軽量なろうリーダー

宮廷中の賭け金を巻き上げるために嫌いな夫と夫婦ごっこをしています

作者: ぜんだ 夕里

本文

私――ミリオナの不幸を 肴(さかな) にして、賭けを楽しんでいる人間がこの宮廷には百人以上いるらしい。

……全員まとめて、地獄に叩き落としてやる。

私の父と、私が嫁いだ夫――アイゼン・サティラの父は長年にわたり泥沼の宮廷闘争を繰り返してきた。

先代からの不仲というだけでも面倒なのに、父の代でさらに拍車がかかってしまったらしい。

結果、二人の血で血を洗う戦いに勝利したのは夫の実家の方だった。

私の家はあっという間にお取り潰しにまで追い込まれた。

私はそんな状況に悲嘆に暮れ――ることはなく、むしろ安堵の息を吐いていた。

貴族の暮らしなど、とうの昔にうんざりしていたからだ。

例えば、毎年私の誕生祝いには盛大な宴が開かれた。

もっともうちは取り潰し寸前の貧乏貴族だ。豪商のほうがよほど贅沢な暮らしをしているというのに、父は無駄に見栄を張って私を着飾らせて宴を開いた。

しかし来客の目当ては私ではなく、全員が『父が取り込みたい貴族』だった。

私は着飾って席に座らされ、ひたすら笑顔で挨拶をさせられる。だが誰も私など見ていない。彼らは父と話すための順番待ちの列を作っていた。

結局、パーティーの後に手元に残った誕生日プレゼントは父母からの1つを含めて3つだけだった。

――幼い子供すらも政略の出汁にする。それが貴族という生き物なのだと私はこの時学んだ。

また父の立場が良い時期には社交の場で私にすり寄ってお世辞を言う大人たちがいた。

けれど彼らは父の立場が悪くなった途端に目も合わせなくなる。

昨日まで「ミリオナ様は聡明でいらっしゃいますわね」と媚びていた婦人が翌月には私の横を素通りしていく。

子供心にもはっきりと分かった。

この人たちの言葉には、何の中身もないのだと。

そんな経験を重ねてきた私はとうに宮廷貴族というものに愛想が尽きていた。

いや、はっきり言って嫌悪している。

彼らは人間ではない。死肉をむさぼるハイエナか死体に湧く蛆虫か。

そういったものを連想させる生き物なのだ。

だからこそ没落して悲嘆にくれる家族を横目に私は「これで貴族の重荷を下ろして平民になれるならむしろ本望だわ」と清々しい気持ちでいた。

――しかし話は予想外の方向へと転がり出した。

どうやらお取り潰しが決まってから父は壮絶な嫌がらせを受けていたようなのだ。

社交の場に招待されたと思えば晒し者にされ、旧友は一人ずつ敵側に取り込まれ、笑いものにされる日々。

それでも父はせめて娘の私だけでも貴族に残そうと必死に縁談を組んでいたらしい。

自分はもう終わっても娘の将来だけは守る。

おそらくそれがぼろぼろになった父に残された最後の支えだったのだろう。

だが、その縁談は片端から潰された――もっとも初めから聞いていれば「余計なことをしないで」と全力で止めていたけれど。

不思議なことに縁談の相手はことごとく直前になって辞退してきたらしい。

脅されたわけでも圧力をかけられたわけでもなく、ただ静かに消えていったというのだ。

陰湿で気持ち悪い嫌がらせのフルコース。

それを味わい尽くした父は最後の縁談までもが潰され、ついに堪忍袋の緒が切れた。

サティラ家の当主をナイフで刺したのだ。

相手は一命をとりとめたものの父は当然のごとく投獄。

そのまま処刑もやむなしという絶望的な状況だったが、ここで突然王家が仲裁に入ってきたのである。

どうやら宮廷でもサティラ家の嫌がらせは目に余っていたらしく、王家は父に同情して解放する口実を探したらしい。

その結果提案されたのが『両家の友好の証としての私とアイゼンの婚姻』だった。

サティラ家は嫌いな家の娘を迎え入れる代わりに、嫌がらせで宮廷を騒がせた罪を不問にされる。

