軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

19.「普通」の探し物(7)

「おまえ、いったいなにに乗っている――――!?」

ルーカスの、その魂の 叫び(ツッコミ) が聞こえたのか、エルマはふと顔を上げる。

なぜか彼女はこくりと頷くと、足下のくじらに向かって何事かを囁いた。

すると、ペナント部分がぐいんと回転して波間に沈み、くじらのぬらりとした、広い背中が上になる。

どうやら、エルマが捕まっていたのは手ひれの部分で、くじらは捕まりやすくするために、今まで斜めに傾いで泳いでいたらしい。驚きの献身だ。

それからしばらく、くじらとエルマはじゃれ合うようにしながら、縦横無尽に海原を駆け巡った。

くじらが尾で勢いよく海水を弾く。

エルマが腕を差し込んで角度を調節し、虹を掛ける。

くじらがカモメに届きそうなほど高くジャンプを決める。

エルマがどこからともなく鰯のような魚を取り出し口に放り込む。くじらが嬉しそうに身をくねらせる。

飛ぶ。

跳ねる。

ボールに見立てた飛び魚を追いかける。

阿吽の呼吸で海を駆るエルマとくじらは、さながら約束された伴侶、運命の片割れ。

その姿は人馬一体、いや、まさに人鯨一体といえる境地であった。

「……く、くじらはエルマのベターハーフなの……!?」

「ああっ! 二人の上げた飛沫が今ハートの形に……!!」

きゃっきゃうふふと戯れる少女とくじらに、イレーネたちが何度も目を擦る。

ルーカスは無言で天を仰ぎ、ケヴィンはといえば――じっと、食い入るようにエルマの姿を見つめていた。

ひとしきり水遊びを楽しむと、くじらは満足したらしい。

くるりと方向転換し、エルマを背に乗せたままぐんとスピードを上げ、あっという間に崖下までやってきた。

しかし、崖壁は威容を誇り、とても人間がそこから登ることができる代物ではない。

だがエルマのことだ、さてはくじらから降りて、今度はロッククライミングでも披露するのかと、一同は固唾を飲んだが――

――ピューイッ

エルマは右手で輪を作って口笛を鳴らし、左手を背中の後ろでぱたぱたと振ってみせた。

途端に、くじらがぐうっと頭を海に沈め、その場に静止する。

「こ、今度はなにをする気なの……?」

「あれは、もしや……!」

上擦った声で問うイレーネをよそに、ルーカスははっと息を呑む。

彼は、幸か不幸か、鯨が見せた予備動作がなんのためのものかを理解できてしまった。

頭を沈めた鯨。

その周囲では、濁流がさらに激しさを増して渦を巻く。大量の海水が飲み込まれているのだ。

そうして、くじらの巨体に溜め込まれた海水は――

――ぷしゃああああああああっ!!

「潮を噴いた――――!!」

くじらの潮へと転じ、力強く天を目指した。

雲にも届きそうな水柱のてっぺんに、影が見える。

それは、接水面積を減らすためなのか、片足を上げて抱え持ち、Y字の形でつま先立ちしたエルマの姿であった。

「飛んだ―――――――っ!!」

エルマ、 飛翔(と) ぶ。

その信じられない現実に、一同が顎を外しそうになりながら絶叫する。

彼らの視線の先、エルマは崖よりもはるか高くまで上昇すると、一度くいと眼鏡のブリッジを持ち上げた。

逆光の中、レンズだけがきらりと光る。

そして、空中で膝を抱え、くるくると回転しながら、――崖に着地した。

「前方抱え込み宙返り3回半ひねりいいいいい!?」

「小麦一粒のずれも許さぬ会心のフィニッシュ!」

もはや帰還というよりは、難易度Hの競技を見守るような心持ちである。

イレーネたちは顔を紅潮させ、「ブラボー!」と叫びながら手を打った。

しかしエルマ本人はといえば、それらの喝采には一切心動かされた様子はなく、ゆったりとした動作でケヴィンの前へと踏み出し、ずぶ濡れのメイド服の裾をつまんで礼を取った。

「侍女、エルマ。お探しの指輪を見つけてまいりました」

そう告げて、しずしずと鎖につないだ指輪を差し出す。

両掌に慎重に横たえられた指輪は、いったいいつの間にそんなことができたのか、錆がすべて拭われて、新品同様にきらりと輝いている。

一方エルマのメイド服からは、ぽたぽたと滴が垂れたままだ。

「――…………」

完全に圧倒されてしまい、ケヴィンはただ呆然と目の前の少女を見つめた。

動けないでいる彼に代わって、エルマがそっと鎖を首にかけてやっても、ケヴィンはまだ硬直したままだった。

「無事見つかって、ようございました」

「――…………ぁ」

優しく告げられて、喉が震える。

それを合図とするように、ケヴィンの脳裏に、いくつもの想いが堰を切って溢れだした。

本当に指輪を取って来てくれたのだ。

自分のために。

小柄な少女が、崖から飛び降りて、濁流に身を投じて。

くじらに乗って帰ってきたことだとか、人鯨一体のじゃれ合いを見せつけられたことだとか、潮に乗って会心のフィニッシュを決められたことだとかは、これまでの人生で味わった総量をはるかに凌駕する衝撃をケヴィンにもたらしたが、むしろ一周回って精神的な麻痺をも与え、彼の中では「なんかよくわからないけどとにかくすごい方法で帰ってきた」という、ふわっとした認識で処理されていた。

それどころか、彼はエルマの中に人を超越したなにか――ありていにいえば神の存在を感じた。

崖から飛び込んでも無事?

