軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

30.エピローグ

「あらら」

窓から吹き込む爽やかな初夏の風で、指人形を落とされてしまったハイデマリーは、寝台から小さく声を上げた。

拾い上げるべく、床に手を伸ばしながら屈もうとすると、

「こら、マリー。大人しく寝ていてくれと何度言ったらわかる」

横からすいと、がっしりとした腕が伸びてきて、先に掬い取られてしまった。

赤子を片手で抱きかかえたままのギルベルトである。

彼は、すっかり慣れた手つきで子どもをあやしながら――なにせ日に十数時間は自主的に抱っこしているので、実に板に付いている――、もう片方の手で指人形を掲げた。

「こんな細かいものを見つめていたら、目が疲れる。これは仕舞っておくぞ」

「あら、バルドのおもちゃにしようと思ったのに」

「誤飲が心配だ。……それになんだか、呪術的な遊びになってしまいそうな気がする」

監獄一の危険予測機能を持つギルベルトは、ぼそりと不穏な呟きを漏らしながら、早々に指人形を棚の奥底に放り込んでしまう。

ハイデマリーは唇を尖らせたが、取り上げられたのは、王子の衣装をまとったその一体だけだったので、よしとすることにした。

その王子だけは、顔つきがやけに濃くて気に入らなかったのだ。

代わりに、彼女は手元に残った人形を、間取り図の上にきれいに並べてあげることにした。

冠をかぶった王の人形と、黒の女王の人形を、バルコニーでそっと近付けて。

それ以外の色とりどりの人形は、行儀よく家の内側へ。

騎士と侍女の人形は、楽しげな庭へと放してやる。

一際愛らしい姫君の人形だけ、家の内側に入れるか、庭に置くかで悩んだ彼女だったが――、

「……あなたが決めなさい」

ハイデマリーはそっと囁いて、結局その人形だけ、玄関口に立たせることにした。

「今、何か言ったか?」

「いえ、ただの独り言よ」

「本当に? 君は大切な言葉に限って、独り言に閉じ込めようとする。今うっかり聞き逃した言葉が、もしや世界滅亡の呪文だったりはしないか? あるいは最愛の夫への愛の囁きだったりすることは?」

