軽量なろうリーダー

婚約解消された公爵令嬢ですが、帝国へ留学したら天才と呼ばれました~今さら復縁したいと言われても図書館の方が大事です~

作者: 作者不明

本文

婚約解消された公爵令嬢は帝国へ留学する。

フランセ王国王城の応接室。

窓から差し込む春の日差しが、銀色の髪を淡く照らしていた。

テリーヌ=カンヌジェルは、静かに紅茶を口に運ぶ。

向かいには婚約者である第一王子アルフレッド。

金髪の王子はどこか陶然とした表情を浮かべていた。

「テリーヌ。私は真実の愛に目覚めた」

その言葉を聞いた瞬間。

テリーヌは心の中で、小さく微笑んだ。

――ああ、やっぱり。

最近のアルフレッドは伯爵令嬢リエット=リースデビとばかり過ごしていた。

だから予感はあった。

けれど不思議と悲しくはなかった。

前世の自分なら、もっと違ったかもしれない。

前世の彼女は病弱だった。

白い病室。

消毒液の匂い。

窓の外を飛ぶ鳥を眺めながら、自由に歩き回れる人々を羨んでいた。

読み切れないほどの本だけが友達だった。

冒険小説。

歴史書。

外国の文化を紹介する本。

ページをめくるたびに世界は広がった。

けれど自分は病室から出られない。

だから願ったのだ。

――来世があるなら、健康な身体が欲しい。

――自由に歩いてみたい。

――世界を見てみたい。

して今。

その願いは叶っている。

だから――。

「ですので?」

テリーヌは穏やかに問い返した。

「君との婚約を解消したい」

アルフレッドが言った。

普通なら泣くのだろう。

怒るのだろう。

けれどテリーヌは静かだった。

「そうですか」

「怒らないのか?」

王子の方が驚いていた。

テリーヌは首を傾げる。

「殿下がお決めになったことですもの」

それに。

婚約がなくなれば自由になる。

少しだけ胸が軽くなった。

「未練はないのか?」

王子が尋ねる。

テリーヌは少し考えた。

そして正直に答えた。

「本を読む時間が増えそうで嬉しいです」

「……え?」

アルフレッドは固まった。

だがテリーヌは本気だった。

最近読めていない新刊が十冊以上積まれているのだ。

「それでは失礼いたします」

優雅に一礼して部屋を後にする。

背後で王子が呆然としていることなど知らなかった。

その夜。

カンヌジェル公爵邸。

「婚約解消、か」

父ムニエル=カンヌジェル公爵は静かに頷いた。

「お前はそれで良いのか?」

「はい」

「本当に?」

テリーヌは笑った。

窓辺には読みかけの本が積まれている。

王妃教育の合間に読んでいた歴史書。

外交論。

海外の紀行文。

どれも大好きな本だ。

「お父様」

「うん?」

「わたくし、昔から思っていたのです」

青い瞳が輝く。

「本の中の世界を実際に見てみたい、と」

公爵は静かに娘を見つめた。

この子は幼い頃から本ばかり読んでいた。

舞踏会より図書室。

宝石より古書。

そんな娘だった。

「実はな」

公爵は一通の手紙を差し出した。

「スペイラ帝国の帝立学院から留学の誘いが来ている」

「……え?」

テリーヌの瞳が大きく見開かれる。

「お前の語学力と論文を高く評価しているらしい」

次の瞬間。

令嬢らしからぬ勢いで立ち上がった。

「行きます!」

即答だった。

「まだ最後まで話しておらんぞ」

「行きます!」

公爵は吹き出した。

婚約解消を告げられた時より遥かに感情豊かだった。

王城の中庭。

春の薔薇が咲き誇る午後だった。

テリーヌは木陰のベンチで本を読んでいた。

分厚い外交史の本である。

前世からの癖だった。

本を開けば時間を忘れる。

病室のベッドで過ごした長い年月も、本だけが外の世界へ連れ出してくれた。

だから今でも本が好きだった。

健康な身体で本を読めるだけで幸せなのだ。

「テリーヌ様」

不意に声を掛けられた。

顔を上げると、そこにはリエット=リースデビがいた。

桃色の髪を揺らしながら、満面の笑みを浮かべている。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

