軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

2.「普通」の余暇の過ごし方(1)

厨房とは戦場だ。

それが、王宮付きの、数百人分の食事を一度に整えねばならぬ厨房であるなら、なおさらだ。

その朝も、ルーデン王城の広々とした調理場では、男たちが忙しく包丁を振るう音と、フライパンを揺する音、そしてそれをまとめる料理長の怒号が響き渡っていた。

「おい! サラダ班! トマトは、均等な、大きさに、切れ! シチュー班、胡椒、弱い! パン班! 厚み、変えるな! 野郎ども、本気出せ!」

「 はい(ヤー) !!」

モンテーニュ出身の料理長・ゲオルクが、片言のルーデン語で指令を飛ばせば、男たちは汗の粒を浮かべながら、全力でそれに答える。

その間にも、大窯では火が渦巻き、調理台ではざっと音を立てて野菜が洗われ、空中を滑るように皿が渡されと、厨房は完全なる修羅場の様相を呈していた。

「おい、時間が、ねえぞ! 七の鐘まで、あと、少しだ! おい、そこ! ちんたら、バター、量るな! そこ! 火が弱い!」

「ヤー!」

『ちっ……! だから、卵をいちいち両手で割ってんじゃねえよ! てめえ、ままごとを始めたばっかの二歳児か!? ああ!? おい、ソーセージもちんたら切ってんじゃねえよ、んなもん手元を見ずに切れんだろうが!』

『ウィ!』

苛立ちのあまり、とうとう母語が出始めたゲオルクに、料理人たちも全力でミートしにいく。

朝食開始の七の鐘を待ちわびる、腹をすかせた使用人たちというのを、常に彼らは恐れている。

しかし、今この瞬間は、ゲオルク料理長の機嫌を損ねないのが先決だ。

この、己の職分にかけては妥協を許さぬ料理長は、まったく躊躇いなく人を怒鳴りつけ、ときに手だって出る御仁だから。

と、焦りが災いしてか、料理人の一人が、量っていたバターを秤から下ろしそこね、思い切り床にぶちまけてしまった。

『おい、なにやってる!』

「ひい!」

食材を粗末にすることを、この料理長はなにより嫌う。

しかも間の悪いことに、バターの大容器はすでに補充班が回収して、ここから離れた倉庫へと持ち去ってしまったために、「床に撒いてしまったから、はい、すぐに新しいもの」とはいかないのだった。