父は大嫌いな家に娘を嫁がせる代わりに、娘が貴族として存続するという悲願を得る。

……双方への嫌がらせを欠かさないとは、さすが宮廷貴族の親玉・王家である。

断れば当然、父は処刑だ。

どんなに愚かであろうと父は父。助けるためには結婚するしかない。

こうして私は絶対に断れない政略結婚の駒となったのだった。

結婚式の準備で夫となるアイゼンとは一度だけ顔を合わせた。

……が、彼は終始手元の書類から目を上げようともしなかった。

私が退出しようとした瞬間にようやく顔を上げたと思えば。

「その服装で来たのか」

ぼそりと一言だけ告げてまた書類に目を落とした。

――この家におめかしして来てやる義理なんてないし。むしろ寝間着で来なかったことを褒めてほしいくらいだ。

そして迎えた結婚式当日。

『父を助けるため、父を助けるため……』と必死に自分に言い聞かせていた私に向かって、あろうことか夫はこう言い放った。

「君の父上の件は水に流そう」

――気づけば私は目の前の新郎を殴り飛ばしていた。

パーではない。グーでだ。

殴った右腕には鳥肌が立っていた。

ああ、相変わらず気味の悪い宮廷貴族のしゃべり方。何もかもを見下す態度。

父を極限まで追い詰めておいて「水に流そう」というその腐った言葉選び。

もう、すべてがダメだった。

こうして私は、自ら新郎をぶん殴るという最悪の形でサティラ家に嫁いだのだった。

夫とは一言も口を利かず顔すら合わせない。

そんな最悪の結婚生活が始まって2日目の今日。

宮廷でのほぼ唯一と言っていい友人――ベッティが私を訪ねてきた。

そして彼女は目をキラキラと輝かせながらとんでもないことを言い放ったのだ。

「あなた達の婚姻の破局時期が宮廷で賭け事になっているわよ!」

なんでも「一週間で破局」「一ヵ月持つか」「三ヵ月持つか」と、私たちの破局時期を面白おかしく賭けの対象にしているらしい。

「ちなみに私は『破局しない』に唯一賭けたよ!結婚生活頑張ってね!」

頬を赤らめて興奮気味に言う娘に私は思わず怒鳴った。

「なんであんたも賭け事に乗っかってるわけ!?」

「いいじゃない、破局しないに賭けてるんだから!」

――そういう問題じゃない!

……いや、こいつに常識を説いても仕方ない。

なにせこの娘は国営競馬場で万馬券に賭けて金をすり、家の財産を質に入れようとして家長に捕まり競馬場を出禁にされた正真正銘のギャンブル狂なのだ。

友達の不幸であろうと目の前に賭け事があれば乗らないはずがない。

そして「破局しない」がこの『万馬券娘』一人だけというのは、破局しないことが万馬券扱いだということだ。

……今までの泥沼の経緯を考えても頷ける。

このポンコツギャンブラーは置いておくとして。

宮廷の百人以上の貴族たちが私の不幸をエンタメとして消費している。

ああ、もう全員まとめて殺してやりたい。いっそ国ごと転覆させてやろうか。

あまりの怒りと悔しさで発狂しそうになったが――極限まで達した怒りは逆に私の頭を恐ろしいほど冷ややかにしていった。

暗い情念の底で私の思考が猛スピードで回り始める。

ここで私が絶望して自害でもしようものなら「一週間で破局」に賭けたゴミ共が大喜びするだけだ。

そんなの絶対に許さない。ならばどうする?

ここで今すぐ夫と和解をアピールすれば奴らは「分が悪い」と賭けから降りてしまう。

ならば――私とあの蛆虫夫が周囲の目につくよう派手にいがみ合い、ヒートアップして見せたらどうだろう?

「一週間」に賭けて負けた連中は「ならば次は一ヵ月だ!」と意地になってさらに金を積むはずだ。

そうして連中が限界まで掛け金を吊り上げたタイミングで私たちが劇的な和解を見せつけたら?

この万馬券娘がすべての金を総取りし、宮廷中から貴族たちの絶望の悲鳴が響き渡るのではないか?