テリーヌは栞を挟み、本を閉じた。

するとリエットはどこか勝ち誇ったような表情を見せた。

「わたくし、謝りに参りましたの」

「謝りに?」

「はい」

リエットは頬を染めながら言った。

「アルフレッド殿下が、わたくしを愛してしまいましたの」

まるで恋愛小説の主人公になったような口調だった。

「そうですか」

「本当は駄目だと分かっておりますわ。でも、愛は止められませんもの」

テリーヌは首を傾げた。

何を言われているのかよく分からない。

「ですので」

リエットは胸を張る。

「殿下を奪ってしまって、ごめんなさいね」

周囲にいた侍女たちが息を呑んだ。

明らかな挑発だった。

普通の令嬢なら顔を真っ赤にして怒る場面だろう。

しかし。

「……?」

テリーヌは数秒考えた。

そして本気で不思議そうな顔をした。

「奪う?」

「え?」

「殿下は物ではありませんでしょう?」

リエットが固まる。

テリーヌは続けた。

「それに殿下がお決めになったことなら仕方ありませんわ」

「そ、そうですけれど……」

「謝る必要はありませんよ」

にっこりと微笑む。

本心だった。

実際、アルフレッドに執着していない。

王妃教育は大変だったが、勉強そのものは好きだった。

むしろ最近は自由な時間が減っていて困っていたくらいだ。

「それでは失礼いたします」

テリーヌは立ち上がった。

リエットが慌てる。

「ま、待ってくださいまし!」

「はい?」

「悔しくありませんの?」

「なぜでしょう?」

「わたくしが勝ったのですわよ!?」

本気で意味が分からなかった。

テリーヌは少し考える。

そして正直に答えた。

「今読んでいる本の続きの方が気になりますわ」

「え?」

「帝国の外交制度について書かれていて、とても面白いのです」

そう言うと再び本を開く。

リエットは呆然としていた。

まるで勝負そのものが成立していなかった。

そして数週間後。

「テリーヌ様は?」

婚約解消後、王城を訪れたリエットが尋ねる。

すると侍女が答えた。

「スペイラ帝国へ留学されました」

「え?」

「帝立学院へ入学されたそうです」

リエットは目を丸くした。

婚約者を失ったショックで泣き暮らしていると思っていた。

だが現実は違った。

数週間後。

スペイラ帝国。

帝立学院。

巨大な図書館の前で、テリーヌは立ち尽くしていた。

十階建て。

数百万冊の蔵書。

歴史。

文学。

魔法学。

経済学。

外交論。

世界中の知識が詰まっている。

「……天国でしょうか」

思わず呟いた。

前世では病室のベッドの上でしか本を読めなかった。

けれど今は違う。

自分の足で歩き。

自分の目で見て。

自由に学べる。

それが嬉しくて仕方ない。

気付けば涙が一筋こぼれていた。

「大丈夫ですか?」

教授が心配そうに声をかける。

テリーヌは慌てて笑った。

「はい」

そして胸に手を当てる。

「嬉しくて」

生きている。

歩ける。

学べる。

本を読める。

友人を作れる。

それだけで幸せだった。

一方その頃。

フライセ王国では。

「スペイラ語が覚えられませんわああ!」

「外交史が難しすぎますわああ!」

「経済学って何ですのぉぉぉ!」

リエットの悲鳴が響いていた。

机の上には大量の教材。

王妃教育。

それは想像以上に過酷だった。

「テリーヌ様は全課程を首席で修了されています」

教育係が告げる。

「え?」

「論文も歴代最高評価です」

リエットは青ざめた。

その頃。

当の本人は帝国の図書館で新しい本を抱えながら幸せそうに笑っていた。

婚約者の座を失った少女は。

代わりに、ずっと欲しかった世界への扉を手に入れていたのである。

スペイラ帝国帝立学院。

入学から三か月。

テリーヌの名前は、すでに学院中へ広まっていた。

「また首席ですか……」

教授が苦笑する。

教室の掲示板には試験結果が張り出されていた。

一位。