一度妻を失いかけたギルベルトは、今かなり疑い深い。

立ったままくいと顎を掬ってくる夫を、ハイデマリーは微笑んで見上げた。

「ないわね。世界を滅ぼすのに呪文なんていらないし、あなたへの愛の言葉なら目を見て囁くもの」

「……では、独り言に紛れ込ませた遺言ということもない?」

探るような表情を見て取り、ハイデマリーは笑みを苦いものへと変えた。

愛情深い夫を、どうやら自分はかなり追い詰めてしまったらしい。

彼女は、顎を取ってくる手をそっと外すと、それを握り返した。

腕を引き、バルドと名付けた息子を抱えさせたまま、夫を寝台に腰かけさせる。

そうして、彼女はほっそりとした腕で、我が子ごと夫を抱きしめた。

「……ないわ。もう、わたくしに死ぬ理由などないもの」

ギルベルトはじっとこちらを見つめている。

ハイデマリーは肩口に顔を埋めて、目を閉じた。

頬のあたりに彼の首筋が当たり、力強い脈動を感じる。

優しく吹き込む初夏の風。

甘い匂いのする赤子。

寄り添う夫。

まるで絵に描いたような、ありきたりの、「普通」の光景。

「……わたくし、また死に損なったのね」

「生き延びたんだ」

「そうね。そうかも。そして、うっかり勝ち得たこの奇跡のような時間を、平然と、『普通』の日々として、これからも重ねていくのだわ」

いつだって泰然とし、どこか物憂げであった彼女の声。

しかし、生への諦念という、彼女の根幹に横たわっていた価値観が崩されてしまった今、初めて、そこに淡い怯えの色が滲んだ。

「……許されるのかしら」

小さな、声。

彼女が許してもらいたいのは、きっとアウル教が説く神などではない。

その相手を知っているギルベルトは、瞼の裏に、 彼(・) の端正だった微笑みを思い浮かべながら「ああ」と頷いた。

「もちろん。彼は、そういう性格だった」

「……そうね」

くぐもった声が、応える。

ややあって、ハイデマリーは顔を起こし、両親に挟まれてすやすやと眠る我が子を見つめた。

知らず、笑みがこぼれる。

バルド。

神の加護という意味を持つ名前。

その神の正体と名は、自分と夫、そしてエルマだけが知っている。

柔らかな赤子の頬を撫でながら、ハイデマリーはもう一度、「そうね」と呟いた。

繋がるはずのなかった命。

続くはずのなかった時間。

途切れるはずだった日常は、時に信じられない幸運を孕んで反転し、時に嘘や偽りの絵の具で繋ぎ目を隠しながら、傍目には平然と続いてゆく。

ただ粛々と紡がれているかに見える日々が、その実、なんという奇跡の上に成り立っているものか。

「ああ。本当に、『普通』というのは、なんて――」

赤子の頬を撫でながらの、小さな囁きは、初夏の風にそっと溶けていった。

***

同じ頃。

フェリクスの勝利に沸くバルコニー広場のちょうど真逆、使用人用の小さな裏門をひっそりと潜る者があった。

エルマである。

彼女は、今日この日のために三週間ぶりに王城に足を踏み入れ、しかし作戦の成功を見届けると、小さな布鞄だけを持って、さっさと城を去ろうとしていた。

そんな彼女を、二人の人物が背後から呼び止めた。

「待て、エルマ」

「ちょっと……! これ、どういうことよ!」

剣呑な表情を浮かべた、ルーカスとイレーネである。

息を切らしたイレーネは、その手に、銅板で出来た王城通行証を握り締めていた。

エルマが寮の部屋に残してきたものだ。

「どうして……これを置いていくの!?」

「ここに戻って来ることは、きっともう二度とありませんから」

対するエルマの答えは淡々としている。

「なぜ――!」

と咄嗟に声を荒げたイレーネを遮り、久々にお団子髪のメイド姿を取り戻した彼女は、眼鏡で表情を隠したまま、困ったように小首を傾げた。

「なぜ、と言われましても……。この度のことで、私が魔族であるということ、というか一時的とはいえ魔王にすらなりえたということは、多くの方々の知るところとなりました。魔族とは、シャバでは石を投げられる存在。この上この場に留まるのは『普通』ではないと、愚考した次第です」

「そんなの今更じゃない! だいたい、あなたが魔族だと知っても、それでもあなたのことが好きだから、多くの人間が力を貸したわけでしょう!? 現に、あなたが魔族だと言って敵意を向けて来る人間なんて、誰もいないじゃない!」

即座に言い返したイレーネに、エルマはやはり困惑したように顔を俯けた。

「それは、【怠惰】のお父様たちが、事態を曖昧にしてくださったからで……。いずれなんらかのきっかけで、はっきり私が魔族だと認識してしまえば、今回勢いで協力くださった方々も、やがてその重大さに青褪めると思います」

どうやら彼女なりに、シャバの常識だとか、世間への迷惑といったものを考えた結果の行動らしい。

「それに、血まで提供いただいておきながら、のうのうと『皆さまの早とちりでした』と片付けるこの方法が、やはり心苦しくて……。ここはひとつ、けじめとして潔くシャバを去るというのが、普通なのではないかと思うのです」

口調はゆっくりとしているが、決意に満ちている。

真面目な彼女のことだ、途中で思考を前方抱え込み宙返り三回半ひねりさせながら、考え抜いてこの結論に至ったのだろう。

「そう悪いことばかりでもないのですよ。弟のバルドは本当に可愛くて、陛下が認めてくださった休暇だけでは、後ろ髪を引かれすぎてやはり王城に復帰できる気がしません。きちんと退職したうえで、ここで得た経験を生かし、弟を『普通』かつ真っ当に育て上げる……そんな日々を送れたら、それはとても幸せなことです」

そう微笑まれてしまえば、イレーネたちも容易には言い返せない。

ただ、どうしても気になったこの質問だけ、彼女は同僚にぶつけずにはいられなかった。

「……念のため聞くけど、エルマの思う『普通』の子育てってどんなものなの?」

「え? 全然大層なものではなく、本当に普通ですよ。ちゃんと自分の力で、上部マントルからでも食材を確保し、目上の方への敬意と、大陸中にいる配下への統率・配慮を忘れず、ありがとうとごめんなさいを、五十ヶ国語で言えたら、まずはそれでいいかなって。あの子はまだ一歳にもなってませんものね」