ああ、想像しただけで身震いがする。私は誰一人として許さない。

あの蛆虫のような夫を踏み台にしてやる。屈辱にまみれ、唇を噛み切って血だらけになった口であいつと口づけを交わしてでも。

絶対に、こいつら全員を地獄の底へ叩き落としてみせる。

私はすぐさま夫の執務室へと突撃した。

ノックもそこそこに踏み込んできた私を見てさすがの夫も面食らっているようだ。

「どうした。わざわざ謝りに来たのか?」

それでもいちいち癇に障る言い方をする男だ。私は執務机に座る彼を冷たく見下ろしながら言い放った。

「私がぶん殴った結婚式でのこと。水に流してあげるわよ」

そう告げると夫の手元でピタッとペンが止まった。

彼はしばらく無言でこちらを見つめていたが、やがて深くため息をついて頭痛を堪えるように額を押さえた。

怒っているのか呆れているのか分からない男だ。

私はそんな彼の態度など気にせず、宮廷で横行している『賭け』の話をしてやった。

話が進むにつれ夫の顔はどんどん険しくなり、ついには腕を組んで黙りこんでしまった。どうやらこいつも知らなかったらしい。怒りを感じると無口になるタイプか。

……まあ、この蛆虫にも蛆虫なりの貴族のプライドはあるようだった。

「協力しなさい」

執務机に両手を叩きつけ、私は彼を見下ろしながら言った。

「あいつらを全員、地獄に叩き落としてやるわよ」

結婚して一週間が経った頃。

作戦の第一手として私は夜会のど真ん中で夫の顔面にワインをぶちまけてやった。

日頃の恨みを込めた本気の怒りなので演技不要の完璧な一手である。

そして無事に一週間が経過し「一週間で破局」に賭けた連中は見事賭け金を没収された。

だが問題はここからだ。

連中が「じゃあ一ヵ月に賭け直そう!」と熱くならなければ賭け金は積み上がらない。

すると翌日、夫は使用人たちに荷物を運ばせて私の部屋とは屋敷の反対側にある『離れ』へとさっさと引っ越してしまった。

これにより「新婚早々、夫婦が屋敷の両端で別居を始めた」という最悪の事実だけがまことしやかに宮廷中へ広まっていく。

この噂で、「一週間」に賭けて負けた連中は「次こそ絶対に破局する!」とこぞって「一ヵ月」に金を積み直した。

しかも同額を積んだのではこれまでの負け分を取り戻せない。

結果として再投入を決めた連中は最初の倍額以上の金を積むことになったのだ。

その夜、私は今後の作戦会議のために離れを訪ねた。

するとそこにはすでに温かい紅茶を二杯用意して待っている夫の姿があった。

「この前のワインの染みが落ちなくてね。次にぶちまける時は色のついていない飲み物にしてくれ」

夫はそういうと相変わらずのトーンで付け加えた。

「座ったらどうだ。君は立ったまま人を見下ろすのが好きなようだが紅茶は座って飲むものだ」

――殴りたい。ものすごく殴りたい。

でもこいつはわざわざ触れ回ることもなく宮廷の馬鹿共にチップを上乗せさせたのだ。

さすがは泥沼の宮廷闘争で勝ち残ったハイエナ一族の息子である。

憎たらしいけれど。

宮廷の貴族たちを完膚なきまでにやり込めるには……悪くないパートナーだった。

それからの約1ヵ月間。私たちは『不仲な夫婦』を宮廷に印象付けるために様々な工作をした。

王家主催の夜会にはわざわざ時間と入口をずらして別々に到着。

使用人の目がある場所では別々に食事を取る。

そしてやはりこの男は そ(・) っ(・) ち(・) 方(・) 面(・) に関して有能だった。

「屋敷の庭師に『最近眠れない』とこぼしておけ。庭師の妻は王宮の侍女だからすぐに侍女長の耳に入る。侍女長から王妃に報告が上がれば、王妃の口から『サティラ家の若奥様は夜も眠れぬほど追い詰められている』と宮廷中に広まる算段だ」

やっていることは宮廷の蛆虫そのものだ。

だが蛆虫としての精度が高すぎて反論の言葉は出ない。

彼の策はどれも的確に宮廷の馬鹿共を動かしていった。

……もちろん誉め言葉ではないが、ほんの少しだけ感心してしまう。

そんな日々の成果が出たのか、ある日王家の使いが邸宅に視察に来ると通達が舞い込んだ。

視察の直前に私は夫に宣言した。

「派手にやるわよ」

「ああ、せいぜい暴れてくれ。君がヒステリックに醜態を晒すほど俺が『耐えている可哀想な夫』に見えるからな」

……本当に相変わらずムカつく言い回しだけど!