テリーヌ=カンヌジェル。

総合得点九百九十七点。

二位との差は百点以上。

「信じられない……」

「外国から来た留学生だろ?」

「しかもまだ一年目だぞ」

周囲の学生たちがざわめく。

しかし当の本人は。

「次はどの本を借りましょうか」

図書館の貸出表と真剣に睨めっこしていた。

成績より本の方が大事だった。

そんなある日。

学院長室へ呼び出された。

「失礼いたします」

扉を開けた瞬間。

テリーヌは固まった。

部屋にいたのは学院長だけではない。

銀髪の青年がソファに座っていた。

年齢は二十歳ほど。

整った顔立ち。

蒼い瞳。

どこか鋭い雰囲気を纏っている。

「紹介しよう」

学院長が笑う。

「こちらはスペイラ帝国第二皇子レオンハルト殿下だ」

「……え?」

テリーヌは思わず目を瞬かせた。

皇子がなぜここに。

「君がテリーヌ嬢か」

レオンハルトは興味深そうに言う。

「外交論文を読ませてもらった」

「ありがとうございます」

「面白かった」

短い言葉だった。

だが。

帝国最高峰の頭脳と呼ばれる皇子からの評価だった。

「特に王国と帝国の交易改善案」

レオンハルトが続ける。

「私の側近たちより優秀だった」

「……光栄です」

テリーヌは少しだけ照れた。

久しぶりだった。

本の感想を語り合える相手に出会えたのは。

一方その頃。

フランセ王国。

「不合格です」

教育係が冷たく告げた。

「え?」

リエットが固まる。

「再試験です」

「またですの!?」

「十二回目です」

リエットは泣いた。

本気で泣いた。

外交史が頭に入らない。

経済学も分からない。

外国語など呪文にしか聞こえない。

「テリーヌ様なら三年前に終えております」

教育係の一言が突き刺さる。

「うぅ……」

最近では。

テリーヌの名前を聞くだけで胃が痛くなっていた。

さらに半年後。

王城。

国王は一通の手紙を見つめていた。

「なんだこれは……」

そこにはこう書かれていた。

『帝立学院年間最優秀学生賞』

『受賞者 テリーヌ=カンヌジェル』

「最優秀?」

国王が目を見開く。

続きにはさらに書かれていた。

『外交研究部門最優秀賞』

『語学部門最優秀賞』

『特別奨学金授与』

『帝国外交局より卒業後の採用打診』

「なんだと!?」

国王は思わず立ち上がった。

その場にいた重臣たちも絶句する。

国家が欲しがるほどの人材。

それが。

かつて王国の未来の王妃だった少女だった。

その夜。

アルフレッドは報告書を読んでいた。

「テリーヌが……」

震える声が漏れる。

そこには帝国で活躍する彼女の姿が書かれていた。

各国の留学生から尊敬され。

教授たちから高く評価され。

皇族とも交流がある。

その名前は帝国中へ広まり始めていた。

ふと。

昔のことを思い出す。

いつも隣にいた少女。

自分が遊んでいる間も勉強していた少女。

夜遅くまで本を読んでいた少女。

当たり前すぎて気づかなかった。

どれほど努力していたのか。

「私は……」

アルフレッドは机に額を押し付けた。

「何を失ったんだ……」

その頃。

テリーヌは学院の図書館で。

新しく届いた歴史書を抱きしめていた。

「初版本……!」

目が輝いている。

周囲の学生たちは苦笑した。

「また始まった」

「皇子殿下に褒められた時より嬉しそうだな」

「本当に本が好きなんだな」

テリーヌは幸せそうに微笑む。

前世では叶わなかった夢。

自由に歩くこと。

学ぶこと。

世界を見ること。

そして。

大好きな本に囲まれて生きること。

その全てが今ここにあった。

だから彼女は知らない。

遠い祖国で。

自分を手放した者たちが後悔を始めていることを。

そして。

帝国第二皇子レオンハルトが。

彼女に少しずつ惹かれ始めていることを――。

帝立学院の大講堂。

今日は年に一度の研究発表会だった。

帝国中の貴族。

官僚。

商人。

そして皇族まで集まる一大行事である。

