけたんだ。侍女数名に、少し前に養子になった当縁の娘……だったかな」
「今はシンディーの安否が最優先だ」
「はいはい」
ウィリアムが魔力を感じると古塔に向かった。
足を踏み入れた瞬間、赤黒い魔法陣が展開し根を張っていた茨が暴走した。茨は生き物のように屋敷の者たちだけを襲い始め、私や部下たちには目もくれない。屋敷の者たちはあっという間に誰もいなくなった。そして茨はシンディーの両親にも襲いかかる。
「きゃあああああああ! どうして、私たちはシンディーの……っああああ」
「は、はなせ! 今までは私に攻撃してこなかったのに、どうして!?」
あっという間に茨に包まれて血の雨を振らせた。
シンディーの両親だから助けるべきか逡巡したが、報告書を読む限りその必要はない。薬指にはめた指輪に視線を落とす。
この指輪が砕けない限り、シンディーは生きている。だから大丈夫だ。
「落ち着け、団長。奥様の魂は安定している」
「──っ、ああ」
ウィリアムの言葉に少しだけ冷静になる。それでも足早に歩くことは止められず、古塔の回廊を進んだ。
「……さきほどのアレは古代魔法だ。おそらく奥様に対して強い殺意を向けた瞬間に、茨に敵認定されたんだろう。 魔導具(アーティファクト) を使用したことで起こった副作用か、あるいは──」
シンディーが施したのだろうか。殴られていたから、命を危機を感じて魔法を使った?
いや茨を見る限り、長い年月を掛けて成長した痕があるそうだ。
だとしたらトリガーはなんだ?
私が訪れたから?
しかし呪いは解除したはずだ。なにより茨は私に何の反応も示さなかった。
古塔の中は長年掃除をしていなかったのか、本と黴臭い匂いが充満していた。人が住む環境ではない。でもそこにシンディーはいなかった。
「シンディー!?」
「……魂の位置は、地下だな」
彼女がいたのは地下神殿の最奥。
茨の繭に包まれて、眠っている。それは雛鳥を守るための巣を連想させた。この茨には意思があるのかもしれない。
そういえば伝説では女神を守護し続けていたドラゴンがいたという。ドラゴンの骸に宿った茨が女神の転生あるいは、能力を持ったシンディーを守ろうとしたのだろうか。
茨に意思があっても人とは異なり、守ろうとする反応は、大雑把だったのかもしれない。明確な敵意、あるいは殺意。
茨の下をよく見るとオールブライト侯爵家の紋章と白骨が転がっていた。兄たちが妻を人質に取ろうとして侵入し、返り討ちにあった確かな証拠だ。
シンディーの両親が今まで存命だったのは、彼女と血が近いからか。あるいはまがいなりにも女神の系譜だからか。どちらにしても憶測の域を出なかった。
私が茨に触れた瞬間、ふにゃりと溶けて繭が崩れて消えていった。中にいたシンディーは肌つやは良いが、瞼は固く閉じたまま眠っている。
「シンディー!」
最後まで茨は襲ってこなかった。役割が終わったと言わんばかりに黒ずんで消えていく。屋敷で生き残ったものは誰もいなかった。
「シンディー、起きてくれ」
「……」
規則正しく寝息を立てている。
「ちゅーしたら起きるんじゃないか?」
「キスしたら起きるのでは?」
「黙れ」
ウィリアムとノーマンの言葉に少しだけ冷静になる。
「とりあえず外傷もないですし、健康状態もいい。ひとまずメイザース家が禁術を使って自滅したと国に報告しておく」
「では私は屋敷の事後処理をします」
「ああ」
シンディーを抱きかかえて持ち上げるが軽い。軽すぎる。
「それとオールブライト侯爵家を潰す明確な証拠も出そろったので、潰しに掛かります」
「そうだな。徹底的にやってこい」
「承知しました」