このままでは、本日の朝のメイン、ゲオルクの得意料理であるオムレツの味が、大幅に変わってしまう。

粗相をした料理人はざっと青褪めた。

「す、すみません……!」

もうだめだ。

故郷から出てきてはや三年。厳しい下積みを終え、ようやく王宮の厨房で食材を触れる身となったが、きっと今日を最後にその日も終わる。

いや、そんなことはどうでもいい。

彼はこの、厳しくも尊い職務を心から愛し、敬意を払っていた。

数百人の舌と胃を満たしきる仕事、そしてそれを導いてくれる料理長を尊敬していたのだ。

なのに、自分はそれを妨げてしまった――。

未熟ゆえに、どこまでも責任感の強い彼が、くしゃりと顔をゆがませる。

が、そのとき、

「――おはようございます」

ふいに厨房に凛とした声が響き渡り、彼はばっと背後を振り返った。

「侍女、エルマ。僭越ながら、厨房が混戦状態とお聞きし、助太刀に馳せ参じました」

侍女の制服である黒いドレスにエプロン姿、朝陽を弾く分厚い眼鏡。

長い黒髪をきっちりと団子に結わえ、感情を窺わせぬ表情で佇む――エルマである。

「エルマさん!!」

きらりと陽光を跳ね返した眼鏡侍女の登場に、誰もが戦女神の降臨を重ね見た。

「エルマさん……! エルマさん、エルマさん! エルマさんんんんん!」

「ありがとうございますううううう! 助けて……助けてくださいいいいい!」

既に何度もこの侍女に救済されている料理人たちは、恥も外聞もなく救いを求めて腕を伸ばす。

エルマはそれを滑らかな動きで躱しながら厨房に踏み入ると、まずはゲオルクに挨拶を寄越した。

「おはようございます、料理長。また、ここでお手伝いさせていただいても? 今日も朝から実に豪華な献立とお見受けしますが」

「おう、いつも、悪いな。今日は、前に評判だった、オムレツをと、思ってたんだが……、ちと、目玉焼きあたりに、品書きを、変えるかもしれん」

外部者の登場に少しだけ苛立ちを納めたゲオルクは、しかしちらりとバターが落ちた床を見て眉を寄せる。

エルマは「ふむ」とそれを目で追うと、ついでこくりとひとつ頷いた。

「ですが、すでに卵のいくつかは割られているではありませんか。ついでに言えば、私は目玉焼きよりもオムレツに熱き一票を投じたい所存です。ですので――」

少々、お手伝いさせていただきますね。

くい、と彼女が眼鏡のブリッジを持ち上げた次の瞬間、それは起こった。

――ぶわっ!

厨房に一陣の風が走り抜け、調理台で山をなしていた卵が、一斉に宙に浮かび上がったのである。

「な……っ!?」

実際にはエルマが卵を一斉に投げ上げたのだが、あまりに素早い動きのため腕が視認できず、もはや超常現象のように見える。

ゲオルク以下、周囲の料理人がぎょっとしたが、エルマはそれに構わず「はっ!」と短く気合いを入れ、飛び上がった卵の間に差し入れた手をぱぱぱぱぱ! と左右に振ってみせた。

――カカカカカカカカッ!

エルマの手に当たった卵は、まるで宿命の伴侶を見つけたとでもいうように、勢いよく隣の卵とぶつかってゆく。

互いに熱き抱擁を交わした卵たちはその場でぱかりと割れ、次々とその中身を落下させていった。

それを、いつの間にか巨大なボウルを掲げたエルマが受け止める。

彼女はその、どれだけの重量があるのかもわからないほどのボウルに、なぜか巨大な棒を突き立てると、

――ぐんっ!

まるでボウルを傘にするように持ち上げ、回転させはじめた!

「な……っ、泡だて器でかき混ぜるんじゃなく、ボウルのほうを回転させるだと!?」

「っていうかあの棒、今どこから出てきた!?」

観衆と化した料理人たちがどよめく。

が、エルマは際立った集中力のもとそれを黙殺すると、わずか数秒で卵の攪拌を終えた。

ちらりと見えたボウルの中では、すでに黄身と白身がまんべんなく混ざり合い、とろりと黄金の輝きを呈している。

彼女はそれを丁寧な手つきで調理台に置くと、ついでソーセージとトマトを隣の台から確保した。

そして、

「――はっ!」

気合い一閃。

卵同様、食材を宙に投げ上げると、いつの間にか両手にサーベルのように握りしめた包丁を繰り出し、それらを切り刻んでいった。

――とぱぱぱぱぱぱ!

髪一筋ほどの狂いもなく、均一に切られたソーセージが、トマトが、母なる海に回帰するがごとく、卵液の中へと飛び込んでゆく。

生命を秘めた黄色い海は、食材たちの帰還を、飛沫ひとつ立てることなく、軽やかに受け入れた。

「ソーセージと、トマト入りのオムレツ……!」

やがて卵液を巨大なフライパンに注ぎ入れはじめたエルマに、真意を悟った周囲が息を呑む。

ふんわりと焼き上げた卵、というだけでも贅沢なのに、さらにそこに、ルーデン人の大好物のソーセージが加わるとは。

肉の旨みと、じゅわりと焼き溶けたトマトの甘みが織りなす豪華なハーモニーを想像するだけで、すでに涎が出そうである。

しかし、エルマの行動は、その想像のもう少し先を行っていた。

彼女は、すっと、神妙な表情で布に包まれた半月状の物体を取り出したと思うと、

――しゃしゃしゃしゃしゃしゃ……!!

