軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第96話・夜空の誓い

帝国北部要塞の夜。

戦の気配はとうに薄れ、硝煙の匂いも冷えた風に削られていく。

だが、空気の中にはまだ残っていた。金属の焼けた匂いと、血の匂いと――戦場が終わったあとの、言い訳の効かない死の匂いが。

壁の上では見張りが交代し、兵が走り、書類が運ばれ、会議室の灯りが消えない。

帝王ウィルトスは、対策会議で忙しい。

昼の戦いの報告、神聖国の加護持ち運用、砲撃の効き、山道封鎖案、雪崩誘発の段取り。話すべきことは山ほどある。今は紙上の戦争中。

その紙上の戦争から一歩外れたところで。

星髪の少女――アギトは、にこにこしながら要塞の通路を歩いていた。

片手には蜂蜜酒の瓶。もう片手には、袋に包まれた夕餉。

中身は簡素だ。

硬めのパンに焼いた肉と芋を挟んだもの。脂と塩が効いていて、噛むほどに味が出る。

戦場の食事は、贅沢よりも確実性だ。胃に満ちれば勝ち、満ちなければ負ける。

そして蜂蜜酒。甘く、香りが高く、喉に落ちると身体の芯がゆるむ。

「ふんふんふーん♪ さってと、どこで食べよっかなー♪」

歌うように鼻歌を鳴らしながら、アギトは歩調を軽くする。

最初に帝国へ来た時、ウィルトスから言われた。

目立つな。勝手に動くな。兵を怖がらせるなと。

けれど、時は流れた。

兵は慣れる生き物だ。恐怖の正体が「未知」である限り、怯える。

だが、毎日見て、毎日話し、毎日笑うようになると、未知は「変なやつ」へ格下げされる。

そしてなにより、アギトは居丈高に振る舞わない。

むしろ人懐っこい。おまけに見た目は極上の美少女。目に優しい。

だから兵も、必要以上に距離を取らない。

最近では酒宴に混ざって、妙に盛り上がって、最後に蜂蜜酒を抱えてご機嫌で帰るのが、ちょっとした風物詩になりかけていた。

もちろん、知らない者はまだいる。

星髪の嬢ちゃんが何者なのか、本当に理解している兵など一握り。

だが現場で大事なのは理解ではない。

ルールが分かるか、分からないか。友好的か敵対的か。

極論、大事なのはそこだけだ。

今夜、アギトは自由だ。

ウィルトスは会議で忙しく「先に食っていいぞ」と放り投げるように言った。

投げられた夕飯を抱えて、アギトは静かな場所を探している。

広い要塞で静かな場所を探す――それはアギトなら難しくない。

彼女の知覚は、人間のそれとは桁が違う。

歩哨の足音。紙の擦れる音。鍋が鳴る音。遠い会議室の声。

そういう雑音の密度が薄い方へ、ただ歩くだけ。

会議の熱気から離れ。

倉庫の忙しさから離れ。

兵舎の笑い声から離れ。

静かな方へ、静かな方へ。

(……ん? お酒の匂い……?)

鼻がひくりと動いた。

蜂蜜酒とは違う、鋭い香り。

木樽で寝かせた、上等な酒の匂い。

しかも、つい今しがた栓を抜いたばかりの生きた香り。

(あれ? 同じこと考える人、いたのかな?)

人間の鼻では、要塞の匂いに紛れて分からない。

だがアギトには分かる。分かってしまう。

そして分かった瞬間、口角が意地悪く上がった。

(あー。いっけないんだー。こんな場所でこそこそと)

ただし、罪だとは思っていない。

軍用酒を盗んでいるなら話は別だが、匂いは違う。これは個人が持ち込んだ酒だ。

自費で買った上物。勝手に飲んで何が悪い。

悪くない。悪くないけど――。

(美味しい酒は、分けるもの。分けない人は……嫌われる。酒飲みの世界の常識)