「次の発表者は、テリーヌ=カンヌジェル」

司会の声が響く。

会場がざわめいた。

「あの留学生か」

「首席の?」

「外交局が目を付けているらしいぞ」

テリーヌは静かに演壇へ上がった。

緊張はしていない。

ただ少しだけ。

大勢の前で話すのは苦手だった。

「発表を始めます」

そう言って論文を開く。

題名は――

『フランセ王国とスペイラ帝国の新交易路構想』

発表が進むにつれ。

会場の空気が変わっていった。

ざわめきが消える。

誰もが話に引き込まれていく。

新しい交易路。

港湾整備。

税制度改革。

物流効率化。

学生の論文とは思えない内容だった。

発表が終わった瞬間。

数秒の沈黙。

そして――

大歓声が起こった。

「素晴らしい!」

「本当に学生か!?」

「即実用化できるぞ!」

拍手が鳴り止まない。

テリーヌは目をぱちぱちさせた。

「そんなに良かったのでしょうか……」

本気で分かっていない。

最前列。

レオンハルト皇子は頭を抱えていた。

「これは駄目だな」

隣の側近が首を傾げる。

「何がでしょう?」

「彼女、自分の価値を理解していない」

皇子は断言した。

「危険なくらいにな」

側近は苦笑した。

確かにそうだった。

テリーヌは褒められると喜ぶ。

だが。

それは成績ではない。

論文でもない。

研究でもない。

「先日も図書館司書に珍しい本を勧められて三時間喜んでいました」

「知っている」

「研究発表会より嬉しそうでした」

「知っている」

皇子は深いため息をついた。

発表会終了後。

「テリーヌ嬢」

声を掛けられる。

振り返るとレオンハルトだった。

「皇子殿下」

「素晴らしい発表だった」

「ありがとうございます」

テリーヌは微笑む。

皇子はしばらく黙った。

そして。

「褒賞を与えよう」

「褒賞ですか?」

「ああ」

皇子は一枚の紙を差し出した。

『帝国中央図書館・特別閲覧許可証』

テリーヌの動きが止まった。

「……え?」

「地下書庫を含む全蔵書の閲覧を許可する」

数秒。

完全停止。

そして。

「ほ、本当ですか!?」

その瞬間。

テリーヌの顔が花のように輝いた。

「ありがとうございます!」

「そんなに嬉しいのか?」

「もちろんです!」

即答だった。

「地下書庫には建国時代の原本もありますし、失われた魔法史もありますし、古代語辞典も――」

早口になっている。

レオンハルトは思わず笑った。

初めてだった。

彼女がここまで感情を露わにしたのを見たのは。

一方その頃。

フランセ王国。

王城。

「また不合格です」

教育係が言った。

リエットは机に突っ伏した。

「もう嫌ですわぁぁぁ!」

涙目だった。

その時。

執事が慌てて部屋へ飛び込んでくる。

「大変です!」

「何ですの?」

「帝国の新聞です!」

広げられた紙面。

そこには大きく書かれていた。

『帝立学院研究発表会最優秀賞』

『留学生テリーヌ=カンヌジェル』

リエットの顔色が変わる。

「え……?」

さらに記事は続く。

『帝国第二皇子も絶賛』

『卒業後の外交局入り有力』

『次代を担う天才研究者』

リエットの手が震えた。

「そんな……」

自分が追い出した相手。

見下していた相手。

その少女が。

今や帝国中で称賛されている。

同じ頃。

アルフレッドも記事を読んでいた。

しばらく沈黙する。

そして。

「私は……」

苦笑した。

「本当に馬鹿だったな」

初めてだった。

他人のせいにしなかったのは。

テリーヌは変わっていない。

昔から優秀だった。

昔から努力していた。

昔から本が好きだった。

気付かなかったのは自分だ。

失ってから初めて理解した。

その夜。

帝国中央図書館地下書庫。

テリーヌは一冊の本を抱えていた。

建国以前の古代文明について書かれた希少本である。

「すごい……」

瞳が輝く。

幸せだった。

前世では病室の窓から空を眺めることしかできなかった。

今は違う。

歩ける。