こと『最悪の夫婦』を演じるパートナーとしてはこれ以上ないほど期待できそうだ。

そして迎えた視察当日。

夫が恭しく視察官を応接間へと案内している、まさにその裏で。

私は隣の書斎にあった高そうな壺を躊躇いなく窓から外へ投げ捨てた。

「何事ですか!?」

突然の破壊音に混乱する視察官。

しかし夫は「……いい度胸だ」と鼻で笑うと視察官を完全に放置して私の部屋へズカズカと乗り込んだ。

そしてクローゼットから私のドレスを引きずり出すなり燃え盛る暖炉へと躊躇なく放り込んだのだ。

めらめらとドレスが燃え上がる暖炉の前で私と夫は聞くに堪えない口論を始めた。

「この二人は狂っている!とても仲裁できる状態ではない!」

そう確信した視察官は完全に震え上がり、罵り合う私たちを横目に這々の体で逃げるように帰って行った。

玄関の扉が閉まる音がした。

途端に私たち二人はピタリと口論を止め、自然と静寂が落ちる。

そして、どちらからともなくふっと笑いが込み上げた。

「実はあの壺、処分に困ってたんだ」

「奇遇ね。あのドレス、悪趣味でどうしようかと思ってたから助かったわ」

気づけば私たちは自然と顔を見合わせて笑いあっていた。

……ん?待って。

『視察官の前で互いの持ち物を壊し合う』

そこまでは事前の打ち合わせ通りだ。でも具体的に『何を壊すか』までは決めていなかったはず。

なのにこいつは数ある私の衣服の中から、よりによって私が一番要らないと思っていた悪趣味なドレスを的確に選んで燃やしたのだ。

偶然?

いや、こいつは庭師の妻の勤め先まで完璧に把握しているような男だ。一度も袖を通していないあれを選んだのは観察の結果だろう。

……私だって彼があの壺を『邪魔だ』とこぼしていたのを覚えていたから窓から投げたわけだけど。

――この夫を私はどう思っているのだろう?

……気持ち悪い。

何が気持ち悪いって、その問いが頭に浮かんだこと自体が気持ち悪い。

そして次の日。ついに結婚から1ヵ月が経過した。

1ヵ月に賭けた人間の半数は涙を呑んで賭けを降りたようだが、残り半数は調度品を質に入れてまで再度賭け金を積み上げた。

もはや賭けの金額は笑えないものとなっていた。

不仲の演出を欠かさないままさらに1ヵ月が過ぎた頃。

我が家に突然、王子が直々にやってきた。

さすがの私たちも王子を相手に「不仲なので別々で」とは言えず応接間で並んで話を聞くことになった。

王子は開口一番「今まで苦しい結婚を強いて申し訳なかった」と頭を下げたのだ。

さらに王子は、夫の父から「刺された件は無条件で許す」という言質を取ったとも告げた。

父は釈放され王家の保護のもとで無事に貴族へ復帰できるという。

「これで望まぬ結婚を続ける必要はない」

そう締めくくる王子の言葉の裏には、賭け金が膨れ上がりすぎた宮廷のギャンブルを王家主導で真っ当に終わらせようという意図が透けて見えた。

私はこれ幸いとばかりに「やっとこの地獄から解放されるのね」と吐き捨ててみせた。

不仲の演技としては完璧だったはずだ。

けれど、ふと隣の夫を見ると彼は王子に向かって「そうですか」とだけ返したのだ。

いつもなら憎まれ口の一つでも叩く男が、なぜ?

……まあ、王子の手前だから大人しくしているのだろうけれど。

とは言えこれで本当にこの男と結婚し続ける理由は完全に無くなった。

宮廷の馬鹿共は冗談みたいな大金を賭けてハラハラしている。

王家まで出てきたのだ。当初の目的――あいつらへの復讐も十分果たせたと言える。

本当にこのまま別れればいいだけの話なのだ。

でも。本当にそれでいいの?

――不仲を演じている手前、王子の前でこの知らせを喜んでみせたことが、今はひどく煩わしく感じられた。

その日の夜。

自室に戻って一人で思考を巡らせていたが、やはりどうしても引っ掛かる。

父の釈放を聞いた時、あの男は全く驚いていなかった。

もしかして、彼にとって父の釈放は「知らせ」ではなく、予定通りの「確認」だったのではないか?

そう仮説を立ててみると、過去の違和感が次々と繋がり始める。

使用人の妻の勤務先まで把握しているあの男が宮廷中を巻き込んだ百人規模の賭けを「知らなかった」などあり得るだろうか?

庭師に広めさせた噂だってそうだ。彼なら自分だけが被害者ぶる噂を流せたはず。なのにわざわざ王妃に届くルートで「妻が被害者」だと印象付けた。

……まさか。

あの男は最初から、私と父の側に同情が集まるよう王家を動かす設計をしていた?