アギトは、忍び足で匂いの先へ向かった。

階段を上り、風の通り道を抜け、重い扉の隙間をすり抜ける。

屋上。

夜空が近い。

雪雲が薄く流れ、月が見えたり隠れたりする。

「あれ? おっちゃん達はたしか――」

そこに、数名の兵がいた。

古参の兵。

帝都で帝王の傍にいた者たち。一緒に北部まで来た、アギトの酒飲み仲間。

戦装束のまま、だが兜は外し、肩の力を抜いて座っている。

木製のコップが並び、酒瓶が一本、静かに置かれている。

アギトが顔を出すと、兵のひとりが目だけで笑った。

「……ああ、星髪の嬢ちゃんか。どうした、こんな場所に来て」

「おっちゃん達こそ、こんな場所で何してんの? 酒なんて空けちゃって……」

アギトの視線は、コップに向かった。

そこにあるコップは、人数分よりひとつ多い。

その余分な一つに、酒が注がれていた。

そして、その隣。

焼け焦げた短剣が一本。

刃も柄も、黒く煤けて、ところどころが溶けたようになっている。

アギトは、その配置を見て、ふっと鼻歌を止めた。

「……なにそれ。誰の分?」

兵たちは、頷いた。

誰もふざけていない。冗談も言わない。

屋上の風だけが、遠慮なく吹く。

「これはな――鎮魂酒だ。迷わないで天に昇れるように注ぐ、送り酒さ」

古参兵の声は低かった。

怒りでも悲しみでもない。もっと乾いたもの――長年、戦の中で磨かれた、別れ方の声。

「この要塞に務めてた奴に、俺達の同期がいてな。今回の戦いでやられちまったよ」

同期。

戦友。

同じ帝王の旗の下で、生きてきた者。

戦乱は長い。戦友が全員同じ場所に集まることはない。

帝都で帝王の背を守る者もいれば、辺境で国境を睨む者もいる。

そしてこの北部要塞には、神聖国の動きを見張り続ける者がいる。

「……そうなんだ」

アギトの声が、自然と小さくなる。

兵は、焦げた短剣を指で軽く弾いた。

金属が、かすかに鳴る。

「神聖国の奴らが使う光の魔法でな。身体の大半が炭になってた。ひでぇもんさ。こいつがなきゃ、誰の死体か判別つかなかった」

古参兵は、置かれた短剣に視線をやった。

鎧の下にでも忍ばせていたのだろう。だから完全に燃え尽きずに残った。

見てもいないのに情景が目に浮かぶ。

炭。黒。崩れる肉。残る骨。匂い。煙。

「娘に貰った『護り刀』だって、よく自慢してたんだぜ」

「その度に「うるせぇ親バカだ!」って笑ったもんだ」

「そうそう。言う度に皆で笑った。……笑ったから、今も笑う」

兵たちは、確かに笑った。

けれど、誰も腹の底から笑っていない。

目尻に光るものが見えたとしても、誰も指摘しない。

男の別れに涙は不要――というより、泣いたら崩れてしまう。

崩れたら明日から戦えない。

だから泣かない――それだけだ。

木のコップに酒が注がれる。

余分な一つにも注がれる。

そして、その余分な一つは、誰も手を付けない。

死者のための席。

アギトはしばらく黙っていた。

蜂蜜酒の瓶が、手の中で軽い。

そして、ぽつりと。

「……そっか」

たった一言。

その一言の中に、彼女の「分からない」と「分かる」が同居していた。

人の戦の死は、天蛇の尺度で見れば小さい。けれど人にとっては世界だ。

その世界が燃やされて、炭になって、名前が消えかけた。

アギトは、袋の夕飯を脇に置いた。

蜂蜜酒の瓶を持ち直す。

「ねえ。コップ、もう一個ある?」

「ん? そりゃまああるが……どうした」

「貸して」

兵たちは一瞬目を瞬かせて、すぐに頷いた。

木のコップが差し出される。

アギトは受け取ると、蜂蜜酒の瓶の栓を外す。

甘い香りが、冷たい屋上にふわりと広がる。

兵たちが持ってきた酒とは匂いが違う。幼い甘さ。陽だまりのような匂い。

彼女は、ゆっくりと注いだ。

こぼさない。急がない。

瓶の口から落ちる金色の液体が、夜の屋上でやけに綺麗に見える。

そして、焦げた短剣の隣に置く。

死者のための席に、甘い酒を添える。

兵のひとりが、困ったように笑った。

「おい、蜂蜜酒って嬢ちゃんの好物だろ? いいのか?」

「いいの。おっちゃん達の友達なんでしょ? なら、いいよ」

その返事が、軽いのに重かった。

理屈ではなく、体温のある返事だった。

兵たちは、少しだけ目を伏せた。

誰も「ありがとう」とは言わない。

言った瞬間、喉の奥が壊れるのを知っていた。

代わりに、いつもの調子で兵が荒っぽく笑う。

「おう、味わって飲めよ! こんな別嬪に注いで貰ったんだ! さ迷って亡霊にでもなったらタダじゃおかねぇぞ!」

屋上に笑い声が弾ける。

古参兵たちの笑いは、腹から出る。

けれど、その笑いの端が少しだけ震えていた。

◇◇◇

夜の屋上は寒かった。

屋上の石は昼の熱なんて欠片も残していない。腰を下ろした瞬間からじわじわと体温を吸っていく。雪が薄く張り付いた床は、見た目よりずっと冷たい。頬を撫でる風は細くて、刺すような痛みを与えてくる。