平気平気、だって神だから。

大海原から小さな指輪を見つけ出す?

そうそう、だって神だから。

ひねくれた言動の根っこに隠し持っていた、幼い少年ならではの純粋さと単純さ、そして飛躍した思考ぶりを発揮し、ケヴィンはエルマの異常ぶりをすんなりと受け入れてしまった。

「姉君を守るため、ご身分を保証する指輪すら武器へと転ずる。ケヴィン様は、御年十歳であられながら、勇気と騎士道精神を持たれた、まさに次期領主に相応しい殿方でいらっしゃいますね。さすがは、『大陸一の息子』様でございます」

「は……――?」

唐突な褒め言葉に、ケヴィンはきょとんと目を瞬かせる。

要領を得ないでいる彼に向かって、エルマは、ほら、と言わんばかりに、首にかけたばかりの指輪を指さしてみせた。

「僭越ながら、指輪がだいぶ錆びていたようなので、ナノイオンクリーニングを施させていただきました」

「ナ、ナノ……?」

「はい。指輪の内寸を一切変えることなく、失われた輝きと刻印だけを取り戻す、お勧めの技法でございます。そういたしましたらば――ここに」

彼女が細い指先で摘まみ上げた指輪、その内側に刻まれた文字がすっかり読めるようになっているのに気づき、ケヴィンは「あっ」と声を上げた。

一瞬遅れて文字の意味を理解すると、彼は無言で目を潤ませた。

――夫より、最愛なる妻へ。

――母より、最愛にして大陸一の息子へ。

「一文目は、おそらくお母上のご結婚時に、ヨーナス様が彫らせたものでしょうね。そして二文目は、お腹の子の性別がわかった時点で、お母上が彫らせたものかと」

「…………っ」

ケヴィンが声を詰まらせる。

彼は無意識に、何度も何度も指輪を擦り、それからぎゅっと握りしめた。

「フレンツェルでは、母から贈られた指輪は、次期領主の証となるとお聞きしたことがございます。この指輪をはめて、ケヴィン様がこの地を統べられる日が、今から楽しみですね」

そんな温かな言葉も、今の彼なら斜に構えず受け止められる。

むしろ、偉大なる存在から過分な褒め言葉をもらったことに、彼は陶然とした心地すら覚えた。

「いや……いいえ、そんな、僕……いえ、私など、まだまだで……」

生まれて初めての謙遜の言葉は、するりと自然に口をついて出た。

身を挺して守ってもらった。

領主の証を取り戻してもらった。

少なくとも一人からは、自分も愛されていたのだということを、こんなにもはっきりと教えてもらった。いや、もしかしたら姉からも。

ふつふつと、身の内で小さな泡が湧き上がる感覚に、ケヴィンは酔いそうになった。

それから――初めて、期待してもらった。

「そ……それより、その、す……すまな……すみません、でした。あなたに、とんだ非礼を働いて」

「なにを仰いますやら。勉強不足により接し方を違え、あなた様を不用意に怖がらせてしまったこと、ならびに魔蛾の捕獲に時間が掛かったこと、どれも私の手落ちでございます」

「とんでもない! とんでもない……その、魔蛾を捕獲してくれて、それから、指輪もきれいにしてもらって……」

ありがとう、の言葉は、自分でも聞き取りづらいほどの小声になってしまった。

だって、先ほどから心臓がうるさいのだ。

真綿に包むように慎重にではない、悪意を剥き出しにするのでもない。

そうではなく、小気味いいほど遠慮なく、本心から、自分のことを一人前の男として認め、期待してくれる人物に、ケヴィンは初めて出会った。

出会って初めて、自分が、それを切望していたことに彼は気付いた。

「そ……その、なんだ」

侍女、それも平民相手に、馬鹿らしい。

以前の彼ならそう思っていたことだろう。

しかし今、ケヴィンは、彼女が自分の発育不良の外見にもかかわらず一人前と認めてくれたように、身分という枠にとらわれず、人と接してみたいと思った。

そうしてみると、未だ全身をずぶ濡れにして、ぽたぽたと滴を垂らしている相手のことが心配でならなくなった。

「いつまでもそんな恰好でいては風邪を引いてしまうだろう――いえ、引いてしまうでしょう。特に、ここの海は魔物が棲み、波は時に瘴気すら帯びる。屋敷に用意をさせるので、早急に着替えては?」

自分が侍女の体調を心配することなど、未だかつてあったろうか。

いや、ない。

視界の隅では、デボラが同志を見守るような、温かな笑みを浮かべていた。

「――ああ、これはとんだご無礼を」

ところがエルマは、自らの姿の見苦しさを指摘されたものと思ったらしい。

失礼、と小さく断りを入れて立ち上がると、彼女は団子に結んでいた髪を解いて両手にまとめ、水気を絞った。

そのとき現れたほっそりとした白いうなじや、首に張り付いた濡れ髪の艶やかさに、ケヴィンは一瞬どぎまぎしてしまう。

相手は神とはいえ、外見は冴えない眼鏡少女。

いったい自分はなにを動揺して、と彼が自分に問うていたとき、今度は彼女は、その分厚い眼鏡をすっと取り外した。

「――――!」

現れた、素顔。

ケヴィンは雷に打たれたような衝撃を覚え、呼吸を止めてしまった。