ウィリアムを使い、魔法塔の力を駆使して圧力を掛ける気だろう。ノーマンも王都の貴族に話しを広げた上で、王家に報告するそうだ。
できるのなら俺が自分で決着を付けるべきだろうが、腕の中にいるシンディーをこれ以上一人にさせたくない。
「団長はこのまま、辺境地に奥様と一緒に戻ってください」
「ああ、そうだな。……その通りだ」
数年ぶりに再会したシンディーは出会ったままの姿で儚く、愛おしく、そしてあまりにも痛々しかった。
物語では王子や騎士が姫君にキスをしたら目覚める。そんな夢みたいなことが起こることもなく、シンディーは私の腕の中で眠ったままだ。公爵家でシンディーがどのような扱いを受けていたのか、それはあとで報告に戻ったウィリアムとノーマンが語ってくれた。
公爵令嬢にして魔力がないと酷い扱いを受けてきたという。
出来損ない。
一族の恥さらし。
お荷物。
ニセモノ。
あまりにも幼稚で愚かで醜悪な態度に吐き気がした。
ずっとシンディーは一人で戦っていたのだ。自分が壊れないように。どうして気付かなかった。見ていたのに。
私はどうして彼女が助けを求めた時に、居合わせることができなかったのか。
戦場で再会した時に気付いたら。
夢渡りして現れたことを深刻に受け止めていたら。
手紙や贈物の返事がないことに、もっと違和感を覚えていたら。
結婚したあの日、無理にでも公爵家から連れ出していたら。
出会った時に勇気を出して話を聞いていたら──。
なにもかもが「たられば」だ。
視界が歪む。
眠り続ける愛しい妻に対して私は無力だ。
国で最強のソードマスターだとか。
国の英雄だとか言われていても、一番大事な妻を守ることすら出来なかった愚か者だ。
「シンディー、すまない」
涙が妻の頬にこぼれ落ちる。
「……っ、ジークハルト様?」
声がした。愛しい妻の声だ。
「シンディー!?」
「はい。ジークハルト様の、旦那様の……シンディーです?」
シンディーは目を見開き、体を起こす。今回は突然現れるとかではない。目を覚ましたのだ。寝ぼけているところも可愛らしい。
「今日は珍しく馬車の中なのですね」
キョロキョロと周りを見渡す妻が可愛くて、愛おしい。思わずぎゅうぎゅうに抱きしめてしまう。彼女は嬉しそうに抱きしめ返す。
温かい。今まで突然現れたときと同じ、温もりと甘い香りがする。
「ジークハルト様。温かい」
「シンディー。すまなかった」
「ふふふっ、今日はジークハルト様の声がよく聞こえます」
たったその事実が心底嬉しそうに綻ぶ。
「シンディー、これは夢ではない。現実なんだ」
「現実……?」
不思議そうに小首を傾げる。ああ、なんて可愛らしいのだろう。頬に額に何度もキスをする。この温もりが、想いが現実だと彼女に刻みつける。
「ジークハルト様でも冗談を言うのですね」
「冗談なんかじゃ」
「冗談ですよ。だって現実で私を抱きしめてくれる人なんて、誰もいなかったのですから」
「──っ」
まるで他人事のように微笑む。突きつけられた言葉に胸が痛んだ。
「シンディー」
「夢の中だけ、望む通りにどこにでも行ける。好きな人にも会える。だからこの夢を壊さないでください。現実では私は、お飾りで役に立たない妻。いえ、もうすぐ離縁状が届くでしょうから、どうあっても会えなくなる」
衝撃的な単語にギョッとする。
「離縁状!? どうして」
「ふふっ、夢の世界と違って現実の世界では『金色の髪の乙女』が、貴方と恋仲だそうです。政略結婚した私が二人を引き裂いた悪妻らしいですわ。義妹がそう言っていました」
義妹?
そんな女などいただろうか?
なにか喚いていた女がいたような?
