軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

30.エピローグ

「クレメンス・フォン・ロットナー?」

新たに監獄送りにされることとなった人物の名を聞いて、リーゼルは化粧を施した目を見開いた。

「え、それって、豚看守に偽の報告書を送らせてる相手でしょ? この監獄の統括者よね。なんでまた」

「王族の殺害未遂、そして、権力と引き換えに諸国の 無辜(むこ) の民を監獄送りにしてきた罪だそうだ。たとえば――一国の王からの召し上げを拒んだだけで、魔族と通じた姦婦として投獄された娼婦、とかな」

ギルベルトが分厚い手紙に視線を落としながら告げると、リーゼルは長い睫毛を瞬かせる。

「無実の人間を監獄送りにしてきたのは、ルーデンの王ではなく、宰相の仕業だったの……?」

しかし、当事者であるはずのハイデマリーは、それらの情報をまったく気にする様子はない。

ただテーブル上のチェス盤を見つめたまま、ギルベルトに問うた。

「エルマは?」

慎重さの滲む声だった。

「あの子は、ここには帰ってこない? ……うまく、やっているのかしら」

「ああ」

応じるギルベルトの声には笑いが含まれていた。

苦笑、といってもよいかもしれない。

「なんでも、このロットナー侯を告発したのはエルマだそうだ。侯爵の余罪を洗っているうちに、彼が仕掛けようとした罠を彼女が先回りして防いでいたことがわかって、城では今、エルマがちょっとしたヒーローになっているらしい」

看守に手紙を寄越したのは、捕縛されたクレメンスに代わって、一時的に監獄関連の業務を補助することになったデニスという若い聖医導師だが、彼はよほど「ヒーロー」に傾倒しているのか、クレメンスについての情報よりもよほど紙幅を割いて、エルマについて描写していた。

「エルマはすっかり、シャバで人気者ということだ。……おめでとう、マリー。今回の賭けも君の勝ちだな」

「……よかったわ」

ギルベルトが祝うと、ハイデマリーはそっと笑って組んでいた両手をほどく。

それからソファに沈み込むようにして、しみじみと繰り返した。

「本当に、よかった」

あからさまに緊張を解き、幸せそうな表情を浮かべているハイデマリーとは裏腹に、リーゼルはすっかり会話に取り残されていた。

「どういうこと? 賭けに勝って……あの子が帰ってこないことの、なにがそんなに嬉しいのよ。っていうか、ロットナーこそがあんたの仇のわけでしょ? そこをあっさりスルーしていいわけ?」

彼は混乱していた。

ハイデマリーの投獄は冤罪だろうとは思っていたが、その主犯が王ではなく宰相だったというのは少々驚いたし、それ以上に、その相手が捕まったというのに、なんの反応も示さないことが不思議だった。

いや、しかし考えてみれば、ハイデマリーは以前から、自分の冤罪を晴らそうなどとはしなかった。

彼女が執着したのは、ただ快適な住空間を整えることだけ。

そう、だとすれば、今更エルマを使って復讐を企むというのも、少々違和感のある仮説だ。

すっかり自説に自信をなくして、途方に暮れたような表情をしたリーゼルに、ハイデマリーはふふっと笑いかけた。

「ねえ、リーゼル。特別に答え合わせをしてあげるわ。あのね。わたくし、ロットナー侯爵には、どちらかといえば感謝しているのよ」

「……なんですって?」

ますます話が見えない。

リーゼルが整った眉を寄せると、ハイデマリーは対照的に穏やかな笑みを浮かべて、すっとソファから身を起こした。

「わたくしに掛けられた嫌疑。魔族の生き残りと通じ、その子を宿した。それはね――真実なの」

「…………は?」

つい素の声で答えてしまったリーゼルに「やだわ、低い声」と朗らかに指摘しながら、ハイデマリーは優雅に身をかがめる。

そうしてチェス盤に手を伸ばし、艶やかな黒の駒を拾い上げると、完璧な形の唇でキスを落とした。

「驚くことではないでしょう? だって、もともと私はそういう触れ込みでこの監獄に来たわけじゃない。あなただって、ほかの皆だって、エルマを魔族の子と半ば信じて接していたはずよね」