確証はない。確証はないが……。

馬鹿らしい。あの男にそんな甲斐性があるなら結婚式で殴られるような真似はしない。考えすぎだ。私は疲れている。

そして次の日。

前触れもなく『万馬券娘』が屋敷にやってきた。

「調子良さそうね!結婚生活頑張ってね!……あ、愚痴ならいつでも聞くから!」

目をキラキラさせて語るその顔には「賭け金のために親友の精神衛生を整えてやる」という強い意志が滲み出ている。

……相変わらずなんだから。

そんな彼女の打算的な励ましを聞き流していると、ふと昨夜の疑問が頭をもたげた。

――そういえば私がこの賭けの存在を知ったのはこの娘からだったわよね?

「ねえ。あなたは今回の賭けのことは誰から聞いたの?」

私が何気なく尋ねると、この娘は特大の爆弾を投下してきた。

「ん?あんたの旦那様からだけど」

「なんでそんな大事なこと一番最初に言わないのよ!!」

「いや、別に聞かれなかったし……」

この娘は賭け事以外に脳みそを使えないのだろうか!

……いや、賭け事でも脳みそを使えないから競馬場を出禁になったのだった。

こんな奴に情報の出所を真っ先に確認しなかった私が完全に間違っていたのだ。

とはいえ。

あの男への尋問が決定した。

「あなた、賭けのことを最初から知っていたわね」

私はまっすぐ書斎へ乗り込んで夫を問い詰めた。彼は一瞬目を丸くしたが「そういえば今日はベッティが来ていたな」と肩をすくめる。

……この余裕ぶった顔が憎らしい。

「どこまでがあなたの差し金なの?」

「賭けを知っていたのは確かだ。だが始めたのは俺じゃない」

「でも、利用はした」

夫は黙った。

否定しないということは肯定だ。ならば最後まで言ってやる。

「庭師への噂話も不仲の演出も全部が王家を動かすためだった。宮廷の秩序を乱すほど膨らんだ賭けと妻への同情論を利用して王家に仲裁させ、あなたの父を折れさせるため。そうでしょう?」

夫は観念したように手をひらひらとさせた。

「なんせ、うちの父親の性格は最悪だろう?俺が直接説得したところで、折れるはずがないからな」

……その最悪な性格はあなたにもバッチリ遺伝しているようだけど。

「でも、どうしてそこまでしてくれたの?」

私が問うとアイゼンはなんてことのないように言った。

「俺はあまり関与していなかったとはいえ、実家の嫌がらせが原因で人が処刑されるのはどうにも寝覚めが悪くてね」

……まったく、どこまでも素直じゃない男だ。

私は深く息を吸い込みアイゼンに向けて真っ直ぐに頭を下げた。

「ありがとう。父を助けてくれて。……この借りは一生かけてでも必ず返すわ」

「……俺が勝手にやったことだ。気にするな」

頭を上げると頬を掻く夫の顔がいつもと少し違って見えた。

――その瞬間、絶対に聞いてはいけない問いが頭をよぎる。

答えがどうであれ、もう元の私には戻れなくなる。

分かっているのに口が勝手に動いていた。

「……それで。本当に離婚するつもりなの?」

自分の声が信じられなかった。

宮廷貴族を蛆虫と嫌悪していた私がよりによってこの男に、そんなことを聞いたの?

夫は黙り込み、何かを言いかけて――やめた。そしていつもの冷めた顔に戻って言い放ったのだ。

「好きにすればいい。君はいつもそうだろう」

――なんだって?

気づけば私は彼に向かって手を振り上げていた。

結婚式の日とは違う。グーではなくパーだ。

しかし振り下ろす途中で力が抜け、私の手は中途半端な速度で彼の頬にペチッと当たり――そのまま頬に添えるような形になって止まった。

「その言い方がダメだって、まだ分からないの?」

理性を追い越して言葉が溢れ出す。

「『水に流そう』も『好きにすればいい』も同じよ。全部相手の選択に委ねるふりをして自分の本心は絶対に見せない。あの結婚式の日から何も変わってないじゃない!」

――いや、変わったのは私の方だ。あの時はただ気味が悪かっただけなのに、今は。

こんなにも腹が立つ。

「私は一生かけて償うと言っているわ。……どうするのか、あなたが決めなさい」

それだけ言い残し、私は逃げるように書斎をあとにした。

その後、私とアイゼンは完全に口を利かなくなった。

元々不仲の演技をしていたのだ。本格的な冷戦状態に移行するのは造作もないことだった。

自分で「あなたが決めなさい」と言い放った手前、こちらから動くわけにはいかない。

あの男は私をこうして待たせることすら計算しているのだろうか?