それよりもノーマンの画策が裏目に出るとは。しかも政略結婚の部分も大きな誤解だ。だがその誤解を解くことを私は先送りにしてしまった。後で話せば──と。
その結果がこれだ。初夜で浮かれた罰があたったのだろう。
「シンディー。落ち着いて聞いてくれ。……ここは現実で君を公爵家……古塔から連れ出したあとなんだ」
「……どうして、そんな酷いことを言うのですか?」
「シンディー?」
ポロポロと大粒の涙を零して泣きじゃくる。
「夢の中で現実に希望を持たせようとしないでください。期待してしまう」
涙を拭って、何度もキスをする。彼女が落ち着くまで。
「シンディー……」
「ジークハルト様が一度だって屋敷に来たことも、手紙も、贈り物だって……返事はなかったわ」
「手紙を……? 書いてくれていたんだな」
「……っ、はい。……ああ、そうだ。私が返事を書いても……義妹に潰されて……」
言葉が出てこなかった。彼女は一人でなんとかしようと動いて、潰された。
彼女の心を折り続けたのは、私だ。戦闘にかまけて、一番疎かにしては行けない最愛の人を傷つけた。
「現実は残酷で、不平等で、誰も助けてくれない」
「そんなことない」と口に出来たらどれだけ良かっただろう。
間違いなく現実は、地獄だったのだろう。悔いるよりも前にシンディーの精神状態を和らげるほうが先だ。
「シンディー。落ち着いて欲しい。それに夢でなくとも私は君を好いている。夫婦になる前から君を知って、君を想っていた」
「ジークハルト様? でも……」
「それと『金髪の乙女』はシンディー、君のことだ」
シンディーはムッとした顔で私を睨んだ。どうしよう、そんな姿も可愛らしい。今キスしたら怒るだろうか。怒りそうだな。
「私の髪はくすんだ蜂蜜色ですよ?」
「ふわふわで柔らかくて、太陽の光で金髪よりも美しい」
「現実の私は魔法が使えないのですよ?」
「そうだったとしても隣にいて欲しい」
涙を拭ってキスをする。
愛しい愛しい人。
「シンディーがあの時、私の元に来てくれたのが何よりも嬉しかった。魔法が使えなくても、奇跡が起こらなくても、君を愛している」
「治癒魔法ができない私に、価値なんてないのに……」
「そんなことはない。君は君が思っているよりも素晴らしい人で、愛おしくて大切な人だ」
深く傷ついた心を癒すには時間と、過剰な程の溺愛だろうか。許されるのなら、私がシンディーをドロドロに甘やかしたい。愛を囁いて、傍で支えていきたい。
***
ジークハルト様が私を好きだと言う。私を領地に連れて行ってくれるって。そこで穏やかに暮らそう。甘い甘い言葉。
温もりも、シトラスの香りも、甘い声も現実味を帯びている。
これは夢。
夢だと思っていた。だって私をあの地獄から連れ出してくれるなんて、夢じゃないとありえないもの。
両親が、一族が許さない。
義妹が妨害する。
私は出来損ないで──。
『シンディー、おはよう』
ジークハルト様が私を抱きしめる。目が覚めて愛しい人が隣にいる日々。
幸せすぎる。
夢なら楽だった。
夢だから自由で、何でも出来た。でもあれも現実だったというのなら?
『シンディーがあの時、私の元に来てくれたのが何よりも嬉しかった。魔法が使えなくても、奇跡が起こらなくても、君を愛している』
私を抱きしめて、求めてくださる。魔法が使えなくてもいいと、それでも良いと言ってくれた。私がほしかった言葉をくださる。現実の私はあの方のために何も出来ていないのに。
どうして?
目が覚めてもジークハルト様がいる。
変わらずに優しい声で、温かな温もりで私をドロドロに甘やかして、大切にしてくれる。屋敷の人たちも私を丁寧に扱って、入浴や髪や肌の手入れを手伝ってくれた。
なんだかとっても大事にされて、擽ったい。
辺境地では寒帯林エゾマツやらトウヒ、シラビソなど森が広がっており、魔物生息も多いらしい。遠征はその森の奥で年に何度か魔物が大量発生しないように討伐をしていた。しかしここ数年は魔物の数が増えてしまっていたとか。
今は魔物が落ち着いたとかで、私を公爵家から連れ去ったらしい。
夢にしてはできすぎている。
頬を叩く風の感覚も、雪の気配のする土地の香りも、見える景色も私は実際に見たことがない。知らない。
夢の中で描けるはずもない光景。
ここは本当に現実?
だとしても、お父様たちは本当に私が屋敷を出るのを許したのかしら?
何の反応もないのが怖い。
辺境地は寒い所と言うけれど、暖炉の火がくべられて温かいし、ソファや絨毯も豪華でふわふわ。なにより。
「シンディー、これも食べるといい」
「ひゃい」
ジークハルト様が私を膝の上に乗せているのだ。私は雛鳥になった気分で、夫と食事を一緒に取っている。一人で食べられるというと「そうか」と落ち込んでしまうので「食べさせてください」という流れに。
ジークハルト様に、なんてことを!
