軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

バラと苺とチョコレート(下)

つ、と動いた指の背がフィオナの頬を滑り降り、ふっと我に返る。

気恥ずかしくなって、慌てて読み終わった手紙を畳むと視線を外した。テーブルには、ジャイルズが持ってきてくれたチョコレートが並んでいた。

「そ、そういえば、お花だけでなく、お菓子もありがとうございます」

「ああ。姉があれこれ言っていた店のだから、きっと味がいいのだと思う」

「私もそう聞いています。なかなか買えなくて、まだ食べたことはないのですが」

隣国の流行にも敏感なのがミランダらしいと感心する。

生クリームや果物をふんだんに使った、宝石のように美しいチョコレートは日持ちがしないため、自店舗だけでしか販売されない。

宿泊先のコンシェルジュが気を利かせて手配してくれたらしいが、予約しても数週間待ちと言われる店から即日で入手するとは、さすが老舗の一流ホテルだ。

それ以上に、自分は甘いものを好まないジャイルズがわざわざ用意してくれたことがくすぐったい。

その気持ちを隠すように、フィオナは話題をずらした。

「ミランダ様も皆さんも、お元気でいらっしゃいますか?」

「相変わらずだ。大叔母は君がいつ戻るのかとうるさいが」

ミランダやヘイワード侯爵夫人にも手紙やカードを送っている。

一箇所に長くは住まない生活だから、こちらの住所は書かずに近況だけを綴り、向こうからの手紙はクレイバーンの実家に届いていた。

フィオナの心境を察してくれて、なにも問わないことを後ろめたく思いながら、好意に甘えていたのだった。

「……お会いしたら、いっぱい叱ってもらわないと」

「そうだな。結婚したら、ますます遠慮がないだろうが」

「え、えっと、あの」

(そうかも、しれないけれど!)

あけすけな物言いに、フィオナは言葉を濁す。

確かに昨晩、プロポーズを受け入れた。

気が動転していて深く考えられない状況ではあったが、だからこそ、まごうことなき本音での返事である。

この二年、フィオナなりに精一杯生きてきた。

とはいえ二人の間の問題が無くなったわけではない――そもそもの家格の違いや、フィオナに貴族的な社交経験がほとんどないことなど、どうしたって変えられないことも多い。

(……本当に私でいいのかな)

そんな戸惑いが顔に出たのだろう。すっと目を細くしたジャイルズが、覗き込むようにフィオナに顔を寄せた。

「フィオナ。撤回は受け付けない」

「そ、そうではなくて」

ジャイルズのことは好きだ。国を離れても仕事を続けてきた自負もある。

だが、自分がバンクロフト伯爵家の次期夫人という立場にふさわしいという自信はまだない。

(ジル様がいいと言ってくれても、ご両親や周りの方がどう思うかは別だし……)

世間体にはひとまず目を瞑っても、身内はそうはいかない。

それに、クレイバーンの小さな土地でさえ領主の仕事は山積みだ。旧家の伯爵家ともなれば社交も重要で、ますます片手間で済むわけがない。

それでも今の仕事を辞めることは考えられないのだ。

そんなことはお見通しなのだろう。ジャイルズはふっと眦を緩めた。

「いろいろ面倒なことがないとは言えないが、フィオナが一人で抱え込む必要などない。そもそも、私もこの二年間遊んでいたわけではないから」

「ジル様」

「苦労だけさせると分かっている相手との結婚を、あの義父上が許すわけがないだろう。不安になるのは仕方がないが、心配しなくていい」

――つまり。クレイバーン男爵からフィオナとの結婚の了承を得るために、それこそ対外的なことだけでなく、身内の説得までジャイルズもいろいろ動いていたのだ。

筆頭伯爵家の嫡男が地方の一男爵令嬢を娶るために、そこまでするなんて。

「フィオナが気にする社交だって、王弟殿下に元宰相、国内有数の経営者にアカデミーの主席調査官とも懇意な女性なんて、どこを探してもいない」

「そんな、私がお世話になっているばっかりで」

「向こうはそうは言わないだろうな。それに事務や経営の知識もあるから、ダルトンも心待ちにしている」

「か、買い被りすぎです」

伯爵家の敏腕執事頭に期待されているなんて聞いてしまっては、むしろ怖気付くではないか。

(うぅ……失望させないように頑張らないと……!)

「まあ、それらはついでだ」

「ついで?」

「私自身がフィオナに釣り合わなくては話にならないからな」

――なにを言っているのか。

思い切り首を傾げたフィオナに、ジャイルズは肩を竦める。

「驕らないところは美点だが……まあ、いい。君以外の皆が知っている」

「おっしゃることがよく分かりません」

「そのままのフィオナでいい、ということだ」

「そん、んっ?」

なにか誤魔化された気がする。だが、さらに問おうと開いた口は、ジャイルズがつまみ上げたチョコレートで塞がれた。

舌の上で瞬く間に蕩けだす甘さとナッツペーストの香ばしい風味が口いっぱいに広がって、言葉も一緒に飲み込んだ。

(うわ、おいしい……! え、でも、今……ええっ!?)

