作品タイトル不明
その時〇〇は!:阿波へ下向中の四州近衛家御一行
主上(後奈良天皇)の『詔』の日本各地の反応など知る由もない四州近衛家御一行は、都を後にし、阿波へ下向中だった。
『近衛家』を後にした一行を乗せた牛車は、ゆっくりと京の町を離れていった。
御簾の隙間から見える都は、まだ朝の淡い靄に包まれている。
『はるちゃん』――永寿内親王は、その景色をじっと見つめていた。
「……京、遠くなっていきますね」
ぽつりと零す。
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
私(長慶)は隣で、小さく頷く。
「うん」
しばらく、二人とも黙っていた。
牛車の揺れと、車輪の軋む音だけが静かに響く。
やがて『はるちゃん』が、そっと口を開いた。
「よし様」
「ん?」
「私、最初は少し怖かったのです」
「阿波?」
「はい」
彼女は膝の上の蒔絵の櫛を撫でる。
「京の外へ出るのも初めてですし……」
「そりゃそうだよね」
戦国時代の皇女である。
普通なら、生涯ほとんど京から出ない。
まして海を渡るなど、想像の外だ。
私(長慶)自身もそうだ。実は今回、初めて『阿波』から外に出た。
「でも」
『はるちゃん』は、少し笑った。
「今は楽しみの方が大きいです」
その横顔は、本当に晴れやかだった。
「海も見たいですし」
「うん」
「お船も楽しみですし」
「うん」
「あと“あいす”」
「やっぱりそこ入るんだ……」
私(長慶)が額を押さえると、『はるちゃん』がくすくす笑う。
「大事です」
真顔だった。
完全に主上の教育である。
その時、御簾の外から、ぱかぱかと馬の足音が近づいた。
「千熊丸」
海雲――実父、三好元長だった。
「もうすぐ、山崎を越える」
「早いね」
「道を整えておったからの」
さらっと言ったが…
この時代、“道を整える”というのはかなり大事だ。
物流。軍事。治安。全部に関わる。
『はるちゃん』が、興味津々で身を乗り出す。
「阿波までの道も、四州近衛家が?」
「全部ではないけどね」
「でもかなり触っておりますな」
海雲が補足する。
「港も、街道も、橋も。阿波は今、大きく変わっております」
『はるちゃん』は目を丸くした。
「橋まで?」
「ないと不便だから」
「なるほど……」
完全に素直な感想だった。
私(長慶)は少し笑う。
「京って、案外“古い都”なんだよ」
「え?」
「もちろん凄いんだけど、“変えにくい”」
千年の都。
積み重ねられた伝統。
それは強みであると同時に、重さでもある。
「でも阿波は違う」
「……新しい?」
「うん。まだ作れる」
港も。
町も。
制度も。
全部、まだ変えられる。
『はるちゃん』は静かに聞いていた。
「だからよし様、“未来”を阿波で始めようとしてるんですね」
その言葉に、私(長慶)は少し驚く。
「……よく分かったね」
「だって」
彼女は、ふわりと笑った。
「よし様、京を変えようとしている時より、阿波の話をしている時の方が楽しそうです」
図星だった。
海雲が馬上で吹き出す。
「それは確かにそうじゃ」
「父上まで!?」
「千熊丸、おぬし昔から港と船の話を始めると止まらぬからの」
否定できない。空路がないこの時代、海路は外界と繋がる。とっても重要! 私(長慶)は咳払いした。
「……まあ、海は大事だから」
「船も?」
「めちゃくちゃ大事」
「“空飛ぶ鉄の箱”より?」
「それはまだ先」
楽しそうに『はるちゃん』が笑った。
「未来のお話、もっと聞きたいです」
「いいけど、びっくりするよ?」
「大丈夫です!」
その目は、好奇心でいっぱいだった。
私(長慶)は少し考えてから言った。
「じゃあ一つだけ」
「はい」
こくんと頷く『はるちゃん』。
「はい」
真っ直ぐな目だった。けれど、その“理解”は、単に未来の珍しい話を聞きたいというだけではなかった。
「よし様が見ているもの」
静かな声。
「国だけではないのでしょう?」
私(長慶)は少し黙る。
牛車は揺れる。京から離れ、少しずつ景色が変わっていく。
続ける『はるちゃん』。
「おもう様(主上)も、方仁兄上様も、“皇家を残す”ことを考えておられる」
「うん」。そうだね」
「でも、よし様は違う」
その言葉に、海雲も静かに耳を傾けていた。
「よし様は、“皇家だけ残っても駄目”だと思っている」
私(長慶)は息を吐いた。
「……まあね」
それは、未来を知っているからこその感覚だった。
王だけ生き残っても意味がない。
民が飢えれば国は壊れる。
流通が死ねば都も死ぬ。
知識が途絶えれば、文明そのものが後退する。
「だから港を作る」
「うん」
「道を整える」
「うん」
「塩も、鉄も、船も大事にする」
「……うん」
『はるちゃん』は、小さく笑った。
「“未来”って、空を飛ぶ話ではなくて」
その声は穏やかだった。
「皆が普通に暮らし続けられるようにすること、なのですね」
私(長慶)は、一瞬言葉を失った。
海雲が、静かに目を細める。
「永寿様……」
少し照れたように『はるちゃん』は笑う。
「だって、昨日分かったのです」
「おもう様(主上)も、公卿様方も、“未来の制度”のお話をしておられたのに」
そこで彼女は、悪戯っぽく私を見る。
「よし様、途中からずっと“冷凍庫どう作ろう……”って顔してました」
「いやだって重要だから!」
「ほら」
くすくす笑う。
「結局、よし様は“暮らし”を考えてるんです」
……参った。
主上や公卿たちは、“稀人”としての私(長慶)を見ている。
未来を知る者。
制度を変える者。
時代を動かす者。
でも『はるちゃん』は違った。
この人は、“生活している私(長慶)”を見ている。
無茶をして。
寝不足で。
甘味作って。
港を気にして。
子供に囲まれて困っている。
そういう部分を。
そっと『はるちゃん』は言った。
「だから大丈夫です」
「……何が?」
「よし様、ちゃんと人のいる未来を作ろうとしてますから」
牛車の中が静かになる。
遠くで鳥の声がした。
朝日が少しずつ高くなる。
海雲が、ふっと笑う。
「なるほどの」
「帝が永寿様を結ばれた理由、分かる気がするわ」
「父上?」
「千熊丸、おぬし一人だと、たぶん国づくりに没頭して飯を忘れる」
「否定できない……」
「永寿様がおれば、“ちゃんと人として暮らせ”と言うてくれる」
真顔で頷く『はるちゃん』。
「重要です」
「そこまで真顔で言う!?」
「あと甘味」
「やっぱり入るんだ……」
海雲がとうとう声を上げて笑った。
牛車は、西へ進む。
京を離れ。
海へ向かい。
そして阿波へ。
未来を知る稀人と、その隣で、未来を“暮らし”へ引き戻してくれる少女を乗せて。