軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

6.「普通」の余興(1)

今でこそ「アナスタシア・ドン・ロドリゴ」などとご大層な名前で呼ばれているが、六年前まで、彼女はただの「アナ」だった。

ルーデンの属国に落とされた辺境国の、その更に辺境の村で育った農民の娘。

いや、「辺境の村」というのはまだ着飾った呼び方で、アナの故郷は、正確には流刑地だった。

死刑や収監に処されるには身分の足りない者たちが、贖罪の名目で土地の開拓を命じられ、荒れた寒村に追いやられた。それを起源とする村だ。

人々は貧しいくせに、いや、貧しさゆえに労働力を求めて子どもを産むものだから、村は常に、飢えた子どもたちで溢れていた。

卑しき流刑地ゆえに、村の外に出ることは許されない。

ただ朝から晩まで働いて、泥にまみれたまま弟妹と身を寄せ合って眠る子ども――アナも、そんなありふれた少女の一人だった。

風向きが変わったのは、六年前。

高貴なるロドリゴ聖侯爵が、アナの住む村に祝福を授けに来たときだ。

村では大雪がたたって作物が育たず、しかも伝染病が流行って半壊状態となっていたが、彼はそんな場所にやって来て、惜しみなくパンを分け与えた。

ただし、大家族の長女として、十歳ながら必死に弟妹たちの面倒を見ていたアナからしてみれば、その登場は少しばかり遅すぎた。

そこで、手討ち覚悟で「今さら来てなんの用だ、偽善者め」と吐き捨ててやったのだが、なんとロドリゴは、穏やかに頷いてみせたのである。

「君が毒づくのは、飢えているからだね。苛立つのは、心が乾いているからだ。君にこそ、パンときれいな水が必要だったんだね」

と。

睨み付けても、殴りすらしてこない男に、アナはそのとき驚いた。

そして彼は、そんなアナに、荒れた大地に咲いていた一輪の白い花を差し出した。

「君は、必死に家族を守ってきた。私はそれを、称えよう」

鈴蘭(すずらん) によく似た釣鐘型の花は、愛らしいけれども単なる雑草の一種だ。

痩せきった土にでも根を張り、最後まで栄養を吸いつくしてしまうことから、村ではむしろ厄介者としてみなされるような花だった。

けれど、初めて鼻先に近付けてみたその花からは、心がすっと穏やかになるような、優しい香りがした。

花の香りを味わうなんて、生まれて初めてのことだった。

穏やかで、高貴な男。

そのとき既に初老に差し掛かっていた侯爵だったが、幼いアナの目には、これまで目にしてきた村の大人とは比べ物にならぬほど、揺るぎない存在に映った。

ロドリゴのほうも、利発で物怖じしないアナを気に入ったという。

なんとアナを養女に迎え、エスピアナの王都へと連れ出してくれた。

蓋を開けてみれば、同様にしてロドリゴの庇護を受けた子どもたちはほかに何人もいて、アナも数いる養子の一人でしかなかったが、あの村から脱出できたのも、ひとえにロドリゴのおかげ。

アナは、貧困から自分を救い出してくれた聖侯爵に、深く感謝していた。

欲を言えば、弟妹たち全員を連れて来てほしかったし、侯爵家の「義兄姉」にはさんざんいびられたが、それでも、満腹で寝られるのは彼のおかげだ。

養女として受ける教育の中には、一般教養の外に、貴族令嬢としての嗜み、果ては本格的な武術まで含まれる。

あまりに厳しい指導に、養子となった「同期」の中には音を上げる者もあったが、アナはひたすらそれに打ち込んだ。

純粋に学ぶのが面白いと思えたのと――やはり、父とも慕うロドリゴの、役に立ちたかったからだ。

元は王族でさえあったという聖侯爵は、しかしそれゆえに政敵も多く、そんな彼を支えることができるという自負は、アナを奮い立たせた。

結果、アナは見る間に、あらゆる方面で才能を伸ばし、「辺境の出でよくぞここまで」とロドリゴを含む周囲を大いに驚かせたものだ。

だからこそアナは、ルーデン王暗殺などという任務を前にしても、自分ならできると信じて疑わなかったのである。

出自の誉こそないけれど、鍛え上げたスキルと根性は折り紙付きだ。

自分に、できないことなど何もない、と――。

(実際、あたしみたいに適応力のある人間がこの役回りで、大正解だったんだろうね)