学べる。

夢を追える。

大好きな本を読める。

だから彼女は気付かない。

背後でレオンハルト皇子が優しい目で見守っていることにも。

そして。

帝国中の有力者たちが、次々と彼女に注目し始めていることにも――。

スペイラ帝国皇城。

重厚な扉が開かれる。

「テリーヌ=カンヌジェル様をお連れいたしました」

案内役の声が響いた。

皇帝陛下からの召喚。

学生が受けるにはあまりにも大事だった。

前世でも今世でも初めての経験である。

「顔を上げよ」

低く威厳ある声。

玉座に座るのはスペイラ帝国皇帝。

大陸最強国家の頂点に立つ人物だった。

「そなたの論文を読んだ」

「ありがとうございます」

「実に面白い」

皇帝は笑った。

「特に交易路の提案は素晴らしかった」

周囲の重臣たちも頷く。

普通なら震える場面だった。

だが。

「恐れ入ります」

テリーヌは素直に礼をした。

褒められるのは嬉しい。

けれど。

今は別のことが気になっていた。

「どうした?」

皇帝が尋ねる。

「いえ……」

テリーヌは少し迷った。

「皇城図書館は見学できますでしょうか」

沈黙。

数秒。

そして。

重臣たちが吹き出した。

「ははははは!」

「さすが噂通りだ!」

皇帝まで笑い出す。

「余は初めて見たぞ」

「はい?」

「褒賞より本を欲しがる娘をな」

その日の午後。

テリーヌは皇城図書館にいた。

「すごい……」

語彙力が消えていた。

数万冊の希少本。

建国以前の史料。

失われた魔法文明の記録。

外交史の原本。

「幸せです……」

思わず呟く。

司書たちが微笑ましそうに見守っていた。

一方。

フランセ王国。

国王執務室。

「陛下!」

宰相が飛び込んできた。

「今度は何だ」

「帝国皇帝がテリーヌ嬢を直接招いたそうです」

「なに?」

国王が立ち上がる。

報告書を受け取る。

読む。

青ざめる。

「皇帝陛下自ら評価しただと……」

「はい」

「冗談だろう……」

かつて未来の王妃だった少女。

それが今や帝国皇帝のお気に入りになりつつあった。

同じ頃。

アルフレッド王子も報告書を読んでいた。

手が震える。

「皇帝陛下が……」

理解してしまった。

テリーヌは元々すごかったのだ。

自分が知らなかっただけで。

隣にいた時から。

ずっと。

「殿下」

側近が恐る恐る言う。

「なんだ」

「王国内では……」

「?」

「テリーヌ様を手放したのは王国最大の失策ではないか、との声が増えております」

アルフレッドは何も言えなかった。

さらに数週間後。

帝立学院。

「テリーヌ嬢!」

学長が慌てて走ってきた。

「はい?」

「君宛の手紙だ!」

「手紙ですか?」

差し出された封筒を見る。

王家の紋章。

フランセ王国のものだった。

「?」

首を傾げながら開封する。

中には。

『アルフレッド王子殿下より』

という文字があった。

内容を読む。

数秒後。

再び読む。

さらにもう一度読む。

「どうした?」

学長が尋ねる。

テリーヌは困った顔をした。

「復縁したいそうです」

学長が固まった。

「……は?」

「婚約を元に戻したいと」

「今さら!?」

学長の方が驚いていた。

その日の夜。

レオンハルト皇子も報告を受けていた。

「復縁?」

「はい」

側近が答える。

「フランセ王国から正式な打診が」

レオンハルトは静かに机を叩いた。

コン。

コン。

コン。

側近が冷や汗を流す。

「殿下?」

「そうか」

笑顔だった。

だが。

なぜか怖い。

「ではこちらも動くとしよう」

「何をですか?」

レオンハルトは窓の外を見た。

月明かりの下。

図書館へ向かう銀髪の少女が見える。

「決まっている」

その声はどこか優しかった。

「彼女を誰にも渡さないためだ」

その頃のテリーヌ。

「新刊です!」

図書館で新しく入荷した古代史全集を見つけて大喜びしていた。

復縁話?

皇子たちの思惑?

王国と帝国の政治問題?

