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「昔の栄光にすがってんじゃねー」と婚約破棄した王太子、穏やかな公爵家をブチギレさせ人生終了

作者: 福嶋莉佳

本文

あるところに、アルヴェリアという豊かな国がありました。

かつては王位をめぐる血なまぐさい争いもありましたが、今ではすっかり昔の話。

街道には荷馬車が行き交い、王都は多くの人と品でにぎわい、長く穏やかな統治が続く平和な国――の、はずでした。

「エレオノーラ・ヴァルグレイヴ。俺はこの場で、君との婚約を破棄する」

なんということでしょう。

アルヴェリア王国の王太子エドガルドは、王立学園の大広間の中央で、そう告げたのです。

よりによって、彼の婚約者である公爵令嬢エレオノーラ・ヴァルグレイヴが、彼のために仕上げた夜会で。

楽師を増やしたいと言ったのは、エドガルドでした。

硝子灯を入れたいと言ったのも、珍しい菓子を並べたいと言ったのも、彼でした。

けれど、費用を工面し、警備の人手を増やし、教師たちに頭を下げ、戸惑う令息令嬢たちへ説明して回ったのは、エレオノーラだったのです。

しかも今、エドガルドの隣には、男爵令嬢ミーナ・ベルフォードが堂々と寄り添っていました。

大広間は、一瞬で三つに割れました。

古い家の令息令嬢たちは、血の気を失ったように口を閉ざしました。

一方で、ミーナの周囲にいた新興貴族たちは、息をのみながらも、目を輝かせていました。

そして、それ以外の生徒たちは、何が起きているのか分からず、ただざわめいていました。

「そんな……どうして……!?」

エレオノーラの瞳には涙が浮かんでいました。

けれどエドガルドは、その涙を見ても表情を変えませんでした。

「君は優秀な令嬢だ。そこは認めよう。だが、君はいつも古い家の顔色ばかり見ている。慣例だ、盟約だ、家同士の均衡だと、俺の言葉にいちいち重しをつける」

「……殿下」

「そんなものに縛られていては、この国に未来はない。俺は次の王だ。古い縁と過去の功績だけで、王家の隣に立ち続けられると思うな」

その言葉に、古い家の令息令嬢たちが、いっせいに息をのみました。

そのとき、群衆の端から小さな声が上がりました。

「お、おやめくださいませ、殿下……」

声を上げたのは、北街道沿いの小領地から学園へ通う、カレル男爵家の令嬢でした。

「え、エレオノーラ様は、殿下のために……わたくしたちのような小さな家の者にまで、お心を配ってくださいました。どうか、このような場で――」

「君もか。少し優しくされたくらいで、ヴァルグレイヴの代弁者になったつもりか」

エドガルドは、不快そうに眉を寄せました。

「そういう恩の貸し借りで小さな家を縛るやり方こそ、俺は古いと言っているのだ」

カレル男爵令嬢は、びくりと肩を震わせて口を閉ざしました。

エレオノーラは、ヴァルグレイヴの名を誇りに思っていました。

「殿下……わたくしたちの婚約は、王家と公爵家に関わる大切な取り決めです。このような場で……一方的に告げてよいものではありません」

だからこそ、エドガルドの気まぐれにも、不機嫌にも、これまで耐えてきたのです。

「また、それだ。君はいつも、家だの盟約だの……。俺自身の気持ちを見ようとしない」

「だからといって、感情で決めていいものでは――」

「もうよい。俺には、俺を理解し、尊重してくれる女性がいる。古い盟約に寄りかかるのではなく、これからの王国を共に見てくれる女性がな」

エドガルドは、ミーナの手を取りました。

「エレオノーラ様……申し訳ございません。でも、エドガルド殿下のお心は、もうわたくしにございます」

ミーナはうつむいていましたが、その口元には、隠しきれない勝ち誇った笑みが浮かんでいました。

「それに……古い盟約に縛られるより、これから王国を支える力を選ぶ方が、殿下にはふさわしいと思いますわ」

「ミーナ様……。どうか、お考え直しくださいませ……。殿下のお心だけで、王家の婚約を動かせるわけではございません。あなたも貴族の令嬢なら、その意味はお分かりのはずでしょう……?」