「いえ、それは……まさに『半ば』というか、半信半疑というか……」

エルマの図抜けた才能に、人ならざる要素を感じることはしばしばあった。が、それ以上に突き抜けてしまった師匠たち、もとい「家族」がいたため、「人間の身でもこれくらいのことはできるのだな」とも思っていた。

どのみち、人の道から外れた者たちが集う監獄において、エルマが魔族の血を引いていようがいまいが、そんなことは些事でしかなかった。

だからリーゼルたちは、エルマの本性を追及しようなどとは思いもしなかったのだ。

それをもごもごと指摘すると、ハイデマリーは「まさに」と頷いた。

「まさにそれこそが、わたくしの望んだことだったの」

「なんですって……?」

「木を隠すなら森の中。人外を隠すなら――人の道を外れた者たちの中に、ってね」

彼女は、愛おしさを感じさせる手つきで、黒の駒を撫でた。

「エルマの父親はね、魔族の最後の生き残りだった。魔族なんていう恐ろしい名前がいけないのね。彼自身は、そこらの人間の男よりずっと優しくて、穏やかな男性だったわ。魔族というだけで幼いころから蹂躙され、息を潜めて生きてきた……少々器用で、力持ちなだけの、ただの男性だったわ」

人ならざる者。

脅威たる存在。

その本性にかかわらず、魔族であると判明すれば、異端だと退けられ石を投げられる。

愛した魔族の子を宿したとき、ハイデマリーは喜びとともに、我が子に降りかかるだろうその悪意を恐れた。

そして思いついたのだ。

頑強な揺りかごを確保することを。

異質な者たちの中に異質な我が子を隠し、「普通」の愛情を注いで育て上げることを。

ハイデマリーは、ギルベルトにちらりと一瞥をくれると、遠い昔のことを思い出したように微笑んだ。

「女ひとりが監獄を掌握しようだなんて、無謀だと思うでしょう? けれどわたくしにはギルがいた。心優しき英雄がね。ギルは、エルマの父親――魔族というのが単に人間に虐げられた存在だと気付くと、剣を下ろして友誼を結び、彼が死を迎えたときには、代わりに妻の面倒を見るとまで宣言してくれたわ。……もっとも、そのせいでギルは英雄の名を奪われたわけだけれど」

「……は。そういう、ことだったの」

脛に傷持つ者同士、あえて深くは踏み込もうとはしなかった過去。

はじめてその詳細を語られて、リーゼルは曖昧に頷いた。

ハイデマリーは「ええ」とだけ答えると、再びチェス盤に視線を落とした。

「愛情深い、そして独特な『家族』に囲まれて、おかげでエルマは自分を異質だと思うことも、迫害されることもなく過ごしてこられた。完璧な揺りかご。満足だったわ。わたくしを監獄送りにした王だか宰相だかには、感謝したくらいだった。けれど、ルーデン王が崩御したと聞いたとき、気付いてしまったの」

美しく紅を引いた唇から、悲しそうな吐息が漏れた。

「富と権力に身を固めた王でさえ、寿命には勝てない。親は、子どもよりも長くは生きていられないのだと」

あまりに当たり前の事実。

けれど、常識からかけ離れた場所で暮らしを積み重ねているうちに、すっかりそのことを忘れてしまっていた。

もし自分が死んでしまったら、きっとこの揺りかごは、「家族」の誰かが引継ぎ束ねる。

けれどその人物も死んでしまったら、エルマはどうなる?

人生の大半を過ごした後にいきなり俗世に放り出されて、そこに混じってゆこうと足掻くのか。

それとも、家族の誰もいない揺りかごで、ひっそりと息絶えてゆくのか。

そのどちらの未来も、ハイデマリーは娘に許したくはなかった。

「それにあの子、なにしろ【傲慢】でしょう? 他人を深く理解しようとはしないし、自分の持つ物差しが絶対のものだと思い込んでいる。わたくしたちがいびつな愛と、価値観を注ぎ込みつづけたからだわ」