全く気付いていない。

「今日は徹夜ですね!」

幸せそうだった。

そんな彼女を見て。

周囲は思う。

この天才。

本当に恋愛だけは壊滅的に鈍い、と――。

スペイラ帝国皇城。

年に一度の大舞踏会が近づいていた。

帝国中の貴族が集う華やかな祭典。

当然、帝立学院の優秀な学生たちにも招待状が届く。

「テリーヌ嬢」

学長が声を掛けた。

「はい」

「皇城舞踏会への出席が決定した」

「そうですか」

反応が薄い。

学長は額を押さえた。

「もっと驚いてくれ」

「ですが舞踏会ですよね?」

「皇帝陛下主催だぞ!?」

「本が読めませんね」

学長は天を仰いだ。

一方その頃。

帝国の港へ一隻の大型船が到着していた。

船首に掲げられているのはフランセ王国の紋章。

「使節団到着です」

報告が皇城へ届けられる。

その中には。

アルフレッド第一王子の姿もあった。

帝国滞在二日目。

アルフレッドは久しぶりにテリーヌと再会した。

学院の中庭。

昔と同じように彼女は本を読んでいた。

銀髪が風に揺れている。

だが。

以前とは違った。

その表情は明るく。

生き生きとしていた。

まるで翼を得た鳥のようだった。

「テリーヌ」

声を掛ける。

彼女が顔を上げた。

「あら、アルフレッド殿下」

礼儀正しい。

だが。

それだけだった。

昔のような親しさはない。

「久しぶりだな」

「そうですね」

会話が続かない。

アルフレッドは胸が痛んだ。

かつて婚約者だった相手。

それなのに。

今はまるで他人だった。

「君は変わったな」

思わず口にする。

すると。

テリーヌは不思議そうな顔をした。

「そうでしょうか?」

「以前より楽しそうだ」

「ああ」

彼女は笑った。

本当に幸せそうに。

「毎日楽しいです」

その笑顔を見た瞬間。

アルフレッドは悟った。

彼女は婚約解消を引きずっていない。

傷付いてもいない。

むしろ。

今の方が幸せなのだ。

その事実が何より辛かった。

「実は」

アルフレッドは勇気を振り絞った。

「婚約の件を――」

その時だった。

「テリーヌ嬢」

低く落ち着いた声。

振り返る。

そこにいたのはレオンハルト皇子だった。

完璧な笑み。

完璧な礼儀。

だが。

なぜかアルフレッドは寒気を覚える。

「舞踏会の衣装について相談したい」

「あ、はい」

テリーヌは立ち上がった。

「では殿下、失礼いたします」

ぺこり。

軽く頭を下げる。

それだけ。

そして二人は去っていく。

アルフレッドだけを残して。

帝国皇城。

舞踏会当日。

大広間は光に包まれていた。

各国の使節。

大貴族。

軍人。

学者。

誰もが華やかな衣装を纏っている。

そこへ。

一人の少女が姿を現した。

銀色の髪。

夜空のような青い瞳。

深い蒼のドレス。

飾り立ててはいない。

だが。

目を奪われるほど美しかった。

「誰だ?」

「まさか……」

「テリーヌ嬢か?」

ざわめきが広がる。

本人だけが気付いていない。

「綺麗だ」

思わず呟いたのはアルフレッドだった。

昔から綺麗だった。

だが。

今は違う。

自信がある。

自由がある。

生きる喜びがある。

そんな輝きがあった。

その時。

レオンハルト皇子が歩み出る。

そして。

優雅に手を差し出した。

「一曲お願いできますか」

会場が静まり返る。

皇子自ら。

最初のダンスを申し込んだのだ。

それは特別な意味を持つ。

だが。

テリーヌは首を傾げた。

「その前に一つよろしいでしょうか」

「なんだ?」

「舞踏会は何時に終わりますか?」

「……?」

「図書館の閉館時間が気になりまして」

数秒の沈黙。

そして。

皇帝陛下が吹き出した。

「ははははは!」

大広間に笑いが広がる。

レオンハルトも笑っていた。

「安心しろ」

「はい」

「今日だけは図書館より私を優先してほしい」

その言葉に。

会場中の令嬢たちが悲鳴を上げた。

一方。

遠くから見ていたリエットは青ざめていた。

王妃教育についていけず。

外交も分からず。

帝国語も話せない。

そんな自分と。

皇子に手を取られ。

皇帝に気に入られ。

会場中から称賛されるテリーヌ。

差は歴然だった。

そして初めて理解する。

自分が奪ったと思っていたものは。

最初から手に入れられるような存在ではなかったのだと。

その夜。

舞踏会の帰り道。

レオンハルトは静かに微笑んだ。

「テリーヌ嬢」

「はい」

「今度、皇城図書館の未公開書庫へ案内しよう」

テリーヌが固まる。

「未公開……書庫?」

「ああ」

次の瞬間。

彼女の顔が満開の花のように輝いた。

「ぜひお願いします!」

即答だった。

レオンハルトは苦笑する。

どれほど美しいドレスよりも。

どれほど高価な宝石よりも。

この少女を喜ばせるのは本なのだ。

そんな彼女だからこそ。

気付けば自分も惹かれていたのだった――。