それを、くつくつと火を通されてゆくオムレツの中に、擦り入れていったのである。

卵液の上に、雪が降る。

肉と野菜の旨みを閉じ込めた黄金色の海に降り注ぎ、液に触れるやとろりと輪郭を溶かしていく、その雪の正体は――

「チーズ……!」

「アーベライン牛・モーリッツの、渾身のチーズでございます」

誰かの上げた叫び声に、エルマは淡々と答えた。

やがて、具材や卵に火が通ったのを確認すると、彼女は躊躇いのないダイナミックな手つきでそれを巻き上げてゆく。

見る間に、巨大な具だくさんオムレツが出来上がった。

「料理長。どうぞご確認を」

序列をちゃんと弁えているエルマは――彼女もだいぶその手のことを学習してきたのである――、出来上がったオムレツにナイフを入れ、ひと切れゲオルクに差し出してみせる。

すぅっと切り取られたとたん、チーズと溶け合った黄金色の断面がとろりと揺れるのを見て、無意識にゲオルクは喉を鳴らした。

固すぎず、かといって緩すぎない、完璧な火の通り方だ。

熱されて色を増したトマトと、光沢のある卵の黄色、そしてところどころ混じるチーズの白やソーセージの茶色といった、色とりどりの見た目も食欲をそそる。

じっくりと検分し、口に含んでみて、ゲオルクは一瞬目を見開いた。

肉から滲み出た塩気とうまみ、トマトから広がる酸味と甘み、そしてチーズのコク。

それら全てが渾然一体となり――失われたバターと同等、いや、それ以上の味わい深さがもたらされていた。

(なるほど……具を加えることで、バター分の風味をカバーしたか)

ついでに、下っ端料理人のカバーも。

「相変わらず……見事だ。悪いな、毎回のように」

その圧倒的技量もさることながら、頻繁に助太刀してもらっていることに引け目を感じて、ゲオルクがつぶやくと、エルマは淡々と「いえ」と答えた。

「困っている方、それも日頃お世話になっている方を手伝うのは、至極『普通』のことですから」

「…………」

真剣な声で言い切られて、ゲオルクはちょっと唇の端をひきつらせた。

べつに、彼女の発言に嫌味を感じ取ったからではない。

そうではなくて、

「ところでどうでしょう、料理長。今回は、前回『気圧で卵を割るな!』と叱られた学びを活かし、きちんと手や調理器具を使って料理をしたのですが」

「…………」

ひたむきな視線――いや、眼鏡であまり見えないのだが――とともに、エルマがそんなふうに水を向けてくるのが、わかっていたからである。

「あーっと、なあ……」

ゲオルクは無意識に、コック帽の位置を直した。

この局面を滑らかに切り抜けるのは、祖国ではそれなりに女慣れしていた彼をしても、かなりの難易度だったのだ。

そう。

エルマは先日ルーカス王子以下、ゲオルクたちに引き留められてからというもの、やたら自分は「普通」であるとの言質を取りにかかってくるのである。

理由は簡単。

せっかくダイナミック里帰りを決めようとしていたところを妨げられ、不機嫌になっていたエルマを、フェリクスが

「君、まさか自分が母君からの課題を無事こなせたとでも思っているの? 自分が『普通』だとでも?」

と挑発することで、彼女に残留を決意させたからだ。

相変わらず、「普通」のなんたるかをよく理解していない彼女は、ひとまず一定数の人数から「普通」だと評価されればよいだろうと考えたらしく、以降なにかと周囲に絡んでは、こうやって迫ってくるのである。