だとしたら相当性格が悪い――何も考えていないだけだとしてもそれはそれで腹が立つ!

一方、宮廷では私たちがいつ破局するかで持ちきりだった。

私が王城に顔を出すと物陰から両手を合わせて「破局、破局……」と拝んでくる奴までいる始末。

おそらく私が破局することに賭けた連中だろう。……品もなければ悪趣味な連中だ。

そんな息の詰まるような冷戦が続いていた、ある夜。

寝室で休む準備をしていると控えめに扉をノックする音が響いた。

「……なに?」

返事はない。不審に思って扉に近づくと扉を隔てた向こう側からアイゼンの声がした。

「来週、王城で舞踏会があるな」

「……」

「そこで先日の返事をする。必ず出席するように」

それだけ言い残し彼の足音は遠ざかっていった。

それからの一週間。

私はクローゼットの前で何度も何度もドレスを選び直した。

どれを着てもしっくりこない。なんだか気に入らない。

……彼との夜会のために鏡の前で悩んでいる自分自身が一番気に入らなかった。

そして迎えた舞踏会。

宮廷の全員が一堂に会する煌びやかな広間で、賭けの参加者たちは「今夜こそ破局の瞬間が見られる」と下品な期待に顔を歪めていた。

そんな広間の中央。

私はアイゼンと真っ直ぐに向かい合った。

彼が静かに右手を差し伸べる。私がその手を取った瞬間、周囲の貴族たちが息を呑む気配がした。

アイゼンが私をぐっと引き寄せる。

――そして交わしたキスは、ほんの短いものだったけれど、確かな熱を持っていた。

かつては『屈辱で唇を噛み切り血まみれの口でキスしてやる』なんて思っていたけれど、屈辱なんて感じなかった。

「代金は、一生かけて支払ってもらうことに決めた」

「本当に、それでいいの?」

アイゼン――本当の意味で私の夫となった人は答える代わりに私の手をぎゅっと強く握り直した。

その親密な様子を見た瞬間、広間が沸騰した。

「なっ!?」

「嘘だろ!?」

「全財産を注ぎ込んだ賭け金が!」

悲鳴、怒号、椅子が倒れる音。

宮廷の馬鹿共が三ヵ月間積み上げてきた確信が一瞬にして崩れ去る。まさに地獄の阿鼻叫喚だ。

「キャアァァァァッ!!」

そんな中、『万馬券娘』だけが歓喜のあまり今にも気絶しそうな声で叫んでいた。

「ふふっあははっ!」

気づけば、私は声を出して笑っていた。

そしてそのまま皆の注目を集めるように腕を上げると、白目を剥きかけているベッティを指差した。

「さあ賭けに負けた皆様!お支払いはこちらの彼女へどうぞ!」

大穴の万馬券は無事に彼女のものとなった。

こうして舞踏会は暴動寸前の大騒ぎのまま、最高の夜として更けていくのだった。

ミリオナが釈放された父を迎えに王城へと向かった夜のこと。

「いやぁこれでまた競馬場に行けるわ!」

サティラ家の書斎。

札束の山を前に目を輝かせるベッティを見てアイゼンは深々とため息をついた。

「……少しは感謝してくれてもいいんだぞ」

「だからこうやって結婚祝いに包んであげてるじゃない」

そう恩着せがましく言うベッティだが、彼女の視線は一秒たりとも札束から離れていなかった。

そんな会話とも言えない会話を続けていたベッティが。

札束を数える手は止めないまま、ふと何気ない口調でアイゼンに尋ねた。

「で、ようはさ」

「ん?」

「ようは――初めからミリオナのことが好きだったんでしょ?」

ベッティは知っていた。

圧力をかけられたわけでもないのにミリオナの縁談相手が 静(・) か(・) に(・) 辞(・) 退(・) していった本当の理由を。

それが取り返しのつかない傷害事件に発展し、この冷静沈着そうな男が血相を変えて焦ったことを。

そして――両親とベッティ以外に誰も見向きもしなかったミリオナの誕生日に、毎年必ず『差出人のないプレゼント』を届けていた人間がいたということも。

「結婚式で新郎をグーで殴るような女だぞ。好きも何もまず人として――」

そう言って御託を並べるアイゼンのセリフをベッティは聞いておらず、すでに思いは競馬場に向かっていた。

このことをミリオナにこっそり教えるか?

いや、ベッティはそんなことをしない。

なぜなら――聞かれていないから。