作品タイトル不明
国の形
広間には、まだ重い空気が残っていた。
それは当然だった。
今、この場で行われているのは、単なる主従確認ではない。
“国の形”そのものの変更。
戦国という時代において、それは本来、戦でしか起きないことだった。
だが今、徳島城では『刀(武)』ではなく、『制度』でそれが進んでいる。
―― 阿波国人たちの本音
最初に口を開いたのは、阿波南方の山間を治める小領主だった。
「……若様(長慶)」
「うん」
「正直に申し上げてよろしいか」
「もちろん」
男は、ゆっくり息を吐いた。
「怖いのです」
広間が静まる。
「何が?」
「変わり過ぎておる」
その言葉には、多くの国人が無言で頷いた。
「わしらは」
「国を守るとは」
「城を守ることだと思っておりました」
男の声は低い。
「兵を集め」
「槍を揃え」
「隣と争い」
「奪われぬよう戦う」
それが武士だった。それが戦国だったはずだ。
「ですが若様(長慶)は違う」
男は徳島城下の方を見る。
「倉を建てる」
「道を繋ぐ」
「湊を掘る」
「便所を作る」
後半で少し空気が緩む。だが誰も笑わない。
それが本当に“国力”へ変わっていると知っているからだ。
「しかも」
「実際に民が増えておる」
そこだった。
国人たちが最も衝撃を受けている部分。
阿波は今、『人が逃げない』。
それどころか… 流れてくる。
戦国時代。
民は資産だった。同時に、最も脆い存在だった。
飢えれば逃げる。
重税なら逃げる。
戦が続けば消える。
だから国人たちは、ずっと『減る前提』で国を見てきた。
ところが、今の阿波は違う。
「去年の冬」
「うちの領では、逃散が一件もありませんでした」
別の国人が呟く。それは異常だった。
戦国では、異常なほど。
「備蓄米を回し」
「湯治場を整え」
「薬草師を巡回させ」
「子供へ粥を配った」
男は苦笑した。
「……あれでは、逃げませぬ」
『はるちゃん』は、その話を静かに聞いていた。
京では、冬になれば、普通に人が死ぬ。
病で、飢えで、寒さでそれが当たり前だった。
ところがこの広間では“死なせない工夫”が語られている。
しかも、武士たちによって。
『はるちゃん』――永寿内親王は、そこで改めて理解し始めていた。
よし様が作ろうとしているものは、単なる強い国ではない。
“人が減らない国”なのだと。
「ただし」
海雲が、そこで初めて口を開いた。一瞬で空気が締まる。
「勘違いするな」
低い声だった。
「優しくしたいからやっておるのではない」
皆、黙る。
「民が減れば、国が死ぬ」
それだけだった。
「田が荒れる」
「兵が減る」
「流通が止まる」
海雲は酒を置いた。
「だから、生かす」
あまりにも冷徹。
だからこそ、それが逆に国人たちへ強く刺さった。
情ではない。理屈なのだ。
阿波国人たちもまた薄々気付いていた。
この“天領”。
実は、かなり武士的であると。
兵農未分離。
流通重視。
戸籍。
兵站。
衛生。
常備備蓄。
つまり“戦争を続けるための国家運営”とも見えるのだ。
それを、十一歳の主君が、既に始めている。
「殿(長慶)」
「うん?」
「数字が出ました」
小一郎が帳面を広げる。
「昨年比、阿波全体の冬季死亡率、三割減です」
広間が静まった。
「……三割?」
「特に幼子」
「産褥死も減少しています」
ざわり、と空気が動く。
ある国人が呟く。
「手洗い、か……」
最初は皆半信半疑だった。
出産前に湯で手を洗う。
布を煮る。
産室を換気する。
井戸を分ける。
厠を離す。
そんなことで何が変わる、と。
ところが本当に死者が減った。
―― “胡蝶の夢”への畏れ
そこで、年老いた国人がぽつりと言った。
「……やはり、若様(長慶)は」
皆がそちらを見る。
老人は、小さく震える声で言った。
「木から落ちた時、向こう側を見てきたのではないか」
広間が静まり返る。
“胡蝶の夢”。
阿波では、もはや半ば伝説だった。
幼い千熊丸が、大木から落ち。
三日熱に浮かされ、目覚めた後。
突然、“未来の絵巻”を描き始めた。
見たこともない構造物。
見たこともない道具。
見たこともない町。
―― 大人たちの決断
最初、阿波三好も、国人たちも混乱した。
だが、海雲だけは違った。
「ならば、試せ」
そう言った。
そして、芝生城へ。
各国人の嫡子たちが集められた。
―― 体験学習の日々
泥だらけになりながら、皆で紙を漉いた。
樹皮を叩き、糸を作り、太布を織った。
蜂に刺されながら蜂蜜を採り。
蚕を育て。
窯の熱で汗だくになりながら阿波焼を学び。
石灰を焼き。
硝子を作ろうとして窯を爆発させ。
(篠原)小一郎が本気で怒鳴り。
弟の(篠原)佐吉が笑い。
(佐々木)太郎が川へ落ち。
(一宮)次郎が帳面を付け。
(森)彦太郎が木材を担ぎ。
皆で失敗して、皆で覚えた。
―― “戦以外”を知った世代
だから今、この広間にいる若い側近たちは、普通の武士と少し違う。
彼らは知っている。
紙一枚が、どれだけ国を変えるか。
塩が、どれだけ命を救うか。
橋一本で、どれだけ物流が変わるか。
そして、便所一つで、どれだけ人が死ななくなるかを。
不意に、山間部の老国人が、顔を覆った。
「……孫が、生き残りました」
静かな声だった。
「去年までなら、冬を越せなんだ」
誰も何も言わない。
「薬師が来て」
「湯を沸かし」
「布を替え」
「粥を食わせ」
男は、震える声で言った。
「生きたのです」
それが、戦国では『奇跡』だった。
―― “天領”への覚悟
長い沈黙の後、その老人は、深く頭を下げた。
「若様(長慶)」
「うん」
「……この老骨、天領へ尽くします」
一人。
また一人。
国人たちが頭を垂れる。
それは、もはや恐怖だけではなかった。
期待。
驚き。
戸惑い。
そして…
『この国なら、子や孫が生き残れるかもしれぬ』
そんな願いが、確かに混じり始めていた。