作品タイトル不明
そして膝をつく。
「僕のことよりも姉君とティペットの捜索を。徹底的にお願いします。」
冷静な、いつものステイルの声に騎士達は少し安堵した。
隊長のケネスが騎士達に捜索状況の確認を聞きながら、注意はステイルとアダムへ払う。ステイルの護衛である騎士達に「注意を怠るな」「何かあれば構わず飛び出せ」と口の動きに殆ど出さずに命じた。
ゴボッゴホッ……とアダムの咳が段々と激しさを緩め、収まっていく。その様子を正面から眺め続けるステイルは、そろそろ話を聞く余裕が戻ってきた頃かと判断する。
「姉君の居場所を教えろ。そして特殊能力を解け。」
同じ要求を繰り返す。
既に圧倒的な力と決定的な実力差と敗北を味わったアダムは、酸素が回り始めた脳でやっと思考が動いた。ステイルに戦闘では勝てないと、認めたくなくても理解する。皇太子である自分が、侵略国家の第一皇子として様々な戦闘技術に秀でた筈の自分が完全に歯が立たない。
次第に咳込みだけでなく、続いて「ガッ……ハァアアアッ‼︎‼︎ア、アアアアッ‼︎‼︎」と憤りを紛らわすように石畳へ向けて咆哮したが、ステイルはそれを冷たい眼差しで眺め続けた。侮蔑を与えるようにわざと鼻で笑ってやれば、聞き逃すほどの微かな音にもアダムは激しく反応した。
呼吸が整いきる前に食い縛った歯を剥き出しにして顔を向け、剣を拾い上げる。剣先を杖にするように石畳を突き、ゆらりと何とか立ち上がる。首にうっすらと残った鎖の跡と細目の奥を血走らせた顔をステイルは涼しく眺めた。
アダムがどれほど激痛に悶えようとステイルは何とも思わない。プライドやアーサーの痛みと比べれば、この程度は痛みに入れることすら烏滸がましいと本気で思う。
ハァ……ハァッと息を切らせながら睨むアダムは、咳込んだ最後に手の甲で零れた唾を拭い取った。そして威勢を張るように最後は肩で息を整えながら口端を引き上げる。
「……やるじゃん、バケモン王国の成り上がりが。」
「お前もフリージア王国の血を引く奴隷の成り上がりだろう。」
ギリッッと、ステイルの言葉にアダムの方が歯を食い縛る。
ステイルから冷静さを奪うつもりが逆に自分の頭へ血が登らされる。グラついた頭から憎悪が一気に込み上げ噴き出す中、ステイルは手のひらで転がすように言葉を重ねた。
「何を恥じる。奴隷だったことか?我が国の血を引いていることか?……ああ、両方か。本来であればどちらも我が国では蔑視されるべき要素ではないが。」
奴隷だったことを知られれば確かに侮蔑の対象にはされやすい。だが、国としてはあくまで〝被害者〟だ。
だが、アダムにはそのどちらもが吐き気がするほど憎くて堪らない〝事実〟だった。
ギリギリと奥歯がすり減るほど歯を鳴らし、再び剣で斬りかかるアダムだが、やはりステイルには届かない。
「だが、貴様が我が姉君を貶めたことは万死に値する。」
鋭く放たれた突きを、やはり剣だけでいなして軌道を変える。
自分の刃を滑るように過ぎるアダムの剣を剣と手首の動きだけで絡め取り、次の瞬間その手から弾く。ガギィッ‼︎と力を込め合いながら弾かれた音が響き、アダムの剣が宙に放たれた。弧を描き、アダムは背後へと落下していく剣を首だけ仰け反らせて追った。だが剣が戻ってくるわけもなく、二度ほど硬い音を立てて石畳みに転がった。
正面へと振り返れば、喉元に剣先が突き付けられた後だった。喉を反らし、何もなくなった手を持て余す。今まで何度も寸止めされたステイルの剣が、今度は引かれることなく寧ろ薄皮をぷつりとなぞった。この場でクシャミの一つでもしてしまえば間違いなく自分の首が勝手に貫かれるとアダムは理解する。
剣よりも鋭い眼差しをアダムへ刺したまま、ステイルは無表情の中で口だけを動かした。
「わかっただろう?お前に俺が負けるなどあり得ない、姉君の居場所を教えろ。」
「……刺せば?俺を殺せばプライドも女王も王配も摂政も一生取り戻せねぇけどな。」
ぴくり、とステイルの眉が痙攣するように動いた。