「ええ。だからこそ、わたくしは殿下のお心を得たのです。エレオノーラ様も、どうか笑って、私たちの仲を祝福してくださいませんか?」

「っ……」

エレオノーラの目から涙がこぼれました。

そのとき、会場の扉が勢いよく開きました。

騒ぎを聞きつけた歴史教師が、学園の責任者たちを連れて駆け込んできたのです。

「殿下! これは何の騒ぎですか!」

「見て分からないのか。俺は婚約破棄を宣言した」

「婚約破棄……!? な、な、なんてことを……! なんてことをなさったのですか、殿下……!」

教師の顔は、見る間に青ざめていきました。

「殿下、こちらへ!」

「何をする。離せ。俺はまだ話の途中だ」

エドガルドは教師たちの手を振り払おうとしました。

「ここで示さねば意味がないのだ。旧来のしがらみによらぬ王国を望む者たちに、俺がその先頭に立つと伝える必要があるんだぞ!」

「殿下……! そ、それ以上、何もおっしゃらないでください……!」

「ベルフォード嬢。あなたもです!」

「わたくしもですの? 宣言なさったのは殿下ですのに……」

こうして、エドガルドとミーナは別室へ連れていかれました。

二人の姿が消えた大広間には、重苦しい沈黙だけが残りました。

誰も、すぐには動けませんでした。

そんな中で、ただ一人、カレル男爵令嬢だけが、おずおずとエレオノーラのそばへ歩み寄りました。

「エレオノーラ様……」

「……わたくしは……間違えていたのでしょうか」

「そんなこと……!」

「けれど……黙って頷くだけでは、殿下をお支えしたことにはなりませんもの……」

ああ、可哀想なエレオノーラ。

婚約者に裏切られ、大勢の前で恥をかかされ、これまで支えてきた時間まで無下にされてしまったのです。

エドガルドが退屈だと言って欠席した茶会に、代わりに顔を出したこと。

彼が軽んじた小さな家の者たちにも、王太子の婚約者として礼を尽くしたこと。

彼が不機嫌になるたび、自分の伝え方が悪かったのだと、何度も言葉を呑み込んだこと。

そのすべてを、彼は支えとは呼ばなかったのです。

それは、たしかに彼女を深く傷つけました。

けれど、それ以上にエレオノーラの胸を締めつけたのは、ヴァルグレイヴ公爵家の名が、この場で傷つけられたことでした。

その名を傷つけられたまま、見過ごすことはできません。

でも本当は、争いなど望んでいません。

彼女は、血なまぐさいことが嫌いですから。

それでもなお、ヴァルグレイヴ公爵家の娘として、筆頭公爵家として、家名を軽んじられたまま終わるわけにはいきません。

エレオノーラは涙を拭い、ゆっくりと息を吐きました。

そして――

「よろしい。ならば戦争ですわ」

微笑んで告げたその言葉だけが、静まり返った大広間に、やけにはっきりと響きました。

――かつてアルヴェリアでは、王位継承をめぐって王宮が割れ、地方の領主たちが兵を挙げた時代がありました。

その混乱の中で、王家の祖となる人物を支えたのが、初代ヴァルグレイヴ公爵だったのです。

王は、その功に報いるため、ヴァルグレイヴ家の血と領地、そして軍権を尊重するという盟約を交わしました。

ヴァルグレイヴ公爵家は、ただ王家に従う家ではありません。

王冠を支える一門だったのです。

そのため王家は、長い時代の中で何度も、婚姻によってその盟約を結び直してきました。

今回のエドガルドとエレオノーラの婚約も、その一つでした。

王太子も、ミーナも、学園の生徒たちも、もちろんそのことは知っていました。

けれど、初代ヴァルグレイヴ公爵が、どのような人物であったかまでは、誰も正しく知りませんでした。

彼は、ただ忠義に厚いだけの人物ではありません。

王を支えると決めれば、全力で支える。

けれど、その王が王冠にふさわしくないと判断すれば、ためらうことなく支える手を離す。

そういう人物だったのです。

そして人々は、もう一つ、大きなことを見落としていました。

エレオノーラ・ヴァルグレイヴが、初代ヴァルグレイヴ公爵の血を、最も濃く継いでいることを。

エレオノーラは地図を広げながら、公爵に言いました。

「お父様。王宮へ抗議します」

「うむ」

「そのために、王宮を囲みます」

「抗議とは?」

「衆人環視の中で、我が家は侮辱されました。であれば、我が家もまた、衆人に分かる形で、王家に責任を取らせねばなりません」

「いや、待て。抗議に兵は要らん」

「抗議だけでは、内輪で処理されてしまいますわ。それに、この国の内にも外にも、思い出していただきませんと」

「何をだ?」

「ヴァルグレイヴが、王冠を戴くにふさわしい方を選んできた家だということを」

「……そのようなことをすれば、向こうも黙ってはおらんぞ」

「はい。ですから、まず国軍には王都から離れていただきます」

「どうするつもりだ……?」

エレオノーラは、にこりと微笑みました。

ヴァルグレイヴ公爵家には、三つの大きな力がありました。

縁、軍、そして信用です。

もちろん、王家も公爵家の力を軽んじていたわけではありません。

けれど、長い平和と、ここ数代続いた温厚な公爵たちの姿に、いつしか気を緩めていました。

ヴァルグレイヴ公爵家が、その力を王家へ向ける日など来ないのだと。

一つ目の力は、貴族間に張り巡らされた縁でした。

地方の旧家、国境を守る諸侯、鉱山を持つ伯爵家。

あらゆる場所に、公爵家の血縁や縁故は根を張っていました。

彼らにとっても、王家と公爵家の盟約が軽んじられることは、他人事ではありません。