手ずから食べさせられたことに遅れて気付いたが、甘さに喜んだ心の声は素直に顔に出たらしい。

「気に入ってよかった」

「いえ、あの、なにを」

「せっかくだから」

これは、右手が使えなかったあの時と同じではないか。

侯爵家での療養の日々がフラッシュバックのように蘇ってまた身体が固まっているうちに、ジャイルズは二つ目を手にしている。

「い、今は怪我はしていないですよ?」

ほら、と両手を広げて見せるが、ジャイルズはまた隙を突いてフィオナの唇の間にチョコレートを入れる。

今度はラズベリーのジュレが入っていた。爽やかな果実感たっぷりの中に、ほんの少しアルコールが香るシックな味わいだ……非常に、おいしい。

舌は滑らかな甘さを堪能するばかりだが、なぜ食べさせられているのか。

久しぶりに会ったフィオナに構いたい、というのはあるかもしれない。その証拠に、もぐもぐとチョコレートを味わうフィオナを見るジャイルズの瞳は一つ目のジャンドゥーヤより甘い。

だが、灰碧の底に光るのはやはり、いたずらを仕掛ける子どものようなそれだ。

(さすがにこれ以上は……!)

三つ目は阻止しなくては。やられっぱなしもよろしくない。

紅茶のカップを取るふりでジャイルズの動きを牽制し、テーブルに手を伸ばす。トレイの上にはチョコレートと一緒に苺が並んでいた。採れたばかりのそれは、管理人の親切な老紳士が分けてくれたものだ。

フィオナはみずみずしい赤い果実を指先につまんで、ジャイルズの唇に押し当てる。

「ジル様は、チョコレートよりこちらのほうがお好きで――っ!?」

自分だけではなく彼も、少しはこの居たたまれない恥ずかしさを感じたらいいと、それだけだったのに。

不意を突かれて目を軽く見開いただけで、ジャイルズはぱくりと苺を食んだ。

ご丁寧にフィオナの手首を固定して、その指ごと。

「……甘いな」

「ジ、ジルさまっ」

そのままぐいと引き寄せられて、狭いソファーでジャイルズに覆い被さるような体勢になる。いつのまにか反対の手は腰に回されていて逃げ場がない。

(わ、わわっ!?)

どうにか距離を取ろうとするも、逆に頭を抱えられてぎゅうと抱きしめられてしまった。

すっかりジャイルズの首元に顔を埋める格好になったフィオナの耳に、小さく呟く声が聞こえる――本物だ、と。

ため息に紛れた、自分に言い聞かせるようなその響きに動けなくなってしまった。

……会いたいと、思ってくれていたのだろうか。フィオナが思うのと同じくらいに。

勝手に姿を消したフィオナがそれを口にするのは憚られたから、誰にも告げたことはなかったけれど。

「……ごめんなさい」

ほかに言葉が見つからなくてぽつりと溢すと返事の代わりに小さく肩が震え、しっかりと抱き直された。

お互いの体温と鼓動が布越しに伝わる。

記憶よりも確かな現実に、涙が出そうだ。

今日会って、なにを話せばいいか悩んでいた。

言われたことに返すだけで、結局なにひとつ伝えられていないまま時間だけが過ぎていく気がして、どこか焦って――でも、もしかしたら、ジャイルズも同じなのかもしれない。

柔く髪を撫でる手に、そんな思いが自然と浮かぶ。無理に話題を探さなくても、こうしているだけで埋まるものもあるのだろう。

強張っていた身体から力を抜くと、不安定に思えたこの場所もそう危うくはなく感じた。

暮れ始めた窓の外から聞こえる夕鳥の囀りに、ジャイルズの声が重なる。

「フィオナ、行きたいところはあるか?」

「行きたいところ……?」

「離れている間、君に見せたい景色や連れて行きたい場所ばかり増えてしまった。一年や二年ではとても足りない」

ジャイルズの言葉に息を呑む。フィオナも同じだった。

もう会えないかもしれないと思いつつ、綺麗な風景や珍しい建物を目にする度にジャイルズに伝えたいと思ってしまった。

初雪に、雨上がりの虹に、誰もいない隣を何度見上げただろう。

「……私もです」

ジャイルズの胸に手を当てて、フィオナは顔を上げる。

あまりに近い距離はまだ戸惑うけれど、離れたいとも思わない。

「これからは、二人で出かけるのに理由はいりませんね」

二年前、恋人のフリをしている時の外出はすべて目的があった。

だが「仲の良い二人」を周囲に見せつけるための演出は、もう必要ない。

笑顔で伝えた言葉の意味を咀嚼するように寸の間を置いて、ジャイルズが破顔する。

「……そうだな」

返事と同時に唇が重なった。

確かめるようなキスが次第に深く心に届く。混じり合って溢れる吐息は、苺の香りとチョコレートの甘さが溶け絡んでいた。

ようやく離されても整わない息の下、灰碧の瞳に見つめられて朱に染まった頬をジャイルズの手のひらが包む。

心地好さに頬を寄せ目を細めると、こつりとお互いの額が触れ合った。

「……もう、このまま連れて帰りたい……」

ぽつりと漏れた声に重なって、ソファーの後ろでバン! と響いた派手な音に、驚いたフィオナの身体が揺れる。

「はい、そこまでーっ!!」

「お、叔父様!?」

開いた扉の前では、レジナルドが仁王立ちをしていた。

慌ててジャイルズの腕の中から抜け出ようとするが、しっかり捕らえられて身動きが取れない。

「お邪魔しています、叔父上殿」

「僕のほうがお邪魔だっていう口ぶりだよね!? いい、君らまだ婚約しただけだからね!? それから夕食! 角のレストラン! ロッシュも来るし、今すぐ行くよ! ほら!」

それだけ言うと、つかつかと部屋を横切って玄関へと向かってしまった。

剣幕にあっけにとられたフィオナだが、笑いだしたジャイルズにつられて小さく吹き出す。

「行こうか」

「はい」

立ち上がるのに引かれた手をそのまま繋いで、二人も外に出たのだった。