今、アナは目の前の光景を見つめながら、そんなことを思う。

奇妙な侍女が、子連れで部屋に押しかけてきてから数刻。

エルマと名乗るその人物は、一度退室したと思ったら、次にはアナの部屋に荷物とベビーベッドを運び込み、すっかり同居の準備を整えてしまった。

なんでも、自身も候補者として選考会に参加しつつも、それ以外の時間はアナの専属侍女として、王妃教育に没頭することにしたというのだ。

『……アリなのかい、そんなの』

『規則では特に禁止されておりませんので。侍女長様からも許可をもぎ取……取得しております。ご安心くださいませ、アナ様』

半眼で突っ込んでみると、しれっとそんな回答が返る。

それは単に、そんな事態が想定されていなかったからだろうとは思ったが、アナは反論を喉下で飲み下した。

ちなみに、呼称は「アナ様」で落ち着いたようである。

(ふん、いいさ。真意は知れないものの、向こうからあたしをお膳立てしてくれるってんだ。ばかな振りして乗ってみようじゃないの)

元より、エルマに力で敵わない以上、自分には誘いに応じる選択肢しかない。

だとしたら、せいぜい尻尾を振ってみせて、本懐を遂げるまで。

(こちとら、元貧民。逞しさにかけては、定評があるんでね)

目の前の美少女――今は再び眼鏡を装着してしまって見えないが――は、戦闘術こそ異様に図抜けているが、その洗練された物腰を見るに、高貴な生まれなのだろう。

もしかしたら、隠密用にと育てられた隠し種なのかもしれない。

いずれにせよ、貴族。

属国から思う様血税を貪って、贅沢の限りを尽くしてきた、憎き連中だ。

(草の根を噛んで空腹をしのぐ生活や、血反吐を吐きながら修行する日々を、あたしは送ってきたんだ。それに比べりゃ、ルーデン人のお嬢様による王妃教育なんざ、わけないさ)

実際のところ、一通り教養や芸は身に付けてきたつもりだが、自分はルーデン王について詳しくない。

彼の好みなどを聞き出すのは、有益であろう。

『さて、バルたんのミルクも完了し、ご機嫌もよく世界が平和ですので、早速、選考会対策を始めたいと思います。過去情報によりますと、毎回選考会の最初の課題は、候補者による芸事の披露となっているようですが――』

と、エルマが、すいと立ち上がり、アナに向き直る。

上から下まで見下ろすと、軽く頷いた。

『アナ様は、舞踊の類がとても得意のようですね。しなやかな筋肉をお持ちです。リズム感もおありのようで』

『……見ただけでわかるってのかい』

『はい』

どうしてそんなことがわかるのか、とは思いつつも、褒められて悪い気はしない。

下賤の民よと笑われた悔しさを原動力に身に付けたステップは、エスピアナ随一と自負している。

が、

『ただし、芸の神は細部に宿ると言います。完璧な表現を実現するため、体のバランスを少し矯正しましょう。まずは、心臓の位置を少し右にずらしていただけますか?』

『――……はっ?』

後に続いたエルマの言葉に、思わずアナは硬直した。

心臓の、位置を、ずらす?

素の表情でぽかんとしていると、エルマはフォローするように言葉を足した。

『あっ、もし難しいようなら、大腸のねじれを十三度ほど、反時計回りに解消していただくだけでも……』

『いやもうナニ言ってんの!?』

思わず絶叫すると、エルマは眼鏡越しにもわかるほどきょとんとする。

『なにを、と言われましても……。普通の舞踊指導ですが……』

それから彼女は、「さては流派の違いがありましたか。誤算ですね……」と呟くと、腕をまくり、ぐるりと肩を回した。

窓から差し込む昼の陽光が、きらりと眼鏡を光らせる。

ついでにエルマは、そのほっそりとした掌を組み合わせ、軽く力を込めた。

――ごきゅ……っ、ごぎごぎごぎッ!

人体にあってはならないような音がした。

『な……っ』

『選考会まで、あと二日。あなた様には、絶対に卓越した芸を身に付け、私のそれを『普通』に貶めていただく必要がございます。……厳しく参りますよ、アナ様』

『ひっ……』

逞しさが売りのアナ。

どんなに厳しい修行でも、弱音一つ漏らさなかった彼女であったが、

――ごぎッ! ごぎゅごぎゅごぎ……ッ!

『た……っ、助けて、ロドリゴ様ぁああああ!』

この日、迎賓館の片隅で、そんな怪音と絶叫が響き渡った。