「各地から、王宮へ報告を上げていただきます」

「……それで国軍を出させるのか」

「はい。緊急を要する報告が重なれば、王宮は動かざるを得ません」

エレオノーラは、各地の問題が同じ日に王宮の机へ並ぶよう、手を回しました。

その間、王宮から内々の使者は来ました。

けれどそれは正式な謝罪ではなく、どうにか穏便に済ませたいという打診でしかありませんでした。

「お嬢様……ユリウス殿下がお越しです」

「ユリウス殿下が……?」

王弟ユリウスは、古い貴族家との交渉を任されることが多く、ヴァルグレイヴ公爵家にもたびたび足を運んでいました。

そのため、エレオノーラにとっては、王族の中でも言葉を交わしやすい相手だったのです。

「エレオノーラ嬢に、直接詫びたい。せめて、一言だけでも取り次いでもらえないだろうか」

門前でそう告げたユリウスの声は、いつものように穏やかでした。

「……ユリウス殿下が、ここまで」

彼だけは、エレオノーラの言葉を遮りませんでした。

彼だけは、ヴァルグレイヴ公爵家の忠義を、古いだけの飾りとは言いませんでした。

「申し訳ございません。今は、どなたにもお会いできません」

家令がそう伝えると、門の向こうでユリウスはしばらく黙りました。

「分かった。無理を言った。……王家の者として、傷つけたことを詫びていると。けれど、どうかこのまま、君の意思を貫いてほしいと。そう伝えてくれ」

その言葉を聞いた瞬間、エレオノーラは扉の内側で、ぎゅっと指を握りしめました。

会えば、きっと心が揺れてしまう。

だからこそ、エレオノーラは扉を開けませんでした。

まもなく、各地から王宮へ報告が届きました。

「鉱山領で争いが広がっております!」

「東の商路も、止まりかけているとのことです」

「南境からも……王軍の派遣要請が届いております」

宰相は、青ざめた顔で報告書を国王の前へ並べました。

「陛下……これは、もしや……」

「……偶然ではないな。ヴァルグレイヴが動いたか」

「陛下……どれも無視できない案件です」

国王は、地図の上へ視線を落としました。

鉱山領が荒れれば、鉄と銀の流れが止まる。

東の商路が閉じれば、王都の物価が跳ね上がる。

南境を放置すれば、国境を守る諸侯の信頼が揺らぐ。

どれも、王家が目をそらせる問題ではありません。

「……分かっている。鎮圧と調停の名目で、国軍を出せ」

こうして、国軍は王都を離れることになりました。

そして、王都の守りが薄くなったそのとき。

「では、ヴァルグレイヴ公爵家の北方軍を進めましょう」

二つ目の力は、北方軍でした。

ヴァルグレイヴ公爵家には、建国期の盟約によって認められた独自の軍事権がありました。

王家であっても、簡単には解体できない力です。

その軍は、北の国境と王都へ続く街道を守り、争いの芽を摘み続けてきました。

アルヴェリアの長い平和は、その守りの上に成り立っていたのです。

とはいえ、軍が動けば、街道沿いの町々もただでは済みません。

「……街道沿いの町には、よい臨時収入にもなるか」

「はい。民に迷惑をかける戦など、損でしかございませんもの」

「抜け目がないな……初代なら、同じことをしただろう」

「でしたら、成功するに決まっておりますわね」

やがて北方軍は、街道沿いの町を通過しながら、王都へ近づいていきました。

兵が町へ入るたび、はじめは戸を閉ざしていた者たちも、すぐに様子を変えました。

「焼きたてのパンはいかがですか!」

「馬小屋なら空いておりますよ!」

「干し肉も豆の煮込みもありますよ。兵隊さん方、腹ごしらえはいかがです?」

なにしろ、北方軍は略奪もせず、正規の代金できちんと支払ってくれるのです。

町は恐怖に震えるどころか、ちょっとしたお祭り騒ぎになりました。

北街道沿いのカレル男爵家は、宿も馬も兵糧も、実に手際よく用意しました。

「いやはや、笑いが止まりませんな」

そんな呑気な声まで上がるほどでした。

一方その頃、王宮の一室に留め置かれたエドガルドとミーナには、外の騒ぎは何も知らされておりませんでした。

「……なぜだ」

エドガルドは苛立たしげに床を踏み鳴らしておりました。

「わざわざ夜会で婚約破棄を告げた意味がないではないか……。あれだけの人数の前で宣言したのだ。今すぐミーナとの婚約を認めさせなければ、示しがつかん……」

その背後で、ミーナが無言のまま扉へ向かいました。

「……ミーナ?」

次の瞬間、ミーナは扉を叩きました。

「どなたか! わたくしを出してくださいませ! わたくしは関係ございません!」

「何を言っている!」

「だって、わたくしは殿下と婚約したいなどと、一度も申しておりませんもの!」

どうやらミーナは、王太子妃になるつもりなど、少しもなかったようです。

「わたくしは殿下に愛されていれば、それでよかったのです。エレオノーラ様が王太子妃として働き、ベルフォード商会の品を少し贔屓していただく。それで十分でしたのに!」

「君は、俺を愛していたのではないのか!?」

「それとこれとは別です! ああ、せっかく夜会にベルフォード商会の品を入れ込んだのに……これで印象が悪くなったら……」

「君は自分のことしか考えていないのか!? だいたい君も、あの時は乗り気だっただろう!」

「当たり前ですわ。あそこで怯んだら、ただの横恋慕女で終わってしまいますもの。殿下に選ばれた女として堂々としていなければ、ベルフォード家が新興貴族の上に立てないでしょう!」