「シンディー? どうした? もしかして寒いのだろうか。それとも何か嫌いな食べ物が?」
「い、いえ! どれもこれも美味しいです。温かくて美味しい料理なんて、滅多に食べられませんでしたし」
「!?」
「……?」
その場にいた全員が固まった。
時々、私の言葉にみなさまが驚いて固まったり、震えたり、泣いたりする。特にジークハルト様は怖い顔をなさる。まるで私のことで怒ってくれているみたいで、愚かにもそんな姿に嬉しくなっている自分がいた。
***
「あ、奥様だ!」
「奥様、領地生活はなれましたか?」
「こんにちは。……ええっと、はい」
「よかった」
「だな」
騎士団の方々とお会いしても、全員が挨拶を返してくださる。
(優しい方ばかり)
「さっさと持ち場に戻れ!」
「え、ひゃ」
ジークハルト様が不機嫌な顔をして私を抱き上げてしまうが、それが独占欲だったら嬉しい。躊躇いながらも腕を首に回したら、彼の口元が緩んだのが見えた。
「シンディーが可愛い」
「ジークハルト様」
現実の私は何の力もないのに、誰も怒らないし、見下さないし、軽蔑しない。ここは空気が息苦しくない。私を一人にしない。
私はこの場所で生きてもいいの?
根を下ろしても許してくれるのかしら。
冬が来て春が来て、短い夏が、豊穣の秋が訪れる。
季節が巡って、積み重ねて──生きていく。
雪が降り始めた日。
招かれざる客が訪れる。それは唐突に。
「 俺(・) の(・) 女(・) 神(・) 。 迎(・) え(・) に(・) 来(・) た(・) 」
そう数千数百の魔物の軍勢を引き連れて、宵闇の王が現れた。
***
悪魔王は女神に焦がれ、地上に影を縫い止めた。悪魔王は女神を我が物にしようとしたが、女神の守護獣ドラゴンに封印されてしまう。その後、女神は王国に豊穣の恵みを与え、巨大な木下で眠りについた。その傍らにはドラゴンが寄り添っていたという。
次に生まれ変わる時がきても、守り続ける──と、古塔にあった神話にはそう書かれていた。
「……」
パチパチと客室の暖炉の炎が燃える中、宵闇の王はゆったりと腰を下ろした。二メートルはある巨体に灰褐色の肌、真っ黒な長い髪に、黄金の瞳。
本で読んだ巨人族のような鎧のような肉体に、軍服めいた服と毛皮を羽織った姿は魔物を統べる王にふさわしい貫禄だ。
完全武装したままでジークハルト様は、悪魔王の向かいに腰を下ろした。領主として正しいと思う。正しいけれど、私の席がどうして隣ではなく膝の上なのか。
この重苦しい空気の中で誰も指摘してくれなかった。
真剣なお話なのに、話が頭に入らない……! 違う意味で冷や汗が出てきたかも。
「それで貴公がその悪魔王の生まれ変わりだと?」
「いや。 俺(・) は(・) そ(・) の(・) ド(・) ラ(・) ゴ(・) ン(・) の(・) ほ(・) う(・) だ(・) 」
「「…………」」
ズバッと言い切る男に、私たちは目が点になった。
「え、どらごん?」
「封印した……守護獣?」
「そうだ」
どう考えても雰囲気や纏っているオーラ的に悪魔王に近い。しかし眼前の自称ドラゴン様は真顔で肯定した。
「悪魔王に呪われているので、今は魔物の王のような存在になっている。女神は地上で長く生きられなかった。深い眠りについたとき、俺は傍らで見守るつもりだったのだが、悪魔の呪いのせいで共に眠ることが出来なかった」
「え?」
「地上に居ると瘴気をまき散らすので、冥界で時が来るのを待つことにした」
「聞いていた話とは違うな」
その話が正しければ彼は悪魔王ではなく、女神守護していたドラゴンだ。神話の話と食い違う。
「それなら女神の傍らで眠ったのは、誰なのです? それとも物語の後付け?」
「女神と共に眠ったのは悪魔王だ。そして悪魔王は、その形を二つに分けた。女神の傍に居続けるため茨になり、もう一つは人として転生を望んだ。ジークハルト・ヴァン・オールブライト、お前がその悪魔王の生まれ変わりとなる」
「!?」
「ジークハルト様が?」
彼は頷いた。
「その証拠に、国に根を下ろしていた茨が消えた」
「茨?」
あまりピンとこない。ただ古塔の地下には様々な植物が実っていた。桃源郷のように本来実るはずのない果実もあった。あれのおかげで私は飢えずにすんだ。
「もしかして……私に食べ物をくれていたのも悪魔王だったの?」
「おそらく」
ジークハルト様は黙ったままだ。自分が悪魔の転生と言わて怒って当然だろう。ジークハルト様の顔を覗き見るが、驚きと困惑がない交ぜとなっている。
「茨は女神の転生者であるお前を孤立させたかった。いや自分だけの鳥かごに囲っていたかったのか。それとももっと別の目的があったのか。ただ茨は失敗したのだろう」
「しっぱい?」
ドラゴン様はフッと困った顔で微笑んだ。
「ああ、だからもう半身に託した──のかもな」
「私が……悪魔王の……生まれ変わり?」
「ジークハルト様」
ギュッと抱きしめたい。そうしたらジークハルト様は安心してくださるだろうか。悩んでいる間に話は進んでいく。
「あの茨が敵意を示さなかっただろう。あれは貴様と同じ魂だったからだ。 玩具(アーティファクト) の魔力に反応して一時的に活性化したようだが、茨に悪魔王の意識が残っていたかは分からない。だが半身が目的を達成すると思い全てを出し切って公爵家を滅ぼしたんじゃないか」
「……!」
滅ぼした……? 今までずっと実家から反応がなかったのは……すでにこの世にはいなかったから?