それを気づいて再びアダムからニマァ……と不快な笑みがこぼれる。ステイルの殺意が明らかに満たされているのに反し、何度やってもとどめどころか切り傷一つ自分は負わされていない。柄で殴られる以外何もないことにアダムも当然気付いていた。
ステイルの殺意は本物だ。しかしアダムを殺すことはできない。最上層部は既に目を覚ましたが、プライドはまだ特殊能力を掛けられたまま。彼がそれを解かない限り、一生プライドの心は取り戻せないのだから。
そしてアダムもそれをわかった上で語っていた。自分を殺せない、そして触れることもできない。ステイルにとって枷以上の戒めだった。
「今のアイツは最高だ。絶〜〜対に手離さねぇ。……お前もさぁ、気付いてるんじゃねぇの?」
突き付けられた剣先に構わず喉仏を上下させ、話す。
「何をだ?」と短く問えばゲラゲラと喉をガラつかせた笑いが溢れた。肩を縦に揺らし、剣先が喉の皮を引っ掻いても変わらず笑う。続きを言おうとしないアダムに、ステイルは剣を握る手に力を込めてもう一度答えを促した。すると、アダムの細目の奥がギラリと光り、ステイルを見上げた。そして今度は急激に声を潜めてステイルだけに投げ掛ける。
「……今まで特殊能力を使ってもあそこまでに狂った奴はいねぇ。しかも俺の望みより〝自分の望み〟を優先させてきたバケモンはプライドが初めてだ。」
「望み……?」
アダムの呟きを、思わず繰り返す。
突然潜められた声が風に掻き消されないようにと耳を澄ませ、その口の動きを追いながらアダムが自分に近付き過ぎないようにと気を払った。
〝望み〟という言葉に、ステイルは前夜のジルベールの言葉を思い出す。
『皇太子の望みを叶えぬ為に、あの御方は常に自己の破滅を望まれております』
その言葉通り、もしプライドが今もアダムの洗脳から贖おうとしているのだとすれば。その為に、今も己が破滅へ身を投じようとしているのだとすれば。
そう思った瞬間、折角忘れ掛けていた焦燥が再び湧き上がった。早く、早くプライドを止めなければと無意識に手に力が込もる。
するとステイルの焦燥を嗅ぎ取ったアダムが鼻を鳴らして続きを紡いだ。
「素質のあった奴の中でも別格。勘違いするなよ?今のコレは俺だけの所為じゃねぇんだ。そもそもお前の〝姉君〟がそぉいう素質を持ってたのが悪いと思わねぇ?」
なあ?とよりにもよってステイルに同意を求める。
アダムの言いたいことを汲み取ったステイルは歯を食い縛る。アダムの語る〝素質〟がどんなものかはわからない。だが、アダムの狂気に駆られた全員が同じ狂い方ではないことは参謀長からも聞き出している。
何も言わないステイルに、アダムは無防備にも両手を高々と広げてみせた。細目と引き上げた笑みを更に釣り上げて「つ〜ま〜りぃー!」と今度は見守っている騎士達にも聞こえるように喉を張る。
「プライドには元々〝ああいう人間になる〟素質があったってこ」
「ふざけるなッッ‼︎‼︎」
今度こそ一瞬で頭に血が上り、ステイルは見開いた目のまま一度引いた剣で遮るように肩を突き刺した。
グアァッ‼︎と肩の激痛に酷くガラついた声を上げたが、痛みに耐えるように口端を痙攣させたままアダムはその細目の奥だけを悦に緩ませステイルに返す。
「っな〜ん……でだよ?っつーか素質があったからああなったんだし。」
「そんなわけがあるものか‼︎姉君はお前が狂わすまでは誰もが認める素晴らしい王女だった‼︎」
「ハハハハハッ!そりゃあ最高だよなぁ?フリージアの王女なんか勿体ねぇ。ラジヤだったらもぉっっとイイ思いさせてやれん」
「貴様らの国などにやるものかッ‼︎‼︎プライドは我が国の女王となる人間だ‼︎‼︎」
アダムを串刺しする剣に力を込め、骨を削って押し込めば声が上がった。
だが、苦痛に顔を歪めた後には滝のような汗を滴らせながらアダムは再び笑う。
ステイルの激情を舐めとるように自分の上唇を舐め、細い目の奥を怪しく光らせる。何故か突然口を噤み、沈黙する。ニタニタという笑みだけが糸を引き、何も言わなくなったことをステイルは気味悪く感じた。