そんな寒さの中で飲む酒は、やけに甘く感じた。

蜂蜜酒の瓶を膝の上で転がしながら、アギトは小さく息を吐く。白い吐息が星に向かってのぼっていって、途中でほどける。星は綺麗で、綺麗すぎて、どこか腹立たしい。綺麗なものは、いつも何も知らない顔をする。

少し離れたところに、あのコップがある。

焦げた短剣の隣に置かれた、黄金色の液体。アギトの蜂蜜酒。

人の作法を真似た、アギトなりの鎮魂酒。

(……不思議な事を、人はよく考える)

死んだ人間が迷わないように、酒を注ぐ。迷わないように。天に昇れるように。

送り酒。彼女には、よく分からない理屈だ。

そもそも、死んだら終わりじゃないの? とアギトは思う。終わりじゃないにしても、どうせ行く場所なんて決まってる。迷う迷わないなんて、本人の問題じゃなくて、生きてる側が納得したいだけなんじゃないの?

……そう、アギトは思っていた。

昔の彼女は、そう思っていた。

けれど今、彼女は、そのコップから目が離せない。

甘い匂いがする。蜂蜜と発酵の匂い。

その匂いは、記憶の扉を雑に蹴破る。

だから彼女は、思い出してしまう。

それは今よりもずっと昔。

帝国が今のような大きな国になる前。

帝王ウィルトスなんて名前が、この世界のどこにも存在しなかった頃。

東部で国が生まれては潰れて、また生まれて、剣と飢えと疫病が交互に人を削っていた頃。

(アタシは――『アタシ』として、まだ今みたいに整っていなかった)

彼女の本質は「手」だ。

本体から伸びる、外界に触れるための「手」。

本体が世界の縁を噛み、世界を固定し続けるなら、アギトはその噛み跡から漏れた興味が形になったもの。

初めて「手」が外に伸びたのは、国が生まれるより前。

酒が生まれた頃である。

それは一万年以上前の話。

農耕が始まる前。文字がない。暦がない。だから正確な年なんて解らない。

星の並びで「寒い時期が来た」と知って、獣の群れの移動を追って、人が寄り集まって火を囲んでいた時代。

蜂蜜と水が混ざり、偶然発酵し、泡が立ち、甘い匂いがして。

誰かがそれを舐めて、笑って、喉を焼くような熱に驚いて――それでももう一口飲んで。

その瞬間を、本体が感じたのだ。

飲んでみたいという、興味。

世界の縁を噛み続ける退屈の中で、ほんの一瞬だけ生じた小さな欲。

だから伸びた。

最初の「手」。最初の分身。外界への手。

その時の「手」の姿は、今の世界にいるリザードマンに酷似していた。

鱗の肌。爬虫の目。湿った川辺の匂いをまとった、獣のような姿。

当たり前に、魔物扱いされた。

槍が飛んだ。石が飛んだ。火が投げられた。

相手が分からないなら、先に壊す。先に殺す。

それが当初の人の動き。

最初の手は、理解しなかった。

理解する必要がないと思っていた。

ただ、目の前の酒が欲しかった。

結果、「最初の手」は返り討ちにした。

軽く振った腕で、何人も倒れた。

爪で裂き、牙で噛み、骨を折った。

悲鳴が上がり、血が溢れ、土が濡れた。

蜂蜜酒の壺を掴んで、奪った。

初めて味わった蜂蜜酒は――。

(……甘露だった)

舌に乗った瞬間、世界が色を変えた。

喉を通った瞬間、身体の中に火が灯った。

頭がふわふわして、世界が少しだけ面白く見えた。

(――ああ、これ。これのためなら、外に出る価値があるって「最初の手」は思った)