「お馬鹿あああああああああああ!」

そして案の定、絶叫する羽目になった。

「いったいどんな非常識生物を育て上げるつもりなのよ! エルマ、あなたやっぱり『普通』が全然わかってないじゃない!」

「――なあ」

イレーネが激しくエルマの肩を揺さぶっていると、それまで聞き役に徹していたルーカスが口を開いた。

「確認だが、お前が頑なにヴァルツァーに帰ろうとするのは、魔族はシャバから去るのが普通だと考えたからだな?」

「え? ……はい」

ぐいと近寄られて、エルマがわずかに顎を引く。

ルーカスは「ふうん」と口の端を持ち上げて彼女の腕を取ると、その白い指先に軽く口付けた。

「そうか」

「あ、あの、そのような行動を取られると、いささかトゥンク――」

「前にも伝えたと思っていたが……まあいい、何度でも教え込まないと、馬鹿なお前にはなかなか『普通』が染み込まないようだ」

「『馬鹿』?」

ショックを受けるエルマには答えず、ルーカスはピューイと口笛を鳴らしてみせた。

「一同、―― 集合(カモン) !」

――どどどどどど……っ

遠くから地鳴りのような音が響き、それは次第にこちらへと近付いてくる。

その音の正体を見て取って、エルマはぽかんと口を開けた。

「エルマエル様ああああ! ご自身が魔族だから、などという理由で、わたくしたちを捨てないでくださいませえええ!」

先頭にはデボラ。

「お待ちなさい、エルマ! この王城を去る理由なんて、寿退社以外に認めなくてよ!」

『そこ動くなよ、エルマ! つかおまえ、魔族って、正体に意外性がなさすぎんだよ!』

すぐ後ろ、後宮や調理場の方角からはユリアーナとゲオルクが。

「エルマさん、行かないでください!」

『魔族な君も素敵だ、ミューズよ!』

「これを機に、聖魔協定をリードする構想に興味はございませんか、エルマお姉様!」

デニスが、ヨーランが、クロエたちアウレリア学院の生徒が、次々と茂みや柱の陰から姿を現したからだ。

彼らはどれだけ必死に走ってきたのか、皆肩で息をしていた。

「え……なんですかこれ、いったいどんなメカニズム……」

「ふん、日頃の俺たちの気持ちがわかったか。――普通に走って来ただけだ」

意趣返しをばっちり決めたルーカスは、悪戯な少年のようににやりと笑う。

それから、不遜な仕草で小首を傾げた。

「まだまだ来るぞ」

「はい……?」

「彼らはあくまで第一陣。さっきの口笛を合図に、お前を引き留めたい人間は、まだ続々と、絶賛こちらに向かって疾走中だ」

「え……っ」

ぎょっとしたエルマを見て、ルーカスはふと表情を真面目なものに戻す。

彼は先程から離さずにいた手を握り直し、囁きかけた。

「これでも、まだ信じられないか?」

「そ、れは……」

「皆、おまえが人の域をいささか逸脱していることなど、とうの昔に受け入れている。それでも、いや、だからこそ、おまえと一緒にいたいんだ」

きっぱりと言い切る。

「いささか逸脱……」と複雑そうに復唱したエルマに、ルーカスは今一歩詰め寄った。

眼鏡を取り去り、こめかみをそっと撫でる。

「あ、あの、殿下、パーソナルスペースが――」

「いい加減に理解してくれないか。魔族だろうが大罪人の娘だろうが、おまえが好きなんだ。そして――」

彼は、エルマの白い手をしっかりと握り締め、不敵な笑みを浮かべた。

「好きな相手が去ろうとしたら、全力で引き留めに掛かるっていうのが、シャバの普通なんだよ」

「――――!」

逃がさない、と言外に告げられ、夜明け色の瞳が大きく見開かれる。

ただし、前回里帰りを一同に引き留められた時とは異なり、今、その大きな瞳には、戸惑い以外の感情も滲んでいた。

「……あの」

「なんだ」

エルマが生まれてしばらくした頃、ハイデマリーが彼女に授けたあだ名は【傲慢】だった。

過大な愛情と歪んだ価値観を、その身にたっぷりと詰め込まれた、監獄の王女様。

家族が注ぐ愛以外の感情に触れ、シャバの普通を学び、少しはその傲慢さも是正できたかと自惚れていたが――

(全然、治ってなんかいませんね)

エルマは、頰がじわりと熱を帯びるのを感じながら、呟いた。

「……申し訳ありません」

「なぜ謝る」

「だって……嬉しく、て」

これだけ多くの人に迷惑をかけて、それなのに、彼らが自分を引き留めてくれるのが、嬉しいだなんて。

まるで周囲の寛容さと愛情深さを試すような――なんて傲慢な女。

うぐ、と唇を噛んで黙り込んでしまったエルマの髪を、ルーカスはくしゃりとかき混ぜた。

「――半年だ」

「…………?」

「実際のところ、監獄で女手が足りないのは事実だろう。だから、半年はおまえを返してやる。だが、それ以上は認めん。半年経ったら、絶対に帰って来い。……ついでにその時、弟のことも見せろ」

「…………!」

驚いたエルマが顔を上げる。

ルーカスはイレーネに目配せをし、銅板の通行証を受け取ると、それをエルマに押し付けた。

「忘れないように」

「……はい」

ほっそりとした指が、恐る恐る通行証に触れ、やがて握りしめる。

エルマはそれを胸に押し抱くと、こくりと頷いた。

「はい、ルーカス殿下」

集まってくれた人々は、皆真剣な、けれど温かな表情を浮かべている。

遠く離れたバルコニー広場からは、群衆の歓声が聞こえる。

今また何人か、その広場を離れてこちらに向かってくる一団が見えて、エルマは 面映(おもはゆ) さに唇を噛み締めた。

ああ、自分はこんなにも、この場所に溶け込んでいたのだ。

(シャバでの生活は、なんと難しいものかと思っていましたが――)

気付けば出来ていた自分の居場所。

当然のことのように存在を受け入れ、手を差し伸べてくれる人々。

知らず積み上げられてゆく「普通」の日々は、なんて悩みに満ち、そして、

「なんて、愛おしいのでしょうか……」

目を潤ませ、ルーカスを見上げたエルマに、一同が絶句する。

一拍ののち、彼らはわあっと歓声を上げた。