軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

二年の月日(下)

その日、バンクロフト伯爵家のコレクションルームでは珍しい光景が広がっていた。

当主夫妻と嫡子しか鍵を持たず、ゲストにも滅多に披露されることのなかった部屋に複数人が出入りし、壁に掛かる絵画を慎重に下ろしている。

受け継がれた美術品を守りはするが、収集癖のない今の家長の代になってからこれまで、この部屋の絵画が動かされることはなかった。

二枚の絵の搬出作業に立ち会っているのは、ジャイルズと執事のダルトンだ。

作業をする側には王立アカデミーのリスター調査官がいて、指示を飛ばしている。

やがて、丁重に梱包された絵が入念の注意を払って運搬用の専用馬車に積み込まれると、リスターは深く腰を折った。

「ローウェル卿。企画展へのご協力、心より感謝申し上げます」

「時間がかかってすまない。目録の印刷に間に合わなかったな」

「かえって箔が付くというものです。その分、キャプションに力を入れますのでご期待ください。――では来週、向こうでお会いしましょう」

朗らかに返すリスターは言葉に違わず満足そうだ。そのまま、無事の移送を約束して絵と同じ荷台に乗り込み、伯爵家を後にする彼を見送った。

ジャイルズは一人コレクションルームに戻ると、不在の部屋を守っていたダルトンを下がらせ部屋を見渡す。

ぽっかりと壁にできた空間の一つは、フィオナと見た狩りの絵が掛かっていたところだ。

(……さて、これからだ)

父伯爵からは業務の一部を完全に引き継いだ。それをもってクレイバーン男爵からも最終的な了承を得て、あとはフィオナに会いに行くのみ。

――ようやくここまできた。

だが、出発点に立っただけ。決してこれがゴールではない。

一つ頷き、思い出が詰まった部屋を閉める準備をする。カーテンを引こうと手を掛けたところで、重厚な扉がノックされた。

「ジャイルズ。少しいいかしら」

「母上。お戻りでしたか」

「ええ、今さっき。絵の搬出は済んだのね」

入ってきたバンクロフト伯爵夫人は外出着のままで、本人が言う通りこの部屋にまっすぐ来たのだと分かる。

片付けの手を止めたジャイルズは、近付いてくる母に礼を言う。

「母上にも手間をかけました」

「あれくらい構わないわ。ミランダも手伝ってくれたし」

この部屋の絵を美術展に貸し出すにあたっては幾つか障害があったが、一番解消に時間がかかったのは、姦しい親戚たちだった。

伯爵家のコレクションを軽易に平民の目に触れさせるとは何事だ、などと騒ぐ面々は絵画が好きというわけではない者たちばかり。

二国が主催するという特別な美術展へ出品するメリットを説いて聞かせても、一筋縄ではいかない。

そこで、彼らをこの部屋に招待することにした。

特権にこだわる虚栄心を満たしてやれば大人しくなるだろう、と考えたのだ。

効果は抜群だったが、多忙で不在がちな当主と嫡子に代わって、順繰りに訪れる彼らを実際に接待し続けたのは母だ。

自ら買って出たとはいえ、その疲弊は察するに余りある。

「久しぶりに会う方もいらして、案外、楽しかったのよ」

「それならいいのですが」

両親と距離があったジャイルズだが、近頃はそうでもない。

仕事のことで父と話す機会が増え、必然的に家内でも対話をすれば、母親とも顔を合わせることが多くなる。

特に所蔵品を美術展へ貸し出すことを決めてからは、報告や相談も格段に増えた。

父のほうからも話しかけてくるようになり、時々食事を共にもしている。

雑談になると途端に寡黙になる父なので、食卓を囲みながらの話題も国際情勢や議会のあれこればかりだ。

とはいえ討論には母も加わることもあり、内容はともかくここ十年で一番言葉を交わしている。

屋敷内の雰囲気が変わったとリチャードに言われるほどだが、かつてのように両親がジャイルズに結婚を勧めてくることはない。

「あなたは明日発つのだったかしら」

「はい。朝のうちに」

「慌ただしいこと。ふふ、よっぽど早く行きたいのね?」

揶揄うように言った母は、ジャイルズの返事を待たずに壁に掛かる一枚の肖像画の前へ移動した。

肖像画の主は伯爵家の先代当主――ジャイルズの祖父に当たる男性だ。

絵の中でも厳めしい顔をしている祖父は頑迷なところがあり、父よりもさらに近寄りがたい人だった。

同じ屋敷に住んでいたにもかかわらず、親しく会話をした記憶は皆無である。

灰碧の瞳は老いてなお鋭く、実子である父にも厳しければ、嫁してきた母や幼いジャイルズにはなおさらだった。声を荒げることはなかったが、叱責と訓示以外の言葉を聞いた覚えがない。