「なんて奴だ……。王太子の俺を騙すなんて!」

しかし、その王太子は今、誰にも外へ出してもらえずにいるのです。

ミーナは、薄々気づき始めていました。

ベルフォード家の力だけでは、彼を守る後ろ盾にはなれないのだと。

「……いつまで、王太子でいられるのかしらね」

「……何?」

エドガルドの声が、かすかに裏返りました。

その会話は、扉の外にいた侍従の耳にも届いていました。

そして王宮には、決定的な報せが届きました。

「申し上げます! ヴァルグレイヴ公爵家の北方軍が、北街道を南下中! 王都へ向かっております!」

その報せに、王宮は大きく揺れました。

廊下を侍従たちが駆け、会議室には次々と重臣が呼び集められました。

国王の前に広げられた地図には、北方軍の進路を示す駒が置かれています。

「王都まで、あとどれほどだ」

「早ければ、三日とかからぬかと……」

誰もが、そこで言葉を失いました。

急ぎ近隣貴族へ使者が走り、王都防衛のために兵が求められたのです。

けれど、兵は集まりませんでした。

「陛下……近隣貴族は動きません」

「何を言っている……北方軍は、もう王都近くまで来ているのだぞ」

「馬の調達が間に合わぬ、兵糧の準備に時を要する、領内の橋が落ちた……と。恐らく、ヴァルグレイヴ公爵家へ兵を向けるつもりはない、ということでしょう……」

そのとき、別の侍従が青ざめた顔で駆け込んできました。

「へ、陛下……! ヴァルグレイヴ公爵家より、返書が……!」

国王は、事前に北方軍の進軍を止めるよう、王命を出していました。

「……兵を下げると、そう書いてあるのだろうな」

国王は侍従から書状を受け取り、目を通しました。

そこには、こう記されていました。

『王命は拝受いたしました。

されど、建国盟約に基づく軍権と裁定請求の権利により、我らは正式な謝罪と裁定の場を求め、王都外縁にて待機いたします』

なんということでしょう。

「……王命が、通らぬのか……」

さらに、会計官も青ざめた顔で進み出ました。

「商会の一部が……次からは前金をと申し入れております。銀行組合も、追加融資について確認を求めてまいりました……」

「で、では……新興貴族たちに兵を出させては?」

重臣の一人が、苦し紛れにそう言いました。

「ベルフォード家に近い新興貴族や、殿下のお考えに賛同していた家々ならば、あるいは……」

ユリウスが、静かに口を開きます。

「その兵を、誰に向けるつもりだ」

「そ、それは……ヴァルグレイヴ公爵家の北方軍に……」

「そうすれば王家は、盟約の裁定を求めている公爵家へ、新興貴族の兵を差し向けることになる」

ユリウスは、国王へ視線を向けました。

「陛下。ここで兵を向ければ、王家はヴァルグレイヴだけでなく、盟約そのものを敵に回します」

さぁ、大変です。

王家は身動きが取れなくなってしまいました。

どうすればいいのでしょう?