両親の死よりも、あの暗くて、怖くて、恐ろしい場所に戻らないで済むことが嬉しいなんて、私は自分のことばかりだ。
「私が……、私の中にあの茨が? それとも……」
「ジークハルト様」
ジークハルト様の顔が真っ青だ。震えている。
手を握ると、優しくに握り返してくれた。そのことに少しだけホッとする。
「それで……あの……ドラゴン様が先ほど言った『迎えに来た』とは?」
勇気を振り絞って尋ねた。何が目的なのか。
もしジークハルト様が悪魔王の半身で、今度こそ命を奪うとしたら?
だとしたら私は──。
胸が軋むように痛い。
「ああ。遙か昔の約束だ。俺と共に生きる気があるのなら、お前を連れて行く」
「なっ!?」
私を?
ジークハルト様はドラゴン様を睨んだ。
「強制はしない。……ただ一緒に行けないのなら、俺の呪いを解く手伝いをしてほしい。女神の転生者ならできるであろう」
「……わ、私が女神の転生者じゃないかと……それに私は何の力もなくて……魔力だって……」
今でも両親の罵倒が耳にこびりついて離れない。震える体をジークハルト様が優しく抱きしめた。少し躊躇っているように感じたのは、自分の前世が悪魔王だと言われたからだろうか。
「魔力がないのは当然だ。お前の持つ権能は神力であり、奇跡そのものを起こす。用は事象の書き換えに等しい」
「事象の書き換え……奇跡?」
それは夢の中の私のよう。思うとおりに移動できて、傷を癒す。奇跡の数々。
「長年の呪いの蓄積で、理性があるうちに浄化を頼みたい。……この地から離れて俺と一緒にくるのも考えてみてくれ。昔のように空の旅をするのも、お前となら悪くない」
空の旅。
どこか胸に響く言葉だ。もしかしたら魂が覚えているのかもしれない。自由で空を飛び回っていた頃を。
今も私が女神の生まれ変わりだと言われてもピンとこない。ただ夢の中の私は女神のような力を持っていた。茨になった悪魔が植物を実らせてくれたと言われたら納得できる。
それに……思い返せば、私に酷いことをしてきた人たちは、順々に姿を消していった。あれは明確な敵意と殺意があったから?
両親は私を憎んで、恨んで、見下していたけれど、敵意や殺意はなかった気がする。あるいはそうならないようにしていた?
義妹も?
それは私が飛び立つまで?
それとも完全な檻が出来るまで、待っていた?