そんな日々を思い出すのだろう、肖像画をしばし眺めた母は息を詰めて目を閉じた。

「……ごめんなさいね」

唐突に謝られてジャイルズは目を瞬かせた。静かに瞼を上げた母が、息子へ悄然とした顔を向ける。

「母上? なんの謝罪でしょう」

「いろいろよ。でも、始まりは昔の婚約のことね。あんな子だと思わなかった、と言ってしまうのは簡単だけど……いくら焦っていたとはいえ、見抜けなかったせいであなたにつらい思いをさせたわ」

「焦っていた?」

話が見えない。十年以上も前に結ばれて破棄した婚約は当然、親が主体で進めたものだ。

ジャイルズには拒否という選択肢のなかったそれを、母は後悔しているらしい。

しかし――

「あの頃、あなたに別の縁談があったの」

「は……?」

「とある国の王女に婿入りはどうかって」

いくら由緒あるとはいえ、伯爵という家格で直系王族との縁組は普通ありえない。

しかし、王太子の遊び相手として王宮に出入りするジャイルズに、先方の関係者が目を留めたという。

政情が安定せず、内戦がくすぶっている小国だった。

そんなところで継承権のある王女の配偶者となる――縁組によって同盟を強固にし、うまくいけば属国化できるというメリットもあるが、身の危険のほうが大きいのは火を見るより明らかだ。

「私も旦那様も、まだ子どものあなたをそんな危ないところに行かせたくなかった。でも大旦那様ならば、あなたを王女と結婚させるに違いないと思ったわ。国益と家が最優先の人だもの」

祖父よりも先に父が内々の情報を掴んだのは不幸中の幸いだった。

しかし祖父が絶対的な権限を持つ下で、両親には使える手立ても取れる手段も限られていた。

「大旦那様の耳に入る前に、大急ぎで誰かと婚約させるしかなかったの」

祖父が納得する家柄で年齢が近い相手となれば、選ぶ余地はなかった。

ジャイルズの婚約が整うのとほぼ時を同じにして祖父は亡くなり、その後、王女も自国の貴族との縁談が決まる。

ほっとする一方でジャイルズの婚約はうまくいかず、溌溂として子どもらしい面もあったはずの息子は感情を隠し表情を取り繕うようになってしまった。

長じても頑なに結婚を拒絶する姿は、親としての自責の念と合わさり後悔を強くさせていく。

「あなたが結婚しさえすれば、赦されるのではないかと思って……勝手ばかりね。我が子を半端にしか守れないでいて」

蜂蜜色の髪を耳にかけなおして、自嘲気味の微笑みを薄く浮かべた母はまた肖像画へ視線を戻す。

口うるさく結婚を勧めたのは何も後継を心配してだけではなく、過去の傷を癒したかったのだと懺悔されて、ジャイルズは言葉がなかった。

二年前、馬車の中で聞いた父伯爵の忠告を思い出す。

――無理を通そうとするならば覚悟と力がいる。今のお前には、どちらもまだ備わっているようには見えない――

(父上……)

