軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

『分国法』?

この時代にはないだろう色々な秘匿技術もあるから、作業自体は細分化して技術の流出をできるだけ減らすようにしてる。

というか、いろんなものを作りすぎていて、多分、どれがどの部品なのかも分かりづらくなっているということもあるんだろう。

自分が描いたものの全てが形になるっていうのは簡単にはいかないけれど、生活や暮らしが楽になって、阿波で暮らせてよかったなと思ってもらえたらって思いつつやってる。

治水事業も最初は令和の旧吉野川から。

それから別宮川と呼ばれている令和の吉野川本流の両岸を竹を用いたコンクリートで整備していく。と同時に各支流もだ。

ものすごいお金がかかるんだけど、あれこれやって捻り出していく。

河川の整備とともに農地や用水路も整備していく。

新たに戸籍も作った。寺子屋も作り、読み書き計算(算盤も作った)ができるようにすることで、人材を育て確保していく。

得手不得手、能力に合わせて人員を配置していく。

農奴や河原者と言われて蔑まれていた人にも平等に機会を与えた。

ものすごい反発が起こったけれど、あまりにも人手が足りなすぎて、戸籍に登録され、法を守り、納税の義務を果たせば市民権のようなものを与えることにした。

但し盗みや犯罪を犯せば容赦無く罰することは当然のこととして。

なので、法整備もすることにした。いわゆる『分国法』だ。

確か『分国法』って戦国時代に戦国大名が領国経営をするために独自で制定したものって習ったけど。『今川仮名目録』とか『塵芥集』とか。聞いたことがあるくらいで、内容までは思えてないや。

っていうか『三好』って細川家の家臣だよね。まだ、一応。作っていいのか、そんなもの。

でも規模が大きくなってきたし。『派閥』も育ってきたし。まとめるためにも『法的規制』は必要だと思うのだ。そこで、再び父の海雲に相談をする。海雲は渋った。かなり嫌がった。

というのも『細川式条』というのが細川政元、晴元の義祖父によって文亀元年(1501)策定されていたからだ。

細川政元か。この人がいなければ晴元少年が中央への野心に駆られることもなく、曽祖父の三好之長も死なずに済んだだろう。下剋上も戦国時代もなかったかもしれない。天狗になりたかった半将軍。

子作りしなかった為に細川を滅ぼした戦犯だな。なんてことを脳内でつぶやいてたら、長慶おじさんがギョッとしてた。

まあ、参考程度にどんなものか傅役の篠原孫四郎(長政)が教えてくれた。

喧嘩や盗人、諸取沙汰事の停止。

強入部(強制的に領内に侵入する)事。

新関(新たに関所を設ける)事の禁止。等々。

え? これだけ? って思ってると国(幕府)が発令する法令は別にあるとのこと。

まあ、だよね。そういえば『御成敗式目』っていうのが鎌倉時代にあったよね。

日本史で学生の頃触ったことある。おばちゃん的にも大昔だ。

それを下地に室町幕府が作ったものらしい。『建武以来追加』というもので、更に二百条余の決め事がされている。

うげゲゲゲって言いそうになったけど、勉強した。じゃあないと作れないからね。

もっともこういったものは武士社会の統制のためのもので、それ以前の公家や庶民は『律令』によって、まあ、それも時代によって内容も変わっていくのだけれど。

『墾田永年私財法』かあ。懐かしい。いや、現実問題、これのお蔭で私財確保できてるわけで。確か『太閤検地』で召し上げられるんだよ。

まあ、いずれにしても『分国法』というか『家法』を決めてしまおう。

そう決めたのは数え七歳(満六歳)の時だった。西暦1528年。

ところで、この段階で歴史は大きく変わっている。

この世界では前年の1527年に『堺公方』は誕生してはいた。

何故なら、本来十三歳の晴元とともに上京するはずの三好海雲は家督を息子の千熊丸に譲っており、その千熊丸はこの時実質五歳。その後見をするため、晴元の再三の要請を固辞。

阿波三好勢は『三好の宝(千熊)』を守るために阿波を動かなかった。

しかし足利義維と細川晴元は波多野元清と柳本賢治、三好長家、三好政長と共に桂川合戦を経て一時的に『堺公方』を名乗ることはできたものの、川勝寺口の戦いは阿波三好勢の参戦もなく、勝利できなかった。

この結果、細川高国側が盛り返し、天王寺の戦いも大物崩れも起こることなく、義維はわずかな手勢、細川氏之とともに再び阿波へと逃げ戻る。

義維は後に『阿波三好』が動かなかった時点で晴元の『神輿』に乗るべきではなかったと語ったそうだ。

『堺公方』を擁立した面々は捕らえられ、反逆者として処刑された。『晴元少年』もだ。『三好政長』もここで消えた。

父、海雲は複雑そうだったけれど、一族存続を第一にという千熊丸の強い意志を優先した。