結果として私はジークハルト様の腕の中にいる。悪魔王だったとしても、ジークハルト様が私の心を救ってくださった事実は変わらない。
たとえ全てが筋書き通りだったとしても、この気持ちは変わらない。
それくらい今の場所が居心地が良くて、好いてしまったから。それはジークハルト様にとっては迷惑なことなのか聞きたい。そう思う気持ちと返事を聞くのが怖い。
「しっかりと話し合うのだな。次の満月まで待とう」
そういってドラゴン様は姿を消した。
国では魔物が一斉に現れて消えたことで大騒ぎになった。ドランスフィールド家が没落したこともジークハルト様と王族が取引をしたことで内々にすませたらしい。
私が何も聞かなかったから、ジークハルト様はずっと黙っていてくれた。
ジークハルト様が何を考えているのか。私の事をどう思っているのか。
聞くのが怖い。
怖いけれど、怖いままでは駄目な気がする。
夢と現実があやふやだった私を、根気よく待ち付けてくれたあの方のご厚意を無にしたくない。
その日の夜。ジークハルト様の部屋を訪ねた。
明かりも付けず暗がりの中で、彼は外を見ていた。
「シンディー?」
「ジークハルト様、お話があります」
**ジークハルトside**
悪魔王の生まれ変わり。
そう言われて自分の人間離れした力に納得した。もしかしたら私がシンディーを見て一目惚れしたのも、悪魔王の魂が起因しているのかもしれない。
でもだからなんだ。
今さら私の前世などどうでもいい。
問題は私がいずれ悪魔王の記憶を取り戻し、シンディーを、妻を、愛しい女を、どうするのか、だ。もし傷つけるようなら、私は私を許さない。
私が望むのは、シンディーが笑顔でいることだ。そのためなら何でもする。もし彼女が私といて不幸になるというのなら、私は彼女を解放する──っ、決断をしなくてはならない。
シンディーが幸せなら──。
「ジークハルト様?」
ああ、シンディーの声だ。私の名前を呼ぶ。
たったそれだけで胸が熱くなる。
「シンディー」
「お話があります」
覚悟を決めた瞳で、向かい合う。そう君は強い。
何も出来ない、出来損ない、愚かなんて全て嘘だ。
君は誰よりも優しくて、温かくて、強い。
愛おしい人。
今すぐにその柔らかな肌に触れて、抱きしめて閉じこめてしまいたい。潤んだ瞳も、可愛らしい唇も全て自分のものにして、自分だけを見てほしい。
なんとも傲慢で、強欲で──。
「ジークハルト様は……、わ、私がただの人になっても、隣にいることを許してくれますか?」
「もちろん」
気付けば即答していた。
「わ、私が、女神の力を全部使ったら……もう傷を癒やせません」
「でもここ数年で君は薬学を学んで、薬を作るほど上達しているじゃないか」
「すぐにジークハルト様の傍に現れることができません」
「いつもすぐ傍に私がいる。手の届くところに君がいるだろう」
ひとつひとつ言葉を返していく。
君が必要だと。
君がいるから、世界が鮮やかで美しく見えていると。
「シンディーは……」
「ジークハルト様?」
「私の愛しい、愛しい妻は、どうしたい?」
涙を浮かべ、それでも真っ直ぐに私を見返す。
「私は……ここにいたいです」
ああ。シンディーから言って欲しいとずっと願っていた。
「──っ」
「私。ジークハルト様と一緒に、生きていきたい……っ、です。あ、愛しているのです」
もうだめだった。
気付けばシンディーを抱きしめて、離せなかった。何度もキスをして、触れて、愛していると囁く。
嬉しい。君がそう思ってくれたことが。
壊れかけてしまった心が少しでも取り戻せたかもしれないと思えるから。
「私も君を愛している」
***
次の満月にシンディーは、女神の力を差し出した。宵闇の王と思われた姿を変えて金色のドラゴンへと様変わりした。巨大な翼を広げて、天へ帰って行く。
眷属たちも魔物から聖獣に戻ったようでドラゴンの後を追う。シンディーはいつまでもその光景を見ていた。
王家にはシンディーが奇跡の力を全て使い切って、魔物の王の呪いを解いこと。目覚めたドラゴンは、この地に祝福を与えて天界に戻った──ということにして報告した。
変に女神が転生したと話せば王家のことだ。その血を取り込みたいと言い出すだろう。それは私も妻も望まない。
ドラゴンが天界に帰ったことで魔物の数が減り、辺境地にも平穏が戻った。もっとも王都では後継者争いが水面下で始まっているとか。私には関係ないので中立を貫かせて貰おう。最悪戦火に巻き込まれるのなら、その前に対策をとってしまえば良い。