あれは誰に向けた言葉だったのか。

危惧された“同じ轍を踏む”のはもしかして、ジャイルズではなく、かつての父自身に重ねて――

「それにね、あなたを見ていてようやく分かったの。幸せになるには自分で得ないといけないのね」

過ぎる思いを掴もうとするジャイルズを、母の明るい溜息が遮った。

「でも、ジャイルズ。この二年、一度も会っていないのでしょう? あなたの気持ちは変わらなくても、二人ともそうとは限らないわ」

「……大丈夫です」

不安はないのかと問う声に揶揄う色はない。ただ純粋な気遣いを感じて、ジャイルズは軽く笑みを返す。

「自信があるのね」

「さあ、どうでしょう」

ロッシュやオルガを通して、フィオナの居場所はジャイルズも知ることができた。

律儀に約束を守り続けるクレイバーンの面々からは直接の情報はなかったが、それとなく近況が分かるようにしてくれた。

気が向くと勝手に送ってくるレジナルドからの手紙で、旅先でフィオナに想いを寄せた男性が複数いたことも知っている。

本人が知る前にそのほとんどをレジナルドが蹴散らしていたが、隙をついて直接申し込んだ者もいたという。

それを知ってすぐに駆けつけたくなったが、文面はあくまで軽く『きっぱりさっぱり断っていたよ。残念だね』と続いていた。

残念ってどういう意味だ、と手紙を持つ手に力が入ったものだ。

……一度だけ。

外交視察に訪れた国で、フィオナの姿を目にしたことがある。

会議を終えてホテルに戻ると、伝言が届いていた。指定されたレストランは古城を改築した建物で、一階の客席奥では少人数の楽団が演奏する、劇場のような作りになっていた。

ジャイルズが通された二階の個室は、お忍び用の席だったらしい。一階からは死角だが、うまい具合に客席が見渡せた。

その場から決して動くな、と見覚えのある文字で警告が書かれたカードがテーブルに置いてあり、ほどなく階下に手紙の主が女性を……フィオナを連れて食事に現れた。

店の雰囲気によく合うドレスは、ミシェーレで仕立てたのと似た柔らかなデザインだ。

少し開き気味のネックラインとすっきりした袖で、余計に華奢に見えてしまう。

記憶より綺麗になった気も、少しも変わらない気もしたが、彼女を目にした自分の胸が酷く煩く痛みを伝えてくる。

――会いたい。声が聴きたい。触れたい。

共に過ごした時間は短かったはずなのに、離れても日が過ぎても想いは消えない。

抑え込んでいた気持ちが溢れ出るまま、ジャイルズの存在に気付かない彼女を見つめ続けた。

楽し気に叔父と語らい、食事をする彼女の左手にあの指輪がないことが胸に刺さったが、元気そうな様子を見られただけで今は満足するべきだと自分に言い聞かせた。

やがて、音楽に合わせて踊りだす客がちらほら出てきた。

どうやら地元のダンスらしい。時折、ペアの女性を持ち上げたり回したりする華やかな振り付けに、周囲の客から喝采が上がる。

陽気な演奏につられてレジナルドがフィオナの手をやや強引に取り、ジャイルズに見せつけるように踊り始めた。

曲の盛り上がりに合わせ、フィオナが子どものように高く持ち上げられる。

そのままくるりと勢いよく回された胸元からネックレスが転び出て――きらりと光る輝きに、ジャイルズは息を吞む。

細いチェーンの先には、あの指輪が下がっていた。

レジナルドの派手な演出を客たちは歓声を上げて喜んだが、フィオナは苦笑してアンコールの声には答えず席に戻る。

そしてネックレスに通した指輪を大事そうに摘まみ、隠すようにドレスの下へ戻した。

……切なげな眼差しで、服の上からそっと胸元の指輪に触れる。

フィオナと同じに、ジャイルズも内ポケットの時計を握りしめていた――

「……少なくとも、忘れられてはいないはずなので」

「そう」

「母上、なにか」

どこか不満そうな母に問うと、キッと引き締めた表情をジャイルズに返してきた。

「……ミランダも、オクタヴィア様も、それに旦那様だってフィオナさんと仲良くしたのに。私だけお喋りもできていないのよ。このままじゃ、いじわるな義母になってしまうわ!」

(……は?)

母の本気の訴えに一瞬惑った後、ジャイルズは思わず吹き出した。

「ははっ、いじわるな義母ですか。小説みたいですね」

「もう、ジャイルズ! もとはと言えば、あなたがなかなか紹介してくれないから!」

「すみません」

父がフィオナと舞踏会で一曲だけ踊ったのが「仲良くした」ことになるのかは疑問だが、母は本気でそう思っているらしい。

「それに、早くこれを渡したいの」

言いながら母はサファイアの指輪に触れる。バンクロフト伯爵家で嫡子の伴侶に代々継がれる指輪だ。

笑いを収めたジャイルズに、晴れやかな顔が向けられる。

「二人で戻っていらっしゃい。約束よ」

「……はい、必ず」

頷いてカーテンを閉め、コレクションルームの扉に錠を下ろす。

待ちわびた再会は、すぐ目の前に迫っていた。