その日の夕刻、ヴァルグレイヴ公爵家では、エレオノーラが新たな書状をしたためていました。

「お父様。銀行組合へ送る書状を書きましたので、ご確認いただけますか?」

「エレオノーラ……金の流れまで止めるつもりか」

「いいえ。ただ、当家が保証しないとお伝えするだけですわ」

「それを止めると言うのではないか……?」

その時です。

「旦那様。王宮より、書状が届いております」

家令が恭しく差し出した書状には、王家として正式に謝罪したいこと。

そして、今後の責任について話し合いの場を設けたいことが記されていました。

なんということでしょう。

三つ目の力である信用が、本格的に王家へ牙をむく前に、王家は白旗を揚げてしまったのです。

翌日。

ヴァルグレイヴ公爵家の広間には、現公爵とエレオノーラが並んで座っていました。

やがて、国王と王妃が入ってきました。

その後ろには、ユリウスの姿もあります。

国王は深く頭を下げました。

「このたびの件、王家として正式に謝罪する」

王妃もまた、青ざめた顔で頭を下げました。

「エレオノーラ嬢。あなたを王家へ迎えたいと願っておきながら、王家はあなたを守れませんでした」

「エドガルドの愚行は、王家として決して許されるものではない。ヴァルグレイヴ公爵家には、相応の償いをする。どうか、矛を収めてほしい」

現公爵が、静かにエレオノーラへ視線を向けました。

さあ、エレオノーラは王家に何を求めるのでしょう。

「では……陛下には王家の責任を取って退位の詔を出していただきます。

王弟ユリウス殿下を次期王と定め、わたくしの婚約者になさること。

それをもって、ヴァルグレイヴ公爵家は矛を収めます」

ユリウスが、目を見開きました。

「……なぜ、私なのだ」

「ユリウス殿下は政務にも明るく、王家の責任を理解しておられますもの」

国王は目を閉じ、王妃は唇を震わせていました。

「……私に、王位を譲れと言うのか」

「はい。エドガルド殿下の愚行を止められず、盟約を軽んじる結果を招いた責は、王家の長である陛下にございます」

誰も、すぐには反論できませんでした。

このまま庇えば、王家は盟約を重んじる諸侯までも失います。

王家が生き残る道は、責任を示し、新たな王を立てることだけでした。

そしてその役目に、ユリウス以上にふさわしい者はいなかったのです。

「……愚息一人の不始末ではない。愚息を王太子の座に置き続けた、私の不始末だ」

国王は、ユリウスへ視線を向けました。

「ユリウス。王家を頼む」

ユリウスは、すぐには答えませんでした。

けれど、逃げることもありませんでした。

「承りました」

その一言で、王家の処分は、ここに決まったのです。

一方で、ミーナとベルフォード家も、ただでは済みませんでした。

王太子の寵愛を利用し、婚約破棄の場で公爵家を侮辱したのです。

その責任が軽いはずもありません。

現公爵は、娘へ視線を向けました。

「エレオノーラ。これはお前が受けた侮辱だ。ヴァルグレイヴの名において、お前が求める償いを述べなさい」

エレオノーラは、悲しげに目を伏せました。

彼女は、血なまぐさいことが嫌いでしたから。

けれど、ヴァルグレイヴ公爵家の娘として示さねばなりません。

「心が痛みます。わたくしには、とても決められませんわ」

ミーナは、その言葉に顔を上げました。

「で、でしたら……温情を、いただけるのでしょうか……?」

「ですので、ご自身でお選びくださいませ」

「え……」

「一つ。ベルフォード家の名を守るため、毒杯を取ること」

「っ……ひ……」

「もう一つ。ベルフォード家とともに、爵位も財産も商会もすべて失い、鉱山領へ流されること」

「そ、そんな……わたくしは、ただ……」

「ただ? ただ、王太子殿下に愛されただけだと?」