いつ隙をついてくるかと警戒を引き締めながらアダムを睨む。もう一度、プライドの居場所を問うが、やはり答えない。ニタニタニタニタと悦の感情のみで顔を歪めるアダムに、ステイルが目を鋭く研ぎ澄ます。何が言いたい、と尋ねたいが相手の術中に嵌りそうなことも理解する。だが、そうしている間にも時間は刻一刻と経過していると考えれば、ステイルに再び焦燥が波立っ
「〝プライド〟ねぇ……?」
囁くように粘着質な言葉が放たれた。
その途端、ステイルは初めて肩を震わした。言ってはならない言葉を最悪の相手に言ってしまったと、頭より先に肌で感じ取る。
唇を結び、アダムから剣を抜いて二歩下がる。自分自身を落ち着ける為、意識的に呼吸を繰り返しながらアダムを見れば、刺された肩を押さえながらまだその笑みはステイルへと固定されていた。
「プ〜ラーイード。……そう呼んでんだぁ?」
ねちゃあ……とねっとりした笑みで笑い掛ける。
ステイルがプライドをそう呼ぶのはアダムの前では始めてだった。別に恥じることではない、女王であるローザと義弟のヴェストもまた名で呼び合っているのだから。だが何故か、それをアダムの口から紡がれるだけで無性に穢らわしいことであるような錯覚を覚えてしまう。
身を固くしたまま唇を絞り続けると、ハハハハハッ‼︎と嘲るような笑いがアダムから放たれる。
「プライド、プライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライドプライド!きっも‼︎‼︎義弟の分際で気安いんだよばぁああああか‼︎なに⁇テメェに都合良い姉に仕立ててぇから必死なの⁇ハハハハハハハハハッ‼︎いい歳こいて家族ごっことかさぁぁああああああ⁈‼︎」
塔の下にも届きそうなアダムの嘲りと侮辱に頭が熱される。
かっとなり、身体中の血が頭に走る。剣を握っていた手が震え、視野が狭くなる。息が切れて口の中まで乾いてきたことを自覚しながら、ステイルは単なる挑発だと自分に言い聞かせた。だが、理解しながらもやはり自分とプライドの関係を、否定どころか穢された感覚に怖気が走る。真っ直ぐに伸びていた筈の背中が反り、アダムの吐き出す言葉を避けようと身構えた。
「言っとくけどお前の大大大大大大大大大好きなプライドはもう戻らねぇから?俺様の理想の女を手放すわけねぇだろ?死ぬまでプライドはこのままだ。」
させるものか、とステイルは言葉にせず口の中を噛み切った。
そしてやはりアダムは初めからプライドの居場所すら語る気がないのだと確信する。足に力を込めて歩み寄り、焦げきった覇気を纏いながら剣より先にアダムを視線で串刺す。だが、アダムは後退る様子もなく、頭をユラユラと揺らして見せながら変わらずステイルに笑い掛けた。
「良いぜ?殺せよ。あの女の為に死ねるなら本望だ。拷問でも構わねぇし?プライドの所為で受けるもんなら全部が全部御褒美だ。」
異常な言葉ばかり吐きながら、ステイルを誘う。
黙れ、と一度ステイルの口が動いたが声にするのは堪えた。すると今度はアダムの方から両手を広げてステイルに歩み寄る。
「俺が憎いんだろ?殺せよ。運が良かったら全〜〜部元どおりになるかもしんねぇじゃん⁇失敗したらお終いだけどなぁ‼︎どうせ今あの女に会ってもお前が殺されるだけだし⁇あ〜、それともお前が殺すの⁇」
ピキッ、ピキキッと最後の言葉に血管が切れる音がした。
うっかり衝動的にアダムを殺さないように拳を爪が食い込むほど握り締め、歯を食い縛る。気が付けば両手を広げたままのアダムがステイルの手が届く距離まで近づいてきていた。騎士達がステイル様‼︎と声を上げる中、ステイルはとうとうアダムの存在自体が毒になったかのように目を逸らし、顔をうつむけたまま動けなくなる。ピクピクと強張り切った肩が震え、気を張り詰めながら己が殺意と戦った。
