軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

湖上のテラス

やや戸惑った表情で、ジャイルズはフィオナに声をかける。

「……少し休むか」

「はい」

途切れなく音楽が流れる広間を後に、二人は別の部屋にあるテラスへ向かう。途中通った飲食スペースは人が多かったが、外に休憩に出る者はまだないようで、先客の姿は見当たらない。

混雑の代わりに、日中とは様変わりした美しい景色に出迎えられた。

「わあ……!」

夕暮れに染められた空には、今は月が昇っている。

湖を囲むように灯りがぽつぽつと置かれており、静かな水面に映る光が幽玄のようだ。

タッと駆けだしたフィオナは手すりに掴まると、後を追うジャイルズを振り返る。

「まるで絵のようですね」

「叔父上殿が描かれるかな」

「どうでしょう。叔父はわりと、誰が見ても綺麗だと思う景色には興味がないようですので」

「芸術家らしい」

へそ曲がりともいえる叔父を思い出して肩を竦めれば、くくっとジャイルズも笑った。

「同じものを見ているはずなのに、叔父の筆先からは全く違うものが現れるのが、子どもの頃から本当に不思議で……」

湖から視線を戻してジャイルズに体ごと向き合うと、詫びを込めて目を伏せた。

「叔父のこと、言えなくてすみませんでした」

自分が画家レイモンドであることを打ち明けた、と叔父から聞いたとき、フィオナが感じたのは「ああ、やっぱり」だった。

叔父はこれまで頑なに身元を明かさないできた。だから他人であるジャイルズに伝えたのは意外ではあったが、どこかで納得もしたのだ。

(どうして? って聞いても、笑って教えてくれなかったけど)

謝罪したフィオナに、ジャイルズは首を振る。

「謝る必要はない。フィオナは一つも嘘は吐いていなかっただろう。それに、画商だと思い込んでいたのは私の不明だ」

「そう思わせるような言い方をしたのです。でも……よかった」

「よかった?」

「ジル様に隠し事がなくなって、ほっとしました」

正直に告げると、言葉と同じくほわりと頬が緩む。それを見たジャイルズが一瞬、眩しそうな顔をした。

「っ、そうか。例の、ベニヒワの絵はフィオナの手元に?」

「はい、領地の屋敷にあります」

「一度見てみたかったが、領地か」

「ふふ、絵を見にいらっしゃるには少し遠いですね」

残念そうに呟くジャイルズに相づちを返す。

生まれ育った大切なクレイバーンの地だが、これといって見るところがあるわけでもない。

領地を持たず王都暮らしをしている人なら田舎も物珍しいだろうが、バンクロフト伯爵家には立派で広い領地がある。

(……ジル様がベニヒワの絵を見ることはないだろうな)

当然のことなのに、それがどうしてか寂しい。

きっと親しくなりすぎたせいだと、フィオナは心の中で苦笑した。

この話は終わりにしたくてくるりと身を返すと、テラスの低い手すりから乗り出すようにして足下の水面を眺める。

「危ないぞ」

ジャイルズはそう言いつつも、フィオナが子どものように湖を覗き込むのを止めはせず、背を守るように立った。

「船の上にいるみたいですね」

「広間と、このテラスは特にそうだな」

そのまま体を捻って見上げると、二階より上の客室はバルコニーから湖を眺められるようになっているのが分かる。

部屋から見えるだろう美しい景色を想像していると、ジャイルズがフィオナを窺うように話しかけた。

「先ほどは急にすまなかった。父とは何を?」

ジャイルズは気遣わしげな表情を浮かべていて、フィオナは姿勢を戻すとくすりと笑みを零す。

「ジル様を褒めていらっしゃいました」

「……は?」

「お仕事に身を入れていると。それと、私がご挨拶もせず不義理をしたことは大目に見てくださるようです」

ぽかんとするジャイルズに、今度はフィオナが問いかける。

「お母様と踊るのは久しぶりだったのですか?」

「あ、ああ。二年ぶりだと……怒られた」

(そんなに久々だったの?)

これまでほとんど夜会に出ていないフィオナだって、年に数度は父と踊っている。

伯爵の口調から、母親との交流が少ないのだろうとは思ったが、そこまで間が空いていたとは思わなかった。

驚くフィオナに、ジャイルズは気まずげに釈明を続ける。

「両親が出席する夜会に自分も行くことは多くなかったし、すぐに場を外してばかりだったから。だがまあ、家でも疎遠だったのはわざとだが」

ミランダが嫁いでからはジャイルズの縁談のことばかりを話題にされるものだから、あえて距離を取っていたのだと。

元々の生活時間がずれていたこともあり、広い屋敷で顔を合わせないようにするのは容易だった。

その気もないのに周りに騒がしくされるのがどんな気分か、フィオナにはよく分かる。

だから責めるつもりはない。

(でも……)

