作品タイトル不明
第十七話:断絶の白刃
天文四年 神無月 / 西暦一五三五年 十月
物見櫓の階下で、阿波を揺るがす土木戦の断末魔が響いている。だが、櫓の最上階に流れる空気は、それとは異質な、身を切るような静寂に支配されていた。
「……兄上。そこで、何をしているのですか」
三郎は振り返らずに問いかけた。背後に立つ幸若の放つ、獣のような荒い吐息と、抜かれた刀が放つ微かな「鳴り」を、鋭敏な五感が捉えていた。
「黙れ……黙れッ! 貴様はいつもそうだ! 平島で泥を捏ねていた時から、その薄気味悪い落ち着きで、周囲を、父上を、そして三好の連中をたぶらかしてきた!」
幸若の声は、もはや怒りではなく、深い絶望に震えていた。八歳の少年が握る短刀が、月光を浴びて青白く光る。三好の護衛たちは、弾正の指示により「足利一門の兄弟の場」を憚って階下に退いている。柳斎だけが、三郎の影のように寄り添っていたが、三郎は手制してそれを止めた。
「貴様さえいなければ、私は足利の正嫡として、三好を従え、天下を望む英傑になれたのだ! お前がその『泥』で世を汚すたびに、私の居場所は 泥濘(ぬかるみ) に沈んでいく!」
幸若が踏み込んだ。狙いは三郎の喉元。
三郎は、四歳の小さな肉体を最小限に動かし、前世で培った「構造計算」のように冷徹な予測で、その一撃を紙一重でかわした。
「兄上。あなたが求めているのは『天下』ではなく、父上の『視線』でしょう」
「貴様に何がわかるッ!」
二撃目、幸若の刀が三郎の頬をかすめ、赤い筋を作る。滴る血が石灰で汚れた着物に吸い込まれた。
「わかりますよ。……俺も、ただ静かに愛されたかった。畳の上で、誰にも脅かされずに昼寝をしたかった。でも、この『足利』という家格の土台は、すでに腐り落ちているんだ。支えようとすれば、共に沈むしかない」
三郎は、懐から小さな「石灰の包み」を取り出した。
「兄上、これが俺の絶望です。これを使えば、人は簡単に死ぬ。城も簡単に建つ。……でも、これを使うたびに、俺の心は石のように硬くなって、もう二度と、あなたと一緒に泥遊びをした頃には戻れない」
「……三郎、お前……」
幸若の動きが止まった。三郎の瞳の奥にある、四歳児にはおよそ不可能な、数千年の孤独を凝縮したような深い闇。それに触れた瞬間、幸若の心の中にあった「憎悪」という地盤が、音を立てて崩落した。
その時、階下から激しい足音が響いた。
「若君! 逃げてください! 伊予の水軍の別働隊が、この櫓の下まで迫っております!」
弾正の叫び声。
三郎が仕掛けた「化学地雷原」を、仲間の死体を道代わりにして踏み越えてきた、河野水軍の決死隊だった。
「……兄上。一緒に来てください。俺は、あなたを殺したくない」
三郎が差し出した小さな、泥だらけの手。
幸若はその手を、呆然と見つめた。握りしめた刀が、カタカタと音を立てて震える。
突如、櫓の床が激しく揺れた。敵の放った火矢が、一階の藍の搾りかす――乾燥した発酵物に引火したのだ。猛烈な煙が、足元から吹き上がってくる。
「若君ッ!」
柳斎が三郎を抱きかかえ、窓から外の足場へと飛び出した。
だが、幸若は動かなかった。煙の中に立ち尽くし、ただ三郎を見つめていた。
「……三郎。私はお前を許さない。だが……この泥塗れの足利を終わらせるのは、私ではない。お前だ」
幸若は、笑ったように見えた。
それが、三郎が最後に見た「兄」の姿だった。
崩落する櫓。紅蓮の炎。
三郎は、柳斎の腕の中で、ただ自分の泥だらけの手を見つめていた。
守るために築いた 技術(もの) が、最も守りたかった絆を焼き尽くしていく。
(……ああ。やっぱり、畳の上で死ぬなんて、俺には無理なんだ)
火光に照らされた四歳の少年の横顔から、人間らしい「迷い」が、煙と共に消えていった。