「言っとくけどもうお前のプライドはいねぇからぁ⁈今のプライドはお前らのことなんか虫ケラ程度にしか思ってねぇし。……教えてやろうか?なんでお前を殺せばプライドが手に入るのか?」
最初にアダムが宣った言葉を思い出す。
『お前を殺せばプライドが手に入る』
てっきり障害さえなくなればプライドが手に入るという意味としか考えなかったが、まるで含みを持たせるようなアダムのその言葉にざわざわと心地の悪い気配が肌に擦り付いた。
今、少しでも気を抜けば目の前のこの男を殺してしまうと思いながら、ステイルは口の中を飲み込んだ。耐え続けるステイルへそれでも涎を垂らしかけるようにアダムがべったりとした声を囁いた。
「プライドが言ったんだよ。お前を殺せば「私をあげる」って、さぁ……?なぁ、最高の口説き文句だと思わねぇ?」
ぐわり、と。
ステイルの顔が勢いよく上がる。絶望と拒絶、憎悪の渦巻いたその表情にアダムは興奮したように喉を鳴らした。さっきまで勝ち誇っていたステイルの澱んだ感情がそこに集約されていた。
あり得ない、そんなこと、と口では言いたくとも今のプライドならばそれぐらいを簡単に言いのけることも理解している。顔が怒りで真っ赤になり、拳が目に見えてブルブルと震えた。
今日一番のステイルの激昂した表情に、アダムがあたりをつけるように言葉の方向性を決める。ステイルにとって、最も聞くに耐えない言葉を選んで彼の眼前へと撒き散らす。
「た〜のしみだなぁ〜?なぁ、義弟ならプライドの纏わねぇ姿見たことあるか⁇……ねぇよなあ?ハハッ!なぁ、アイツ抱いたらどんな感触すると思う?」
『貴方の事も愛しているわステイル』
ステイルのかけがいのない記憶が、穢されていく。
「あの髪に顔埋めて、何度しゃぶっても飽きはしねぇだろうなぁ?俺に擦り寄るプライドとか最高過ぎねぇ?」
『私のたった一人の大事な弟』
プライドの豹変を受けてもずっと、それを支えにしてきた彼女との記憶がアダムの言葉で塗り潰される。
大事な記憶も、プライドの温度も優しさも想いも全てが穢らわしい映像に塗られていく。
自分を貶されるよりも遥かに屈辱的で、許せない言葉を吐きかけられる。
まるでアダムの語りが実際にもうそうしたかのような口調であることに悪寒が走る。
「快がって尻振って腰振って俺無しじゃいられねぇ躰にしてさぁああ⁈まだどうせ乙女だろ⁇これから調教しがいもあるよなぁ?……あ。でもアイツはどっちかっつーと〝ヤラれる〟より〝ヤる〟側の方がー……」
『例え次期女王失格だとしても、どうか…最期まで貴方の姉でいさせてね』
「黙れッッ……‼︎」
聞いていられるのもそこまでだった。
アダムの胸ぐらを掴み上げ、締め上げる。腹から吐き出すような声と共に、掴み上げたまま力任せに押し倒す。両手を広げたまま笑っていたアダムはそのまま石畳みに肩から叩き付けられた。打つ痛みに呻くのに紛れ、ニタァとアダムの笑みが引き上がったことすらステイルは気付かない。
仰向けに倒れたアダムを跨ぎ背中を曲げたまま「黙れ」と再び唱えて掴み上げた手を震わせ、漆黒の瞳は焼け焦げ、憎悪で満ちていた。
ステイル様⁈手をっ……‼︎と騎士達の騒めきと駆け込む音すら耳に届かず、食い縛る歯をギリリと鳴らす。もうアダムすら見えていないかのように焦点の合わない目を見上げながら、アダムはゆっくりと自身を掴み上げる両手へ手を滑らせ
「……………………は…?……⁈」
……何も、起こらなかった。
アダムは鎧に覆われていないステイルの手に触れながら目を見開いた。
声を漏らし、確かに触れていることを確かめる。狂気の特殊能力で、触れた者を狂わすその手でステイルに触れながら、なにも。
ステイルもまた、数拍遅れてからその事実に気がついた。駆け込んできた騎士達も途中で足を止めて二人を見比べる。驚愕に目を見開くアダムと、そしてアダムを押し倒したまま硬直するステイルの姿を。
「おまっ……⁈正気……か……⁈」
今度こそアダムの枯れた喉から問いが放たれる。