侯爵家は 兄(・) 二(・) 人(・) が(・) 事(・) 故(・) 死(・) し(・) た(・) た(・) め(・) 没(・) 落(・) 。大人しくしていれば良かったというのに、愚かにも欲深かったため引き際を見誤ったのだろう。もっと苦しむやり方も考えたが、シンディーとの時間を優先して、部下に任せた。
そして当主を失った侯爵家の領地や財産は、国に返却することで王家の後継者争いには関わらないという言質をとった。これ以上面倒ごとに巻き込まれるのは、ごめんだ。
**???side**
なにがいけなかったのだろう。
ほしい。
だから手を伸ばした。
それなのに、わらっていてほしい人は死んだ。
手を伸ばして、触れたかったのに。
私の手は爪が長くて、鋭い。
これでは触れたら傷つける。
これでは抱きしめられない。
そんな簡単なことを私はしらなかった。
近づくだけで死に至らしめる。
近くにいるだけで命を奪う。
触れたら呪われる。
触れたら傷つける。
知らなかった。
悪魔だって言われていたけれど、私は悪魔というよりも死神に、死そのものに近いのだろう。
女神。
キラキラしていて、ほしいと思ったんだ。
もっと話がしたい。
笑ってほしい。
君が愛してくれるのなら、私はなにものかになれる気がする。
でも言葉も、想いも、どう伝えるか分からない。だから傷つけて、血を流してそれを媒体に記憶を暴いて、想いを覗き込んで理解しようとした。
「本当にアナタは困った人ですね」
知らなかったんだ。傷つけたら簡単に壊れてしまうことを。
血を流し続けたら死んでしまうことを。
「どうしてアナタが泣きそうな顔をしているの?」
殺し合う。相手を傷つけ合って、それで相手のことが分かる。それが唯一の接し方だった。
自分がどう欠けているのかもわからない。
「女神も死ぬのか?」
「生きている者はいずれ終わりを迎えるわ」
「……いやだ。だめだ。きえるな。どうして。いなくなる。だめだ。だめだ。だめだ」
「もっとはやく……気づけたら」
女神は眠りについた。私が沢山傷つけてしまったから。
傷つけてもすぐに体は元に戻ると思っていた。
私がそうだったから。
女神は特別だから。
大丈夫だと。
でも、私の死の力の方がつよかった。
胸が痛い。傷ついていないのに、心臓を抉られたときよりも痛い。
苦しい。水中の中で呼吸が出来ないような、息苦しさが止まらない。
女神に会いたい。
眠ってしまった彼女に、もう一度。
当たり前のように隣で眠ろうとするドラゴンが許せなかった。
ドラゴンを呪えば分かるだろうか。
私が女神の傍で眠り続ければ、分かるだろうか。
攻撃ではなく、傷つけるではなく、守る。
どうすれば守れる?
大切にできる?
そうだ。ドラゴンの真似事をしよう。そうすればなにか分かるかもしれない。
女神を守り続ければ、私を見てくれるだろうか。
私が私でなくなれば、こたえが出るだろうか。
そう思い眠りにつく。
力が強すぎるのは良くないと学んだ。
茨と半分にした魂は人に転生させよう。
茨は女神を守るための盾であり矛。殺意を向けた瞬間に相手を殺す。しかし家族という枠は特別だと女神は言っていた。
家族への攻撃条件はすこし緩めなければ。
女神に嫌われたくない。
人間への転生は、女神を見つける力を付与しよう。
出会えるように。
人として転生すれば、多少心というものが分かるかもしれない。
どちらかが私の答えを見つけてくれるだろうか。
願わくば。
夢を見せてほしい。
私と彼女が悲劇ではない 夢物語(未来) を──。
**ジークハルトside**
「ジーク」
妻がそう呼ぶようになったのは、いつからだったか。ずっと続いていた冬に終わりを告げて、雪の中で耐えてきた花が咲き誇ったように、シンディーはよく笑うようになった。その姿を見る度に胸が熱くなる。
「シンディー」
幸せそうに微笑む姿に、いつかの言葉が脳裏を過った。
今日は二人で中庭を歩く。雪溶けで春を告げる若葉が見え隠れていた。二人で手を繋いで歩く。その手に少しばかり力が入る。
「……君の幸福は 現実(ここ) にもあるのだろうか?」
「……」
突拍子ないことだと思っただろう。けれど妻は悪戯を思いつい目た顔で笑った。
「あなた、ちょっと屈んでほしいの」
「?」
お望み通り屈むと、彼女から唇にキスをする。人前で、なにより自分からキスをするのが苦手な妻が、だ。
「答えは”はい”よ」
「!?」
「私を連れ出してくれてありがとう。夢よりもずっと幸せだわ」
耳元で囁くのも反則だろう。今夜は夜が長くなりそうだ。
煽ったのは妻なのだから付き合って貰うとしよう。