「これくらいなら、さすがに『普通』ですよね?」

と。

「あー……」

ゲオルクは視線を逸らした。

彼は成り行き上、エルマが監獄出身であることや、どうやら「普通の女の子というものを知りなさい」と母親に言い渡されたらしいことも知っている。

ただ、まさかそれが、「魔族であっても『普通の』人間としてやっていきなさい」という意味などとは思わぬ彼は、額面通り、「監獄出身であっても、『普通の』女の子としてやっていきなさい」という、一般的な親心あふれる言いつけだと思い込んでいたのである。

不遇の出自であっても、親の言いつけを守り普通たろうとする姿は、いじらしい。

それに、モンテーニュ人は美人の味方だ。できるなら、彼女の望む通り、「おう、普通だな!」と言ってやりたいゲオルクではあるのだが――

(……いや、そこまで人間捨てることはできねえ……!)

指先ひとつで数百の卵を割り、演武のように包丁をふるう彼女のことを、部下の前でそんなふうに評することは、到底できないのであった。

「あー……、いやあ、なんというか……普通というよりは、少し……わりと……かなり、異常、かね……?」

「え……?」

「いや……ほら、その……なんだ、卵を割る、方法はだいぶ『普通』に近づいた、気もするが、その、……速度とか、だな」

もとより片言のうえ、さらに慎重に言葉を選んでいるものだから、かなりのぶつ切りになる。

「…………」

物言わぬ眼鏡ごと顔を俯かせてしまったエルマに、ゲオルクは慌てた。

付き合いの深まってきた今ならわかる。

これは不機嫌のサインではない。彼女はショックを受けているのだ。

「あー、いや。その……」

なぜだ。

なぜ人を称賛するのに、こんなにも冷や汗をかかねばならない。

王侯貴族の前で皿を割った時でも堂々としていたゲオルクが、すっかり固まってしまったそのとき――

「あ、いたわ! エルマ!」

再び厨房の扉が開いて、軽やかな声が飛び込んできた。

少し癖のある金髪に、猫のような翠の瞳。

エルマの先輩格の侍女仲間、イレーネである。

彼女は硬直した周囲の雰囲気をものともせず、つかつかと厨房に踏み入ると、まな板に移された巨大なオムレツを見て、ぱっと目を輝かせた。

「まあ、なあにこれ? オムレツ? あなたが作ったの、エルマ?」

「……はい。本日の朝食づくりが難航していると聞いたので、微力ながら手伝いをと思いまして」

エルマは傷心のままぼそぼそと答えていたが、イレーネは「まあ!」と顔をほころばせ、試食用のナイフを手に取った。

「料理長、私が毒見役を仰せつかってもよろしくて? いいですわよね! いただきます!」

言うが早いか、ぱくりとひとくちを放り込む。そして即座に、「んうううう!」と悶えた。

「おいしい! おいしいわ! エルマ! ちょっともうこれ、尋常ならざる美味だわよ!」

「……普通でなくてすみません……」

「なぜ謝るのよ、普通じゃないって、つまり特別ってことじゃない!」

異常、ではなく特別、という言葉に、一瞬エルマは瞳を見開く。

しかし、眼鏡に隠されたそれにイレーネは気づくこともなく、なので彼女は、いたって何気なく話を続けた。

「で、エフマ。あなたに伝言ほ託っていふのだけど」

「……イレーネ、食べるか話すかどちらかにしてはどうでしょうか」

『っていうかモリモリ試食してんじゃねえよ』

もしゃもしゃオムレツを頬張るイレーネに、双方から突っ込みが入る。

腹ぺこな小悪魔は慌ててオムレツを飲み下し、ついでぺろりと舌を覗かせると、そこから無邪気に爆弾を投下した。

「至急、王の間に来るように。フェリクス殿下――ではなかった、陛下と、ルーカス王弟殿下が、あなたをお待ちよ」

「――……またですか」

大国ルーデンの、その頂点に立つ王と、その弟からの呼び出し。

それに対して、ついげんなりとした相槌が漏れてしまうほどには―― 招集(それ) もまた、彼女の日常の光景であったのだ。