その問いにステイルは答えない。無言でアダムの胸ぐらを掴んだ手に力を込めたまま視線を落とす。
アダムが確かめるように今度ははっきりとステイルの手首を掴む。だがやはりステイルに変化はなかった。更に決定付けるようにアダムは直接彼の頭に触れた。鷲掴み、ステイルの黒髪を乱すように触れながら頭に直接特殊能力を注ぐ。……が、やはり何も変わらない。
「…………。」
「なんだよ……⁈宰相だけじゃなく王子までバケモンとかさぁ⁈」
沈黙するステイルに反し、アダムは取り乱す。
鷲掴んだ手に力を込め、指を減り込まさんばかりに頭皮へ圧を加える。痛みよりも驚きが勝ったステイルだが、さっきまで熱し切っていた頭が急激に冷め出した。アダムへの殺意をままに、一つの仮説を組み立て、構築する。
「…………貴様の特殊能力は確か、一度狂った者には効かないんだったな……。」
改めて胸ぐらを掴む手に力を込め直す。
ぽつりぽつりと独り言のように呟いた声が、アダムの上へと落とされた。アーサーの証言と、参謀長からの情報。そしてアダムの今の発言から一つの可能性を鑑みる。
もし最上層部と同様にジルベールが狙われ、そして彼だけが特殊能力が適さなかった場合。アダムの語る〝一度狂った〟とは、アダムの特殊能力に掛かった場合のみに限らない。たとえば
「……ならば、俺はどうだ……?」
まるでアダムへ確かめるような言葉を投げ掛ける。
意図の読めないその投げ掛けにアダムは目を見開き、ぞっとステイルの顔に肩を上下させた。無よりも闇に近いその表情は、まるで闇を人の形に変えたかのような悍ましさを秘めていた。
ステイルは知っている、ジルベールの過去を。
過去に彼が婚約者だったマリアの病に耐え切れずその宰相としての自我さえ崩壊させたことを。自分勝手な私情と利己に走り、剰え周囲どころか国すらも巻き込みかねない暴走を起こした彼は。
単に魔が差した、今は改心したと言えば簡単だ。だが、それから共に宰相と次期摂政として関わってきたステイルの目から見て、当時のジルベールの変貌は。考えれば考えるほど……
『耐えられませんでした』
「この世で最も大事な人が……護るべき人が変わり果てる姿に、離れの塔に捕らえられ、……ッ命に代えても護りたい人を自らの手で殺さねばならない衝動と恐怖に駆られ続け!抗い続けっ……‼」︎
眠れない夜を過ごし、時には意識を失った。
何度も何度も絶望と憎しみに喉を掻き毟った。いっそ死んだ方が楽だと思えるほどの地獄の日々だったと、今でも思う。あの時の自分を思い出せばあまりにも醜悪だった。そして
一度は逸していたと、そう思う。
「妹を手離し、この世で最も憎悪する男がこの世で最も大事な人の隣にのさばり……」
思い出せばそれだけで殺意が更に色濃く濁る。
一度は、確かに救われた。完全に狂ってしまうその前に、本当にプライドを手に掛けてしまうその前にアーサーが引き止めてくれた。だが、その唯一の拠り所すらアダム達に奪われた。更にはプライドが反乱に加わり、アーサーが真実を語るまで精神的にも再び追い詰められた。
「唯一の救いだった相棒を殺されかけ、その右腕までも奪われたこの俺がっ…‼︎」
濁りきり、これ以上ないほど濃縮されたそれに、離れた騎士すら背筋を冷たくさせる。
ステイルを見上げるアダムは、その姿から目が離せない。憎悪と殺意。それだけで言えば、この世で自分が会った誰よりも色濃く覇気を放つステイルを見惚れるように息を飲む。〝嗚呼プライドの弟だ〟と、素直に思えるほど苛烈な色に。
「正気でいられる訳がない。」
ぐい、と気がつけば今度こそステイルの両手がアダムの首へと掛けられた。
跡のまだ癒えないその喉に指からまばらに圧が加わった。瞬きもせず、貫き続ける漆黒の眼差しが頭上の夜空よりも闇を渦巻いていた。
さっきまでとは違う。
アダムの特殊能力が効かない今、ステイルは躊躇いなく彼に触れることができるのだから。腰を落としていた状態から、とうとうステイルはアダムに馬乗りになる。膝をつき、親指に力を込めればグァ……と短く呻きが漏れた。