家族の情は注いだ。過剰なほどに。

けれど、一方的に愛されすぎる環境は、彼女から他人への興味を奪った。

そしてまた、家族の愛は捧げられても、男女の情や、友情を注げる人物は、この監獄内にはいなかった。

手探りしながら関係を築くこと。

愛の優しさだけでなく、恐ろしさや煩わしさを知ること。

自分の「普通」が他者の「普通」とは異なるのだと理解すること。

それらはやはり、どうしても、揺りかごの外でしか学べないことだ。

エルマという人間が完成してしまってからでは遅い。

今のうちに彼女を親元から放し、この監獄とは異なる「愛」や「普通」を学ばせて、人の輪に溶け込ませる。

そう決めたのだ。

「身勝手とも、浅はかとも、どう罵ってくれても構わないわ。けれど、それがわたくしの考えつく最善だった。あの子をこの監獄から放ち、彼女が無事、人々から受け入れられることをただ祈り――」

ハイデマリーは、黒の女王の駒を、チェス盤の真ん中にとん、と置く。

「そうしてわたくしは、賭けに勝ったわ」

それから、ずっと沈黙を守っていたギルベルトに向かって、優雅に腕を差し出した。

「――待たせたわね、ギルベルト。わたくしの賭けはこれでおしまい。エルマの巣立ちを無事見届けられたから、もう、思い残すことはなにもないわ」

告げた瞬間、ギルベルトがはっと息を呑む。

彼はまじまじとハイデマリーを見つめた後、囁くように問うた。

「……ハイデマリー。では……」

「ええ。あなたの求婚を受け入れる」

立ち尽くしたまま、相手の腕も取れずにいるギルベルトのために、ハイデマリーは自ら一歩近づき、骨ばった彼の手にそっときゃしゃな手のひらを重ねた。

「十五年よ。……きっと彼も、許してくれるわ」

触れ合った肌の温度を確かめるように、そっと手を持ち上げて、甲にキスを落とす。

まるで長年連れ添った夫婦のような、自然な愛情の滲む仕草だった。

会話に置いてきぼりを食らったのは、リーゼルである。

彼は、穏やかに微笑むハイデマリーと、感極まって言葉を失っているギルベルトを交互に見つめながら、「え? え……?」と手を髪に差し込んだ。

「なにそれ……あんたたち、とっくの昔にデキてたんじゃないの? え? なに? っていうことは、ギル、あんた、自分の女でもなかったマリーのために、この監獄の掌握に協力してたってこと?」

「ああ」

生真面目なギルベルトは、おそるおそるハイデマリーを抱きしめながらも、神妙な顔でリーゼルに解説してくれた。

「俺はマリーに一目ぼれだったが、そのときすでに、彼女は友の妻だったからな。友の死後も、やはり友への義理があったし、彼女もまた母親であることを優先したいと言っていたから、エルマが一人前になるまでは、と話し合っていたんだ」

「引き延ばして逃げ切るつもりだったんだけれどね。十五年ずっとこの調子なんだもの。いい加減、絆されるわ」

抱擁を受け止めながら、美貌の娼婦が苦笑を刻む。

強く腕に力を籠めてくるギルベルトをそっと宥めながら、彼女はいたずらっぽくリーゼルに目配せをした。

「ねえ、リーゼル。あなたはわたくしのことを『執念深くて救いようがない』なんて言ったけれど、 彼(ギルベルト) のこの色欲というか、愛情のほうが、よほど救いようがないと思わない?」

「……そうね。ギルはあたしたちの中で一番地味というか、真っ当だと思っていたけど、今この瞬間から認識を改めるわ」

常識と道徳心の塊みたいな顔をしておきながら、妻でもない女のために平気で英雄の肩書を捨て、十五年もの間、監獄の王の地位に君臨してみせるとは。

リーゼルが呆れて肩をすくめる。

すると、ふたりから処置なしとの烙印を押されたギルベルトが、複雑な顔で反論を寄越した。

「……好ましい女性を、粘り強く手に入れようとすることの、どこがおかしい。愛は監獄の外では称えられるべき美徳だし、好きなものを好きでいつづけるというのは、――いたって普通のことだ」

むっとしたような、困惑したような声に、ハイデマリーはくすくすと笑う。

そして、彼の胸に顔をうずめながら、歌うように呟いた。

「だとしたら、シャバの『普通』というのは、なんて難しいのかしら」