そしてその時。

酔った勢いで、笑った勢いで「最初の手」から魔力が零れた。

零れた魔力は、世界に染みた。

染みた魔力は、偶然にも媒介となり――世界に「新しい命の型」を作った。

気付いた時には、そこにいた。

鱗を持つ人型の群れ。

リザードマン。

天蛇が生んだ……なんて大層な自覚は、その時は無い。

ただ、周りに似たのが増えたな、くらいの感覚で。

眷属だとか種族だとか、そういう言葉はもっと後の時代の言葉。

しかし、彼らは「最初の手」を見上げた。

怖がるのではなく、敬うでもなく、ただ当然のように近くにいた。

それが、妙に居心地がよかったから。

だから「最初の手」は、しばらく外にいた。

千年近くの時を生きた。

人間の尺度なら、永遠に近い。

けれど、天蛇の尺度なら「ちょっとした外出」。

本体と微かに繋がりはあった。遠い遠い水底の鼓動みたいな感覚。

けれど、本体は基本的に何も言わない。噛んでいる。固定している。それだけの存在。

本体と手は記憶を共有する。

だが自我は別だった。

外界に長く居れば居るほど、手は「手」ではなくなる。

触れるものが増える。言葉が増える。酒が増える。

笑いが増える。喧嘩が増える。死が増える。

そしていつの日か、「最初の手」は選んだ。

(……森に帰らなかった)

本体は今でもよく解っていない。「最初の手」の選択の意味を。

あれほど簡単に森に戻れたはずなのに、戻らなかった。

リザードマンたちに囲まれて、外界で死ぬことを選んだ。

その理由は――本体には解らない。きっと永遠に解らない。

分かるのは、最初の手が「手」であることをやめた、という事実だけ。

そして、しばらく経って。

気が付いた時には、アギトがいた。

二代目の手。

今度は、最初から「人と交流できるように」調整された手。

人間を象った姿。

星空のようになびく髪。

服装は、その時々で変えた。

旅人のような服。踊り子のような衣。貴族の真似をしてドレスを着たこともある。

異国の布の縫い方を真似して、袖を長くしたり、裾を短くしたりと。

別世界から流れ込んだ「情報」に、時々妙に惹かれることもあった。

噛み留める継ぎ目の向こうから、少しだけこぼれてくる色。

その色を、アギトは服にして遊ぶ。

その頃のアギトは、今よりもっと雑だった。

人の街に降りれば、目が寄ってくる。

整いすぎていたらしい。アギトは自分の顔がそんなに価値があると思ってなかったけど。

酒場で蜂蜜酒を飲んでいると、男が寄ってきた。

奢る。笑う。距離を詰める。褒める。求愛する。

意味が分からなかった。

何をそんなに必死になるの? と。

酒を飲みたいなら飲めばいい。話したいなら話せばいい。

なのに、人間達はいつも「何か」を取ろうとした。

そしてアギトは、何度も「返り討ち」にした。

返り討ちにした、というより――触れただけで壊れた。

腕を払ったら首が折れた。突き飛ばしたら壁に頭を打って動かなくなった。

強くするつもりはなかったのに。人間が脆いせいで、結果がいつも惨劇になる。

(……でも、酒場の人には丁寧にした)

酒場は好きだった。

酒が美味しいから。

酒を作る人間は、面白いから。

蜂蜜酒は、特に好きだから。

古くからある蜂蜜酒は、時代を経て洗練されていった。

発酵の管理。樽の違い。蜂蜜の種類。

味が変わる。香りが変わる。喉ごしが変わる。

それを試すのは、楽しかった。

けれどやはり、付き纏う人間や、危険視する者も多く居て。

そのたびに、アギトは少し面倒になって森に帰る。

森の中は静かだ。

蛇の本体は動かない。動かないからこそ、世界は保たれている。

アギトは「手」として、時々仕事をした。

森の奥まで入り込んでくる者を追い払う。

多くは本体を見て発狂する。

成層圏に届く蛇を見て、頭が壊れて、暴れて、叫んで、森を荒らす。

そういう者を「大人しく」させる。

この場合の「大人しく」は、土に還すことだ。

命を絶って、大地の養分に。

その手順にも慣れた。

躊躇いは最初から無い。彼女の精神は人は違う場所に座している。

彼女はいつも、そうやって生きてきた。

またほとぼりが冷めたら外へ。

酒を飲む。飽きたら帰る。

それがアギトの今までだった。

それなのに――今回だけは違う。

帝国の軍団が来た。

本体を見た。恐怖した。普通なら発狂する。逃げる。矛先を向ける。叫ぶ。

そうなるはずだった。

(でもおじさんは……ウィルトスは違った)

帝国の帝王。

戦斧を携えた豪胆な王。

あの男は、本体を見た。

恐怖した。

あからさまに恐怖した。

それを、押し殺した。

押し殺して、頭を下げた。

そして――酒に誘った。

――酒。

その単語で、私の世界は一瞬止まった。

面倒で、うるさくて、脆くて、理解できない生き物が、酒で『道』を作った。

(……意味わかんない。普通、発狂するか、逃げるか、死ぬか。なのに、酒?)