「そ……それは……」

「ミーナ様。まだ、選ぶことを許されているだけ、ましだとお考えくださいませ」

ミーナは震えました。

毒杯を選ぶ勇気など、ありませんでした。

けれど、爵位も財産も商会も失えば、ベルフォード家は終わりです。

父も母も、築き上げてきたものをすべて奪われます。

それでも、ミーナは生きることを選びました。

「……鉱山領へ、参ります」

こうしてベルフォード家は爵位を返上し、財産も商会も没収されたうえで、遠い鉱山領へ送られることになりました。

古い血筋を軽んじたミーナは、その重みを、最も痛い形で知ることになったのでした。

ミーナの周囲にいた新興貴族たちは、処罰されませんでした。

彼らは直接、公爵家を侮辱したわけではありませんでしたから。

ただ、誰があの夜会で笑い、誰が頷き、誰が新しい時代だと囁いていたのか。

それだけは、ヴァルグレイヴ公爵家の記録に静かに残されました。

表立った罰は下りませんでした。

けれどその後、重要な縁談や商談の席で、なぜか彼らの名が挙がることは少なくなったそうです。

そして、エドガルドにも処分が下されました。

「なぜだ!? 王太子である俺が、自分の相手を選ぶことすら許されないのか!?」

その言葉こそが、彼が王にふさわしくない証でした。

王太子の名は剥奪され、王族の籍からも抜かれ、二度と王家の名で書状を出すことも、王権に関わる署名をすることも禁じられました。

その後、彼は北の塔へ送られました。

北の塔で、エドガルドは何度も書状を出そうとしました。

「だから言っているだろう……なぜ使わせんのだ!?」

「何度も申し上げております。あなた様は、すでに王族ではございません」

「っ……何故だ……。母上……何故、私を見捨てるのだ……」

その問いに答える者は、誰もおりませんでした。

かつて王太子であった男が、再び王都の社交の場に姿を見せることは、二度とありませんでした。

すべてが決まったあと、ユリウスはエレオノーラに向き合いました。

「……私で本当によかったのかい? 私は君より年も上だし、これまで君にとっては兄のような存在だったはずだろう?」

エレオノーラは、頬に手を添え、ほんのりと恥じらうように微笑みました。

「いやですわ、ユリウス殿下……。わたくしに言わせないでくださいまし」

ユリウスは、息をのんだように固まりました。

「……そうか。いや、そうだったのか。私は、ずいぶん鈍かったらしい」

エレオノーラは両手で顔を覆いました。

「本当は……この気持ちは墓場まで持っていくつもりでおりましたの。エドガルド殿下の婚約者でしたから……」

「墓場まで、か。……そんなにも大切に、しまっていてくれたのか」

「……ご迷惑でしたか?」

「いや、嬉しいよ。……今だから言えるが、公爵家へ伺う日は、いつも少し楽しみだった。君と話せるかもしれないと思ってね」

「わたくしと、でございますか?」

「ああ。君はいつも、私にもまっすぐに言葉を返してくれた。本来ならば、そんなことを楽しみにしてはいけなかったのだが」

エレオノーラの頬が、さらに赤く染まりました。

「では……これからも楽しみにしてくださいますか?」

「ああ。許されるのなら、いくらでも」

「……」

「……どうかしたのか?」

「……幸せ、ですわ……」

その言葉に、ユリウスは困ったように、けれど嬉しそうに笑いました。

エレオノーラもまた、今度こそ何も隠さず、幸せそうに微笑んだのでした。

こうして、アルヴェリア王宮は大きな混乱に見舞われましたが、民の暮らしは守られました。

むしろ北街道沿いの町々では、しばらく景気のよい話が続いたそうです。

「いやあ、笑いが止まりませんわ〜。ヒッヒッヒ」

誰かがそんなことを言ったとか、言わなかったとか。

今日のところは、ここまで。