あの時のバンクロフト伯爵夫人の眼差しに、在りし日の母が過った。

「少し、私の母を思い出しました」

「……それは」

「小さいときに亡くなりましたから、残っているのは印象ばかりなのですけれど」

具合のよいときは、なるべく一緒にいてくれた。

抱き上げることは叶わなかったけれど、手を握って頭を撫でて、歌を唄ってくれた。

「優しい母でした。私の下手な給仕も喜んでくれて」

小さな手が差し出すスプーンに目を細め、おいしいと食べてくれた。食欲もなかったはずなのに。

「……」

「ただ、声だけがどうしても思い出せないのです。言われたことは覚えているのに」

不思議ですね、と呟けば、言葉なく見つめられた。

淡い光の中に収まる遠い記憶は、フィオナの大切な思い出だ。水中の泡のように、時に優しく、時に切なく浮き上がる。

「……母上は、なんと仰っていたのか聞いても?」

少しの沈黙の後に、遠慮がちに尋ねるジャイルズに笑顔で頷いた。

「言葉はいろいろでしたが、いつも同じことを伝えてくれていました。私を、私たちを愛していると。幸せを祈っていると、そればかり」

「そうか……」

家族に先立たれることはさほど珍しくはない。

別れはいつも傍にあるから、親しんだ人との関係に心を砕くことを、幼いフィオナは自身に刻んだ。

いつか必ず来る、会えなくなった時に後悔しないように。

「私たち家族ばかりの思い出でしたけれど、母のことをジル様にも知ってもらえて嬉しいです」

「フィオナ」

「ふふ、時々、忘れそうになりますが、あの叔父は母の弟なんですよね」

「……それは、なんというか」

湿っぽくなってしまった空気を飛ばそうと茶化して言うと、型破りなレジナルドを思い出したジャイルズは複雑そうな顔をして、少し苦笑する。

「だからもし母が健康だったら、きっとすごくお転婆だったろうって」

「フィオナみたいに?」

「母と一緒なら、お転婆と言われるのも嬉しいですね。では、ご期待に沿って今から飛び込みましょうか」

「やめてくれ」

「私、泳げますよ?」

「そういうことじゃない。……そろそろ戻ろう」

他愛ない冗談に笑い合って、差し出された手を自然に受け取る。

テラスに出てくる人の気配を察して歩き出すと、その人影はフィオナたちのほうへまっすぐに寄ってきた。

使用人のお仕着せの青年が、ジャイルズを見てほっとした顔をする。どうやら探していたらしい。

「失礼いたします、ローウェル卿。王太子殿下がお呼びです」

「なに?」

「恐れ入りますがご同行願います」

予想外の伝言に、二人は顔を見合わせる。

今日の舞踏会は王妃殿下の主催だが、夜会恒例の「王族に挨拶」は不要で、閉会まで各自自由に過ごすことになっている。

国王を始め王族たちも普段とは違い、好きに広間に降りてダンスを楽しんでいる。ある意味、無礼講の一夜だ。

だから、幼少時代からの友人であるジャイルズと話を、というのは不自然ではないのだが。

「今か?」

「はい。そして申し訳ありませんが、ローウェル卿お一人でと仰せつかっております」

その言葉にジャイルズは微かに眉を寄せる。

話なら広間なりですればいい、しかし人払いをして別室に呼ばれている。なにか事情があるのだろうと、フィオナにも察せられた。

「ジル様、どうぞ。私は一人で戻れます」

そう言ってエスコートの腕から手を抜くと、ジャイルズは呼びに来た使用人とフィオナとを交互に見た。

「どこに行けばいい」

「お連れ致します」

明かせない、と断られてますますジャイルズの表情が曇る。だが、王族の呼び出しに従わないという選択肢はない。

「……では、誰か呼んでくれ。彼女を私の家族かヘイワード侯のもとに」

「かしこまりました。すぐ戻りますのでこのままお待ちください」

使用人は踵を返すと、足早に室内へ向かう。その背が見えなくなる前に、ジャイルズがフィオナに詫びた。

「彼は王太子の側近の一人だ」

顔見知りの侍従とのことで、この呼び出しが間違いということはない、と。

「心配いりません。私は大丈夫です」

「……できれば姉と一緒にいてほしいが、近くに見あたらなければリックでもいい」

「ラッセル卿も呼ばれているのではないでしょうか?」

ジャイルズとリチャードは王太子の幼なじみだという。

交友関係が雲の上すぎて気が遠くなるが、高位の貴族とはこういうものなのだとフィオナは改めて自分との違いを実感する。

「かもしれないな。それなら父たちでもいい、とにかく私が戻るまで一人にならないように」

フィオナが一人になった瞬間に、大勢の令嬢に囲まれるだろうことは間違いない。

だが、離宮にはそもそも身元のはっきりした人物しか入れない。

ロッシュのギャラリーに通うフィオナを狙ったように、暴漢を忍び込ませて、という手は警護の面から到底不可能だ。

廊下も人目が多い。死角になるような場所や庭園もなく、誰にも見られず連れ出すことも無理だろう。

(だから、そこまで心配しなくていいのに)

あからさまな悪口は減ったが、ジャイルズの恋人という座にフィオナがいることを頑なに認めない令嬢たちがいなくなったわけではない。

彼女たちの気持ちも分かるから、それで気が済むなら誹られるくらい、とフィオナは思うのだが、ジャイルズはそれだってよしとしない。

まもなく側近の彼は、別の男性使用人を連れて戻ってきた。そちらにもくれぐれも、と念を押して、ジャイルズは先に室内へと戻っていく。

一度振り返った彼に、フィオナは軽く手を振ってみせた。

「華の間にコレット侯爵夫人がいらっしゃるそうですので、そちらにご案内します」

「はい、よろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ」

年若い使用人は、笑顔で礼を言うフィオナにはにかんだ表情を浮かべて、すぐ前を先導する。

何人かの見知った顔と挨拶の視線を交わしながら賑わう広間を進み、廊下を歩いているときだった。

「フィオナ・クレイバーン。あなたに話があるわ」

ちょうど人の切れた通路でまるで待っていたかのように現れたのは、キャロライン・バーリー伯爵令嬢だった。