本体も、少しだけ興味を示した。

本体が興味を示すなんてことは滅多にない。

アギトはそれが面白かったのだ。

だから、彼女は今ここにいる。

明確な目的なんてなかった。

興味が湧いたから。

面白そうだから。

酒が飲めそうだから。

ただ、それだけ。

それだけだったのに。

アギトは今、屋上で。

蜂蜜酒を飲みながら。

古参兵たちの笑い声を聞きながら。

焦げた短剣と、空席と、鎮魂酒を見ながら。

(胸の奥が、ざらざらする)

それは不思議な感覚だった。

長い時を生きたアギトが、初めて味わう感覚。

(――すごく、むしゃくしゃする)

人間の死に様――そんなもの、アギトは何度も見てきた。

何百年も見た。

飢えで死ぬ。

病で死ぬ。

喧嘩で死ぬ。

戦争で死ぬ。

魔物に食われて死ぬ。

そのたびに思った。

飽きないのかなぁ、と。

なんでそんなに必死なのかなぁ、と。

でも今は違う。

(おっちゃんの友達が死んだ……神聖国の連中に殺された)

その事実を頭の中で転がすだけで、舌の奥が苦くなる。

蜂蜜酒が甘いのに、後味がきしむ。

噛み砕きたくなる。壊したくなる。潰したくなる。

それは、初めて実感した感情。

(……これが、怒りってやつ?)

感情の名前を、ようやく言葉にする。

知識としては知っていた。

記録としては読んだ。

けれど、実感としては知らなかった。

身近な者が笑い飛ばす――それなのに目尻が光ってる。

泣きたいのに泣かない。

叫びたいのに笑う。

それを見てると、腹が立つ。

誰に?

神聖国にだ。

勝手に来て、勝手に殺して、勝手に燃やして、勝手に正義を名乗る。

この帝国で――今、アギトが酒を飲んで笑っているこの場所で、勝手に暴れて、勝手に席を汚し、勝手に人を壊していく連中。

許したくない。

存在すること自体が癪に障る。

アギトは、膝の上のパンを齧った。

焼いた肉。芋。塩気。脂。

簡素な夕食。けれど美味しい。人間の飯は単純で、でもしっかり腹を満たす。

……それでも。

死んだ人間は、これをもう食べられない。

その当たり前が、アギトにはやけに刺さる。

アギトは瓶を軽く持ち上げて、ひと口飲む。

甘い。喉に落ちる。

その甘さが、なぜか悔しく思える。

無意識の内に、アギトは静かに牙を研いでいた。

牙というのは、なにも歯のことだけを指す訳ではない。

心の奥にある、「噛む」という衝動。

壊す。裂く。境界ごと断つ。

そういうアギトの奥の核が澄んでいく。

殺意が、冷たい水のように透明になる。

そしてアギトは――理解した。

……ああ、そうか。

これがそうか。

人が抱えてるものって、これか。

知識ではなく。記録ではなく。言葉ではなく。

実感としての怒り。実感としての喪失。実感としての憎悪。

(こんなのを胸に飼ってたら、そりゃ戦争なくならないよね)

理解した瞬間、少しだけ笑いそうになる。

けど笑わない。もしも笑ったら、あの空席に失礼になると――そう思ったから。

アギトは視線を北の山脈に向ける。

見えない。神聖国は見えない。

だが、いる。確実にいる。

加護を安売りして、玩具で遊ばせて、陶酔させて、燃やして、殺して、正義だと叫ぶ連中。

その上にいる主神。

光輝神ソル・サンクトゥス。

――潰したくてたまらない。

アギトは、蜂蜜酒の瓶を握り直す。

指が冷えているのに、瓶の中の酒は温かく見える。

明確な目的なんてなかったはずなのに。

今、この瞬間。

彼女は、目的を持ってしまった。

天蛇の本体の目的ではない。

本体は世界の縁を噛む。それだけ。

世界を固定する。それだけ。

だからこれは――彼女の目的。

星髪のアギトの、個人的な目的。

神聖国は潰す。

絶対に叩き潰す。

理由は単純。

たったひとつだ。

(おっちゃん達を悲しませたお前達を、アタシは絶対に許さない)