触れることも穢らわしい、だが同時にこの手で苦しめてやりたいと本気で思う。
漆黒の瞳が闇夜で光る。月に照らされたステイルの顔が、殺意に塗れて憎悪に染まる。首を絞められ呻きながらもアダムはその姿を目に焼き付けた。プライドにも似た惨虐と苛虐を宿したその色は心地良い。濁り切り、どんよりした目でアダムは口端だけが未だに力なく引き上がったままだった。
その顔を、口を、目を、息遣いを感じるだけでステイルの全身を襲うように、殺意が際限なく増し続ける。目を極限まで開き、口を結んだままに歪める。
絞めた手と指のみでなく折った膝まで震わしたステイルは、口の中の苦味と喉の奥のヒリつきに不快を感じながらも、目の前の元凶から目が固定されたまま離せない。
今、自分が命を握っている男がプライドに触れ、清らかなその手に唇を這わせ、自分でもアーサーでもなくその隣に並び、言葉を交わし、同じ空気を吸っていたこと全てが許せない。そんな男に自分の大事なものを全てを奪われかけたのだから。
そして今、この世で最も大事な存在を侮辱され、穢された。
「億回詫びろ。それでも許しはしないがな。」
ぐぐぐぐっ……とさらに指に力がこもる。
鎖の時とは違う、的確に喉を圧迫された感覚にアダムは喘ぐ。その度に手の力を緩め、再び締め上げ、また緩める。それを何度も何度も死なせないように繰り返しながら、ステイルは白目が剝きだすほど開ききった目でアダムの生死を管理し続けた。
「吐け。プライドは何処にいる?三秒以内に答えろ。」
話はそれからだと。
あまりの凄まじい殺気と覇気に、ステイルの精神状態が危いと判断し、騎士達が橋の向こうから懸命に呼び掛ける。ステイル様、それ以上は、どうか御冷静にと訴えるが届かない。
「……ァ゛イド……ァ、……プラ、……ドは…………。」
「何処だ、殺す前に答えろ。」
まるでハリソンのような口振りに、耳に届いた何人かの騎士の肩がぞわりと強張った。
何度も、何度も何度も首を絞めては緩め、アダムの自白を促すように首から緩めた片手で乱れきった深紫色の髪を鷲掴む。石畳みに後頭部を叩きつけ、「吐け」とまた命じた。
いつものステイルからは考えられないほどの容赦のなさと、王子としてはあまりの苛虐な姿に、騎士達が目を疑った。
「……ィド……の……しょ、は……、……。」
じわり、とアダムが口を動かす。
畝った髪が顔にかかり、目が生きてるか死んでるかもわからない。それでも構わずステイルはもう一度石畳みに叩きつけて促した。
あと少し、少しで口を割ると焦燥に駆られれば更に手が荒くなる。また焦らしたらもう一度首を絞めてやろうかと再びアダムの首に手を添える。もがくようにアダムの足が石畳みを無駄に踏み鳴らす。ガ、ガッ、ガンと踏んだ後、とうとう力なく足までバタリと石畳みへ伸ばしきった。
正面方向からは騎士達が呼びかけを繰り返す。落ち着いて下さいステイル様、死んでしまいます、あとはどうか我々にお任せをと訴えるが届かない。今のステイルの耳に言葉を届けられる相手など、世界中を探してもティアラかアーサーか
「アッハ。……よぉくできました。」
ザシュッ…
聞き慣れた声に身体を硬ばらせた直後。ステイルの足に熱が走った。
アダムに馬乗りになったまま、石畳に膝を付いていた足への一閃。血が舞い、殆ど同時に両膝から熱が噛む。裂かれた肉が神経に悲鳴を上げさせ、喉を張る。アダムの首へ添えていた手が強張り、離れた。激痛に声を上げれば、気付いた騎士達が今度こそ飛び出した。歯を食い縛るステイルは、やっとそこで気付く。
畝った髪の下でアダムの口が醜く引き上がり、歯を剥いて笑っていたことに。
「あらぁ?駄目じゃない、ステイルったら。まだ枷を外していなかったの⁇」
背後の石畳みに隠し扉があったことに。
自分がアダムにその場所へ誘導されていたことに。そして
「それじゃあ私を殺せないじゃない?」
背後から現れた、護るべきラスボスの存在に。