鎮魂酒のコップの横で、蜂蜜酒の甘い匂いが漂っている。

笑い声が風に飛ばされる。

焦げた短剣が、黒く冷えている。

星髪の少女は、そこに座ったまま――静かに、牙を研ぐ。

声には出さない。

涙も出さない。

ただ、目だけが澄んでいく。

天蛇の分身、星髪のアギトは。

初めて、自分の意志で憎悪を抱き。

初めて、自分の意志で『敵』を定めた。

◇◇◇

偶然と言えば偶然だ。

それは星髪の少女が目的を抱いた経緯。

その流れは意識して造られたものではなく、偶然の産物。

だが、偶然であろうと――結果としてそれは、世界に刻まれる。

星髪の力は、人からは逸脱した超越者だ。

超域の存在。従属神と同じ位階に座する、天蛇の分身体。

だから彼女が明確に『目的』を持ったのなら。

天蛇とは別の目的で動くと、心の底から誓ったのなら。

それは――世界の記録に刻まれる。

◇◇◇

夜の森。魔境の森の南部。

夕飯を取った後、有羽とスキエンティアは再び万魔図書館で検索していた。

有羽は椅子に深く腰を沈め、指先で机を軽く叩く。

目の前の本は、星髪のアギトについての索引結果。

昼に見た「役割」と「出来ること/出来ないこと」は、すでに頭に焼き付いている。だからこそ、今夜はもう一歩先――天蛇そのものに届かないまでも、分身の外側から輪郭を削り出そうとしていた。

「……で、結局また恋愛ゴシップとか出るんだろ。もういいぞ、港町の百年物の告白エピソードは」

「有羽君、有羽君。そんな不貞腐れないで。他の情報が出るかもしれないんだから」

「他って何だ? 飲酒エピソードか? ますますいらんぞ」

有羽がジト目を向けると、スキエンティアはまぁまぁと宥める。

昼間に得た無数の無駄知識の所為で、有羽の心が荒んでしまっている。

けれど――その荒みが維持されることはなかった。

図書館の空気が、変わる。

索引札の光が、脈打ち方を変える。まるで心臓のリズムが変わったみたいに。

そして、目の前の本のページが――勝手に、めくれた。

ぱらり、ぱらりと。

風もないのに。

手も触れていないのに。

「……ん?」

有羽は反射で身を乗り出す。

スキエンティアも同時に、椅子から半分立ち上がりかけた。

紙が震えているわけではない。

震えているのは、文字だ。

インクが滲むように。

古い文章の隙間に黒い線が走り、そこから新しい文が浮き上がってくる。

まるで誰かが、今この瞬間に書き足しているように。

有羽の背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。

「……おいおい。やめろやめろ。なんだこのホラー演出は」

「ホラーじゃないよ。これ……記録の更新だ」

スキエンティアの声が、珍しく乾いていた。

軽さがない。冗談が入り込む隙がない。

有羽は言葉を飲み込む。

飲み込んだ瞬間、ページの端に「索引の補助線」が走り、見出しが自動で整列した。

星髪のアギト

世界天蛇の分身体

レベル85

その下に、新しい項目が追加される。

――目的。

文字が、鈍く光る。

紙の上なのに、刃物のように。

その文字を見た有羽は――息を呑んだ。

「……っ!? おいおい、マジか!? それが目的で外に出たのか!?」

「待って有羽君、違う。昼間の索引には無かった。だからこれ――つい今しがた、分身ちゃんが『定めた』んだよ」

スキエンティアの指が宙で止まる。

触れようとして触れられない距離で、彼女はページを見つめた。

有羽の喉が鳴る。

乾いた音が、自分の耳にやけに大きい。

そして――ページに、刻まれた答えは。

――神聖国の滅亡。

――光輝神の殺害。

無邪気な星髪の少女が今夜――廃絶の色を持つ。

それがどれだけ世界を揺るがすのか。

それを有羽と女神が知った事で、何が起きるのか。

知り得る者は、この世界のどこにも、まだ存在していなかった。